生き地獄とはこのことか

鈴木

うみ

 鉄の臭い。


 男が目を覚ました。

 眼前に広がるのは赤黒い、どろりとした血液であった。男は両手で体をさすって己の無事を確かめた。傷一つない。ならばこの海は一体。

「あ……」

 身動ぎした男が触れたのは、横たわる、もう一人の男。彼は既に事切れていた。じわりと広がったのだろうこの海の真ん中で。

「ああ……あぁ……!……そうか、そうだったな……!」

男は急襲してきた絶望的な喪失感に胸を掻き毟った。肉塊と成り果てた眼前の青年のうなじを、先刻男は噛み千切り、絶頂と共に気絶したのだった。理性などその時は一欠片も残っていなかった。

 いわゆる「運命」の相手を、その牙で屠った。愛の楔となるはずだったその牙は、彼と男自身の未来を切り裂いた。もうどうしようもない。事実は事実。運命の相手はもういない。

 男は溢れる雫など気にもせずに、先程までこの肉塊を動かしていた血を掻き集め始めた。無駄だ無駄だと理解しているが、その手は必死だった。

 やがて諦めがついたのか、息をしていない青年の隣に寝そべり、徐ろに彼の紫色の唇に接吻した。もうその頬は色付かない。

 自分がαで無ければこんなことにはならなかったのだろうか。それとも、彼がΩで無くてβであれば。いや、そもそも出会わなければ―――。



「――っていう話があるんだよね」

 目を輝かせて御山啓太みやまけいたはそう締め括った。話し相手は仏頂面で雑な相槌をする。

「はあ」

「はあ、じゃねぇのよ。めちゃくちゃロマンじゃね? まぁ愁には分かんないか」

「だな」

まるで他人事のように嫌味を受け流し、上尾愁かみお しゅうが席を立つ。学生食堂は昼を迎え、ざわめきが波のように押し寄せていた。

「あっ、待てよう!」

「さっさ食え」

素うどんを慌てて啜る御山を置いて上尾は食器返却口へ歩いてゆく。次第に増す喧騒に顔を顰める。

 αにΩ、そしてβ。それらは第二の性と言われている。しかし現実に存在するのは極々数例で、さらに運命ともなればもはや伝説並であった。この国にももしかしたらいるのかもしれないが。

「ほんとお前人混み駄目だな」

「駄目だ」

追いついて来た御山が肩を叩く。食堂から脱出して図書館に向かう。先程の話について言及こそしなかったものの、上尾の頭の中はその話題で持ち切りだった。


 そんな事件があったのなら大々的に報道されるはずだろ。殺人だぞ、それも普通じゃない。運命だって? 馬鹿馬鹿しい。そんなものあるかよ。しかもその相手に殺されて? 出来過ぎだ。誰かの作り話に尾ひれがついて広まったのだろう。くだらない。

 静かな図書館は上尾のお気に入りだった。特に隅の方を好んでいて、講義の合間や昼休憩などはもっぱらそこで過ごしていた。初めの頃は一人だったが、御山と知り合ってからは二人で隅を占領している。いつもお喋りな彼も、ここでなら落ち着いて課題が出来そうだと言って、上尾の静寂を守ってくれた。

 しかし今、自分の頭の中がうるさくて仕方ない上尾。とうとう席を立って、気分転換に何か本を探すことにした。

 埃っぽい、でも不快ではない図書館特有の匂い。ふらりふらりと本棚を巡り、不図立ち止まったのは社会学の棚であった。

「……チッ」

上尾は自分の影響されやすい性格に若干の悔しさを感じつつ、ほんの数冊しかない第二性についての専門書のうち一冊を手に取り、適当に捲ってゆく。


『α及びβはΩのフェロモンを嗅ぎ取ることが可能。Ωもまたαのフェロモンを知覚可能』

『また、Ωが発情(ヒート)している状態であるならばそれに誘引され、αは急性的な発情(ラット)状態に陥る』

『αがΩの項を噛むことで番契約が成立する』


「もはや都市伝説だろ……」

「そうでもないよ」

溜息程度の呟きに返答が来て、上尾は驚き顔を上げた。その目線より下に声の主はいた。

「なっ、なん、何ですかアンタ……」

「都市伝説って程でもないよ、第二性」

目の前の人物は、人差し指を唇に添えて小声でそう言った。中性的な見た目で、栗色の髪が空調の風にふわりと揺れる。

「は……、はあ…」

「気にならないの? 本、読んでるのに」

「や、まあ、気にはなるんですけど……、そうでもないっつーか……。というか、誰……ですかね……」

万が一会ったことがある相手ならば失礼やもしれないと上尾は律儀に気にしていた。初対面であってくれ、と心に祈る。

「ん、ああ、僕は三年の柏恭平かしわきょうへいだよ。ごめんね、急に話し掛けてさ。なんかここに来ちゃって。そしたら君が、ふふ、すごい顔でその本読んでたから」

見てたんだ、と柏が笑う。途端に恥ずかしくなり、本を元に戻す。三年生だと彼は言った。ならば上尾や御山より一つ上だ。尚更初対面で良かったと胸を撫で下ろす。不義理な後輩にはなりたくない。

「君は?」

「え……?」

火照った顔を手で扇いでいた上尾を見上げ、柏が尋ねる。

「名前。教えてよ」

「すみません……。俺は上尾愁です。二年です」

「しゅう、ね。なんて漢字?」

やけにグイグイ来るな、と上尾はげんなりし始めていた。存在感というのだろうか、柏一人分の圧が凄い。正直早くあの隅の安らぎ空間に戻りたかった。

「春夏秋冬の秋の下に心で、愁、です」

「へ〜、なんかアンニュイで君にぴったりだね」

「……褒めてんのか貶してんのか……ってやつっスね。じゃ、俺はこれで」

「え〜! 仲良くなれそうなのに……! そうだ、連絡先交換しようよ。トークアプリ使ってるよね?」

どうしてこうも構われるのか皆目見当のつかないまま、あれよあれよと登録された彼のアカウント。また連絡するね、と嵐は、いや柏は去っていった。

「何だったんだあれ……」

どんよりした顔で御山のいる隅へ帰る。

「遅かったな、何してたん」

「や……、なんか……綺麗めな男にナンパされてた……」

「〜〜〜〜〜……!」

御山が声を押し殺して肩を揺らす。その肩を小突いて、課題に取り掛かった。

 暫くしてどこからか、スン、スンと鼻を啜る音がする。集中が途切れて辺りを見渡す。それに気付いた御山が「どしたの」と聞く。

「鼻啜る音うるさいなって」

「え、お前だが」

「うそ」

「いや、お前なのよ。風邪?」

風邪など一度もひいたことがない。なんなら幼稚園から今までずっと皆勤賞である。アレルギーでもない。

「違うな」

「ほ〜ん。何かの匂い嗅ごうとしてるとかじゃね?」

「かもな。図書館の匂い好きだし……。まあいいや、そろそろ片付けるか」

二人は次の講義に向かうべく、愛しの隅っこに暫しの別れを告げた。

 上尾は黒髪に眼鏡という出立ちのせいで理系だと思われがちだが、数学や化学がからきし駄目な文系学生である。

 この日最後の講義を終えて御山と別れる。一人になった上尾は、なるべく人気の無い道を選んで帰路に着く。もうすぐ長い夏季休暇がやって来る。そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、ポケットに入れていたスマホが振動した。トークアプリの通知だ。送り主は図書館で出会った柏。

『改めまして、柏恭平です。今日は急に話しかけちゃってごめんね!』

「……良い人っぽいな」

立ち止まって画面に指を滑らせる。

『いいえ、大丈夫です。』

それだけ打ち込んで送信し、スマホを仕舞おうとしたがまたすぐに彼から返事が来た。相手は先輩だ、無視するわけには、と上尾は画面を確認する。そこにはメッセージと共に、何かの店のURLが貼られていた。

『もっと話してみたいから、もし良かったらここに来て欲しいな』

「壺でも売られんのかな……。でも先輩だしな……」

散歩中の犬が、道端で唸る上尾の横を吠えながら飼い主に引っ張られて行く。考えていても埒が明かないので、とりあえずその店の雰囲気が静かそうだからという理由のみで承諾した。

 店、と言っても一介の学生が行くには尻込みしそうな雰囲気漂うバーであった。柏は上尾が誘いに乗ってくれたことが嬉しかったようで、ご機嫌なスタンプをいくつも送りつけて来た。普段の御山とのやり取りでは発生しない明るいトーク画面に少し面を食らいつつ、日時を聞いていないなとそれだけ確認する。

『今日の二十時はどうかな? 大丈夫かな?』

「き、今日……?」陽キャめ、と心の内で文句を垂れる。上尾のような静寂を好む者にとって、急な約束の取り付けは些か心的疲労を伴うらしい。しかし相手は「先輩……、だしな……」

 苦渋の決断。大丈夫です、と返信し深い溜息を吐く。

「服……、何かもっとマシなのあったかな……」




「あっ、上尾く〜ん」

 上尾が入店したことに気付いた柏が奥のテーブル席から手を振っている。ほぼ初対面に違いないが知った顔を見つけてほっとする。

 店内は薄暗く、申し訳程度の音楽が流れていた。客たちの妙に色香を纏った話し声や密やかな笑い声が耳に届く。店員に案内され、彼のいるテーブル席に辿り着いた。

「こ、こんばんは……」

「うん、こんばんは。あはは、そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」

「あ、はい」

とはいえ緊張せざるを得ない。最近やっと酒を覚えたばかりなのだ。粗相があってはいけない。飲めるものが何かあればいいのだが、と筆記体で綴られたメニューを眺めるも何が何だか分からない。

「何がいい?」

「あ、えー……と、すみません。飲みやすいやつってどれですか?」

「ん、そうだね、これかな」

結局柏に決めてもらい、運ばれてきたカクテルとナッツを口にする。アルコールが胃に染みる感覚が未だに慣れない。

 テーブルの上に置いていた上尾の手を、柏の指がなぞる。突然のスキンシップに驚き、耳の先まで赤く染まる。

「ねえ、スーツ良いね。似合ってるよ」

柏が熱を孕んだ声で囁く。仄暗さが彼の色気を引き立てる。男の上尾から見ても柏は美しい。Ωが存在するのならば、きっと彼のような人なのだろうと上尾は思った。

「や、これ成人式で着たやつで……。俺あんまり服とか持ってなくて」

 クローゼットを漁るにも物がないので、浮かなければ良いかと濃紺のスリーピースを着てきたのだった。柏の潤んだような瞳が仄明るいランプに照らされて、水面の輝きを連想させた。思わず目を逸らし、動かせない手を握り込む。

「そうなんだ。つがいが出来たとき困っちゃうね」

「え?」

「ん?」

紛れもなく彼は『番』と口にした。しっかり聞こえた。パートナーとも言えるが、その表現は主に第二性の間でこそ成り立つものである。

「いや俺、あの、普通の男ですけど」

「えっ、いや、でも君の香り《フェロモン》、けっこうすごかったけど……? 僕、つい誘われちゃったもん」

「さ、誘われ……? どこで……」

「図書館だよ。αがして、ついふらふら〜って行ったらんだよ」

Ωの本能って蝶々みたいだよね、と柏は暢気に笑っている。しかし上尾はそれが本当なのか冗談なのか判別することすら出来ずに固まっていた。確かに、Ωがいるなら柏のように美しいのだろうと思ったが。問題はその後だ。

 もし柏の言っていることが全て真実ならば、己のこれからの人生が大きく変わることとなる。冗談にしても質が悪い。

「上尾くん……? どしたの、大丈夫?」

 心配そうに差し伸べられた手を払い除け、上尾は財布から数枚の札を取り出してテーブルに置いた。

「すみません、俺帰ります。これ代金です。失礼します」

 引き留めようとする柏の声を無視して足早に店を去った。



 稀少な存在が学内にいた。都市伝説だと思っていたのに。そしてその存在は、上尾もまたその当事者であると言外にそう言った。

 二十一時過ぎ。自宅に舞い戻った上尾は布団を頭から被って震えていた。スマートフォンの光が暗闇で彼の顔を青白く照らす。親指が忙しなくキーボードを滑る。


【第二性 後天性 病院 何科】

【第二性 突然 なった】

【アルファ 捕まる 実験】

【都市伝説 第二性】

………………


「全然役に立たない……、ネットはクソだ……」

 暑くなって布団を這い出て水を飲んで多少クリアになった頭に昼間の御山との会話が過る。元はと言えばこの話題のせいでこうなったのだとも言えなくはない。あれさえ無ければ第二性についての文献など読まなかった。上尾は遣り場のない感情を持て余し、気付くと御山に電話をかけていた。

『もしもし? どした?』

「……」

我に返った上尾は声を出せずにいた。何を自分は言うつもりなのか。

俺、αだったらしいんだ。診断も受けていないのに?

あの綺麗な先輩、Ωだった。言ってどうなる?

『愁? 大丈夫か?』

「あ、あぁ、うん」

大丈夫だ、と答えるもその声はわずかに震えていた。

『……なー、てかさ、オレしばらく大学休むから』

「は? 何で」

『ちょっと、ないしょ』

御山が静かに言った。



 ◇  ◇



 あれきり御山とは連絡が取れなくなり三ヶ月。二度目の夏休みがやって来た。

 どれくらいの「ないしょ」なのだろう。唯一とも言える友人の無事を案じて、上尾は神社にいた。もう五度ほど参じている。今日で六度目だ。

「蝉うるせ…うるせ…あち…」

 七月下旬の日射しが肌を焼く。石段をのそのそ下り木陰でひと息ついていた。遠くから見ると小さな山のように見えるこの神社の木々は、参道すらも覆うように枝が広がっている。首筋を伝う汗を拭い、温くなった水で喉を潤す。

「蝉…、蝉は、交尾相手を誘うために…鳴く……。なんだよ……俺は蝉だってのか……?」

疲れのせいか独り言が止まない。しかしその声量は、じゃわじゃわと鳴く蝉たちの熱烈なアピールに掻き消されてしまった。もはや上尾自身も夏の一部と溶けてしまいそうな、つまりトランス状態に陥りかけていた。

「上尾くん!」

 聞き覚えのある声がして、ぼんやりしていた蝉たちのざわめきがまた鋭く耳に刺さるようになった。

「……柏先輩」

「どうしたの、こんなとこで! 熱中症? 大丈夫?」

「熱中症…ではないです。先輩こそどうして」

彼ともあの店以来話していなかった。連絡も勿論とっていない。

「僕? 僕は別に…ただの散歩だよ」

「このクソ暑いのにご苦労さまですね」

「なんだよ〜。ほんと君って失礼だね」

柏は笑って上尾を小突き、額の汗を拭う彼に水のペットボトルを差し出した。

「え、何ですか。水ならまだありますよ」

「何ですかじゃないよー。冷たいほうがいいって」

「水分補給が目的なら温度とか関係……」

「何?」

「何でもないです、ありがとうございます」

喉に残る心地よい冷涼さが、上尾の火照りを落ち着かせた。

半分ほど中身の無くなったところで「あのさ、」柏が手すりに凭れながら切り出した。

「実は最近の君の様子、ずっと見てた」

ドラマの演出のような大きな風が二人を通り過ぎ、木々が葉を鳴らす。涼しいな、と上尾は思った。柏の発言に頭が追い付いていないらしい。

「は」

少しの間を置いてようやく理解した上尾の口から出たのは、「はひふへほ」の「は」。このたった一文字に彼の疑問や恐ろしさや身の危険やその他諸々の、柏に対する警戒が詰まっていた。柏と目が合う。どうして、そんな目を向けるのだと上尾は問いたかった。しかし声が出ない。怖いのだ、目の前の男が。不図、自分の手を見遣り、違和感に気付く。

「だから、水……冷たいんですか」

「見てたからね。ちょっと離れた所に自販機あるでしょ? あそこで」

買っといたんだ、と微笑む。

「あは、本当は黙っておくつもりだったんだけど、やっぱ夏って駄目だね。君の匂い、汗と混じって濃くってさ、思考鈍っちゃった」

上尾は彼がオメガだと言っていたのを思い出し、恐怖に顔を引き攣らせた。同時に、御山の語ったあの話も脳裏を過る。自分がアルファなら、いずれ殺人を犯してしまうのだろうか。彼がオメガなら、いずれ殺められてしまうのか。誰に。

「俺……に……?」




 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生き地獄とはこのことか 鈴木 @s_zk_i

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ