午前七時になりました。

犬吉

午前七時になりました

 午前7時になりました。

 テレビの中では女性アナウンサーが爽やかな笑顔を作っている。

 我が家において早朝のニュースが流れているのは稀だった。私が用意した朝食を二人で食べる間も「今日の夕食は何がいい」だとか「5限の体育が面倒」だとかそんな雑談が行われる。耳を傾けすらしないテレビの音は雑音でしかなく、現実的なことを言うなら電気代の無駄でもあるため最初から点けることがないのだ。

 この話をすると他所のお母さま方からは「仲が良いのね」なんて感想を頂く。確かにそうかもしれない。この家には私と息子の二人だけ。母子家庭で苦労したことは沢山あるが、共に支え合って乗り越えてきた。自慢の息子であるし、きっと自慢の母だと思ってくれているだろう。……なんて、さすがに子離れができていないだろうか。

 そんな自慢の息子にもいくつか弱点があり、そのうちの1つが時間にルーズなところだった。本人曰く「遅れても良いと思ってるんじゃなくて気が付いたら時間が経ってる」とのことだがもたらす結果は同じである。7時半には家を出ないと遅刻になるのに本人は気が付かずのんびりしていることが多い。「時間は大丈夫?」と声をかけるのが私の日課となるほどには。

 だから、朝のニュース番組が付けられるのは決まって喧嘩をしているとき。お互いに会話をしたくない時に、息子が時間を忘れないようにするためだった。


 息子は朝食の準備をしていた。私が仕事で遅くなる日なんかは自分で夕食を作るような子だ。高校一年生とは思えない手際で皿を用意し、トースターにパンをセットし、フライパンに油を敷く。冷蔵庫からスライスベーコンを取り出し熱した鉄の塊に2枚並べると、じゅわっという音と共に香ばしい匂いが広がった。

 続いてパチパチと油が跳ねる音を聞きながら、電気ケトルのスイッチを入れる。お気に入りのマグカップと一緒に私が愛用しているコップも取り出そうとして、しまったというような顔をする。私が朝食の準備をしている間に2人分のコーヒーを淹れるのが彼の習慣だった。

 気まずそうに私のコップを棚に戻して、個包装のインスタントコーヒーをカップに開けた。使い古された電気ケトルがお湯を沸かすにはまだ少しかかりそうだ。冷蔵庫の中から卵を取り出し、フライパンに向き直る。

 ベーコンをフライパンからさらい、残った油の上に卵を落とす。素早く箸でかき混ぜて炒り卵を作ると、用意していた皿に先ほどのベーコンと並べて盛りつけた。ご丁寧に卵には調味バジルを振りかけて色どりも上出来だ。

 トースターがきつね色になった食パンを吐き出すのと、電気ケトルがお湯の準備ができたことを知らせるのはほぼ同時だった。


 席に着いた息子が朝食をとるのを私は黙って見ていた。会話はない。息子はこちらを見ない。テレビの中では政治の話題が続いている。

 テレビ画面の右上に表示された時計は7時15分を知らせていた。間に合うのだろうかという私の心配は杞憂だったようで、皿の上は5分と経たずに空になる。最後に残ったトーストを平らげ、マグカップに口を付けた。普段なら10分はかかるのだが、どうやらそれは話しながらだったかららしい。いつも喧嘩をしているときは私も息子のことを気に留めないようにしているので、黙って食べればこんなに早いというのにも気が付かなかった。

 息子は食器をシンクに置いて軽くお湯をかけると、廊下に出ていった。鞄を置いたままのところを見ると、歯を磨きに行ったのだろう。

 息子の姿が見えなくなると、突然私の視界が滲んだ。なぜ泣いているのかは自分でもわからない。ただ、私がいなくても朝起きて、服を着替えて、朝食を用意して、時間の管理もしている息子に、寂しさと切なさと、誇らしさと、とにかくそんな言語化できない感情たちが押し寄せた。感情の波は混ざり合い、濁流となって私の目から零れ落ちてはどこかへ消えていく。

 少しして息子が戻ってくる。私はどうせ見ていないのはわかっていながらも、泣き顔なのが恥ずかしくて慌てて服の袖で目元を拭った。

 テレビを消して鞄を手に取るのを見て、そのまま玄関に向かうのだろうと思っていたのだが、私のいる和室の方に向かってくるので驚いてしまう。ダイニングから和室に入り、座っている私の前で正座をしてこちらを向くのを何も言えずに見ていることしかできなかった。

「………広島の叔父さんが引き取ってくれることになったんだ」

 どうやら私の弟が申し出てくれたらしい。弟夫婦はずっと子供ができないことに悩んでいたから、快く受け入れてくれるだろう。奥さんとも何度か顔を合わせているが裏表がない誠実な人だった。私は心配事がひとつ減ったことに安堵しながら、どこか視線の合わない息子の話を黙って聞いた。

「おれ、朝はちゃんと起きれるし、ごはんだって自分で作れるよ。ちゃんと遅刻せずに学校にも行けるし、きっと……叔父さんのところでも………」

 言葉を詰まらせていよいよ俯いてしまった。涙が零れて床を濡らすのが見えた。私の前で泣くのは恥ずかしいのだろう。変なところが似てしまったなと苦笑する。

 少しの間、嗚咽をこらえるように黙っていた息子だったが、服の袖で乱雑に目元を拭うと、こちらに向き直った。

「叔父さんのとこでもきっと大丈夫。母さんはよく知ってるだろうけど、良い人たちなんだ。大学も、行きたいところがあるって言ったら好きにしていいって言ってくれたよ」

 だから、と続けようとしたところでまた言葉に詰まる。今度は言葉を選んでいるようだった。視線を左右に泳がし、「だから……その……」と適切な表現を探している。

 私は胸が締め付けられるのを感じながら続きの言葉を待った。喉の奥が苦しくなって、また涙が溢れそうになる。それでもなんとか堪えながら、真っ直ぐに息子の方を見た。

 肩幅はこんなに広かっただろうか。なんだか厚みも増えている気がする。去年までは私よりも低かったはずの背丈はもう既に追い越されてしまっている。私に似ていると評される顔も、幼さはまだ残っているが気が付かないうちに立派な表情ができるようになった。毎日見ていたはずなのに、こんなに成長していることにも気が付かなかった。

 息子と目が合った。……ような気がした。

 そして、とびきりの笑顔を私に向けた。

「だから、心配しなくていいよ」

 今度こそ涙は堪え切れずに両目からあふれ出た。何に対する涙なのかは、やっぱりわからない。ただひとつだけ確かに言えるのは、この子が私にとって自慢の息子であるという事だ。

 そろそろ行かなきゃ、という息子の声で私は時計を見た。時刻は7時35分。少しだけオーバーしていたが今日ばかりは何も言うまい。

 息子は立ち上がる。私は座ったままだ。

 鞄を手に、玄関に向かおうとした息子が何かを思い出したようにこちらを振り返った。

「行ってきます!」

 私は私の遺影が飾られた仏壇の前で、とびきりの笑顔を作った。


「今日も元気に、行ってらっしゃい」

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午前七時になりました。 犬吉 @bokuzero0513

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