『SNS×リミナルスペース - 23時のゴースト・アプリ』
ソコニ
第1話 23時のゴースト
プロローグ:22時59分
誰もが、夜の闇の中で、スマートフォンの画面を見つめている。
青白い光が照らす無数の顔。SNSのタイムラインを上から下へと流していく指。そこには、昼間には決して見せない表情が浮かんでいる。
『既読無視、ムカつく』
『この会社、いつまで続くの?』
『誰か、気付いて欲しい』
匿名の投稿が、闇の中で光を放つ。
都会のビル群を埋め尽くすオフィスの窓。そのほとんどが消灯している中、点々と残る明かり。その一つ一つの窓の向こうで、誰かがスマートフォンを握りしめている。
残業に疲れた会社員。
人間関係に悩む若者。
SNSの中でしか本音を語れない人々。
そして、時計の針が23時を指そうとしている。
スマートフォンの画面が、不規則な明滅を始める。見覚えのないアプリのアイコンが、まるで呼吸をするように明滅している。透明な背景に、薄く白い人影。
『23時のゴースト』
このアプリが、全ての始まりとなる。
そして、全ての終わりとなる。
時計は、22時59分を指していた。
第1話 23時のゴースト
会社の窓から見える東京の夜景は、無数の青白い光の点となって瞬いていた。28階の総務部フロアで、美咲は背筋を伸ばしながら深いため息をついた。液晶ディスプレイから放たれるブルーライトで、目の奥が痛い。
「また残業か」と、隣の席の後輩が言い残して帰ってから、すでに3時間が経過していた。フロアの照明は間引きされ、40席ほどある大きなオフィススペースは、不自然な明暗のコントラストに支配されている。
時折、外を通過する飛行機のエンジン音が建物を震わせる。その度に、美咲の机の上に積まれた書類の山がかすかに揺れた。新入社員の教育資料。パワハラ・セクハラの防止マニュアル。そして、最近増えているSNSトラブルの対応ガイドライン。
総務部主任として2年目。順調なキャリアを積んできたはずだった。しかし最近、会社の雰囲気が少しずつ変わってきていることを、美咲は感じていた。デスクの隅に置かれたスマートフォンの画面が、夜の静寂を破るように明滅している。時刻は22時57分。オフィスには、彼女の打つキーボードの音だけが虚しく響いていた。
先週、社内SNSに投稿された一連の告発めいた投稿が発端だった。複数の部署での過重労働や、パワハラの疑いのある行為について、実名こそ伏せられているものの、具体的な状況が克明に記されていた。投稿はまたたく間に拡散され、外部のSNSにまで情報が流出。会社の評判は着実に傷つきつつあった。
「本当に社員の投稿なのか」「どこから情報が漏れているのか」。経営陣からの追及は日に日に厳しさを増していた。総務部は防火壁のような存在。炎上は何としても食い止めなければならない。
新入社員の教育担当も兼任している美咲は、毎週のように研修を実施していた。SNSの適切な使用方法。情報管理の重要性。会社の評判を傷つける行為の防止。しかし、若手社員たちの目は虚ろで、話を聞いている様子さえない。
特に気になっていたのは、最近配属された加瀬カスミという新入社員だった。真面目そうな性格で、仕事は出来る。しかし、周囲とのコミュニケーションは明らかに不得手で、最近は体調不良を理由に休みがちになっていた。
美咲は先日、匿名の告発投稿の文面を何度も読み返していた。どこかカスミの話し方に似ている。確信はない。しかし、直属の上司として、彼女の様子の変化を見過ごしてきたことへの後ろめたさが、美咲の心を重くしていた。
デスクの引き出しを開けると、中から古ぼけた手帳が出てきた。3年前、入社したての頃に使っていたものだ。パラパラとページをめくると、当時の同期との写真が挟まっていた。笑顔の集合写真。今では、その半数以上が会社を去っていた。
「こんな時間まで残って、私は何をしているんだろう」
声に出した言葉が、空っぽのフロアに吸い込まれていく。美咲は立ち上がり、鞄に手を伸ばした。その瞬間、机の上に置いていたスマートフォンが、けたたましい振動を開始した。画面が不規則に明滅している。画面には見覚えのないアプリのアイコンが表示されている。透明な背景に、薄く白い人影のようなものが描かれていた。アプリ名は「23時のゴースト」。
「こんなの入れた覚えないのに...」
美咲は眉をひそめた。最近、アプリの不正インストールによる情報漏洩が話題になっていたことを思い出す。セキュリティ部門から何度も注意喚起のメールが来ていた。削除しようとして指を近づけると、アイコンが揺らめいた。画面全体が歪んだような錯覚を覚える。
オフィスの蛍光灯が、不規則に明滅し始めた。時計は23時を指している。
アプリが自動的に起動する。画面いっぱいに、美咲のいるオフィスとよく似た空間が映し出された。まるでカメラアプリのように。しかし、そこには微妙な違和感があった。
「これ...私のデスク?」
スマートフォンを通して見える景色は、確かに今いるオフィスなのに、どこか異質だった。蛍光灯の明かりは同じように点いているのに、影の落ち方が違う。そして、画面の中の空間には、妙な奥行きを感じる。
机の上に置かれた書類の山。新入社員の研修資料や、日々の業務報告書。しかし、スマートフォンの画面を通して見ると、それらの文字が少しずつ崩れていく。まるで、インクが溶けて流れ出すように。
思わずスマートフォンを下げると、目の前の光景は普通のオフィスに戻っていた。しかし、再び画面を通して見ると、その異質な空間が広がっている。書類の文字は更に崩れ、机の影は不自然に長く伸びている。
好奇心に駆られた美咲は、おそるおそる画面に触れてみた。すると、指先がスマートフォンの中に吸い込まれていくような感覚に襲われる。気がつくと、彼女の体は画面の中の空間に引き込まれていた。
現実のオフィスとは異なる、歪んだ空間。机の配置は同じなのに、廊下は不自然に長く伸び、天井までの距離が微妙におかしい。まるで、現実が少しずつ溶けて歪んでいるかのような場所。
壁に掛けられた時計の文字盤が、ゆっくりと溶けて垂れ落ちている。空調の音は、人の囁き声のような不気味な響きに変わっていた。
「先輩...どうして...」
カスミの姿をした影が、歪んだ声で問いかける。その声に混ざって、他の声も聞こえてくる。SNSに投稿された数々の不満や怒り、そして悲しみ。それらが重なり合い、オフィスの空間を満たしていく。
美咲が後ずさろうとした時、廊下の奥から新たな足音が近づいてきた。今度ははっきりと、人の気配がする。振り返ると、一人の女性が立っている。
スーツ姿の女性は、美咲と同じように実体を持っていた。周囲の歪んだ空間の中で、彼女だけが明確な輪郭を保っている。しかし、その姿は時折ノイズのように乱れ、まるで信号の悪いテレビ画面のように揺らめいていた。
「あなたも...このアプリ?」
女性は小さく頷いた。藤原遥という名前だった。彼女の声は、空間の中で反響し、複数の声が重なり合うようなエコーを伴っていた。
「私の会社でも、最近SNSのトラブルが多くて...」
遥の手の中のスマートフォンが青白い光を放っている。その光は周囲の闇を押し返すようで、彼女の周りだけが比較的安全な空間として浮かび上がっていた。
「一週間前から、毎晩23時になるとこのアプリが起動するんです。最初は単なる不具合かと思ったんですけど...」
遥の話によると、彼女の会社でも匿名のSNS投稿が問題になっていた。社内の不正を告発する投稿。セクハラやパワハラの告発。会社の機密情報の流出を匂わせる脅迫めいた投稿。
「でも、投稿した人を特定しようとすると...こんな場所に連れてこられて」
遥の言葉が途切れた瞬間、彼女のスマートフォンの画面が激しく明滅する。画面には次々とSNSのタイムラインが表示されていく。投稿者の名前は全て匿名。しかし、その内容は明らかに実在の出来事を指している。
『会議室での暴言、録音してあるわよ』
『昇進試験の採点基準、実は恣意的に操作されてる』
『セクハラ上司のリストをバラすぞ』
『この会社の闇を全て暴いてやる』
投稿の文字が、まるで生き物のように蠢きながら画面から溢れ出す。黒いインクのように床に滴り落ち、そこから新たな影が形作られていく。それは人型ではあるものの、輪郭が常に変化し、複数の人間が重なり合ったような不気味な姿をしていた。
「このアプリ、SNSの闇を具現化させているみたいなんです。投稿された言葉が...このような形になって」
遥の説明が終わらないうちに、影は次々と増殖を始めた。床を覆う黒いインクの水たまりから、無数の手が伸び上がってくる。それぞれの手は、スマートフォンを握りしめているように見える。
オフィスの空間が、さらに激しく歪み始める。壁は波打ち、天井は渦を巻き、床は不規則に起伏している。カスミの影は他の影と混ざり合い、もはや個々の形を識別できないほどの黒い塊となっていた。
「逃げましょう!」
美咲は咄嗟に遥の手を掴んだ。しかし、どちらに逃げればいいのか。廊下は無限に続き、エレベーターホールは闇に沈み、非常階段は垂直に歪んでいる。まるで空間そのものが、彼女たちを閉じ込めようとしているかのよう。
彼女もスマートフォンを手に持っていた。画面が発する青白い光が、歪んだオフィスの空間で不気味に揺れている。
「あなたも...このアプリ?」
女性は小さく頷いた。藤原遥という名前だった。声は、どこか遠くから聞こえてくるような響きを持っていた。
「私の会社でも、最近SNSのトラブルが多くて...」
遥の言葉は、空間に溶け込むように消えていく。彼女の話では、このアプリは一週間前に突然インストールされ、毎晩23時になると起動するのだという。
「私も同じです。でも、こんな風に他の人と会ったのは初めて...」
二人が話している間にも、空間の歪みは徐々に強くなっていく。壁の影が不自然に揺れ、天井の蛍光灯が明滅を始めた。その光の下で、遥のスマートフォンの画面が明るく光る。
「これ...見てください」
遥が差し出した画面には、SNSのタイムラインが表示されていた。しかし、そこに流れる投稿の内容は、どれも不穏なものばかり。
『あの部署のマネージャー、仕事できないくせに...』
『誰かさんの昇進、絶対コネでしょ』
『会社の機密情報を外部に流出させてやる』
それらの文字が、まるで生き物のように蠢いている。投稿者の名前は全て匿名。しかし、その内容は明らかに実在の人物や出来事を指している。
「このアプリ、SNSの闇を...具現化させているみたいなんです」
その言葉が終わらないうちに、タイムライン上の文字が画面から溢れ出し始めた。黒い液体のように床に滴り落ち、そこから人型の影が形作られていく。歪んだ人影は、醜い形相で二人に向かって這いずり寄ってきた。
影は複数の声で囁いている。SNSに投稿された悪意の言葉。陰湿な嫌がらせの数々。そして、それらの言葉の背後にある、投稿者たちの本音。
「逃げましょう!」
美咲と遥は、歪んだ廊下を走り続けた。背後では黒い影の群れが蠢き、床から天井へと這い上がり、壁を伝って追いかけてくる。それぞれの影は、投稿された言葉を囁きながら、二人に迫ってくる。
「階段...あそこ!」
遥が指差した先には、非常階段への扉が見えた。しかし、その扉は不規則に伸縮を繰り返し、時には床から浮き上がり、時には壁に溶け込みそうになる。二人が近づくと、ドアノブが溶けた飴のように変形し始めた。
美咲が思い切って扉に体当たりすると、予想以上に簡単に開いた。しかし、その向こうに広がっていたのは、通常の非常階段ではなかった。
階段は螺旋状に上下に無限に伸び、手すりは不規則な角度で折れ曲がっている。天井からはスマートフォンの青白い光が無数に降り注ぎ、その一つ一つの画面にSNSのタイムラインが流れている。
「上に行きましょう!」
遥の声に導かれるように、二人は階段を駆け上がり始めた。しかし、数段上がるごとに、階段の形状が変化していく。時には階段の幅が狭くなり、時には段差が急になる。手すりは触れると氷のように冷たく、しかし形状は水のように流動的だった。
「あれは...!」
数フロア上がったところで、美咲は立ち止まった。階段の踊り場に、一台の自動販売機が置かれている。しかし、そこに並ぶ商品は通常の飲料ではなく、全てスマートフォンだった。画面には様々なSNSアプリのアイコンが表示され、どれもが不規則に明滅している。
その時、自動販売機の液晶画面に、見覚えのある投稿が表示された。
『23時のゴースト、起動完了
ユーザーの心理データ、収集中
悪意の具現化レベル:76%』
「これって...システムメッセージ?」
遥が疑問を口にした瞬間、自動販売機の画面が大きく歪み、まるでブラックホールのように周囲の光を吸い込み始めた。商品として並べられていたスマートフォンが次々と砕け散り、その破片が黒い靄となって渦を巻く。
「続けて上に!」
二人が踊り場を走り抜けると、自動販売機は完全に闇に飲み込まれ、そこから新たな影が生まれ出ていた。それは以前の影とは異なり、より具体的な形を持っている。スーツを着た会社員の姿。しかし、その顔は空白で、胸ポケットからはスマートフォンが溢れ出している。
階段を上がるにつれ、壁に映る影が次第に具体的になっていく。そこには、SNSに投稿された様々な場面が、まるで動く絵画のように映し出されていた。会議室での口論。廊下での陰口。終業後のグチ。現実の出来事が、歪んだ形で再現されている。
「見て、あれ...」
さらに上層階に到達すると、大きな会議室のような空間が広がっていた。しかし、そこに並ぶ椅子には誰も座っていない。テーブルの上には無数のスマートフォンが置かれ、それぞれの画面が青白い光を放っている。
会議室の正面には巨大なスクリーンが設置されており、そこにはリアルタイムで投稿される匿名の言葉が次々と表示されていく。それらの言葉は、まるで生き物のように画面の中で蠢き、時には飛び出してきそうになる。
「ここは...管理室?」
遥の声が、広大な会議室の空間に吸い込まれていく。無人の椅子が、まるで誰かが座っているかのように不規則に軋んでいる。テーブルに並ぶスマートフォンの青い光が、天井に無数の影を作り出していた。
巨大スクリーンには、次々と新しい投稿が流れていく。
『深夜残業なんて、誰がしたがるの?』
『上司は机に座ってるだけで、部下は使い潰される』
『このまま朝まで働けってこと?』
『会社に人生を捧げる気なんてない』
そして、突然、全ての投稿が停止した。スクリーンには新たなメッセージが表示される。
『23時30分
ユーザーの感情データ解析完了
怨嗟指数:89%
孤独指数:92%
絶望指数:87%
具現化プロセス、最終段階へ』
「これは、私たちの...感情?」
美咲の問いかけに答えるように、スクリーンが大きく波打った。その波紋が会議室全体に広がり、テーブルに置かれていたスマートフォンが一斉に明滅を始める。
それぞれの画面から黒い靄が立ち上り、それらが結合して一つの大きな影を形成していく。現れた影は、カスミの姿をしていたが、その周りには他の無数の影が渦を巻いていた。
「カスミさん...」
美咲が一歩前に踏み出すと、影が口を開いた。そこから漏れ出す声は、カスミのものだけではなかった。何十、何百もの声が重なり合い、それぞれが孤独と怨嗟の言葉を吐き出している。
『誰も私の気持ちを分かってくれない』
『SNSの中でしか、本当の気持ちを言えない』
『現実の人間関係なんて、偽りばかり』
『だから、この場所で...全てを終わらせる』
影の群れが、渦を巻きながら美咲と遥に迫ってくる。二人の足元の床が、まるで沼のように柔らかくなり、ゆっくりと沈み込んでいく。
その時、美咲のスマートフォンが強く振動した。画面には最後のメッセージが表示される。
『23時45分
現実世界との接続、不安定化
境界の崩壊が加速
深夜0時までに、選択を完了してください』
「選択...?」
美咲が画面を見つめていると、カスミの影が静かに手を伸ばしてきた。その手には、スマートフォンが握られている。画面には、一つの投稿が表示されていた。
『先輩...私の本当の気持ち、受け止めてくれますか?』
会議室の空間が、さらに激しく歪み始める。壁は波打ち、天井は渦を巻き、床は不規則に起伏している。現実とリミナルスペースの境界が、刻一刻と薄れていくのを感じる。
時計は23時50分を指していた。そして、「23時のゴースト」は、まだ終わりを告げる気配を見せない。
階段を上りながら、美咲は自分のスマートフォンを確認した。画面には新しい通知が表示されている。
『ようこそ、23時のゴーストへ。
これは、あなたたちのSNSが作り出した世界。
投稿された言葉は、決して消えることはありません。
その全てが、ここで「カタチ」を持つのです。』
(第1章 完)
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