2-2. 熱気
酒場の扉をくぐり、アミーナは軽く息をついた。
昼間の喧騒とは打って変わって、店内には酒と料理と煙草が混ざった匂いと、重い静けさが満ちていた。油の染み込んだ木製の床には曇ったランプの灯りが揺らめき、船員であろう筋骨隆々の男や、どこかの国の商人、娼婦のような色っぽい女たちが低く囁き合っている。
露店での柔和な態度は、ここでは通用しない。アミーナは露天商の仮面を脱ぎ、ヴァハル・カマル王国の間者サリヤとして獲物を探す。
店の隅、テーブルの一つに目をやると、誰かと話すこともなく、一人でグラスを手に座っている男がいた。彼は飲み物には口を付けておらず、ほのかな緊張感をまとっているように、アミーナには見えた。
紺色の外套、銀の刺繍の柄は東方の伝説に登場する
アミーナは、フードの首元を押さえながら彼の向かいに腰を下ろした。男は視線を上げ、無言で目の前の女を見つめる。
そこで彼女は、間違えないよう幾度も頭の中で練習した言葉を低く呟いた。
「第三の月が沈む頃、荷が届くの」
一拍の間があり、男の口元が歪む。テーブル下の男の手に金貨を握らせる。彼はそれを手のひらで何度か転がし、質感を確認するとゆっくりと口を開いた。
「では、第四の影に備えよう」
――通った!
言葉が鍵となり、目的への扉が開いた音が、アミーナには聞こえた気がした。
◇
ガチャガチャと鍵を開け、レナードが収監されている牢屋に看守の男が入ってきた。
「おい、起きろ。食ったら試合だ」
「うう……まだ朝じゃねえだろ……」
呻きながら眠い体を起こすレナードを、看守が見下ろす。
「試合は夜だからな」
「えぇー……って、そりゃそうか」
「ほら、早くしろ」
床に置かれたトレイを見ると、もう見慣れた貧相なパンや具の少ないスープが乗っている。
「勝てば豪華な食事が出るが、おまえには無理だろうな」
レナードは大きなため息をつき、出ていこうとする看守の背中をぼんやりと眺めながら食事に手を付けた。
限られた人物のみが知る闘技場の地下、右足に付けられた足枷の金属音が響く。
「薄暗いな」
「怖気づいたか」
「いや……」
看守は「おまえが殺られるのが楽しみだ」と言い捨て、通路を戻っていった。代わりに領主のマイヤーがレナードのそばに寄ってくる。
「やあ、よく来たな」
「歓迎されたくはないね」
無表情のまま答えるレナードに、マイヤーは空々しい笑顔を作った。
「きみ、フィリップ様を怒らせたと聞いたぞ。一体何をしたんだ? 私が家庭教師としてお側に付いていた頃は、王族にしては気が弱いところもあるが温厚なお人柄だったというのに」
「それ今関係あんのか。……なあ、ちょっと聞いておきたいんだが」
「何だ?」
「もし負けたら、殺される。違法の闇コロシアムなんてそういうもんだろ?」
「ああ……、そういうことになってはいるがね、実際、それは間違いだ。私は負けたやつらも次に使えそうなら生かしておく。強さだけが観客を惹きつけるわけではない」
「へぇ」
「美しさ、激しさ、派手さ、残忍さ……観客が喜ぶのは、そういう要素だ」
笑顔で取り繕うのをやめたマイヤーの瞳に、怪しげな光が宿る。レナードはマイヤーから視線を外すと肩をすくめ、「なるほどね」と呟いた。
「きみは氷魔法の華麗な戦闘が得意なんだろう。見ろ、観客席を。大きな商家の御曹司や世界を股にかける宝石商も……贅の化身どもは、このコロシアムを楽しみにしているんだ。私も期待している」
「で、賭け金はどこに流れる?」
「きみがそこまで知る必要があるのかね」
マイヤーが片眉を上げて軽く笑ってみせる。コロシアムの観客席はほぼ満員。客層は身なりの良い夫妻や成金風の男性、かと思えば白髪で血走った目をした老人まで、様々だ。
「ま、何でもいいが。それで、俺の相手は?」
「知りたいか。では特別に教えてやろう。一回戦目は、きみが有利になるよう取り計らった。勝ち進めば異国の美女を相手にできるぞ」
「女?」
「ああ。ここの噂を聞いて腕試しでもしたくなったのだろう、自ら闇に飛び込んできた女だ。さすがに相当な手練れのようで、元傭兵の番人を戦闘不能に……と、そろそろだな」
マイヤーが顔を向けた先で、導演役の口火師が大声を張り上げた。
「みなさま、お待たせいたしました! それでは試合を開始いたします!」
観客たちが交わす言葉のざわめきが一瞬にして静寂に変わり、全員が口火師の次の言葉を待つ。
そんな場内の静寂に応えるかのように、彼はゆっくりと口を開いた。
「――ルールはない。裁きはない。あるのは生か死かの二択だけ。慈悲? 笑わせるな。血塗られし金貨が踊り、快楽が咆哮するこの舞台——闘士たちよ、命を
口火師の口上に観客が総立ちになり、割れんばかりの歓声がコロシアムを包み込む。
「気が弱くて温厚なフィリップ様、ね……。覚えてろよ」
レナードがこぼした独り言は、誰にも聞こえなかった。
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