胸がつぶれそうになって、俺はたまらず跳ね起きた。

 辺りは、しんと静まりかえっていた。


 ……夢、か。

 俺はそう独り言ちた。

 息が乱れ、背中は汗ばんでいる。


 カーテンの隙間からは、漆黒の街並みが見えた。夜明けはまだ遠いようだ。

  

 ベッドの外へ足投げ出すと、汲み置きの水を飲みに行った。

 喉を潤して、再び戻ってきたころには落ち着きを取り戻していた。


「エリスって……?」


 確かに夢の中で俺はそう叫んだが、その名自体に覚えはない。

 どうして自分の口をついて出てきたのかは分からない。

 子どものころ、闘技場前の広場であった小屋で芝居を時々観たものだが、登場人物にそんな名の女がいて脳内に刷り込まれていて、それが急に意識に上がってきたのかもしれない。

 

 あるいは予知夢であって、これから出会う相手の名前かもしれない。

 が、夢ではその女の顔は見なかった。

 ただ、あの小さな手は、大人のというよりは、少女のものだったと思う。


 俺にはかつて愛する妻がいたが、子どもをその腹に宿しているうちに、暴れ馬の引く荷車に轢かれた事故で子どもともども死なれてしまった。

 夢に現れたのは、その子どもだったのかもしれないとも思った。


 さらにひと眠りして陽が昇ると、俺はいつものように朝の新鮮な空気に触れながら街の中央へ出た。

 朝市の色とりどりの華やかなテントの群れが、通りに軒を連ねている。

 その喧騒が、独り身の俺の心を慰めてくれるのだが、亡くなった妻と同じ年ごろの女が生まれて間もない小さな子どもを抱いて歩いているのを見ると、ついいたたまれなくなるのだった。

 俺は、そばの石段に腰掛け、朝食代わりに果物屋で見つけたバナナと、別の屋台で買った熱いコーヒーに口をしていた。

 

 通りを往く人の波は、緩やかに流れる河のように途切れることがなかった。

 そんな活気のある人通りを眺めていると、十歳にも満たないだろう黒髪の小柄な少女が、人混みにまぎれて一人で歩いているのが目に入った。

 肩までの長さがある髪は、くせっ毛なのか、突風に吹かれてそのままのようなうねりが目につき、煤のついたシャツと相まって少しみすぼらしく見えた。

 が、俺が気になったのは、その瞳だった。

 そのような見かけによらず、どこか利発そうな光を放っている。

 そういった特別の印象もあって、俺はしばらくこの少女のことを覚えていたのである。

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