動かない月とまどろむ山の下で
あらたぬき
第1話
なんだろう、自分の悪趣味が身に染みる。こんな夢を性懲りもなく何度も何度も見ることになるなんて。
天蓋付きのベッドと簡素な化粧台、そして部屋を照らす青白い月明かり。この組み合わせだけで現状を把握できる。扉の方はあえて見ない。普通の夢で思うようなふわふわした気持ちはどこにもない。
自分が眠りについたときの状況を思い出そうとしながら化粧台の前に立つと、西洋人然とした金髪の少女がこちらを見返していた。これだ。本当の自分とはかけ離れた姿。この姿がなぜ夢の中で自分になっているのか、考察するのも嫌になる。鏡の少女が自嘲的な笑みを浮かべた。
一通り自己嫌悪に浸った後、もっと実践的なことを考えることにした。まず自分の身だしなみだ。さらさらしたレース生地で仕立てられているドレス風の寝間着は、月明かりによって実際よりも薄手で儚い印象を与える。ベッドで寝ている限りならおしとやかな眠り姫になれるだろう。 しかし、これからの出来事には全く不向きだ。万一この夢がいつもと違って自由に空を飛ぶ夢とかであれば問題は無いだろうが。
走り回るには経が小さいスカートの裾は後でどうにかするとして、とりあえず袖を肘あたりまでまくり上げた。これで手元の邪魔になったり掴まれて逃げられなくなったりすることは避けられるはずだ。ただ生地が柔らかくまたすぐ元通りになってしまいそうだった。切り取ってしまうのが一番なのかもしれないが、袖をぐるりと切るのはハサミでも無い限り手間がかかりすぎる。どうせまた最初からになってしまう以上、一々手のかかる作業をする気にはなれなかった。
いっそ上だけでも脱いでしまおうか?
『馬鹿かな?』
頭の中で嘲るような声がする。いくら夢のなかであっても上半身裸で女の子が辺りをうろつく状況というのは流石に良心が咎めた。いや逆に、夢の中でさえ羽目を外せない自分の小心さをこの声は笑っているのかもしれない。ともあれこの部屋でできることは思った以上にあまり無かった。化粧台の引き出しを確かめてみるも中身は空っぽだ。味のしないキャンディーや『一本足の化け物がやってくる』と書き殴ってある紙切れや粘つくべとべとが入っていたこともあったが今回は何もない。毎回入っているものが異なるわけを気にしたことはなかった。所詮夢に過ぎない。そして夢に過ぎないからして、そろそろ部屋を出る頃合いだった。これまでのように部屋を出て、これまでのように目的を果たそうとする。それで構わないはずだった。
ふっとため息をついてドアの前に立ち、あえて無視してきた物へと目を向けた。この夢のようにちぐはぐで、場にそぐわないもの。子供の足元から胸まである西洋剣がドアノブへひっかけるように立てかけられている。
柄をしっかりと握った。分かってはいたが無骨な外見に見合わないほどの軽さだ。
「よ……っと」
スカートの裾に刃をあて、動きやすくなる程度に破った。聞き慣れない声が喉元から漏れる。
本当にこの夢は違和感だらけだった。えてして夢とはそういうものなのかもしれないが、一度気付いてしまうとむしろ自分の方が異物のように思える。夢の世界こそが真っ当で、自分の感性だけが違うのではないかと。
無意味な考え事にふけってしまう前に、扉を開けて話の続きを始めるべきだった。この夢の筋書きはいたってシンプルで、脈絡が無い。
『敵を退け、月の鏡を目指す。そういうことだったはずだ』
脳裏に男女ともつかない声が響く。フンと鼻を鳴らし、部屋を後にした。
この夢には光源が二つしかなかった。窓から差し込む月の光と、整備されている気配がないのに灯り続ける燭台だ。どちらも頼りない明るさだが、不思議と不便を感じたことはない。この廊下もたやすく見渡すことが出来た。どこへ通じているか分からない扉がいくつかある。間取り的に考えると目の前にある分はさっきまで居たような寝室、突き当たりにあるのはまた別の廊下や広間へ通じるものだろう。生き物の気配はまだ無かった。居れば引きずっている得物を振り回すだけなのだが。
「なんでこう、暴力的なんだか」
記憶にある限りでは、これまでの人生で扱ったことのある一番大きな刃物は木工用のノコギリ、実際に刃を入れた経験のある生物は魚くらいだ。やって楽しかった憶えもない。そんな男が――男? まあ、現実では男だ――こんな夢を見ている。よほど暴力に飢えているのだろうか? すっきりしたいのだろうか?
自身の内面を疑いながら突き当たりの扉を開けた。大きな間取りにたくさんのテーブルとイス、そしてカウンターが向かいに見える。食堂のようだ。ここも生き物の気配……は無いが、痕跡はあった。イスがいくつか蹴散らされている。不意に襲われるのは御免なので、出来るだけ音を立てないようにしながら特に荒れている場所まで近づいた。何かが床に染みを作っていた。表現し難い異臭もかすかにする。
『感覚が鋭すぎる。いつもと違う』
かつてどこかで夢がモノクロに見える人とカラーで見える人の違いを聞いたことがあった。肝心な差の理由については思い出せないが個人差があるのは確からしい。その点で今回は異常に五感が鋭敏になっていた。そもそも周りの色合いが乏しいとはいえ白黒寒暖の差を認識しているし、聴覚に嗅覚、触覚もはっきりと働いている。床の染みを舐めれば味覚の有無もはっきりするかもしれないが、流石にそれはやめておいた。別段の集中無しに、つまり自分の意志とは無関係に五感のうち四つ――おそらくは残りの一つも――が働いている。全身で夢を堪能できるというわけだった。この夢がホテルに泊まるだとか、オペラを見に行くだとか、そういう夢であったなら。あいにく、自分の中にある記憶と同じ夢の舞台である限りこれはリゾート気分とは無縁な夢だった。
『いつまで血糊と睨めっこしているつもりだ? 早く先へ進んで月を目指すんだ』
あえて明言しなかったことにも心の声は無頓着だ。げんなりしながら目線を戻すと、カウンターの向こう側へ注意が向いた。ここが食堂ならあの向こう側は厨房か倉庫だろう。何か食べられるものがあるかもしれない。決してひもじかったわけではなく、食べ物を実際に口にして味覚を確かめてやろうという気持ちと、『月』やら『館』やらといった夢特有の曖昧な目的からわざと逸れてみたくなったのだ。夢の世界観……という表現が正しいかはさておき、少女が寝泊まりするような場所であるならデザートの類があるかもしれない。
「ひょっとしたらチョコパイなんてものがあったりするかも――かしら? ……ふん」
今の自分の風貌に合わせて女の子風な語尾にしてみたところ、ごく当然な自己嫌悪に襲われた。剣を家具へぶつけないよう静かにカウンターの裏へ回ると、厨房で何かの落ちる音が聞こえた。
アレが居る。剣の柄を握る手が固くなった。
これまでよりもさらに気をつけながら厨房を覗く。厨房もまた肌寒い色をした照明が僅かな視界を与えている。食べ物らしきものは無い。調理の痕跡もまた無い。あったのは乱雑に散らばった料理道具と、床に手を付いた人間だった。人間といっても、それはかろうじて体が人の形をしているに過ぎず、脂ぎった髪を頭部に貼り付けて痰を吐くような声を出しながら床をさらっている。
『これを人間と呼びたくはないが』
脳裏を生理的嫌悪が襲う。この夢に出てくる人らしき人はみなこんなものばかりだった。知性の欠片も感じさせず、ただひたすらにその辺でうごめいている。そしてもし自分たちと違う生き物を見つけたなら……そしてその生き物が抗うことが出来なければ……思い出すのも嫌になるようなことをするのだ。
だからこそ先手必勝だ。幸いにもアレはこちらに気付いていない。剣を上段に振りかぶりながら、ゆっくりと歩を進め、背後のすぐそばまで近づいた。そして――
大きな破裂音が鳴り響いた。
「ちょっ……」
驚きに身をこわばらせた瞬間、眼前の何かが振り返った。暗闇に捻られたかのような恐ろしく生気のない顔で、それは金切り声を上げた。
まずい、と思うよりも速く、剣を振り下ろしていた。刃が相手の首元に打ち込まれ、金切り声が潰れた蛙にも似た悲鳴に変わった。
『遠慮するな。哀れむ余裕は無い』
「分かっている」
自分で自分に返事をしながら剣を逆手に持ち、杭を地面に立てるかのごとく、切っ先を奴の首に突き立てた。あっけなく、この人間だった何かは動かなくなった。
しかし安心は出来なかった。こいつらは音や明るさの変化に敏感だった。一体に気付かれて声を上げられたが最後、それを聞きつけた他の奴らが集まってくる。加えて先ほどの謎の破裂音。これまでに、少なくともこの夢では初めて聞く異常な音だった。
逃げる。隠れる。あるいは、音の正体を調べに向かう?
次に取るべき行動を即座に決めることが出来なかった。奴らが音に集まる習性を持っている以上、破裂音の元へ向かうのは紛れもなく自殺行為であるし、かといってこの場に止まるのもあり得ない。そもそも、どこであの音は鳴ったのだろう。食堂らしき広間にはまだ開けていない扉と、目覚めた部屋に通じる廊下への扉、この二つしか出入り口が無い。元の廊下側にはさらに沢山の扉があった。その扉の先に奴らが居た場合、これまた面倒なことになってしまう。一体なら倒せる。二体は厳しい。一部屋で三体以上となると、自分を笑いながら後悔するしか無いだろう
心のどこかで、実はそれほど考える余地のない事柄であると気付きつつ。また十数秒悩んでいた。そして悩みを断ち切るかのように、二回目の破裂音が鳴り響いた。
「何だよあれは……」
呆れと狼狽が混じったような声が喉から漏れた。もはや少女の声色に違和感を憶える余裕は消え去り、考え込む余裕もまた失われていた。それは陰鬱な雰囲気に加え、足元の死体から流れる血と漿液の臭いがそうさせていたのかもしれない。
「確かめてやる」
半ば自棄気味に決断した。亡骸の背中を踏み、首ごと床に突き立っていた剣を引き抜く。わざとらしくもある乱雑な抜き方で、己の決断に従うよう自分を駆り立てた。今回までの夢での経験からして、臆病に立ち回ったところでジリ貧になって終わるのが関の山だった。そうであるなら初めて起きた明確な異常に立ち向かう方がずっと生産的に違いない。そう感じていた。
厨房を出て広間に戻った。まだ何も来ていない。念のため壁を背にしながらまだ開けていない扉のもとへ歩み寄った。
『この先だ』
この先に音の正体がある。理由もない確信が心に満ちた。そしてそれを裏付けるようにさらなる破裂音が扉の向こう側から聞こえてきた。短期間の内に三回。誰かがこの音を鳴らしているのだという事実を悟り、どこか狼狽えた。正体が何であれ、調べてみたくなる。そう思えるほど、これまでの夢は今この時まで不毛だった。
一気に扉を突き破る。そして剣を構えようとしたその瞬間、轟音と共に右の脇腹へ刺すような熱さと衝撃が広がった。何が起こったのか理解するより先に天地がひっくり返り、壁へもたれかかるようにして倒れていた。脇腹の熱がさらに熱さを増していく一方で冷や汗が全身に広がっていくのを感じた。視界も歪んで意味をなさない。この感覚自体は知っていた。化け物に群がられたときに感じるものと同じだ。これで何度目になるだろう、力尽きる寸前の冷たい死の予感だった。
反射的に脇腹を押さえていた右手が塗れていくなか、混乱していた視覚が正常に周りを捉え始めた。 目の前で女性が戦っていた。戦うといっても自分のような剣ではなく、轟音を放つ筒――要するに銃を使っていた。服装もいわゆる現代的な洋服で、この館を構成する調度品とは時代が明らかにずれている。
また世界観が……という身も蓋もない混乱を心の隅で感じている最中、その女性と目があった。動揺と謝罪の合わさった表情をしている。先ほどの衝撃はつまり、そういうことなのだった。
「後ろ」
彼女の背後に迫る化け物の姿を認め、とっさにそう言ったつもりだったが、口からは泡しか出てこなかった。それでも彼女は意図を察したらしくくるりと反転して至近距離から一撃を叩き込んだ。化け物が吹き飛んでいき、硝煙と鉄錆の臭いが部屋と自分の鼻を満たしていく。しかし、奴らは次から次へとやって来る。瀕死の重傷を負ったために思考力が下がっていたのもあるだろう。彼女を助けなければならないと強く思っていた。客観的に見れば、死にそうなのは自分の方なのだが。
「またやらかした……なんでこんなことに……」
彼女が呟いた。ほとんど役立たなくなっている己の視覚でも狼狽えようがはっきり分かる。こちらの冷静さを分けてやりたいくらいだ。
『これは冷静なのではない。諦めきっているだけだろう』
と、これまた冷め切った声が頭の中で響く。反論する気力も体力もほぼ残されていなかった。兎に角、何とかするべきだ……。思考をそれ以上の段階に進められなかった。
奴らの叫び声が聞こえた。本当にキリがない。そもそもあいつらは一体何なのか? 住人のなれの果てなのか? 根本的に、たかが夢の中の悪意であるからして、理由や原因を考えるだけ無意味なのか?
「馬鹿らしい……」
知らず知らず呟いていた。先ほど危機を伝えることが出来ない一方で、こんな言葉に限ってこともなげに漏れ出す自分が嫌になる。これまでも散々自分に幻滅してきたが、今回の顛末も情けない自分に似つかわしい終わり方だと思えてきた。新しい登場人物にあっさりと、それも事故で倒されるというあっけなさ。笑いの種にもなりはしない。
鬱屈とした思考にまどろみが覆い被さっていく。銃声も、奴らの声も聞こえなくなっていた。理由は分からず、分かろうとするつもりも無くなっていた。段々と自分の体が床と一体化していっているような感覚に襲われていた。地面を通して自分の生命が散り散りになっていくようだった。
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