鵲橋浪狼情歌

人間無骨@2/28商業おねロリ本発売

本編

 靖康元年。後世の暦で一一二六年。

 漢族の国家『宋』は北方にて興った女真族の国家『金』に敗れ去った。宋の首都『開封』は金軍に略奪され、宋の皇室、貴族は皆、北方へと連れ去られた。

 後に靖康の変と呼ばれる大惨禍である。


×××


 夜風は雪混じりであったが、女達は腰から上に何も身につけていなかった。

 誰もが震えながら舞っている。彼女達の服装は恥部を覆う皮衣のみである。

 今宵の宴は野外で開かれていた。遠征帰りの客が大勢詰めかけ、室内では間に合わなくなったからだ。しかし女達には衣服も靴も与えられなかった。

 外には石畳が敷かれており、そのせいで女達の足の皮は裂け、血が点々と跡に残った。

 卑しき者だと嘲られ、それでも女達は周囲の兵士に媚笑を向ける。

 老いた女も、若い女も、区別なく、この宴で女達は兵士を喜ばせるための道具だった。

 誰が気づくだろう。この場で踊る娼妓は皆、宋の帝室ゆかりの者ばかりであると。

 垂れた乳房を揺らして不格好に腕を揺らす婦人は先帝の側室であり、踊りの覚えの悪さを常々罵られている。まだ幼さの残る顔立ちの女は宰相の姪で、毎日泣き暮らしている。

 開峰を侵略した金は宋の皇室、貴族を攫い、遙か北方へと連行した。虜囚の中でも身分の高い女達は皆、この異国の都、燕京の公営娼館『洗衣院』にて娼妓に貶められ、金の貴族、高級武官、時には下賤な兵にまで春をひさぐよう強いられた。その辱めが、宋国の末路であった。

 しかしそれでも、院の女達は幸運だった。宋の都より遠く隔たった燕京に至るまでに大勢が凍え死に、あるいは金国の兵士に面白半分で殺されていた。金には感謝せねばならぬ。そう言って憚らない者もいる。

 時折、金の将兵が気に入った娼妓を院へと連れ戻していたが、宴の勢いは一向に落ちることなく、いつ終わるとも知れず続いていた。

 そんなおぞましい喧噪から離れて、香雲シャンユンは洗衣院と金の宮殿を結ぶ橋に佇んでいた。彼女は恥部隠しの皮衣だけという姿ではなく、粗末な灰色の綿の着物を与えられていた。まだ若い香雲は娼妓ではなく下女だった。それは娼妓とするには若すぎる者に課せられる役割で、普段は院の掃除や娼妓達への食事を用意し、宴の際は給仕を務めるのが仕事だ。今のところ宴に集った獣共は、抜け出した者に気づいていない。

 香雲は橋を覗きこみ、河の水面をじっと見つめていた。都に引き込まれた河は水運のための路であり、日中は舟が行き来している。しかし、この夜更けに舟を漕ぐ者はおらず、墨を流したような水面は、地の底まで繋がっているかのようだった。燕京は金の貴族が住まう所で、夜に出歩くものはいない。先の戦勝で緩んでいるのか、見回りの兵士も見かけなかった。

「お母様……」

 母は、もうどこにもいない。この橋から身を投げた。人でありながら牛豚のように遇され、どうして生きていけるだろうか――それが母の最後の言葉だった。引き上げられた遺骸は水で膨れ、まさに牛豚のようだった。

 香雲は黒々とした河を、じっと見つめる。

 香雲は先行きに光明を見いだせなかった。今はまだ、下女として客を取らされてはいない。だが、もうじき自分も売りに出される。教育係も身体ができあがってきたと言っていた。その言葉をかけられた瞬間、香雲は自らが金子でやりとりできるものだと実感してしまった。賢く穏やかだった母も僅か数週間で、その中身が全く別の、腐った魚の腸と入れ替わったのかと思うほどに陰険で苛立った心の持ち主となった。そのようにだけはなりたくなかった。

 無論、院の客は気に入った娘がいれば下女であってもお構いなしに連れていく。

 香雲に客が付いていないのは、虜囚の身であって尚、己の身分に助けられていたからだった。

 香雲の姓は趙。すなわち、宋建国の祖の血筋である。

 彼女は、宋国皇帝の第十三子で、燕京に囚われた最後の直系皇族だった。他の血筋はともかく、直系ともなれば金が宋を征服した証として相手にもそれなりの格が求められる。香雲は家畜の中でも、祝祭のために潰される家畜だった。

「……ッ」

 誇りのために命を絶つ。

 母が入水して以来、香雲はずっと心に決めていた。それから既に三月が経つというのに、香雲は遂げられずにいた。刃を見れば手が震え、高楼から地を覗けば足が震えた。母はどのような思いで河に身を投じたのか。この恐れを塗りつぶすほどの絶望を、味わったのか。

 躊躇っている内に香雲は下品な笑い声を聞いた。院から発せられたものだった。ここまで届くのだから、よほど大きな声だ。娼妓達を使った催しによるものだろう。それが香雲の心を固めた。

 自分一人だけでもここから抜け出さなくてはならない。

 香雲は欄干から身を乗り出し、さっきよりも河を凝視して、それから――唄を聴いた。

 宋や金の唄ではないように感じる。意味が分からずとも、ゆったりとした音律や愁いを帯びた声音は美しかった。楽器の演奏もなく、ただ声だけで作られた唄は素朴だが、死に駆られる心を鎮めるものがあった。

 さっさと身を投じるべきだというのに、彼女は身を乗り出したまま、対岸に目を向けてしまう。

 橋の前に、金の武人が立っている。

 何を思って出歩いていたのか、明かりも、護衛もいない。これまで院に訪れていた者と同じく、綿の上着に革の胸当てを付け、毛皮の外套という出で立ちだが、他の者と違って上着は藍色に染められている。金では白が高貴な色であり、大抵の将官は白ずくめだ。藍色に染まった金人というのは、燕京において珍しい。

 そして金人も、香雲に気づいた。

「きみは院の下女、か? なにをしている」

 強ばっていた香雲は身体から力が抜けるのを感じた。藍色の金人は宋の言葉を使っていた。声音は若い。ややぎこちないが、努力して身につけたものだと察せられた。院の外で故郷の言語を聞いた。ただそれだけのことで、香雲は安心してしまっていた。

「……わたしが行くまで、待っていてほしい」

 欄干の上で猫のようになっていた香雲に、藍色の金人はまた声をかけた。彼が歩く度に衣服や耳を飾る金細工の装飾品が鳴る。どうすればいいのか分からないまま、香雲は近寄られていた。

「……ッ」

 言葉に詰まったまま、香雲は藍色の金人を見つめる。

 間近まで迫られてようやく、香雲は金人の顔つきを月光の下で観察できた。彼は漢族でも女真族でもなかった。その肌は焦がしたように浅黒い。鼻が高くて、堂々とした顔つきの若武者だった。夜陰の中で目だけがはっきりと見える。なにより変わっているのは辮髪(べんぱつ)ではないことだ。まるで女のように、彼は髪を頭の後ろで結っていた。

 金国において、すべての男子は民族にかかわらず女真の伝統である辮髪が義務づけられている。近いうちに従わぬ者を死罪とする法も定められるという。辮髪ではない者はそれだけで異様だ。

 彼もまた金国に馴染めない流浪の輩なのか――そのように感じ、香雲の警戒心が僅かに緩んだ。

「身投げか……それは、やめておけ」

 気遣うような態度に、香雲は無駄と知りつつも彼の手を振り払おうとした。

「勝手なことを言わないで!」

 生きて、また檻に戻れというのか。饗される日を待つ豚になれというのか。

 若武者は黙ったままだった。

「あなた達を悦ばせるために生きろというの? ふざけないで……!」

 香雲の泣き声に若武者は目を伏せ、遠慮がちに彼女の腕を引いた。

「ならば、ついて来てほしい。ああ、院では……ない。別のところだ」

 欄干に腰掛けて香雲は考える。もう身投げはできない。とうに心は挫けていた。自決さえも遂げられないのは、自分が無能な『風流』天子の公主であり、甘やかされて育ったからなのか。院で聞こえよがしに囁かれていた陰口を思い出す。

 あやかしのごとく現れた者に誘われるなど、愚かしいことだろう。かといって元いた場所に戻るのも耐えがたかった。

「院の女は金国のもの。あなたはそれを盗もうというの?」

 しかし、あえて香雲は問うた。普段から下々にも解放されているとはいえ、名目上、洗衣院の女は貴族の所有物である。

 この見知らぬ若武者に責が及んでほしくはない。

「わたしを心配しているのか? まぁ……大丈夫。なんとかなる」

「あなたねぇ」

 楽観的すぎる返事に、香雲は呆れてしまった。

「さぁ、こっちに」

 何を考えているのか、彼の返事には自信があった。ただ真っ直ぐに、朴訥に、彼は香雲を招いていた。

 厭わしい笑い声もいつしか止んで、都は静まりかえっている。

 いつしか香雲はこの燕京には自分と彼しかいないような気がした。

 彼には二心がない。ただ、こちらを想っている。

 あの変事以来、いいやそれより前からずっと、公主である香雲に声を掛ける者は心を二つ、三つと持っていた。両親でさえも、我が子として接してはくれなかった。

「いいわ。どこへ行くつもりなの、あなた」

 投げやりに返事すると、若武者は笑った。先ほどまでは恐ろしげな武人だったのに、破顔すると童のように無邪気だった。

「うんっ」

 若武者は跪いた。香雲は欄干の上から動かない。宋人、それも洗衣院の女のために膝を突くなど。

「なんのつもり……」

「きみを受け止める。高くて、危ない」

 香雲は鼻を鳴らし、腕を広げた彼の横に飛び降りた。両手を突いて不細工に着地しながら、それでも香雲は毅然とした態度を保とうとする。手のひらを少し擦りむいてしまった。

「危ないぞ……」

 そう言いながら彼は立ち上がり、歩き出した。

 香雲も彼に続き、来た道とは反対側、宮殿への道を進む。

 彼が何者なのか、ふとした瞬間に掻き消えるのではないか――じっと見つめていても、彼の藍衣の裾や外套は消えることがなく、香雲はひどく安心した。


×××


 夜道を歩いていて香雲は燕京の都を何も知らなかったことに気づいた。これまで院に押し込められていたのだから、当然なのだが。

 暗い中では殆ど何も見えないものの、宋の都より整っているように感じた。燕京の路上は乞食が途方に暮れて座りこんでおらず、賊に斬り殺された死体も放置されていない。家屋はどれも手入れされて、ちゃんと民が住んでいる。宋の都と違って、金の家には焚き口から延びる煙道を利用して暖を採る竈である?が、どの家にも備え付けられており、一つ一つの家から伸びている煙突が奇妙に感じられた。

 在りし日の開封は地獄だった。

 金軍が迫るにつれて、都を捨てて逃げ去る人々は増えていった。廃屋には得体の知れない者が住み着き、荒れ果てていった。軍は都を取り締まる余裕がなく、日中でも盗みや殺しが起きた。罪人の中には国を守るべき兵士までいた。その惨状を皇帝も、宰相も、官僚も、見ないようにしていた。そもそも戦はその端緒からして、宋が金との約定を破ったからだった。

 なぜ皆は目を瞑るのか、香雲は不思議だった。

 童女の香雲でも戦となれば金には勝てぬと気づいていた。宮殿の皆も同じだろう。ならば、なぜ戦わない道を探さなかったのか、これほど民を苦しませるのか、戦の最中でも父は自室で絵画を愛でていた。父は芸術を愛し、自らを風流天子と呼ばせた。それが蔑称となるのに時間は掛らなかった。

 束の間、街を歩くだけで戦に負けた理由が香雲には理解できた。

 夜道で若武者は何度もこちらを振り返った。せっかく誘った相手がいなくなってしまうのが不安でしかたないようだった。犬のようだと言ったら、彼はきっと怒るだろう。

 城門にほど近い兵舎で彼は立ち止まった。格子窓からぼんやりと明かりが漏れている。

 品のない笑い声や獣めいた鳴き声は中から聞こえなかった

「今……もどった」

 香雲のためなのか彼は仲間に対しても宋語を用いた。無造作に外套を高床へ放り、皆に笑いかける。

「おや、アセナ殿がまた棄児を拾われたか」

 兵舎に屯していたのは金人ならざるものばかりだった。

 彼らは粥の大鍋を?の煙道が通った高床に置き、そこで車座になっていた。思ったよりも数は少なく、八、九人しかいない。香雲が来ても、ほとんどの兵達は気にする素振りもなく粥を啜っていた。

 真っ先に『アセナ殿』――それが若武者の名前らしい――へと声を掛けたのは背丈の低い男で、しわくちゃの顔は年寄りなのか若者なのか分からない。顔を覆う火傷跡が痛々しい。

「……!」

 明らかに香雲を睨みつける少女もいた。自分よりもやや年上であるが、せいぜい二つ、三つ上なだけであろう。変わったことに彼女も兵士風の格好で、傍らには剣も置いてあった。

「асена! наниwоканнгаетейрунодесука」

 少女が床に降りて若に詰め寄った。女真語は分からなかったが、怒っているのはよく分かった。彼女は話している最中も、しきりに香雲を睨んでいた。敵意を抱かれるのは疾うに慣れていて、香雲は黙っていた。いきなり殴られたり突き飛ばされたりしないだけ、ましだ。

「отитуке」

「асена!」

 アセナが落ち着かせようとしているのに、少女は納得いかないようで、彼に噛みつく。少女はしきりにアセナの名前を呼んでいた。

「……イェンは『姉様はなぜ、おまえを連れてきたのか』と聞いている。気にしないでほしい。この子は、利口なのにいつも荒れた馬のようだから」

「ね、姉様……?」

 香雲の耳に残ったのはその言葉だけだった。

 それは、つまり――

 香雲はアセナの顔をじっと見つめた。アセナは不思議そうにしていた。

 月明かりだけでは顔がよく見えず、おまけに兵士の格好をしていたから男だとばかり思っていた。改めて観察してみると、分厚い外套のせいで身体の輪郭は分からないが、その顔つきは男にしては優しすぎるように感じる。

「嘘でしょ……女の人だったの?」

「ああ、女の兵士などめずらしいものな」

「そんな……」

 宋では女の兵士など考えられないことだった。

 それが何故なのか、香雲はかつて宰相に訊いてみたことがある。力では叶わぬし、すぐに訓練から逃げ出す、なにより兵は男だけで足りていると宰相は答えた。彼であれば北狄は女まで戦わねばならぬのかと笑うだろうか。

「む……? なんだ? 信じられないか?」

 アセナは後ろ手に胸当てを緩めた。そのまま彼女は香雲の手を取り、己の胸元に触らせる。

「なっ、なんなの……!」

 柔らかな感触が、確かにあった。

 驚きから香雲は手を引いた。なるほど、女だと知らせるのにこれほど手っ取り早い方法もないだろう。だが、いくらなんでも、無防備すぎる。アセナの胸の感触はまだ手のひらに残っていて、中々消えてくれなかった。

「わかってくれたか」

「え、ええ」

「коноёунамонони карадаосаварасэнаидэкудасаи!」

 また炎と呼ばれた少女が怒っている。アセナに近付く者が気に食わないらしい。

「炎、女同士で気にすることもない。あらためて……わたしはアセナ、小勢ながら、軍を率いる者だ。きみは?」

 炎を宥めつつ、アセナは自らの胸に手を置いた。

「……香雲よ。私になにをするつもり?」

 アセナは困ったように首を傾げた。

 二人の間に気まずい沈黙が流れ、見かねた小男が仲を取り持とうと香雲に話しかける。

「お主、院の下女だろうが……そう身構えずともよい。殿は広いお心の持ち主、ただお主のことが気にかかっただけよ」

 小男の言葉は滑らかで、生来のものだと察せられた。

「あなた……宋人ね」

 香雲の問いに彼は大きく頷いた。

「いかにも。儂の名は九狗ジュゴウじゃ。姓は無い。親父から与えられなんだ、生まれつき醜く、一族と認められんでな」

 続けて九狗は憮然とした顔の少女を指差した。彼女は九狗を見て、また何か言いたげに睨みつけた。

「殿にきゃんきゃんと吠えておった小娘は炎。姓は……捨てたそうじゃ。女の身ではあるが腕利きよ。殿ほどではないがな」

 腕利き――九狗の言葉を香雲は口の中で繰り返した。女に腕利きがいるなんて、香雲には信じられなかった。かつての宰相の言葉を鵜呑みにしたわけではないが、戦うのなら男の方が有利なのは間違いない。男女の差を超えるほどの技を備えているのだろうか。アセナも炎も、人の顔色をうかがわず、どこか自信に満ちているのも、そのためなのだろうか。

「他の者のことはいずれ覚えておけばよかろう。皆、アセナ殿がいなければ明日なき身の上だったものばかりよ。もちろん、儂もな」

 そう言いながら、九狗は嬉しそうにアセナを見つめていた。当のアセナはいそいそと粥を器によそっていて、将たる威厳がまるでなかった。それでもアセナを前にした者は誰もが彼女に敬意を払っていて、彼女が皆に慕われているのは余所者の香雲にも理解できた。

「さぁ、きみも」

 山盛りの粥を持ち帰ってきたアセナは、そっと香雲に器と匙を突き出した。粥の熱気と微かな肉汁の匂いで、香雲のお腹は鳴ってしまった。彼女は朝からほとんど食事を取れていなかった。

「ありがとう……」

 香雲はそっと粥の器と匙を受け取った。刻んだ菜っ葉と家畜の血が具で、薄赤い粥のあちこちに細切れの菜が埋まっている。顔を近づけると鉄臭さを感じる。良い見た目の食事とは言えなかったが、香雲は黙って口にした。院での食事も大差ない。それでもここの粥の方がずっとおいしかった。隣にアセナが座り、粥を啜る香雲を見つめてくる。

「うまい、か」

「ええ」

「……ならば、わたしもうれしい。作った者にも伝えておこう! きっと喜ぶ」

 ずいぶんと嬉しそうなアセナに釣られて、香雲も微笑んでしまう。

「あなた、何者なの? どうして、女の身で兵士に?」

 兵舎を訪れた瞬間から香雲は不思議に思っていた。小さな軍団でも女の兵士が長となっているのは考えられないことだし、なによりここの兵は他の金軍と違いすぎる。野盗と言われた方が、まだ納得できるほどだ。

 香雲の問いかけに、アセナは重々しく返事した。

「わたしは……金の棄児。異国の婢より生まれし、ウキマイの裔だ」

 香雲は匙を止めた。合点が行く答えではあった。ウキマイ――完顔呉乞買とは金の皇帝だ。金の皇族であれば、異民族の少女や寄る辺なき者だけで軍団を作り、率いる戯れも許されるだろう。

「金帝はあなたに命令しないのね、あの男に嫁げとか、人質になれだとか……」

 本来であれば宮殿で暮らすべき者が兵士の姿をしているのは奇妙であった。言葉の通り、棄児なのだろうか。宋であれば帝の子は監視の元で生きることになる。国を継いでいくため、皆、果たすべき天命、つまりは役割がある。香雲もまた、公主として有力な武将や官僚に嫁ぐことが役割だった。そうして血を繋ぎ、久遠に続くべき国はすでに滅んでしまったが。

「帝には、かぞえるほどしかあったことがない。はなしたことは……さらに少し。帝はわたしの肌が、女真ならざる貌がお嫌いなのだ」

 アセナの焦げたような色合いの肌。女真族も漢族もこのような肌をしていない。

 宋で異民族は蔑みの対象だった。そうした感情は金国でも同じようだった。

 アセナは父から無視されているのだ。

 もし自分が高い地位のままでアセナと出会ったら、どう感じていただろうか――香雲は内省する。

 高いところにいた自分もまた、アセナの肌を珍奇なものとして面白がり、絵画を見るように眺めていたかもしれない。汚れた肌を拭けと、布きれでもくれてやったかもしれない。

「その……いかなる貌であろうとあなたには徳があると思うけど」

 懸命に考えながら、香雲は返事する。

 この身の上となってから、初めて人として扱われた。下の者に隔てなく接することができるのは限られた者だけの才覚だ。

「徳……。きみの国で帝にあるべきものだった、か」

「詳しいのね」

「書は馬と弓の次に、好む」

 異国の言葉を使いこなしているだけに説得力があった。かつて金と宋の盟約が保たれていた頃は、宋の書物も多くが貢ぎ物とされていた。その中の幾つかは彼女に渡っているのだろう。宮殿で陰鬱にすごしているぐらいなら、自分も女真の言葉を学んでいればよかった。

「院の暮らしはどうなっている」

 その質問に至った時、アセナはうつむき、声を潜めていた。自分達の周りにだけ影が差したように香雲は感じた。アセナは攫われた女達の暮らしを案じているようだった。見知らぬ童であっても面倒を見ようとする彼女の性格であれば、放ってはおけないだろう。

 香雲は粥を掻き込んでから、少し間を置いて返事する。

「生きることは認められている」

 洗衣院では自らの価値をどれだけ高くできるかが問われる。金の者共に媚びて犬のように可愛がられるか。あるいは矜持を捨てず畜生同然の暮らしに甘んじるか。香雲は後者であった。しかし金の手出しは受けずとも、この身はすでに汚されている。何もかも捨ててしまった方が幸福なのは明らかで、しばしば、香雲はそちらの道に心惹かれる。

「あれは兄が建てたものだ。負けた者をことさら貶めるなど徳義あるふるまいでは……」

 しかし、自らの心を売り渡していれば、自分は今も院で踊り狂っている。夜道を一人彷徨うアセナのことなど、気づきもしなかった。そう考えると、今まで自分が自分を捨てなかったことを、誇りたくなる。

「わたしが男であれば、きみを娶り、救うこともできただろうか」

 その言葉はアセナなりの優しさだと香雲には分かっていた。

 しかしそれでも、香雲は椀を置き、強く首を振った。

「私は……! 私は、誰のものにもなりたくないわ」

 アセナに選ばれるのは他の誰に選ばれるより幸せだ。なのに、香雲は言い知れぬ感覚に襲われ、アセナを拒んでいた。アセナの伴侶となれば、きっと自分は伴侶という役割に安住し、宋の宮殿にいた頃に戻ってしまう――それが、とても嫌だった。

 アセナの声を聞きつけて周囲が訝しむようにこちらを伺ってくる。中には、炎を筆頭に、身の程を弁えろと言わんばかりの冷たい目線もあった。

「まぁ、女の身でこんな話をしても仕方ないか……」

 アセナは悲しげに目を伏せ、それからおもむろに立ち上がった。

「……院の宴もそろそろ終わりだろうか。うん、きみを送っていこう」

 針のむしろに座らされている香雲を気遣っているのか、アセナはことさら明るく呼びかけた。

「大丈夫よ」

 自分が愚かなことをしたと分かっていた香雲は、衝動的に立ち上がった。綺麗に平らげた食器を無言で兵に返し、外へ向かう。戸を開けようとしたところで、またアセナが駆け寄ってきた。

「燕京においては賊などありえないが……きみを一人にはさせたくない」

「いらない」

 香雲は扉を開けた。こんな態度しかとれない自分が情けなく、惨めに感じられた。

 月は陰り、都は闇に包まれていた。外はひどく寒い。

 香雲は脱兎のごとく駆けていった。向かう先は地獄であったが、構わなかった。元より安らげる場所はどこにもないのだから、どうして院を厭うだろうか。兵舎で夜を明かしたかった――そんな思いを香雲は必死で振り払おうと、足を早めた。


×××


「臣下が身を粉にしていたというのに、どこへおられたのですか」

 忠珠ジョンジュの問いに、香雲は苦い顔をした。二人の取り巻きも薄ら笑いを浮かべている。彼女達からは白粉と雄の臭いがする。院の女達が力尽くで働かされているのは真実である。ただ、その中には率先して金に属し、同胞を鞭打つ役割を授かった者もいた。たとえ貴顕に娶られずとも、能吏であると認められれば、よりよい役割にありつけるわけだ。

 その裏切りを、香雲は責める気にはなれなかった。いかなる地獄であろうと生き抜こうとする力強さに眩しさすら感じる。忠珠は身分が低く、宮殿では宦官よりも熱を入れて周りに媚びへつらっていた。しかし、ここでは彼女が皆を平伏させている。

「公主が労役で手を汚すことなど、できないと仰るのでしょうか」

 忠珠が迫ってくる。取り巻き達も距離を詰め、香雲を見下ろす。折檻には慣れていた。たとえ昨晩、院に留まっていたとしてもあらぬ罪を被せられて同じ有様になっているだろう。

 洗衣院に戻った香雲は朝の掃除中、いきなり忠珠に踏みこまれていた。

 院の個室は基本的に?の上に敷かれた褥しかない。ただ、香雲の掃除していた部屋は洗衣院の主の居室だった。今は宮殿に出仕していて不在だが、この地獄を統べる男は肝が氷かのように酷薄冷血だ。敢えてこの瞬間に踏みこんでくるのは、他の者が踏みこむのを憚るため。そして忠珠自身が彼に気に入られていることを誇示するため。

「返事なさいませ、公主」

 香雲は無言だった。

 異国の地を這う者達は庇い合うことなく、澱のごとき憤懣を、さらに弱い者へとぶつけている。その相手が国を傾けた皇帝の子ともなれば、なおさら責め苦にも力が入るというものだ。

 宋の公主である香雲は格好の獲物だった。同胞に自らの残虐さを誇示し、飼い主には金への忠誠を証明できる。香雲にできるのは苦痛を押し隠し、矜持を保つことのみだった。

「この部屋を見て分からぬか。全ては既に金のもの。無論、公主の御身も……」

 主の居室は宋の宮殿から略奪した芸術品で飾り立てられている。絵画、磁器、織物、あらゆるものに見覚えがある。

 彼のお気に入りなのか、机とは反対側の壁、執務中でも目を向けられるところには『桃鳩図』が飾られている。それは、香雲の父――つまりは宋の皇帝が手ずから描いた絵画だった。

 白い花を咲かせた桃の木に、ふっくらとした鳩が止まっている。言葉にしてしまえばそれだけの絵画だが、繊細な絵柄で、吸い込まれるような美しさがある。

 今朝も鳩は、その無垢な瞳で虐げられる香雲を見下ろしている。

「あなたの立場を教育して差し上げましょう。何度でも、ね」

 忠珠の目配せで、取り巻きは香雲を床に取り押さえた。

「く……」

 香雲は呻きを漏らす。これまで保っていた態度が揺らいでしまう。

 いずれ金の皇族へ献上されるため、香雲は客を取ったことがない。しかし彼女は、忠珠の教育によって娼妓の手管を身体に仕込まされていた。泣いたのは最初の一度だけ。それでも忠珠達はそれがもっとも香雲を苛む方法であると学んでいる。

――狗共、貴様らは賊と同じだ。

 咽元まで出かかった呪詛を香雲は飲み込む。衣を剥がれる。傷を付けぬよう、ゆっくりと、顔を忠珠に踏みつけられる。白粉の臭いが強くなる。

「愚帝の娘が! 宋を喰らった人面の蝗めが! 貴様らのせいで私達は! 私達はなぁっ!」

 香雲の身体に傷を残したことで咎を負わぬよう、忠珠達はもっぱら香雲の心に刃を向けた。

 父帝の所業を思えば、このような辱めも道理なのか。諦観の中で香雲は考える。

 風流天子と呼ばれた父帝は政務を顧みず、芸術に耽った。確かに才はあったが、それは為政者に不要なものだった。彼は美麗な絵画を描き上げては悦に浸っていた。桃鳩図もまた、放蕩の最中に生まれたものだ。

 また父帝は奇岩を好み、珍奇な形をした岩があると聞きつけると、民に労役を課してそれを運ばせた。陸路であれば家を壊し、水路であれば橋を壊して、都までまっすぐに重い岩を運ばせるのだ。その結果、国も壊れてしまった。

 宋では、儒の教えが浸透していた。親は絶対の存在で、敬わぬことは罪だった。しかし香雲は父帝を憎み、恨んでいる。

 取り巻きの手で、両脚を開かされる。

 香雲は息を止めた。

「さて、それでは公主に婢のなんたるかを……」

 忠珠はわざわざ持ちこんだ道具を喜々として見せつけていた。

 細い鎖で繋がれた陶器の鈴の連なり。胎の中であれが鳴った時の音を、香雲は克明に覚えている。

 廊下から慌ただしい足音が聞こえてきたのはそんな時だった。

「大変でございます、忠珠さま。金の方が下女をお捜しで」

 許しも得ずに入ってきたのは別の娼妓だった。彼女は室内で行われていた暴虐に一瞬だけ眉をひそめたが、そのまま忠珠に平伏して報告する。香雲は院で下女とのみ呼ばれている。公主という呼び名を未だに使うのは忠珠だけの特権である。

「これを? 処遇が決まるまでは留めおくはずであろう。尋ねてきたのは何者か」

「使者には見えませぬが、とにかく会いたいと……」

 不機嫌そうな忠珠に気の毒な娼妓は怯えていた。そんな中、また足音がした。こちらに、近付いてくる。香雲は心を殺したまま、成り行きに任せていた。何があるにしてもどうせ、艱苦が待ち受けているに決まっているのだから。

「香雲、そこか」

 その声を聞いて、香雲は目を見ひらいた。鎖していた感情がほころぶ。息がしやすくなったように感じる。

 果たして、主の居室だろうと構わず、娼妓を押しのけて現れたのはアセナだった。

「なんだ、これは?」

 床に縫い付けられた香雲を見て、アセナは表情を歪めた。危うい状況なのを悟り、取り巻きがよそよそしく香雲から離れる。二人はどうして自分が彼女を押さえつけていたのか、分からないとでも言いたげだった。香雲は跳ね起き、乱れた衣服を整える。こんな姿でアセナと再会したのが一番の屈辱だった。

「良き娼妓とするための教練です。あなたのような美丈夫であればわざわざ貧相な童を買うこともないでしょうに。もっとも……これは特別故、許しがなければ――」

「連れていくぞ」

 アセナの剣幕は、忠珠の滑らかな舌を引き抜かんばかりだった。立ち竦む忠珠を押しのけて、彼女は香雲の前に立つ。

「行きたいところがある。ともに、来てくれるか」

 香雲は黙ったまま、アセナの手を取った。アセナは満足げに微笑み、彼女の手を引いて廊下を進んでいく。すれ違う娼妓や下女の怯えと困惑を感じながら、香雲は再び院の外に出ていた。

「ここが、燕京……」

 香雲は感嘆し、あたりを見回してしまう。大きな都市だが、外は閑散としている。出歩いているのは少数の兵士や職人と思しき者ばかりで、商人や子どもはいない。川の向こうにある宮殿は立派であったが、足場が組まれ、屋根で職人が働いていた。

「燕京は元々、遼のみやこだ。先のいくさの傷がまだ残っている」

 視線に気づいたのか、アセナは宮殿を指差して説明する。数年前、異民族の国『遼』が宋に先んじて金に滅ぼされたのは知っていたが、ここがそのかつての都だったとは思いもしなかった。

「それより……院で何を」

「来てくれて感謝するわ。だけど気にしないで。平気よ、あんなの」

「しかし」

「なんともないからっ」

「むぅ」

 香雲の中には忸怩たるものがあった。

 娶られることを拒んでおきながら、結局彼女に守られてしまった。自分はいつになっても誰かの後ろでしか生きていけない。金との戦でも皇族を守るために大勢の兵が命を投げ出した。自分は、それほどの価値がある命なのか。

「あなた、私をどうしたいの?」

 陰鬱な気持ちを振り払って、香雲はアセナを見上げた。

「こっちだ」

 アセナが向かったのは馬屋だった。繋がれた馬は皆、澄んだ瞳で穏やかにしている。よく飼い慣らされた良い馬ばかりだ。

「талгиян!」

 繋がれた馬の一頭に近付き、アセナは嬉しそうに頬を寄せた。濃茶色の大柄な馬で、艶やかな毛並みをしている。額から鼻に掛けてには白い毛の筋が走っていて、躯からは覇気が感じられた。馬には疎い香雲でも特に優れた馬なのだと察せられる。

「タルガン……漢語で、霆だ」

 霆の名を与えられた馬は誇らしげに嘶いた。アセナに引かれて、馬はゆっくりと香雲の前に立つ。堂々とした体躯に圧倒される。既に馬具を身につけたタルガンは大人しいが、今にも千里を駆けていきそうな力を秘めている。少しだけ、怖かった。

「……私も乗るの?」

 アセナの意図を察して、香雲はおずおずと訊いた。乗馬の経験はない。こんな大きなものに乗って、もし落ちたらどうなってしまうだろう。尻込みする香雲に、アセナは笑いかけた。

「わたしも一緒だ。じっとしていれば良い」

 そのまま有無を言わせず、アセナは香雲を促し、身体を持ち上げ、タルガンに跨がらせた。

 香雲を抱えるような形で、アセナもタルガンに乗る。馬の身体を触るのも躊躇われて、香雲は膝上で両手を握りしめた。タルガンの僅かな動きが鞍から伝わってきて、振り落とされないか不安になる。

「かるく手綱をにぎってほしい。あとは、私が」

 言われたままにすると、アセナも後ろから力強く手綱を取った。タルガンがゆっくりと厩を出て、燕京の道を歩いて行く。

「あなたにはお世話になってばかりだわ……」

 借りを返す術も思い浮かばず、香雲は呟く。

 タルガンとアセナからは汗と獣と鉄と革――戦の臭いがした。アセナが兵士で、すでに戦地で命のやり取りをしていることを香雲は改めて実感した。アセナは腰の左側には弓と矢筒、右側には剣を提げている。どちらも、戦で使われているのだろう。

 宋を侵掠した金の兵は恐ろしかった。彼らはどれほど血に塗れ、恐怖と憎悪を浴びようと意に介さずに殺して奪った。アセナの格好は彼らと同じなのに、恐ろしさが薄いのは何故だろうか。

「香雲。どうか、前を」

 俯いていた香雲は、アセナに促されて顔をあげる。

 燕京の外には、遙かなる草原が目の前に広がっていた。

 風が吹き、戦の臭いが青い草木の香りに散らされていく。

 燕京に連行される時、外の景色は見ていたはずだった。しかし虜囚を詰めこんだ荷車からの景色と馬上からの景色では比べものにならなかった。

 冴え渡った空と広々とした草原は燕京より美しかった。草原に人の手による物はほとんど見当たらない。うっすらと見える道や建物は草原の碧に圧倒され、埋もれかけている。

 アセナが鋭く声を上げると、タルガンは歩みを早めた。香雲は手綱をさらに強く握ったが、同時に心を浮き立たせていた。

 タルガンは迅い。あらゆる憂悶を置いてけぼりにするかのように。

「遠見は良いものだろう。馬術をまなぶのにも役立つ」

「そういうことになっているのね、このお散歩は」

 遠見――つまりは燕京に敵が近付いていないか、見回るためにアセナは都から繰り出したことになっているらしい。宋が滅んだ今、金に侵攻するものなどいないのだが。

「ふふ……散歩ではなく、遠見だ」

 アセナはしばらくタルガンを走らせ、それから数里ほど先にある丘の上を目指した。つかのま、香雲は碧い景色と香りを満喫する。馬上に慣れてくると感じるものすべてがますます鮮やかになり、香雲はようやく童らしい歓声をあげる。

 丘の上に着くと、アセナは手慣れた様子でタルガンから降り立ち、香雲が降りるのを助ける。そのまま彼女は草にどっかりと座り込み、隣に香雲を招いた。

「ここからの眺めが、わたしはすきなんだ」

 眼前には彼方まで広がる草原があった。馬上よりも解放感があり、香雲は夢中になって草原を見つめる。

「すごい……!」

「だろう!」

 香雲の漏らした感想に、アセナはあどけなく笑った。

「きみに謝りたかった。洗衣院の者が金人を好いているわけがないのに……」

 アセナの言葉で香雲は彼女を見つめた。

「わたしにはつぐないに渡せるものもないが……せめて、この景色をきみに贈りたい」

「あなたは私を心配していただけでしょう? 無礼なことをしたのは、私の方だわ。ごめんなさい、アセナ」

 香雲に謝られてしまって、アセナは困惑したように目を泳がせていたが、やがてアセナと共に再び草原を眺めはじめた。

「さっきはあの道を走っていたんだ。タルガンはいい馬だからな、どんなところにもすぐ辿りつく」

 二人がタルガンに目を向けると、彼は暢気に草を食んでいた。視線を感じたのか、彼はまだまだ行けると言いたげに嘶いた。

「タルガンは、かしこい。これできみのことも覚えたぞ」

 いきいきとした語り口から香雲はアセナが本当にタルガンを愛しているのだと理解する。乗馬など野蛮人の役割だと蔑んでいた宮殿の者達にアセナのような者はいなかった。

「あなたは金の貴族でありながら自由ね……」

 香雲の漏らした呟きにアセナは軽く笑い、俯いた。

「この身は檻の獣。いくら吠えようとも金を変えられないよ。隅に追いやられた輩を助けられず、院におしこめられた宋人を救うこともできない」

 香雲にとっては、アセナが洗衣院を憂えているだけでも充分だった。けれどアセナはそれだけでは足りないようで、遠く聳えている燕京の宮殿に手を伸ばした。

「だけどわたしは、今のありさまを仕方ないと受け入れたくないんだ。わたしと同じ、寄る辺なき者達と武功を立て、父上に認めていただきたい。先の戦でも……」

 アセナはそこではっとして言葉を切った。先の戦とは金が宋を滅ぼし、香雲の命運が暗転した惨戦のことだ。

 香雲はすべてを忘れられずにいる。

 慟哭、煙の臭い、甲冑の音、自分を掴んだ兵士の力の強さ。

 それでも香雲は草原から目を離さないまま、返事をする。

「宋もまた、あなたの同胞を大勢殺したわ。そのことであなたを責めたくない……」

 金人は多くの同胞を手にかけた仇である。しかし香雲はアセナを恐れ憎むことができなかった。

 時のうねりに飲み込まれ、わけもわからぬまま果てしなく殺し合う。戦とはそのようなものだ。いくら戦を嫌っても人はそこから逃れられない。

 何より宋の民を害したというなら皇帝の方がよほど酷いだろう。苛政は虎よりも恐ろしい。ゆえにこそ忠珠も躊躇いなく皇帝である自分を痛めつけているのだ

「戦なくして望みを叶えられないのなら……あなたは戦うべきよ」

「……そうか」

 香雲にとってアセナの在り方は美しかった。異貌の女として生まれながら、彼女は望みのために力を尽くしている。馬術も身体も鍛錬によって磨いたものだ。

 香雲は自らの生まれと役割を恨みながら、何もできずにいた。その無力を受け入れていたように思う。彼女の側にいると自分も何かをせずにはいられなくなる。それがなんなのか、まだ分からないのだけれど。

「ねえ、あなたの唄をもう一度聞かせてくれない?」

 話題を変えたい気持ちも手伝って、香雲はアセナにお願いしてみる。あの夜、彼女が諳んじていたのは不思議な言葉だった。意味は分からなかったが優しげな音律は今も心に残っている。

「あれか。そ……そんな気になるか?」

「ふふ、恥ずかしいの?」

 アセナが取り乱すのを見て、香雲は少し強気に迫ってみる。堂々とした武人が唄の話だけでくすぐったそうにするのが面白かった。

「あの唄は……わたしの母上がうたっていたんだ」

 童女の声でアセナは言った。そのまま彼女は軽く息を吸い込んで、唄う。

 目を閉じて、香雲は景色と別れを告げる。

 子守唄――香雲は直感した。

 改めて聴いてみるとアセナの唄はゆったりした音律と優しい声音の、赤子へと贈るものだった。アセナはいつまでこの歌を聴いていたのだろう。この唄が想い出だというのなら、きっとアセナは幼い時分に母と別れている。父には無視され、母も失ったかつてのアセナのことを、香雲は想う。

 唄い終えたアセナは恥ずかしそうに身を縮めて、香雲に想い出を語った。

「今思えば、父上からの愛も醒めていたのだろう。狭い部屋で母上は、ほとんどひとりきりでわたしを育てていた。わたしともうまく話せなかったが……金からずっと西の国から来たと言っていたのは、十八の今でも、よく覚えているよ」

 香雲は何も言わずにアセナの話に聞き入っていた。

「ありがとう。素敵な唄だったわ」

「本当か? うん、きみがそういうなら……よかった」

 はにかむアセナを見て、香雲は心が浮き立つのを感じた。

「変わった歌詞だけど、どこの国の唄なの?」

「……分からないんだ。母上は西国からから遼の貢ぎ物とされ、それから遼に攻め入った父上に攫われたという。言葉が分かる者はいなかったそうだ……」

 貢ぎ物として異国に送られ、そこでまた掠奪される。アセナの母親と自らの境遇が重なり、香雲は表情を曇らせた。

「さいごも寂しいものだったよ。病の始めに一度だけ薬を与えられて……結局、父上はあらわれなかった」

 言葉も話せない異郷で、彼女が愛したのは娘のアセナだけだったのだろう。今も娘の記憶に焼き付いているほどに、繰り返し故郷の唄を聴かせていた彼女のことを、香雲は胸中で悼んだ。

「ねえアセナ。あなたのお母様と唄のことだけど、私に調べさせてもらえない?」

 そして、香雲は決意を秘めてアセナに申し出る。

 囚われの身でもアセナのために出来ることを香雲は思いついていた。

 唄の歌詞はしっかりと心に刻んだ。この程度でこれまでの恩を返せはしないだろうけれど、少しでもアセナに喜んでほしい――そんな気持ちになるのは初めてだった。

「帰ったら、院のみんなにも聞いてみる。院には博識な人も大勢囚われているの。もしかしたら、歌の意味やどこで唄われていたのかも調べられるかも……」

 今の境遇でどれだけ助けが得られるだろう。それでもアセナは床に頭を打ち付けてでも周囲に頼んでみようと思っていた。

 アセナは身を乗り出していた。

「おぉ……! ぜひたのみたい!」

「できる限りのことはするから」

「それならばもっと母上のことを話そうか。どうかきいてくれ、香雲」

 嬉しそうなアセナを見て、香雲も微笑む。夕暮れになるまで二人は様々なことを語り合った。話すのは専らアセナだったが、香雲は話の一つ一つを味わった。アセナの側に居ると、無為に過してきた自らの過去までも満たされていくような気がした。


×××


 男の部屋は宋の様式を細部まで真似た造りになっている。机の反対側の壁には『桃鳩図』が飾られていた。男はいつも机からそれを眺めて癒やしを得ていた。宋からの戦利品である絵画と陶器は他にも飾られている。どれも美しく華々しいが、桃鳩図には及ばない。男にとって、この絵は安らぎそのものだった。花で彩られた桃の枝の上にそっと止まっている鳩は静かで、澄んでいて、柔らかだった。ただの絵が現実を超えることもあると、男は宋から学んでいた。

 宋人は愚かだ。惰弱で、先を見通せず、容易く仲間を裏切る。しかし彼らの芸術だけは美しい。その画材や技法もまた、戦や政を怠って磨き上げたものであろうが、美しさには関係ない。そしてこれからは金が宋を超える美を生み出せる絵師や陶工を生み出さねばならない。当然、皇帝の血筋以外の者にその才を見いだす必要はあるが。

 金が泰平の世を迎えた暁には、画塾を作るのが男の密かな夢だった。その夢のためにも、彼は己の役割に徹し、金の安定を急ぐ。今取りかかっている文書も父帝に献じるためのものだ。

「マダグ様、お目通り願います」

 木戸の外より声がかかり、男――マダグは手を止めた。木戸の格子から見えるのは忠珠の姿だった。左右では衛兵が睨みをきかせているせいか、少々青ざめている。忠珠には院の管理の役割を与え、大半のことは彼女の裁量に任せてある。不敬を覚悟でわざわざ尋ねてきたらしい。

「許す」

 マダグの声で衛兵が木戸を引いた。硬い動きで忠珠が部屋に入ってきて、床に拝跪する。目通りのため、彼女は普段と違ってきちんと着物を纏っていた。

「院のことでお伝えしたいことがございます」

「手短に申せ」

「ぎょ、御意に!」

 マダグは流暢な漢語で返事する。

 宋の政や思想を学ぶため、彼は早くから学問に励んでいた。高度な知識や芸術に触れ、若き日のマダグは宋に憧れていた。そして交易や戦を通じて宋の実態を知った時、彼の心には宋人への失望と侮蔑が強く刻まれることとなった。

「奇妙な兵士が院に押し入り、公主を攫っていきました。他の女であればあなた様にお伝えすることもないのですが……なにせ、あれは金への貢物ですので」

「兵とは、どのような者だ」

 宋の皇族、趙香雲の血を下らぬ者に汚されたとなれば、大問題だ。マダグの声に険が混ざり、忠珠は平伏したまま震えた。お詫びの意を示そうと床に頭を打ち付けた。

 宋の公主、香雲を手出し無用としたのは他ならぬマダグだった。既に宋は亡国だが、完顔一族が宋の皇統を継いだと内外に示すために、宋の皇族の血は利用できる。既に他の公主はマダグの兄弟に嫁いでいる。ただし、外交や戦後処理のために駆けずり回っていたマダグは労務の邪魔だからと嫁を取っていなかった。マダグには武の心得もあったが、彼は戦以上に政を重んじていた。国を興すのは剣が必要だが、国を保つには筆が必要となる。女真族の小部族の長にすぎなかった一族の血を天の高みにまで押し上げることこそが己の役割だと、マダグは信じていた。

「焼け焦げたような肌でアシナだか、アセナだか、そのように名乗っておりました……! ええ、わたくしはもちろん止めたのですが、ええ、話があると言い張りまして無理矢理に……!」

 誰が香雲を攫ったのか気づき、マダグはため息を吐いた。

「その者は我の妹だ」

「妹君だったのですか!」

 忠珠の驚愕をマダグは意に介さなかった。

「もうよい、この件は捨て置け」

「お許しいただけるので! 私はあなた様のためなら何でもいたしますよ、ええ、なんでも。前より酷くたってかまいませんから……!」

 忠珠は今にも着物をはだけそうだった。不快感にマダグは声を大きくした。

「話は終わりだ。疾く失せよ」

 忠珠の金切り声は聞くに堪えなかった。何より、忠珠が邪魔で桃鳩図が見えなくなっている。あの絵画はこんな者が遮って良いものではない。

「御意に、御意にぃ!」

 忠珠を追い払い、マダグは机を指で叩く。苛立つとついやってしまう、彼の癖だった。

「虚けが……何を考えている……」

 アセナは厄介者であった。異国の血によって、およそ金人とは言えぬ外見の妹に、父帝も頭を悩ませていた。父帝ウキマイから、その一族への権力の世襲に、部族長の寄り合いは難色を示している。世襲は有力者が女真を率いるという伝統に背くというのだ。そうした声を封殺することに力を注ぐ中で生まれたアセナは、明らかに金人ではなかった。

「父上が甘すぎたばかりに……!」

 はばかりながらもマダグは皇帝への不満を呟く。

 生まれた瞬間に殺してしまえば、面倒はなかった。しかしウキマイは我が子を手にかけず、かといって皇族として受け入れもしなかった。異貌のアセナを皇族と認めれば守旧派の反発はますます強まると考えたからだ。

 結果、アセナは役割が定まっていないまま、女の身でありながら勝手に勢力を作っている。一族に認められたどうかなど関係なく、高貴な血筋であることは信奉を集めるのに役立つのである。

「目障りな女よ……」

 アセナはいずれ国の害となる。マダグは度々訴えていたが、耳を貸す者はいなかった。兵隊の真似事をしているだけの女に何ができるのだと兄達は笑う。確かに彼女は皇族でありながら、雑兵同然の地位に甘んじている小魚だ。率いるものも十騎にすぎず、雑兵同然の立場にすぎない。しかし、帝の手元から浮いている皇族は、完顔を敵視する一派にとって素晴らしい手駒となる。アセナを担ぎ、女真族の伝統を守るという名目で帝に弓を引く手合いが現れないとも限らない。

 思い通りにならない駒は盤から排除しなくてはならない。

「アセナを呼べ」

 命を下すと外の衛兵が慌ただしく駆けていくのが聞こえた。

 それから、マダグは長々と待たされる。

 結局、アセナが洗衣院の執務室を訪れたのは日が沈んでからだった。

 召し出されたアセナをマダグは睥睨する。

 この時間まで遠見していたというが、それは趙香雲を連れ出してやることではない。召集のためにアセナの帰りをずっと待っていた衛兵の報告を聞いて、マダグは早くも机を指で叩いていた。

「宋の公主と何をしていた」

 アセナは兄に平伏せず、また宋の美術品にも目もくれず、真っ直ぐにマダグを見据えていた。

「話をしただけだ、兄上」

「軽々に院を荒らすようなことは控えよ。他の者に示しが付かぬ」

 やはりアセナの存在は忌々しい。ウキマイは曖昧な態度を取り、一部の民衆はアセナを皇族と仰いでいる。アセナ自身が金に忠誠を誓っていることも厄介だ。こうなってしまうと、力尽くで除けば国家の動揺を招く。国家に忠実で支持を集めている皇族を故なく廃したとなれば、兄弟の中から疑心により反乱に走る者も現われかねない。

「院の女は婢なのだ。お前が気にかけてよい相手ではない」

 院の設立はマダグが皇帝に献策したものだ。

 古今より征服した王朝の婦女を娶り、血を塗り潰すのはありふれたことである。しかしマダグはそこからさらに踏み出して、野蛮のそしりを受けようと宋の女を娼妓に貶めた。宋人が金人以下の存在だと双方の民族に知らしめるのがその目的だった。数で考えれば、宋人は金人よりも遙かに多い。少数が多数を支配するためには、畏怖が必要である。宋人と金人、どちらが上か、示す必要があった。そうした考えや計画をアセナは理解しようとしない。蹂躙するのであればまだしも、戻ってきた公主の様子からして本当に話をしただけらしい。この虚けは何を考えているのか。

「院にて男のまねごとでもしたかったのか。であれば、押し入るような真似は慎め」

「承知した」

 アセナの返事は空々しいものだった。話している間、マダグはずっと机を指で叩いていた。

「もうよい、行け」

 羽虫にするように手で払うと、アセナは黙ったまま部屋を後にした。

 金の秩序に、彼女の放埒さは不要である。マダグは改めてその思いを強くした。

 絵の中の鳩だけが静かな目つきで彼を見つめていた。


×××


「……それゆえ、今日はきみを買うことになった。望まぬことだろうが、ゆるしてほしい」

 院に押し入ったことを注意されたので、法に則ったやり方で香雲の時間を買い取った――その経緯を包み隠さず伝えられて、香雲はアセナを案じる。目立つことをすればその身が危ういのはアセナとて同じことだ。

「そんなことして大丈夫なの」

「心配するな。兄上はうるさいのだ」

 婢として香雲に任せられたのは訓練の手伝いだった。アセナの兵は燕京のほど近くの野外で弓の技を磨いている。地面に杭を突き立てただけの的に、兵達が一人ずつ矢を射る。それを見てアセナが評価を下す――在りし日に宮殿で展覧した訓練より、ずっと素朴だった。矢の用意や食事の支度が香雲の仕事だった。厳しい監視がないおかげで、院で働くよりも気が楽だ。

「せっかくだ、きみも見ていけ!」

 食事の支度の途中でアセナから声を掛けられ、香雲はそれに従った。休憩など院ではあり得ない。

「……そまつなものだろう」

 兵の射撃を見守りながら、アセナは香雲に喋りかけた。彼女の言うとおり、アセナの兵士が放つ矢は的から大きく外れたり、的の根元に辛うじて突き刺さったりするばかりだった。

「……思ったより難しいのね、弓矢って……」

 慎重に言葉を選んで香雲は返事した。話している間にも矢が射られ、また的を外す。兵士も気まずそうにアセナへ視線を送っていた。

「からだの弱い者や武芸を学んでこなかったものが多い。むかしは、弦さえ引けなかったのだ」

 やがて炎に順番が回ってくる。体型に合わせたのか、彼女は小さな弓を持っている。的の前に立った炎はゆっくりと矢を番え、弦を引き、見事に的を撃ち抜いた。周囲からも歓声が上がり、彼女へ教えを乞いに行く。

「見事だ!」

 アセナの声に、炎は得意げに手を上げた。

「む……炎の覚えは早かったのだがな」

「きっと、みんなすぐに上達にするんじゃないかしら」

 宋は弱兵ばかりだと言われていたが、流石にこれほどではない。しかし士気に関してはアセナ達が勝っている。兵士は誰もが手を休めることなく、周囲と相談し、学ぼうとしている。きっと自分と同じように誰もがアセナの役に立ちたいのだ。

「アセナ殿、一つ手本を見せてやってくだされぃ!」

 先程から兵士の後ろで訓練を見守っていた九狗がアセナに手を振った。

「教えるのは……にがてだ」

 アセナはしばらく考えこんでいたが、やがて意を決したように九狗の元へ歩いていく。香雲も彼女についていって、その後ろに立つ。

 アセナが射ると決まった途端、空気が華やいだ。炎がいそいそと弓と矢筒をアセナに差しだす。直立して整列した兵士に、アセナは手振りで座るよう命じる。まるで、評判の演劇に来た観客のようだった。

「殿の弓を見るのは初めてかな?」

「ええ、素晴らしい腕前のようね」

 隣に来た九狗も笑みを浮かべていた。

「素晴らしいなどでは収まらぬ! ただ……その技を学ぼうとは思えんのが玉に瑕よな」

 アセナが的の前に立つ。他の兵士より、三十歩は後ろだ。空気が引き締まったように香雲は感じた。彼女の背中には風格があり、自然と姿勢を正したくなる。

 アセナが弓を引いた。

 放たれた矢が空を裂く。

「うわ……!」

 高い音を立てて、的の一番上に矢が刺さる。香雲が驚いている間にアセナは次の矢をつがえていた。再び音が鳴り、今度は一本目の真下に矢が刺さる。だん、だん、だん、と矢が的に背骨を作る。

 そして最後の一射で杭は縦に裂け、傾いてしまう。

 アセナが空に弓を掲げると大きな歓声が上がった。香雲も周囲に混ざって声を上げていた。

 いつの間に集まったのか、燕京の職人や他の兵士もアセナを囲み、その絶技を見物していた。九狗のいうことがよく分かる。アセナの弓は太陽さえ射落としそうだ。見物人のなかで炎が真っ先に近寄り、アセナに喋りかけている。その腕前を褒めそやしているのだと、見ているだけで分かる。

「狩人として生きてきた女真で、弓の腕はそのまま武将の価値……誰が殿の将器を疑えようか!」

 九狗と同じぐらい、香雲も心も沸き立っていた。彼が宋人でありながら彼女に仕えているのが、理解できる。あれこそが将としての器量なのだろう。それゆえに、香雲はアセナのことが遠く感じられた。


×××


 夕暮れまでの訓練を終えた後、香雲達は一つの火を囲んで食事を摂っていた。たき火に掛けられた大きな鉄器で粥を作り、皆で同じものを食べる。外は冷えるから、自然と輪は小さくなる。初めて兵舎に連れてこられた時にも感じたが、宋の軍ではありえない光景だろう。身分の区別なく誰もが混ざり合って腹を満たすなんて、規律が緩んでしまう。

「хаситамэ варэранотамэни хатаракэ」

 粥を味わっていると、香雲は炎に肩を押された。居丈高な態度から、おおよそ考えていることは分かる。婢でありながら、働きもせずになにをしているのかと言いたいに違いない。

「儂らのために働けと言っておるな」

 近くに座っていた九狗が通訳してくれる。やはり、思った通りだ。炎に敵意を向けられる理由が香雲にはよく分からなかった。

「ёсэ соннакото асэнадоноха нодзоманудэароу」

「амасугиру дарэмокарэмо!」

 九狗の返答に炎は憤慨し、苛々と去っていった。どうやらアセナの名前が出されたらしい。当のアセナは若い男の兵士と話しこんでいた。その身振りから、弓のことを教えているようだった。若い男の顔は青白く、頬はこけていて、いかにも病弱そうに見えた。熱心な指導を受けているのが、少しだけ、あくまでも少しだけ羨ましかった。

「あの者は病弱ゆえ、兵として認められなかった……そこをアセナ殿に拾われたのよ。ここにはそうした者ばかりが集まっておる。儂も同じよ」

 器を片手に九狗が香雲の隣に腰掛ける。彼もアセナに手ほどきを受けたのだろうか、弓の腕前は中々のものだった。

「あなたは宋人のようだけど、何故ここに?」

 以前からの疑問をアセナはぶつける。アセナの兵の中で宋人は彼だけだった。

「先の戦で宋の兵士として戦い、虜(とりこ)となってな。そこをアセナ殿に助けられた。儂は女真語も漢語も話せたゆえ、宋の言葉を教えてくれと。儂のような人間に礼を尽くして、頼まれてのう」

「あなたがアセナの師……」

「よしてくだされ、師など面はゆいわ!」

 神妙な顔をした香雲に九狗は首を振り、粥を掻き込んだ。

「儂は海辺で生まれてな……。賎民ゆえ、周りにこき使われて、どうにか生かせてもらっているような有様よ。言葉も交易に来た金人に芸を見せて小銭を稼いでいるうちに、気づけば身についておった。宋の兵になっても、周りは小男の儂を蔑んでなぁ……」

 しみじみと語りながら、九狗はアセナを見つめた。まるで太陽を見つめているような、眩しそうな目つきだった。

「あのお方は光よ。儂はアセナ殿がいれば、何も恐れぬ」

 アセナを囲む兵士達も九狗と同じ気持ちなのであろう。誰もがアセナに希望を見出している。香雲もその一人だ。一方で彼女はうっすらとした不安を捨てきれずにいた。半端な賢しさが却って香雲にとって毒となる。

――果たしてアセナは自分達を引き上げることができるのだろうか。

 金の為政者の考えなど知るよしもないが、アセナ達を苦々しく感じているのは想像できた。宋が滅んでもこの乱世で戦は続くだろう。しかし太平の世が訪れた時、アセナ達は救われるだろうか。狡兎死して走狗烹らるという言葉がある。金の為政者がアセナを猟犬としか思っていなかったのならば、彼女とその部下は――

「香雲! 九狗! なんの話をしているんだ?」

 アセナが近付いてきたことで、香雲は不穏な想像を打ち切った。どうにか笑みを作り、アセナに手を振る。彼女はこの場の全員と話をするつもりのようだった。

「つまらぬ身の上話をしておったのです。なぁ香雲、このような世でも望むように生きたいものよなぁ?」

「そうね……本当に……」

 九狗の望みはアセナという光に照らされていることなのだろう。その先に救いがあると香雲は信じたかった。

「では酒でも呑みにいくかのう! 殿はいかがか?」

「やめておこう、わたしまで潰れたら、誰がきみたちに活を入れるんだ?」

「おっしゃる通りで!」

 笑いながら九狗は立ち上がり、それから思い直したように香雲に耳打ちした。

「殿はおぬしを気に入っておる。よい気晴らしになってくれ」

 他人の目にもアセナが香雲を気にかけているのは明らかであるらしかった。同じ女だからなのか、洗衣院の虜囚という立場が、アセナにはよほど気掛かりなのだろう。

 九狗が空けた場所にアセナは腰掛ける。酒は控えると言っていたが、彼女からはうっすらと酒の臭いがした。

「今日の働き、感謝する。それから……唄について、なにかわかっただろうか?」

 母親の唄について知るのをずっと楽しみにしていたようで、アセナは神妙な顔で返事を待っていた。その期待に応えて、香雲はわざと焦らすように結果を伝える。

「何人かに話をしてみたわ。そしたらね、ある人が……」

「どうだったんだ?」

「意味はよく分からないけれど、聞き覚えのある言葉ですって! 手がかりがあるかも!」

 ほとんどの娼妓は忠珠を恐れて香雲を助けようとしない。それでも話を聞いてくれる娼妓は存在した。昔の香雲はどうせ無駄に終わるからと人を避けていた。しかし行動してみれば、それが思い込みにすぎなかったのだと分かった。動き出せたのはアセナのおかげだった。

 アセナは口を開けて笑った。やはり酒臭くて香雲まで酔ってしまいそうだった。

「そうかっ!」

「もう少し待っていて。きっと良い報せをもってくるから」

 アセナは何度も頷き、惜しむようにたき火の向こう側を眺めた。そちら側では兵士達が酒を呑んで笑いあっている。その輪には九狗も混ざっていた。彼を蔑むものなど一人としていない。

「呑めばいいのに」

「いや、粗相はできない。もうすぐ、父上にまみえる機会がある。引きしめなくては!」

「へぇ……?」

「夏になると祭りだ。その儀式の一つに、射柳というのがあってな。弓の腕前をきそい、優れたものは将として取り立てられ……さらには皇帝との目通りも許される」

 アセナの考えを理解した香雲は大きく頷いた。射柳がどういうものにせよ、弓を競うのなら彼女に勝てる者がいるとは思えない。あれほどの射手は宋にもいなかった。

 アセナも自信があるようで、彼女は楽しげに両手を広げた。

「きみと、外の景色を見たけれど、わたしは今の景色も大好きだ」

 香雲は再びアセナと同じ景色を見つめた。ここではたき火に照らされて、誰もが満ち足りている。輪から外れた者はいない。ささやかだが確かな泰平の光景。

「古き女真は貴賎の別なく、たき火を囲み、同じ粥を啜り酒を呑んでいた……身分が隔てられたのは父上が帝となってから……」

 香雲はアセナに寄り添った。使い込まれた上衣はざらついていたが、絹よりも心地よかった。

 香雲は願う。アセナの夢が汚されず、金の宮殿へと届くことを。そしていつか、走り終えて一休みするアセナに子守唄を唄いたかった。


×××


「アセナ、あんたはここで終わるべき人間じゃない」

「またその話か、炎」

 アセナはため息を吐いた。夜になって急に呼び出してきたかと思ったら、これだ。炎はどうしても諦めてくれない。

 アセナの態度はこの話題を拒んでいたが、炎は怯まなかった。

「あんたの武芸を見る度に、あんたの器を感じる度に、己は我慢ならなくなる。あんたは英雄となるべきだ」

 炎は生まれ育った部族で男に攫われ、童女でありながら嫁とさせられた。攫うと言っても、実際は娘の両親と交渉し、持参金を手渡して許可を得るのが慣習だ。しかし炎は両親が初対面の男に自分をあっさりと売り渡したことに絶望していた。

 女とはそういう役割だからと自らを納得させていた時に、軍には弓馬に優れた女の武人がいると聞いた衝撃を、炎は今でも忘れられない。その武人は部下を率いて、十里は離れた都に駐屯しているという噂だけを頼りに、炎は着の身着のまま部族から飛び出し、そして奇跡的に武人――アセナに仕えることを許されていた。

 あれから二年、炎にとってアセナはずっと英雄だった。

「金ではなく私に従うと君は言ったな。私が金に取り立てられて構わないのか」

おれの気持ちなんて、些細なことだ! あんたはもっと出世しなければならない。こんな虫けらの巣に留まってはならない。その武芸に惚れ込んでいる兵は大勢いる。あんたの兄君に従えば、すぐにでも大軍を任せられるだろう。このような虫の群れではない、本物の軍だ」

 アセナの理想に炎は共鳴した。しかし弱者を引き上げるための戦いに感じていた充足はほどなく焦燥に変わった。アセナが幾ら功を挙げても、国はなんら応えなかった。アセナがいかに声を上げても、宮殿の連中にとって、それは虫の鳴き声にすぎないのだ。アセナの才覚が無為に費やされていると、炎は焦っていた。

「私はここを……君たちを虫などと思ったことはないよ」

「あんたは己たちを守ろうとしているが、あんたが地位を得れば、もっと大勢を救えるぞ。それが分からないのか」

 炎の望みはアセナの行く末を見届けることだった。彼女が国の高みに昇れば、自分のような人間だって救われるはずだから。

「その大勢の中には……女も異民族も病み人もいないよ。金が求めているのは女真ならざる者を押さえつける力だ。私はこの焦げた肌の女を裏切りたくはない。君達と共に武勲を挙げ、父帝に私と君達を認めさせる……その夢に、力を貸してくれないか」

 アセナの決意が固いことなんて、分かっていた。それでも、あえて諫言するこの忠誠をなぜ理解しないのだろう。炎はアセナに切り捨てられても構わなかった。きっと他の者もアセナのためならば命を擲つだろう。忠を尽くした先に主の栄光があると信じているから。

「ならばせめて……院の女と親しくするのだけは、やめてくれ。院はマダグが目を光らす魔窟……あの毒蛇に睨まれるような行いは……」

 炎は燕京に漂う不穏な気配を感じ取っていた。宋を滅ぼしたことで、金は最大の勢力となった。周辺の小国も表立って金に逆らいはしないだろう。外の敵を平らげた国が次にすることは、身中の虫を潰すことである。アセナには、役割が与えられなくてはならない。宋の公主と親しくするなど、災いの種でしかない。

「君が心配するのも当然だろう。だが兄上の性格は分かっている。うまくやるよ」

 会わぬと言わないのだな――アセナへの想いに炎はひびが入るのを感じ、ひどくうろたえた。炎にはアセナしかいなかった。彼女を拠り所とできなくなれば、後悔だけが残される。炎はアセナをもう一度見つめ、それから黙ったまま兵舎に戻る。アセナはじっと、その場に立ち竦んでいた。


×××


 物置の床は冷たい。温もりのある場所など、香雲には与えられない。彼女はそこに横たわり、心ある娼妓によって、手当を受けていた。切れた尻に、磨り潰した薬草を塗りこまれていた。

「公主、痛みませんでしょうか」

 香雲は黙ったまま頷いた。あれほどの折檻は久々だった。深い傷ではないが、火傷のような痛みが心を押しつぶそうとしてくる。アセナに邪魔された鬱憤を晴らしたかったのだろう、忠珠は苛烈だった。何個も鈴を押し込まれたせいで、ついに裂けてしまった。薬草が染みて、香雲は呻いた。これが娼妓になるための手ほどきというなら、忠珠達もこのような屈辱を夜ごとに味わっているのだろう。院では夜更けになると、時折女の悲鳴が聞こえてくる。忠珠が苦しんでいる様を想像すると気が紛れた。

「その……以前、お尋ねになられた歌のことなのですが」

「思い出したの? 妙蘭ミャオラン

 身を起こそうとして、香雲はまた痛みに身を縮めた。妙蘭は香雲の貴重な相談相手だった。アセナに話した『ある人』とは彼女のことだった。院において人の心を失わないものは希有だ。忠珠の乱行を止められずとも、陰から支えてくれるだけで香雲の心は救われていた。こうして血の滲んだ尻に触られていても、妙蘭が相手なら何の屈辱もなかった。

「回忽の言葉に音が似ていると感じます。アセナとかいう女……肌が焦げているのでございましょう? 彼の地の者も肌が黒く、またさらに西方から住み着いた者は漢族とはまったく異なる顔をしているのです。アセナの母親も、西方より流れてきたのではないかと」

 妙蘭の夫は珍しいものを好み、旅の芸人や異国の学者をよく招いていた。彼女の知識もそこから来ているのだろう。その夫は北方へと連行される最中、退屈した金の兵に芸を迫られ、拒んだことで殺されてしまったが。

「妙蘭……! 本当にありがとう」

「公主に感謝されるとは、身に余る光栄でございます」

 妙蘭はわざわざ、香雲の前に回りこんで平伏した。香雲は困ってしまう。これまでにいくら言っても彼女は態度を崩さない。忠珠は極端にしても、もはや宋国は破れ、香雲は小娘でしかないというのに。

「お手当も終わっております。しばらくすれば痛みも引くことでしょう……香雲の御身も、慣れてきておりますから」

「そう……」

「ああ、お労しや……。不忠者に責められるだけでなく……わけの分からぬ北狄の機嫌を取らねばならぬとは。公主、どうか心を強くお持ちください」

 香雲は何かを言おうとして、しかし黙りこんだ。院の女にとって金人は支配者だ。好意なんてあるはずもない。香雲は金人の気まぐれで外に連れ出され、帰ってきてからも相手の機嫌を損ねまいと必死で媚びる方法を考えている――洗衣院の者からはそのように見えているらしい。

「そうね、妙蘭」

 静かに返事しつつ、香雲はアセナのことを想う。

 出会ったのは偶然だった。

 死のうとして、アセナの唄を聞き、そして彼女に引き戻された。

 あれからずっと、香雲はアセナに焦がれている。

 出会いが続いているのは必然だった。

 アセナは優しすぎる。誰にでも分け隔てなく接し、世話を焼こうとする。偶然の縁であっても彼女は大切にしてしまう。

 アセナにとって自分は大勢の仲間の一人にすぎない。だけど、もしも唄の由来を共に知ることができれば――香雲はアセナへの執着に気づき、戸惑う。自分を顧みなかった父にさえ、これほど強く認められたいとは感じなかった。彼女の感謝は、何にも代えがたい宝になる。それが欲しくてたまらない。あの日まではすべて手に入るがゆえに、あの日からはすべて奪われているがゆえに、この瞬間まで香雲は何かに執着してなかった。

「ですが、塗炭の日々もいずれ終わります。宋が我々を迎えに来ることでしょう」

「そんなこと……」

 妙蘭のなぐさめはあまりに虚しかった。帰りたいと泣きわめく童に語るような話だ。滅ぼされた国にどうして迎えが寄越せるだろう。

「公主、これは空言ではございませぬ。金の将が語っておりました、南に逃れた宋の皇子が新たな国を興したと」

 尻の痛みも忘れて、香雲は飛び起きた。

 妙蘭は辺りを憚りつつ、そっと香雲の耳に口を寄せた。

「くれぐれも、漏らさぬよう。金の将兵は我々が言葉を知らぬと思いこみ、様々なことを平気で話しております。ですが私には少しだけ分かるのです。夫が金人も屋敷に招いておりましたから……」

 金人の中には集団で院を訪れ、女と遊びつつ仲間と歓談する手合いもいる。相手を言葉も分からぬ娼妓と侮っていれば、口も軽くなることだろう。

 妙蘭はもう一度、物置の戸を見つめた。急に忠珠や金人が踏み込んでくると言わんばかりに。

「南の都はまだ持ちこたえていると彼らは言っておりました。北狄共に、南の風土は辛いでしょう。いずれ……和平となるのではないかと……」

 宋の国土は広かった。首都のある北部と大河を隔てた南部では気候がまったく違う。かつては香雲も南方へ御幸したものだった。

「ええ、不安でしょう。ですが私は信じております。我々は耐えなくてはなりません。いつか故郷に帰る日を思い描いて、耐えるのです」

 黙っている香雲を気遣って、妙蘭は切々と語りかける。しかし香雲の心は余所へと飛んで、彼女の話は届いていなかった。

 故郷に、帰る。

 院という地獄に身を置いてなお、帰郷に心が踊らない。宮殿での日々は憂悶に満ちていた。常に他国に脅かされ、また宮殿の外は怨嗟の声に満ちていた。ただ身分が高いだけで何もできない無力な自分が歯がゆかった。国を衰亡に導いた皇族など、戻るべきではないだろう。

 なによりそうなったら――アセナと会えなくなってしまう。

 アセナとの別れを想像して、胸が疼く。宋がまだ滅んでいないことを彼女は知っているのだろうか。自分が帰されることになったら、彼女はどう思うだろうか。

 まだ、アセナに何も伝えられていない。

 もっと、アセナの馬に乗りたい、アセナの弓を見たい。

「ああ……」

 香雲は嘆息する。

 心を他の誰かが占めることの意味を、まだ彼女は知らなかった。


×××


 どのような国でも祝祭の日は晴れがましい。

 今日は双七――七月七日だ。これまでにも女真族による催しはあったが、院の女達への扱いは変わらなかった。しかし今日に限っては、誰もが着飾ることを命じられ、監視付きながら外出まで許されていた。

「なんとまぁ……どの国でも祭となれば銭を注ぎおる」

 九狗は呆れ顔だったが、隣にいた香雲は無表情を装いながら、目前の演奏に惹きつけられていた。

 大勢の観客の前で女真族の楽隊がこの日を祝う曲を奏でる。楽器は二十五弦の琵琶や横笛、大きな太鼓などが揃えられ、かなりの規模だ。曲調こそ宋の様式を真似たものであったが、より軽やかで楽しげな音律となっている。

 今日は香雲を始め、燕京の住民のほとんどが燕京の外の草原に集められている。貴族は天幕の下で悠々としているが、香雲はもちろん下々の者は皆野ざらしであった。来賓用と思しき天幕では他国の使者に酒が振る舞われていた。周辺国から招かれたであろう賓客に混じり、焦げた色合い肌の者はいないか、香雲は密かに探していた。だがアセナに似通った肌の使者はおらず、アセナに課せられた孤独を彼女は改めて強く感じた。当のアセナは香雲の側にいない。この日のため彼女には特別な役割があるのだという。

「このような騒ぎをするぐらいなら、下々の飯や衣に使えばよかろうにな……」

 香雲の監視役に任じられたのはアセナの兵だった。九狗が言うには、皇族のアセナに恩を売ろうと根回しした将がいたのだそうだ。自分がアセナのお気に入りだと知られているのは何とも言いがたい気持ちだった。九狗を挟んだ反対側では、炎が珍しく穏やかな顔つきで演奏を眺めていた。彼女も音楽が好きなのだろうか、香雲は初めて炎を近くに感じた。

 やがて演奏が終わり、奏者達は歓声を浴びながら左右へ退散した。

 そうして前の景色が拓けると、草原の様子がよく見えた。

 柵の役目であろうか、一里先まで均等に兵が並んでいて、草原に真っ直ぐな道が作られている。道の果てには仰々しく柱が建てられている。柱には腕が付いており、そこから何かが吊り下げられているように見えた。

「よく見てなされ、射柳の始まりじゃ」

 太鼓の音と共に騎馬武者が四騎、兵に引かれてやってくる。四騎の武者はいずれも弓を携え、矢筒を下げていた。そこに、アセナの姿もあった。他の者が弁辮の男である中、ただ一人、髪を編み纏めた女は四騎の大将の如く目立っていた。

 武者と観客の前に、兵の一人が歩み出て朗々と何かを唱えはじめる。『射柳』の規則を告げているらしい。アセナとのやり取りを通じて、香雲はおぼろげながら女真語を学んでいた。

「柱に吊られた柳の細枝を射落とし、ふうわりふわりと落ちていく枝が地面に付く前に、それを手で掴み取った者が勝利する……馬術と弓術を極めなければ、為し得ぬ『試し』であろう」

 九狗の説明を聞きながら、香雲は無意識に拳を握っていた

「でもアセナなら……!」

「おう、殿であれば造作もなし。しかもなぁ、この射柳を制したものは帝に目通りが叶うとよ。きっと格別の褒美もあろう。始まる前から笑けてくるわ!」

 九狗は赤子のように屈託ない笑顔を浮かべていた。

 以前アセナの話していた『父と見える機会』のことを香雲は思い出した。アセナは誰よりもこの日を待ちわびていたに違いない。

 説明を終えた兵士が隊列に戻ると、急に草原が静まりかえる。始まりの合図を待つためだ。

 香雲も息を止めた。炎は叫びを抑えるように歯を食いしばっていて、九狗は必死に伸び上がっていた。他のアセナの兵も固唾を呑んで主を見守っていた。

 皆、勝利を信じていた。

 そして太鼓が鳴らされる。

 四騎が同時に柱へと駆ける。

 この早さであれば、狙う細枝までは瞬く間である。

 ひずめの音が僅かに遠ざかった刹那、香雲はアセナが弓を構えるのを見た。他の者より早い。確実な間合いが彼女だけ長いのだ。

 焦ったように他の三騎も弓を構えた。香雲にはそのいずれも、アセナの流麗な構えとは似ても似つかないように思えた。

 だん、と柱に矢が深く突き立つ。アセナに遅れた者達の中には、焦りすぎて落馬した者や放った矢が柱に掠りもしていない者までいた。

 やはりアセナが真っ先に騎馬から身を乗り出し、手を伸ばした。

 もう一人の武者もそれに続く。

 再び太鼓が鳴る。

 香雲は大きく息を吐いた。射柳の間、息するのを忘れていた。

「おぉ……!」

 香雲だけでなく炎や九狗も声を上げた。

 アセナが力強く左腕を掲げる。そこには細枝が握りしめられていた。彼女だけでなく、もう一人も枝を掴んでいたが、アセナの勝利は揺るがないものだと、香雲は確信していた。

 結果を見届けた兵がまた声を張り上げる。

「Сёубуари!」

 観客が静まりかえる。

 参加者達まで下馬して初めの位置まで戻り、もう一度兵の言葉を待っていた。留められた馬が困ったように嘶く。

「Сёусяхадэгунаитосуру!」

 急き立てられた兵がまた結果を叫ぶ。

 勝者はアセナではなくもう一人の武者だった。

 どよめきが波のように会場を揺らす。

 アセナが一番早かった。全員がそう思っていた。

 勝ったと言われているのに、彼はアセナと自分の枝を交互に見つめ、立ち竦んでいた。

 アセナは枝を取り落とし、それを拾いもせず、ゆっくりと馬を引いて天幕の側にある杭に馬を繋ぎに行く。

「アセナ!」

 香雲は夢中で声を上げた。アセナは、振り向かなかった。

「枝を落としたのはアセナが先じゃが、掴んだのはあの男が早かったとよ……」

 呆然と九狗が呟く。炎が足音高く群衆を掻き分け、天幕へと向かっていく。ざわめく観客が急に動きだし、香雲は引き倒されそうになる。腹でも斬られたような顔で、アセナが仲間の元にやってくる。

「わたしの……負けだ」

 アセナはため息をついて、それから俯いていた。まだ会場には勝者の男が留まり、その腕を讃えられていた。観客のいくらかはアセナに気を取られて、素晴らしい技を披露したはずの男には目もくれなかった。炎はまだ帰ってきていない。香雲が貴族達のいる天幕に目を向けると、炎が兵士に食ってかかっていた。きっと、今回の件を訴え出ているのだ。

 アセナの仲間は誰も彼女に声を掛けられず、ただ遠巻きにして、その名前を呼んでいた。

「……こうした時でも遠見はいるだろう。いってこようかと、おもう」

 ようやく顔をあげたアセナに悲嘆の色はなかった。しかし、彼女が気を取り直したなどと、誰も思わなかった。

「私も! 連れていって!」

 そんな中で、香雲は先陣を切った。アセナに駆け寄り、弓を握りしめたままの腕を取ると、その筋肉は岩のように強ばっていた。

「香雲……っ」

 アセナの態度は香雲の供を拒んでいた。それでも香雲はじっとアセナを見上げた。打ちひしがれた者には誰かがそばにいなくてはならない。あの橋の上で、アセナは望まれずとも自分の手を取った。だから、香雲も同じことがしたかった。

「下々への演し物はここまでのようじゃ、行きなされよ……アセナ殿」

 九狗に促されたアセナは目を伏せ、それから静かに香雲へ頷いた。


×××


 炎は怒っていた。あらゆるものに怒り、今にも総身が破裂しそうだった。

 どうしてアセナは無邪気に理想を追えるのか。

 どうして誰もアセナを止められないのか。

 どうして、アセナは認められないのか。

 どうして宮殿の貴族共はアセナを無視できるのか。

 どうして、どうして、どうして――

 炎は怒っていた。何に怒り、どうすればいいのか分からなかった。

 邪魔な兵士を押しのけ、炎は天幕の下で悠然と椅子に腰掛けている男に平伏した。

「どうか、どうかお聞きください!」

 無謀だと分かっていても、何かをせずにはいられなかった。不敬により斬られるとしても止まれなかった。炎は怒りに突き動かされていた。

「この大馬鹿めが! この御方はお前のような男もどきの話などに耳を傾けている暇は無い!」

 しかし、男は炎を引き起こそうとする兵を下がらせた。

「貴様のことは知っているぞ。我になんの話がある」

 マダグは眉一つ動かさず、炎を見下ろしていた。


×××


 爽やかな草原の風景は二人の心を素通りしていくばかりだった。

 沈むアセナと裏腹に陽は照りつけ、風は涼やかに吹き抜け、青々とした草を揺らす。あてのない遠乗りかと思っていたけれど、やがてタルガンは二人を小高い丘へと運び、そこで足を止めた。アセナは何も言わずに香雲を伴ってタルガンから降りる。

「……しばらく休みましょうか。誰もいないようだし」

「そう、しよう」

 アセナは黙ったまま草の上に腰掛け、香雲もその隣に落ち着く。

 アセナを気遣いながらも、香雲は丘からの景色を眺めてしまう。燕京の周囲はどこまでも草原が広がっている。すでに観客はほとんど引き上げ終わっていた。都の先は国境となるが、宋の軍団はどこにもいない。

 遠見というのは口実だと分かっている。都の周辺が穏やかだからこそ、二人で外に出られるのだ。しかし、初めてタルガンに乗せてもらった時とは状況が違う。妙蘭が語っていた宋の挙兵は事実だった。洗衣院に公的な報せは届かないが、都の兵の数は増え、夜でも哨戒の小隊が出入りしている。金が緊張しているのは間違いない。

 戦となれば、きっとアセナも死地に赴く。そう考えると香雲は一層離れがたく感じ、さりげなく彼女との距離を詰めた。

「今、燕京の宮殿ではまつりが行われている」

 これまで黙っていたアセナがようやく口を開き、香雲はそっと頷いた。

「父上が皇帝としてとりおこない、それを兄弟達が見届ける……宋からうばった衣を着て……」

 皇帝にとって祀りとは自らが天の子であることの証明であり、欠かすことのできないものだ。アセナの父の意図は自らが宋の事業を継ぐ皇帝であると、改めて内外に示すことにあるのだろう。

「皇帝とは民を安んじ、奉仕するためにあるのだときいた」

 アセナは自らの手のひらをじっと見つめていた。

「ならば、皇帝としてあらゆる民のために居てほしい。わたしは父上にそうおねがいしたかったのだ」

 香雲はアセナの腕を強く握った。

 どれほど不敬、不孝を罵られようと、香雲は断言できる。

 皇帝の存在など忌まわしいだけだと。

 皇帝なんて、自らを肥え太らすことしか考えていない。

 多くの野心家がその座を奪い合い、民を死なせていった。

 宋もまた血塗られた闘争の末に生まれ、そして滅んでいった。

 アセナが理想しか語らないのは、父の正しさを信じたいからだ。

「射柳に勝てば、目通りをゆるすと……そう、言われていたのに」

 アセナは見えざる柳の細枝を握りしめていた。

「これほど望んでも、わたしは認められなかったのだな……」

 香雲はアセナの双眸が潤んでいるのに気づいた。冷たく湿った悲しみではなく竈の燃えがらのような静かな怒りが香雲を焦がす。

 なぜ、アセナは奪われなくてはならなかったのか。

 焦げた肌ゆえか、棄児であるからか。 

 そして、アセナの側にいながら何一つできない無力な己に香雲は苛立っていた。黙ったままでいるなんて、耐えられなかった。

「アセナっ!」

「どうした……」

 沈むアセナに香雲は声をかけた。どんな言葉が正しいかなんて知らなかった。香雲は夢中で彼女の手を取り、正面から向き合った。

「宮に引きこもった連中があなたを認めずとも……あなたが挑んだことで……皆は救われているわ。私だってそうよ。助けてくれたでしょ? 外に連れていってくれたでしょ? だからね、院に帰っても誰かに想われていると感じるだけで……息ができた」

 アセナの理想はあり得ざるもので、語りかけている香雲でさえ、それが叶うと曇りなく信じることはできなかった。しかし理想を掲げて夢を追うアセナは美しかった。奪われるだけの日々で、そのときめきは決して奪われないものだった。

「あなたも、私も、皇帝の血などなければ……!」

 アセナであればいかなる出自であろうと皆の道標となれる――そんな想いから漏れた言葉だった。そして香雲の願いは、ただの小娘としてアセナの夢に付いていくことだった。一切の柵なく、供になれたら。

「ならば、わたしときみが会うこともなかっただろう。それは……いやだな」

 香雲の励ましを聞いていたアセナはついに微笑み、彼女の頬に触れた。そこに火をともされたように香雲は感じた。

「いや、きみは洗衣院など行きたくもないか。きっとわたしと会わなかったほうが……」

「私は!」

 アセナのもしもを、香雲は打ち払った

「私はあなたの隣にいると安心する。どこよりも、宋の宮殿なんかよりもずっと。だから構わない。これでいいの」

 またアセナの隣に収まって、香雲はしばし黙って身を預ける。

「どうか院に来て。私を買って、アセナ!」

 それは香雲にとっての覚悟だった。

「買う? わたしが、きみを?」

「忌まわしい血筋ゆえに、私は今まで辱めを受けなかった……あなたであれば、文句も言われないでしょう」

 かつて香雲はアセナに娶られることを拒んだ。誰かに寄りかかって生きたくはなかった。けれど、結局、自分は惜しみなく与えてくれるアセナに頼りきりだったと香雲は思う。

 だから、香雲はアセナに何かを返したかった。受け取って欲しかった。無力な香雲の持ち物はこの身一つだけ。

「き、きみを傷つけてしまうかもしれないし……その、なんというか……」

「ごっ……ごめんなさい。困らせてしまったわよね」

 思い切った発言を自覚して、ついつい香雲は身を引こうとしてしまう。しかし、香雲はアセナに腕を掴まれた。彼女は強く、香雲を求めていた。

「いや……が、がんばる。きみの望みをかなえさせてほしい……」

 言いきった後でアセナは香雲には目を逸らした。

「ただ……す、すぐには、できない……うむ」

 アセナは恥ずかしがっていた。

 可愛かった。

 とても可愛いかった。

 一瞬、香雲はこの場で始めることを考えてしまった。自分たちの他にはタルガンしかいない。草花は柔らかく、寝転がっても痛くなさそうだ。

 香雲は自分の腕を掴むアセナの手を撫で、そして立ち上がった。

「私、待っているから」

「しかしわたしもきみも女だろう。どうすれば……」

「金には『ない』のね。宋には『あった』わよ」

 アセナは神妙な顔で頷いた。


×××


 昼と同じように、夜になっても炎は神妙な顔で平伏していた。マダグの言葉を聞き逃さぬよう、全身を尖らせる。

「許す。我を見よ」

 命じられるままに炎は顔を上げた。マダグは豪奢な椅子に腰掛け、じっと炎を見下ろしていた。

 悪趣味な部屋だと思った。部屋の装飾はいずれも宋と思しき様式で、飾られている壺や絵も宋の宮殿から奪ったものだ。マダグ本人は冷淡で残酷な空気を纏っているが、部屋には妙な情念が籠もっている。これまで皇族の建物に通されたことなどないが、他の皇族はこれほど宋に拘ったりしていないだろう。

「どうだ、何を思った」

 油断なく周囲に気を配るばかりの炎に、マダグは問う。炎はびくりと身を震わせたが、依然として黙ったままだった。

 射柳でのアセナへの仕打ちに怒り、観覧に来ていたマダグに直訴したのが昼のこと。それから夜になって急に、炎はマダグから再び呼び出しを受けていた。

 アセナへの処遇ならば、直接本人に話せばいいことだ。マダグは何かの意図を持っている――炎はマダグを警戒していたが、できることはなにもなかった。炎がマダグの気分を害すれば、その咎を受けるのはアセナとなるのだから。

「我の顔はアセナとは似ても似つかぬであろう」

「……金を統べる一族に相応しき、凜然たる容貌かと」

 刃の間をくぐり抜ける心地で、炎は言葉を選ぶ。マダグの考えが読めなかった。言葉を違えば、次の瞬間に斬り捨てられてもおかしくはない。

「麗句に興味は無い。分かっておろう、我らとアセナは異なっておる。肌が異なり、身体が異なり……心が異なる」

 北方の夏は夜になると肌寒いほどだが、炎は全身に粘りつくような汗をかいていた。

「此度の射柳で、アセナは帝を呪詛した」

「ありえませぬ! そのようなことは!」

 炎は自らの愚かしさを悟った。あの理不尽は甘受せねばならなかったのだ。抗ったものの、勝敗は覆せず、それどころか主を窮地へ追いやってしまった。許されるのなら、炎はこの場で首を掻ききってしまいたかった。

「さらには皇帝の血筋でありながら祭祀にも参じることなく、あれは皇帝を蔑ろにした」

 貴様らが姉様を呼ばなかったのであろう――炎はマダグを指さしたくなるのを、懸命にこらえた。

「……と、そのように兄は考えておる。皆、あれが目障りなのだな」

 嘆くような調子でマダグは語る。彼はアセナに肩入れしているのかと、炎は細い希望に縋る。

「我ら金の民は心を一つにして皇帝をお支えしなければならないというのに、アセナとあれが率いる不逞の輩は国を乱しかねん。能く戦うのであれば女の兵がいてもよかろう、だが金人以外とも親しくし、女真ならざる者を取り立てようとするのは、女真が建てたこの国を揺るがす毒となる……我も兄に同感だ」

 マダグの演説を聴きながら炎は震えていた。この一晩で髪から色が抜け落ち、霊の類いになってしまいそうだった。

「禍となる前にアセナを誅する。そのように、決まった」

「どうか! どうかお待ちください! 姉様は忠義に篤く、この国に無くてはならぬ御方! 決して、この国を脅かそうとなど考えておりませぬ!」

「うむ。我も稀なる勇士である妹をむざむざと失いたくはない。ゆえに、貴様を呼んだのだ」

 炎は涙を流し、マダグに慈悲を乞う。

「女。我に従え」

 次の瞬間、炎は床に拳をたたきつけていた。

「ね――姉様を裏切れというのかッ!」

「今のままでは、ほどなくあれは讒訴(ざんそ)され、処断される。だが、不逞の輩から離れ、良き将の下に収まればあれの武芸と忠義も国に知れ渡るであろう。分かるな? アセナにはまだ手立てがある。だが、下の者達はどうあれ助けられんのだ」

 マダグは揺らぐことなく炎に言葉を流しこむ。こうなってしまっては、炎に抗う術などありはしない。もう、アセナの命運を知ってしまったから。

「貴様も女ながら知恵が回ると聞いている。他の虚け共は我に従わず、主に殉ずる道を選ぶであろうな。だが、それはあれの才を使い潰しているに過ぎぬ。あれを救い、後の世まで語り継がれる俊才の士とすることこそ、忠義ではないか?」

 炎に選択肢などなかった。選べるのはマダグの言を信じるか否かだった。アセナが処刑されるのはもう既に決まっている。黙っていても死ぬ。乱を起こしても死ぬ。マダグに従ったところできっと死ぬだろう。

 この身が果てるのは構わない。しかし、それは、アセナが生きてこそなのだ。

 一縷の望みがあるなら――炎はマダグから与えられる役割に手を伸ばすほかなかった。


×××


 息を吸う。息を止める。息を吸う。

 息を、止める。

 手を離す。

 耳元で空が裂ける。

 そして香雲は木が穿たれる鋭い音を聞いた。

「中てたな」

 アセナに肩を叩かれ、香雲はようやく息を吸った。

 杭には間違いなく香雲の放った矢が突き刺さっていた。中央を深く射貫いたのはこれが初めてのことだった。

 雑用係という名目で香雲は度々訓練に参加し、弓を引く機会を与えられていた。これまではまぐれ当たりで的をぎりぎり捉えたものばかりだった。こうして狙い通りにまっすぐ中ると、ぞくぞくするような喜びが湧いてくる。訓練の合間に見物していた数人の兵もまばらに声を上げる。香雲は部隊の顔なじみになっていた。

「さっきの感覚を覚えておくといい。どんな時でも落ち着けば、矢は必ずきみの味方をする」

 秋になるまでの間に、アセナの言葉も少し滑らかになった。香雲もまた女真語をおぼろげながら理解しつつある。それは二人が宋と金の事情を理解していくということでもある。

 宋金間での二度目の合戦は間近に迫っていた。開戦に至るまでの経緯は香雲に知るよしもないが、きっと宋は首都の奪還を目指している。国境への道の途中にある燕京は人が増え、様々な荷が運び込まれている。

「Кокомадэ Мина Коугунни Сонаэро」

 アセナが声を上げると兵達は規律正しく弓や剣を下ろし、片付けを始める。香雲も自らの仕事をしようとしたが、アセナが引き留めるように彼女の腕を引いた。

「なぁに、アセナ」

「夜……院にいこうと思っている」

 その意味を理解して、香雲は息を呑んだ。射柳の日にそれを望んでから、アセナはいつまで経っても洗衣院を訪れなかった。急かすような振る舞いは慎んでいたが、煮え切らないアセナにやきもきしていたのは事実だ。

 アセナの心境の変化は戦が近付いているせいなのか。ようやくアセナが応じたというのに香雲の胸には甘いときめきよりも不安が雨雲のように重く立ちこめていた。

 それから院に戻るまでアセナと香雲の間に会話はなかった。時折視線を交わすだけで、香雲はお互いの中にある不安を感じ取っていた。だから、院にて忠珠と相対し、物置に連れてこられた時、香雲は安心感さえ覚えていた。彼女はいつも通りだ。

「戻りましたか、公主」

 忠珠とその取り巻きは相変わらず金の狗として振る舞っていた。

 ただし忠珠一派にかつてほどの威勢はない。宋との戦争が近づくにつれて院を訪れる客は急激に減り、院はかつてほど顧みられることがなくなっていた。皇帝の膝下にある後宮ならば、皇帝の威によって管理者たる忠珠も権勢を保てる。しかしあくまでも娼館にすぎないという院の扱いが女達の立ち位置を不安定なものにしていた。

「相も変わらずアセナに媚びていたようで……」

 嫌味な口調に香雲は無表情を貫く。忠珠はアセナを軽んじている。院の主から、彼女は入れ知恵されているらしい。

 その反応が気に食わなかったのか、香雲は出し抜けに胸を掴まれた。千切り取らんばかりに乳房を引っぱられても、香雲はただ相手を睨めつけるだけだった。痛いし、苦しい。だが耐える。繰り返される折檻で心は磨り減り、香雲は人形のように振る舞う術を覚えていた。これから客が付いたとして、初々しい反応も、恐怖の悲鳴も楽しめない娼妓に価値などあるのだろうか。

「育っておいでですね、公主。あなた様のための客もいずれ決まるでしょう。ちゃんと楽しませるよう、今宵も訓練しておかなければ。あなた様の役割は兵ではなく、娼妓なのですから」

「やめなさい」

「何ぃ?」

 香雲の初めての返事に忠珠は顔を歪ませた。今日だけは狼藉を許せなかった。アセナが来る。それまで、徒に身体を傷つけたくなかった。

「アセナが今宵の客として、私を求めているわ。あなたは皇族が指名した娼妓を傷つけるの?」

「なるほど、兵だけでなくこちらでも男の真似か! あの女も客を取って己の身体を理解すればいいものを!」

 忠珠の言には嫌悪が滲んでいた。アセナへの侮辱に香雲は初めて表情を変えた。

「そこまで大言を吐くなら……まがりなりにも金の皇族である相手と真正面から争うがいいわ!」

 揺さぶりを掛けると容易く忠珠は怯んだ。取り巻きも恐る恐る香雲から手を離す。危険であることをちらつかせば、忠珠はすぐに翻意する。そのような性根だから、真っ先に金の狗となったのだ。

「お前達! ま、マダグ様にご注進を……」

 取り巻きに指図する忠珠を香雲は鼻で笑った。

「こんなことで主の手を煩わせるのね。不興を買わなければいいけれど」

 香雲の言葉で、忠珠はまた迷う。相手を弄んでも寒々しい気分にしかならない。忠珠はなぜこのようなことを好むのか。彼女には己を通そうとする気概がない。

「ふんっ! せいぜい媚びよ! あの女はどうせ……!」

 結局、忠珠は何もできなかった。彼女は取り巻きを引き連れて物置から去ってしまう。腹立ち紛れに壁でも叩いたか、大きな音が聞こえた。緊張の糸が緩み、香雲は冷たい物置の床に座りこんだ。アセナが自分を買うことが許されるのかこれまで香雲は考えないようにしていた。マダグも明らかにアセナを疎んでいる。逢瀬を妨害する口実など幾らでも用意できるだろう。そうした壁を超える方法は、香雲にもアセナにもない。できるのは、ただ祈ることだけ。自らの立場がつくづく嫌になる。夜になるまで下女の仕事で気を紛らわせようと、香雲も物置から出る。妙蘭もいる娼妓の待機部屋にすべき仕事はないかと聞きに行こうとしたところで、香雲はアセナとすごす部屋もないことに気づき、また暗澹たる気持ちになった。


×××


 部屋に通されたアセナを見た瞬間、香雲は自然と平伏しそうになった。客には頭を地面に擦りつけて、出迎える。忠珠の執拗な教育は香雲の全身に刻みこまれていた。

「やっと、来てくれた」

 忌まわしい教えに抗って、香雲はぎこちなくアセナに微笑んだ。

 この場に彼女がいるなんて夢や幻のようだ。マダグや忠珠に阻まれなかったのは天が味方してくれたからとしか思えない。他の娼妓と変わらず、二人のための部屋も与えられ、ついに香雲はアセナと対面していた。

「すまない、軍議を終えてからも……なかなか心が決まらなかったんだ」

 院が店じまいになる寸前、アセナはたった一人でやってきた。気軽に訪れる客がほとんどだというのにアセナの反応は硬い。訓練だけで実戦を知らない香雲も顔から血の気が引いていて、部屋は艶やかな空気からは程遠い有様だった。

「……ど、どうすればいい? なにもわからない……」

「あなたならば、多くの人から想いを寄せられたでしょう。ふふ……童みたいよ、あなた」

 一族からは排斥されているが、アセナは将兵に留まらず民からも声望を集めている。それなりの地位がある者からも、求婚されたことがあってもおかしくはない。色事の相手だって簡単に見つかっただろう。そんなアセナが童のような態度をしているのが無性におかしかった。

「そうしたことにあまり興味がなかったんだ。かつて、ためしはしたが……やぎのようだった」

「や、山羊……?」

「やぎはひと突きで終いだ。狩られないために、みじかい」

 真顔で解説されてしまって、香雲は噴きだしてしまった。

「あはっ! それなら今宵は人らしくしましょう……!」

 山羊の淡白な交尾は笑えたが、帝のそれとて大差はないと香雲は気づく。好奇心からいかにして自分が生まれたのか知ろうとして、彼女は宋の皇帝の一族のやり方を知った。生まれた順番を確かなものとするため、帝は閨の外に記録するための官吏を置くのだ。子を成すのが義務なのだから、皇帝など家畜と大差ないではないか。昔も今も、そう思う。

「私とあなたは獣じゃない……私とあなたが望むから、するの」

「そうだな。わたしは、きみと、したい……」

 香雲はアセナを抱きしめた。口に出して自らの願いを確かめる。アセナもゆっくりと頷き、香雲の細い身体に手を回した。

「さぁ、こっち……」

 アセナの手を引いて、香雲は隣の部屋に続く木戸へ彼女を導く。

「脱いで、着替えはあるから」

 香雲は戸の横にある棚を指差す。アセナは面食らった様子だったが、素直に毛皮の外套や藍色の軍衣を脱ぎ始める。決して口には出さないが、訓練で汚れた衣服はひどく臭っている。アセナの身体も同じだ。身体は汚れ、結った髪を解けば、草の切れ端や土塊が飛んでいる。野山で生きる獣であれば、あるいはただ一方的に欲を満たすだけならば汚れた身体でも構わない。しかし香雲とアセナはそのどちらでもないと誓ったばかりだ。

 香雲も手早く薄衣に着替え、棚から手拭いを取って戸を引いた。

 溢れ出た蒸気が顔を撫で、仄かな薬草の香りが広がる。

 香雲がアセナを案内したのは浴場だった。

 狭い部屋の真ん中には底の浅い盥があって、そこには薬湯が張られている。名目上は貴族のための施設であるがゆえ、洗衣院には身を清めるための用意があった。宋を懐かしんだ娼妓によって再現され、そのまま金人にも受け入れられた文化である。身体が冷えるのを防ぐため、すぐ隣に浴室が備え付けられた部屋は院でも一つしかない。この部屋は金でも特に身分が高い者のために使われる。普段は冷たい水で身体を拭っている香雲にとって、湯気を出している盥は感動的な光景だった。

「二人で入るにはせますぎないか?」

「あなただけで入るのよ、私が身体を拭いてあげるから」

「む」

 アセナはゆっくりとしゃがみこんで、湯に触れた。その温かさに彼女は驚いて手を引っ込め、それから息を止めて足を付けた。

「怖がらなくてもいいでしょう? 普段、お湯は使わないの?」

「みんなに行き渡るだけの湯はわかせないからな。五日に一度、身を清めてはいるが……んん……」

 背中を手拭いで拭われて、アセナは気の抜けた声を漏らした。

 院でもあまり大量の水は沸かせないので湯量は乏しい。あらかじめ客と娼妓が触れあうことで心を合わせる目的もあるのだろう。臍ほどの深さに身を浸し、そこから上は娼妓が湯に浸した手拭いで清めるのが院でのやり方だった。

「やっぱり汚れてる……しばらく大人しくしてて」

 手拭いを換えながら、香雲はアセナの身を清めていく。彼女は無抵抗だった。香雲はアセナを自由にできたが、彼女を洗うことに集中してしまって、そうした気分にはなれなかった。

 お互いに緊張しているせいで口数が少ない。ただ水音だけが部屋に響く。手拭いを真っ黒にして、ようやくアセナの髪と身体を磨き上げた時、香雲は汗だくになっていた。

「これでいい……と思うわ。じゃあ、褥に……」

「待ってくれ。きみのことはわたしが洗う」

 香雲はむやみに急いでアセナを連れ出そうとしたが引き留められてしまう。

 自分が洗われるのは忠珠の訓練になかった。しかしアセナのお願いを拒むことはできなかった。

「そ、そんなに見ないでよ」

 視線を感じながら香雲はアセナと入れ替わりで盥の湯に浸かる。あらかじめ身を清めているから必要ないのだけれど、アセナは熱心に香雲の身体を新しい手拭いで擦り始める。力が強すぎて、ちょっと痛い。

「これでいいのか?」

「ん……」

 背中と髪を一通り拭き終えてからアセナは前に移る。香雲は慣れつつあって、彼女を観察する余裕があった。当たり前のことだけれど、アセナの身体はどこもかしこもみっしりと筋肉が付いていて頑丈そうだった。香雲は胸の奥で火が熾きるのを感じた。他人の身体をまじまじと見つめたのはこれが初めてだった。同じ身体の作りをしているのに、自分とはまったく違っている。

「アセナ……」

 盥から身を乗り出し、香雲はアセナの首に腕を回した。彼女の首筋からは薬湯の匂いがした。身体の作りの違いを直に確かめようとそのまま彼女を抱きしめる。盥が傾いてお湯がこぼれる。沢山の湯気が上がり、二人を包む。

「……きみの胸が、唄っている」

 アセナはしばらく固まっていたが、やがて香雲を抱きしめかえした。胸と胸が押しあって、一つになる。お互いの鼓動が伝わってくる。硬くてざらついた指先が背中を撫でる。

「あなただって一緒でしょ」

 烈しく燃え上がる何かに突き動かされて、香雲は涙を流した。もっとも無防備な姿を晒しているのに、こうしていると心が安らぐ。アセナにも同じ想いでいてほしい。

「アセナ……っ!」

 衝動のままに香雲はアセナを押し倒した。覆しがたい力の差があるのに、アセナは簡単に寝転がってしまった。

 不安そうに香雲を見上げて、アセナは身体を晒している。

 今ならば彼女を好きにできる――暗く澱んだ欲望が突き上げてきて、香雲は戸惑う。一瞬でもアセナが自分のものだなんて思ってしまうなんて。

「香雲……ここは、ゆかが硬い」

 アセナの蚊の鳴くような声で香雲は正気を取り戻した。弾かれたようにアセナから離れ、そして香雲は彼女に手を伸ばした。

「褥に、行きましょう」

 香雲に助け起こされたアセナは身体を拭き、今度は彼女から香雲に抱きつく。身長の差があるせいで胸の中に埋められたような格好になり、香雲は肺腑までアセナに満たされる。もっと、もっとアセナがほしくなる。それはアセナも同じで、彼女は何度も香雲の名前を呼びながら、香雲の小さな身体をなで回していた。彼女の硬い指先で全身に痕が彫られているような気がして、香雲は息を吐いた。

 くっつき合ったまま浴場から出て、もつれるように褥へと身を投じる。?によって温められた褥は居心地がよく、二人の火の付いた身体を冷やすことがなかった。

「香雲……!」

 今度は香雲が見下ろされる側だった。

 水滴のついた身体は小ぶりで肋が浮いていた。

 だが、その貧相で弱々しい身体にアセナは惹きつけられているようだった。

「ああ、ああっ! きみに……! きみに、かじりつきたい……!」

 アセナの欲望は香雲よりずっと獰猛だった。目を見ひらき、歯を食いしばった顔は餓えた狼のようだった。

 アセナもまた、自分を蹂躙したいと感じていることに、香雲は微笑んだ。アセナは香雲のもので、香雲はアセナのもの――なんて素敵な円環だろう。

「来て、アセナ」

「……どうすればいいのか……分からない」

 香雲は唸るアセナに手を伸ばした。

「大丈夫。全部、私が教えてあげるから……」

 アセナはまた唸った。

 お互いの望みのままに、愛を交わす。

 それは洗衣院で、香雲とアセナにしかなし得ないことだった。


×××


「ねえ、アセナ」

 抱き合ったまま、香雲は甘えた声を出した。

「うん?」

 眠たそうな声でアセナが返事する。

 心ゆくまで愛しあってから、二人は褥に包まっていた。すでに夜更けで、お互いの輪郭しか見えない。だから二人は話している間もゆるゆると相手の身体を触って確かめていた。

「あなたの唄が……どこから来たのか、分かったの」

「なんだって……!」

 アセナの声が少し大きくなる。香雲はくすくすと笑った。

 妙蘭の手がかりのおかげで、さらに香雲は他の娼妓から情報を聞き出していた。

 忠珠の派閥だったその娼妓は香雲に味方するのを恐れていたが、射柳でのアセナへの仕打ちに心を動かされ、ついには香雲に重い口を開いていた。

「知っていたなら、教えてくれても……」

「ふふふ、ごめんなさい」

 この瞬間までそれをアセナに伝えなかった理由は、二つ。一つは彼女が自分を買いに来るのを待っていたから。もう一つは、唄を解き明かせば、そのままアセナとの繋がりが切れてしまいそうで怖かったから。

 しかし、この夜を経て、香雲から恐れはなくなっていた。

「洗衣院に蕃客……つまり、ええと……西域の商人と付き合いのあった者が、いたの。あなたの唄は蕃客の言葉にそっくりらしいわ。唄の意味まで分かればよかったのだけれど、そっちは断片しか……」

「蕃客というのは、どこの者だ?」

「阿把斯……金の草原のように砂地が国中に広がり、儒教や道教とは違う宗教がある国だそうよ」

 宋王朝が興る以前は西域との交易も盛んだったが、戦乱が続く中で交易は絶えてしまった。アセナも三百年ほど前に生まれていれば簡単に己の源流を知れたかもしれない。

 香雲の話を聞いて、アセナは繰り返し阿把斯と唱えた。それもまた唄うように軽やかで、楽しげだった。

「草原のように広がった砂地なんて……考えたこともないな。その国がわたしのような肌の者ばかりということも。……いつかいけるといいが」

 その口調には薄く諦めが漂っていた。金で身を立てるという夢を追う限り、国から離れることは難しい。アセナもそれを理解しているのだろう。しかし、香雲は力強く、はっきりと彼女に語りかけた。

「大丈夫。いつかあなたは辿りつくわ。そこで見たこともないものを見ることになるのよ。知らないもの、考えもしたことが無いものを……」

 アセナは香雲を抱き寄せ、頭を撫でた。香雲は目を閉じて、その感覚に集中する。ふかふかで温かい褥よりもアセナの手の方が心地よく感じる。

「いいね、きみにも見てほしい」

「素敵。きっと、すごく面白いわ……」

 香雲の行く道は金と宋にしか伸びていない。

 しかし今だけは、まるで鳥のように、香雲はどこにでも行けた。

「香雲……どうか、わたしに唄を」

「ええ……」

 せがまれるままに香雲は子守唄を唄う。まだ見ぬ砂の国を想っているのだろうか、アセナは香雲の腕の中でゆっくりと身じろぎした。

「戻ってきた時、また聞きにくる」

「帰ってきてよ……絶対だからね……」

 香雲はこの場に縛りつけるようにアセナを抱きしめた。

「もちろんだ。皆のためにも、絶対……」

 アセナの言葉は溶けていき、やがて彼女は寝息を立てはじめる。命のやり取りを目前に控えても平然と眠れる豪胆さは頼もしい一方、そこに潜む死に無頓着である気がして、香雲は唄いながらアセナに願をかけることしかできなかった。

 どうか、無事で戻るように、と。


×××


「マダグ様……」

 枕元で囁かれ、マダグは目を開いた。すぐ隣で忠珠が薄ら笑いを浮かべている。

 マダグの眠りは浅い。金のために知恵を尽くすようになってから、彼はまともに眠ったことがなかった。

「何だ」

 平坦な声でマダグは返事した。忠珠には何の感情もない。一方で、管理者の役割を命じられて以来、彼女は執拗にマダグを誘っていた。自身の立場を確かなものにするため、彼女は形振りを構わなかった。

 ゆえに、そうすれば忠珠がより扱いやすい駒となることが分かったから、マダグは忠珠との同衾を実行していた。いずれ彼女が孕むであろう我が子は斬り捨てると決めている。それは、金の王朝に不要な血だからだ。

「今、院にはアセナと公主がおりますでしょう」

「うむ」

「斬ってしまいましょう。今から刺客を送れば……」

 マダグは黙ったまま起き上がり、消した明かりにもう一度火を灯した。?に立てかけていた剣を取り、鞘から抜く。

「あれの始末は、もう決めておる。賢しらに口を挟むな」

 青ざめた忠珠に、マダグはさらに刃を近づける。

「貴様の役割は洗衣院の支配のみ。それとも貴様は今の役割に飽き足らず、金の帝室の処遇を決められる役割に昇ろうというのか?」

 男でも女でも、枕元で政に口出しする者は害虫だとマダグは考えている。己の役割を忘れる者、越えようとする者を取り除くことで国は盤石となる。

 勘気を被った忠珠は、褥から転げ落ちた。己の命しか考えていない忠珠は、平伏するより先に、刃から逃げることを選んだ。

 全裸のまま彼女は壁に貼り付き、泣きじゃくる。

 忠珠の背中では桃鳩図が擦れていた。

「貴様、壁から離れよ!」

 マダグは思わず大声を上げていた。

「ひぃいぃいっ!」

「壁から離れ、平伏せよ」

 マダグが二度も命令してようやく忠珠は平伏した。

「……机まで這え。面をあげるのは許さん」

「どうか、どうか……! あなた様のために何でもいたします!」

「そうか」

 忠珠を移動させたマダグは剣を振り上げ、躊躇なく彼女の背に刃を突き立てた。

「ぎ……」

 忠珠は声も出せずに絶命する。その剣を抜かず、マダグは衛兵を呼び、彼女の亡骸を運ばせる。

「うむ」

 桃鳩図に汚れや染みがないことを確認して、マダグは満足げに頷いた。

 忠珠の心臓を突いたのは、そこであれば、あまり血が飛ばないと知っていたからだ。絵画が血で汚れては困る。脅すだけで、斬るつもりはなかった。だが忠珠が桃鳩図の飾ってある壁に貼り付いた瞬間、彼の中で忠珠は不要となった。忠珠の代わりなど幾らでも用意できる。しかし桃鳩図は唯一無二なのだ。

 忠珠の進言など、何の意味もない。すでに手は打ってある。

 戦地に赴いたアセナが帰ることはない。


×××


 アセナの一団は三日三晩ずっと行軍していた。点在する砦での休息を挟みながら馬を走らせ、燕京から宋の首都付近まで一気に駆ける――尋常の軍では七日はかかる距離だった。寡兵、軽装による機動力はアセナの部隊にとって明白な強みである。重装甲の騎馬横隊による蹂躙が金の得意戦術だったが、その成功にはアセナ達のような軽騎兵による偵察と地形の把握が欠かせない。華はなくとも確実な戦功となる任務だった。

 再編された宋軍は南から北上し、どうにか攻め落とした首都付近の城を拠点としている。そこから首都奪還の機を伺っているのだ。

 城への補給路を把握するため、寡兵にて前線の軍営を偵察する――それがアセナに下された命令だった。目的の軍営は兵站――兵士を飢えさせないための重要拠点となっている。急ごしらえの陣地とはいえ、守りは堅い。速戦のためには事前の偵察が重要だった。

 アセナを先頭とした十騎は丘陵地帯を進んでいた。丘では背の高い草が生い茂り、風にそよいでいる。日が沈む直前で、空は青と赤がまざったような色合いをしている。そこを騎馬隊が駆けていくのは絵巻のような美しさだったが、アセナ達に風景を楽しむ余裕はない。すぐ近くには宋の軍営があり、当然哨戒の兵も存在する。アセナの部隊は速度のために軽装な上に、兵は他の将に戦えぬと断じられた者ばかり。一戦交えることになれば全滅である。

 事前に目星を付けていた場所が近付き、アセナは黙ったまま手を上げた。一行は速度を落とし、やがて止まった。依然として無言を貫き、アセナは手振りで馬から降りるよう指示する。見張りとして九狗をその場に残し、部隊は二手に分かれる。

 アセナの組は先頭をアセナ、殿を炎とする隊列で丘を登った。背の高い草に紛れてしまえば、丘の向こうにある宋の軍営からは気づかれない。

 ほどなく丘の頂上、陣営を観察できる地点まで着いた一行は伏せたまま目を凝らす。日は沈みつつある。暗くなる前に情報を集めたかった。

「炎、どう思う」

 炎を呼びつけて、アセナは意見を求めた。普段なら誰よりも素早い炎は、やけに鈍い動きでその隣についた。

「既に陣が敷かれて久しいように感じます。守りは堅いように見えますが、兵は緩み、ここが戦場であると忘れているのではないかと」

 不調なのかとアセナは眉をひそめたが、彼女は何事もなく問いに答える。

「馬屋が満杯なのを見るに、哨戒の兵も少なそうだ……。接近に気づかれず、素早く攻めこめば落とすのも難しくは――」

 言葉の途中でアセナは口を閉じた。鉄の擦れる音が聞こえた気がした。それは甲冑を身につけた者が動く時に、よく響く。炎はアセナが警戒する前から、死人のように静かだった。

 丘の側面――もう片方の組が向かったあたりから、指笛が鳴った。

 それは、アセナ達への危急の報せだった

 そして指笛は一瞬で剣戟の音と怒号に塗り潰された。

 日が地平線に沈んでいく。

「待ち伏せか……!」

 アセナが立ち上がった瞬間、彼女の耳に矢が掠った。千切れかけた耳をものともせず、アセナは腰に提げていた弓を手にとった。丘の側面から宋の兵士が攻め上がってくる。あらかじめアセナの到来を予期していたとしか思えない伏兵だった。

「退却だ! 軍営からも追撃されるぞ!」

 叫びながら、アセナは素早く宋兵を射倒していく。隣の部下が喉を射貫かれてアセナに崩れ落ちる。目を見ひらいたままの彼を受け止め、アセナは吼えた。

「炎! 行くぞ!」

 アセナが炎に目を向けた時、彼女には明らかな怯えがあった。炎は殺意が飛び交う中で立ち竦み、アセナを凝視していた。

「ね、姉様……私は……!」

 炎の言葉は背中に矢が刺さったことで途切れた。疑問も驚愕も抱く暇は無い。前のめりに倒れた彼女を引きずり、アセナは馬のところまで戻ろうとする。指笛を吹くが返答はない。別動隊は最初の奇襲で全滅したようだった。

「殿! こちらに!」

 滑り降りるように丘を下ったところで、馬を引き連れた九狗が合流する。馬も、何頭か減っていた。鞍や括り付けた荷、あるいは尻に刺さった矢が痛々しい。九狗もまた片目から血を流していた。退路を断とうと迫ってくる宋兵をアセナはまた射貫く。戦功に目が眩んで攻め寄せてくる兵が多い。こちらが何者か、把握しているのか。

「く……っ!」

 アセナはもう一方の組が向かった方向に目を向けた。もはや、持つことはできなかった。

 アセナはタルガンに飛び乗り、脇目も振らずに駆ける。タルガンの背に矢が刺さり、彼は啼いた。アセナは生き延びるために金への道をひた走る。その敗走に付き従うものはごく僅かだった。


×××


 忠珠が誅されてから、院は変わりつつあった。彼女の死だけが原因ではない。ただ、それがきっかけになったとなったのは間違いない。戦が再開されたことで途絶えがちだった院への客足は完全に途切れ、宙に浮いた女達は楽観に舵を切った。

 すなわち、いずれは帰国が叶うという未来を誰もが夢想するようになっていた。

「公主」

「やめて、私とあなたは同じ立場なのだから」

「ああっ申し訳ありません! 公主!」

 香雲に声を掛けられた妙蘭は床に額を打ち付け、再び平伏した。香雲はため息をつき、彼女をそのままにしておくことにした。

「それで? 私に何用なの」

 香雲が座っているのは院で最も豪華な部屋、かつてアセナと結ばれた部屋であった。思い出の場所も今は香雲の居室として使われるようになっていた。蛮地においても公主たる者には、それに相応しい場所が必要だと妙蘭が言い出したからだ。

 アセナが発ってから、たった数日で香雲は公主としての地位を取り戻しつつあった。周囲がその役割を望めば、香雲に拒む術はなかった。率先して香雲を貶めていた忠珠がいなくなり、帰国の可能性が生まれたことで宋の皇族の血は価値を取り戻していた。今から公主に恩を売っておけば、帰国が叶った際には大きな見返りがある――打算の元で媚び諂う者の中には忠珠の取り巻きであった者もいた。しかし香雲は彼女達を好きなようにさせ、その無気力を周囲は徳が高いと囃し立てた。

「お伝えしたいことがございます」

 妙蘭は香雲の側近のように振る舞っている。マダグや他の金人との折衝役も彼女の仕事だ。その恩義に報いる方法を香雲は知らない。帰国しても変わらず重用してほしいと妙蘭は望んでいるが、その願いに香雲は頷けなかった。誰もがいずれ帰れると無邪気に信じているが、国に戻れる保証などない。なるほど、妙蘭の見立て通り、宋が勝てずとも戦が長引き、和平が成れば、貴族の返還もあり得るだろう。しかし宋が再び滅ぼされることもあり得るし、なにより、きっと宋は攫われた者の帰国を望まない。急に戻ってきた貴族など争いの火種にしかならないのだから。

「マダグ様は公主を娶るおつもりです」

 香雲はしばし息を止めた。

 まさか、ここの主が夫になるとは。

――大丈夫、まだ平気。

 それでも香雲は唇を噛み切りそうになった。

「そう……マダグはいつ、私を迎えに?」

「近いうちには……とのことです」

 香雲は目を瞑った。国に帰れるとは思っていなかった。アセナと過ごせる日々が続かないのも分かっていた。ならばせめて、これからは金国の女として影からアセナを支えられるようになりたい。香雲の頭の中はアセナでいっぱいだった。

「それから戦地にてアセナが討ち取られたのだそうです」

 もう耐えられなかった。

 香雲は椅子から立ち上がった。

「だ……誰がそんなことを!」

 妙蘭の怯えた顔を見て、香雲は椅子に腰掛けた。

「マダグ様が婚礼の後、アセナの葬儀も執り行うと申しておりました。皇族とはいえ女の身で兵のまねごとをしているような者より、マダグ様の伴侶となる方がよほど公主のため。何よりでございましょう」

 妙蘭は文章を読むようにすらすらと彼女に理を語った。

「公主があの女に恩義を感じていることは分かっております。しかし、所詮は女。血に依らぬ縁など脆いものです。マダグ様との血縁は公主だけでなく我等をも救うでしょう」

 聞き分けろと妙蘭は言っていた。

 皇族――いや、女の価値は血を繋げるかどうかで決まる。香雲にまとわりつく虫が消えたことを妙蘭は心から祝福しているのだろう。

「分かったわ。もう、下がっていいから」

「は……」

 妙蘭はしずしずと部屋から去る。

 しばらく座ったまま俯いていた香雲はよろよろと褥に倒れ伏し、泣いた。

 あの橋から身を投げようとすれば、またアセナが止めに来るような気がした。

 褥に埋まったまま香雲は繰り返しアセナの名を呼ぶ。

 香雲の役割は完全に決まってしまっていた。

 もはや同胞さえも、香雲の自由を認めていなかった。


×××


 自らが倒れる時でさえ、タルガンは主を想っていた。彼はよろよろと地面に膝を付いて、主を降ろし、それから横倒しになった。先頭のタルガンが崩れたことで彼に付き従っていた馬達は次々と止まった。

 誰が決めたわけでもなく、一行は休息を始める。限界だった。追撃から逃れ、アセナ達は金の砦にほど近い森まで辿り着いていた。野盗の類はいないようであったが、何もされずとも一行は今にも死に絶えてしまいそうな有様だった。ここまで残ったのはアセナ、九狗、炎、それから二名の兵士のみ。誰も言葉を発さずに座りこむか、あるいは倒れて天を眺めていた。すると俄に雨が降りはじめ、そのまま烈しく降り注いだ。泥土は気力も体力も奪う。今になるまで降らなかったのは幸運だった。

 アセナはその場に座りこんだまま、タルガンの身体を確かめた。彼の身体には折れた矢が刺さったままで、その脚はあるべきではない方向に曲がっていた。

 脚を失った馬は生きていけない。痩せ衰え、生きながらにして腐っていく。

「タルガン……我が霆よ……愚かな主を恨め……」

 アセナは短刀を抜いた。

 愛馬を眠らせた後、アセナは残った郎党に向き直った。

「もうじき金の砦だ。宋の追手からは……逃れられたらしい」

 宋の包囲の杜撰さにアセナ達は救われていた。士気の高い軍団が敵であれば、偵察に気づかれた瞬間に全ては終わっていた。生き延びたことよりも、そのような弱兵によって仲間を失った屈辱にアセナは震えていた。

「我々はなんとしても砦まで辿り着かなくてはならないが……その前に、どうか聞いてほしい」

「我らの行軍を宋は事前に知らされていた。……そうでしょう?」

 アセナの言葉を炎が継いだ。炎は馬から降りた後、その場で倒れていた。彼女の呼吸は浅く、胴には衣から切り取った袖が巻かれている。炎は背中や脇腹に矢を受けていたが、その声には芯が通っていた。

「炎……! 喋らずともよい。おぬしは休んでおけ、もうじき助かるのだぞ」

 九狗の制止に炎は力なく息を吐いた。

「こんな命など……! 目が霞んできている……馬に乗るどころか、歩くことも……」

 炎は咳きこみ、泥の地面に血を散らした。

「炎! なぜだ!」

 アセナは身体を引きずり、倒れている炎の顔を覗きこんだ。

 アセナ達は宋から包囲され、攻撃を受けた。

 敵に気づき、軍営から追手を出したのではない。宋軍は初めからこの場所に敵が来ることを知っていて、事前に兵を伏せていたのだ。

 内通者が宋に策を漏らした証拠である。

 アセナの確信の籠もった問いに炎は涙を流した。

「マダグに唆されたのです。姉様は間もなく処断されるが、子飼いの兵を失い、今より従順になれば助命できるやもしれぬ……あの男は、そう言っておりました」

 炎は再び咳きこむ。アセナ達はただ黙って炎を見ていた。

 包囲した兵の中から一人だけ生かして返すなんてありえない。宋軍の弓を受けた瞬間から、炎も己の愚かさに気づいていたのだろう。

「己の屍は切り刻み、獣の餌としてください。どうか、どうか……」

 炎の手は宙を掻いた。アセナは再び短刀を手にとった。タルガンを眠らせた後、地面に投げ出していた短刀は赤黒い血がまとわりついていた。短刀を逆手に握り、刃を炎に向ける。刃先から血が落ち、炎の頬に落ちる。アセナは無表情だった。周囲は炎への処遇を黙って見守っている。

 アセナが、短剣を振り下ろした。

「容易く忘れられると思うな。この髪を見る度に、私は君を思い出すぞ」

 短剣が切り落としたのは首ではなく髪だった。髪束を握りしめ、アセナは彼女を見下ろす。

「ああ……姉様……」

「君よ、我が忠臣よ。よく戦ってくれた」

 アセナは、あえて炎をそのように呼んだ。

 炎は息を漏らし、自らの髪を触り、そして動きを止めた。

「兄はわたしの命を許さぬようだ、どうあってもな」

 遺髪を懐にしまい、アセナは仲間達と向き合う。全てを失いつつあるというのに未だアセナの目には力が残っていた。

「我らで国を支える傑士となる。所詮は夢だったか……」

「殿、いかがなさるので」

 九狗の言葉にアセナは目を瞑った。

「ひとまずは他国に逃れる……賊となるのも悪くはないだろう」

 ならば自分も連れて行ってほしいと、兵士が口々に声を上げる。震える腕で自らの胸を叩き、彼らはアセナへの忠誠を示す。もとより彼らは国に居場所がなかった。アセナの輝きだけが、彼らにとっての慰めだった。

「香雲殿は捨て置かれるのかな」

 九狗の問いかけにアセナは初めて弱気な表情を見せた。

「洗衣院はマダグの膝元、命を捨てるようなものだ」

 アセナの返事に九狗は微笑んだ。

「貴殿はこれまでずっと、国や我々のために戦ってこられた。ここに至っては、ご自身のためだけに戦うのもよろしいでしょう。儂はお供いたしますぞ」

「君達に死ねと命じることなどできるか……!」

「ふ……死ならばいつでも国から命じられてきたではありませぬか。しかし、めそめそと情けなく死ぬつもりはござらん。殿がなんと言おうと、儂は勝手についていきますぞ!」

 アセナは香雲を思い浮かべた。

 彼女は燕京に続く北東の空を見据えた。

 驟雨の中、炎の遺した馬が嘶いた。


×××


 婚礼は短く、しめやかに執り行われた。

 嫁ぐといっても、所詮は側室であり、また戦中である。華々しい宴など望むべくもなかった。院の女達は着飾った香雲を口々に褒めそやした。院への口利きをお願いすると臆面もなく頼む者もいた。マダグ側の参列者は皆、香雲ではなくマダグを見ていた。

 女真族の婚礼は本来、女を見初めた男子が持参金や家畜を女の一族に捧げて、その許可を得るのだという。しかし香雲とマダグの婚礼は漢族の形式を真似たもので、香雲はただ飾り立てられた椅子に座っているだけだった。そしてマダグが香雲の一族に与えたものは何もなかった。皇族はいずれも抑留されたままで、宋国に返されたものはいない。

 元より香雲はマダグから何も受け取ろうとは思っていなかった。

 しかし初夜となれば――

「今更何をぐずぐずしている。横になれ、小娘」

 マダグは香雲に目もくれず。褥の側に飾られた桃鳩図を眺めていた。彼には香雲を傷つける意図も、支配する意図もなく、ただ皇族としての役割を全うするという使命感だけがあった。マダグにとって、香雲の価値は血筋だけであった。

 一方で薄衣に着替えさせられた香雲はマダグを見据えていた。

「どうして、アセナを認めなかったの?」

 他に何を言おうとマダグには届かないであろうと、香雲は気づいていた。婚礼の儀で顔合わせしただけでも分かる。彼は秩序を保つことしか考えていない。彼には敵国の女を蹂躙する喜びも他者を支配する欲望もない。院に宋の女を収容したのも、それが必要だと感じたから実行したのだろう。

 妹の戦死に何も思わないのか――それは初夜を少しでも引き延ばそうとする儚い抵抗でもある。

 これまで何を言われても桃鳩図から目を離さなかったマダグは、ようやく香雲に目を向けた。

「あれは奔放すぎた。金は強き女真の男が支配する国。氏族も男女も、強きも弱きも入り交じった国など理想にすぎん」

 ならば、と香雲はさらに言葉を紡ぐ。いっそ舌戦に腹を立てたマダグに斬り殺されてしまいたかった。最初は香雲も、アセナの願いは理想にして夢想にすぎないと思っていた。しかしアセナの側に居る内に、香雲はその夢を信じたくなった。だから、マダグの考えを受け入れるわけには行かなかった。

「天を統べるに相応しき為政者とは大きな徳の持ち主よ。異民族はおろか自国の弱者まで受け入れぬ者にその徳が備わるのかしら」

「アセナにこそ徳があったというか、小娘。血縁を軽んじ、異民族にまで慈悲をくれてやった王朝など軒並み滅び去った。アセナの理想の果てには滅びしかないのだ」

 マダグは舌戦に応じていた。香雲はマダグの厳しい口調と視線に怯まなかった。マダグには学識と弁舌があり、だから武芸に傾倒したアセナを軽んじたのだろう――そう思うと、香雲の言葉には熱が籠もった。

「血筋と民族を重んじた王朝もまた、久しくはなかったわ。私も、あなたも、宋の惨めな最期を知っているでしょう。盛者必衰、いつかは金も……」

 宋は異民族を見下し、劣った民だと思い込んでいた。その慢心が滅びを招いた。アセナの理想を否定したところで、金もまた同じ運命を辿るのだ。アセナの呪詛にマダグは鼻を鳴らした。

「同じ轍は踏まぬ。金は宋を越えるのだ。この我が、理によって、金を荘厳華麗にして、百載無窮の国としよう」

 マダグの部屋には宋から奪った芸術品が並べられている。彼の意志によって建てられた洗衣院は宋の形式を意識した、金とは異なる異形の建物だ。

 マダグの奥底にある憧憬を見透かして、香雲は憎々しげに吐き捨てた。

「それもまた理想にすぎないでしょう? あなた達はただアセナが気に入らなかったから殺したのよ……! 理などあるはずもない!」

「小娘……!」

 マダグが言い淀み、香雲を睨んだ刹那――部屋の外が騒がしくなった。

 困惑し制止する声、大きな足音、怒号、香雲が思い出すのはかつて忠珠に折檻されそうになった日のこと。

 院の秩序を乱し、戸を開けたのは――

「香雲、ここにいるのか!」

 あの日と同じ、アセナだった。


×××


「アセナ!」

 香雲は舌戦の時とは違う、少女の声音で想い人を出迎えた。

 アセナは傷だらけで、顔も服も汚れ、握りしめた剣の切っ先は疲弊と怒りで震えていた。修羅の面は香雲を認めて、一瞬だけ緩んだ。

 最期まで付き従うと言ってくれた仲間と共にアセナは燕京に帰還していた。燕京の衛兵は困惑しながらもアセナ達を都の中に通していた。彼女の魁偉な容貌は偽者が現れる余地を潰していて、門に居合わせた者は誰もがアセナの生還を認めざるをえなかった。

「貴様……どういうことだ! 衛兵! 何をしている!」

 マダグの鋭い命令に、彼の部下はおずおずとアセナの左右から挟もうとした。しかしそれはアセナに付き従っていた二人の兵士に阻まれる。香雲は立ちすくんでいるマダグから離れて、アセナの側まで駆け寄った。

「帰ってきたのね……!」

「きみを残して死ねるものか!」

 アセナは香雲を抱きしめたかったが、涙で濡れた彼女の頬を空いた手で拭うのに留める。燕京の衛兵から昼には婚礼があったと聞いて、真っ直ぐ院に向かったのは正解だった。おかげでやっと香雲に会えた。だが、再会だけで満足するわけにはいかない。アセナと香雲はマダグから逃れなくてはならなかった。

「宋の公主は我が物となった。それを奪い、あまつさえ我に刃を向けるか。大逆人め」

「おまえはわたしを除くために宋と密通し、同胞を罠に嵌めた! 自らの思い通りに事を進めるためならば、血の繋がった者すら謀る……兄上こそが大逆人だ!」

 騒ぎを聞きつけた娼妓まで、おそるおそる部屋に近付き、アセナを遠巻きにしていた。そんな中で、アセナとマダグは相対する。

「惑わされるな。アセナは敗戦の責から逃れるため、そのような妄言を吐いているだけのこと。疾く捕らえるのだ」

「惑わされるな! 今宵の出来事はマダグにとって握り潰すべきこと……従えばお前達も処断されるぞ! 皇族を弑した大逆人として!」

 アセナの手勢は彼女を含めて三名のみ。囲めば制圧するのは容易かったが、アセナの言葉で衛兵は尻込みしていた。衛兵の意気地のなさにマダグは苛立つばかりだった。

「院の皆も、腹を決めろ! マダグはこの件を知ってしまったお前達にも容赦はしないのだからな!」

 さらにアセナは娼妓も煽り立てた。命が危ういと聞かされて、彼女達は慌てて衛兵を説得しようとする。女達は剣を持った衛兵の腕を引き、慈悲を乞うて平伏し、そのせいでにわかに部屋は騒然としはじめる。洗衣院に屯する衛兵達は院の常連でもあった。これまでもてなしを受けたせいで情が移ったか、衛兵は娼妓の壁を力で越えるのに躊躇いを見せていた。そして衛兵は困ったようにマダグを見遣る。もはやマダグの意のままに動く者は院に存在しなかった。

「……良いだろうアセナ。我に謀られたというなら帝に訴え、沙汰を待つが良い」

 膠着を嫌ったマダグはアセナに譲る素振りを見せた。

 謀など隠すのは容易い。ここでアセナに剣を収めさせ、また後日死地に送ればよい――そうした腹づもりであった。

「小娘を離し、退がれ。それは我等が金国のもの。貴様との夫婦のまねごとには使えぬぞ」

 マダグは寛大さを誇示しながら、アセナ達に手を伸ばした。

 アセナは荒々しく息を吐き、彼に刃を向けた。香雲は強い決意と共にマダグを真っ直ぐに見据えた。

「断る!」

 拒絶は重なっていた。

 何一つとして思い通りに動かない、決して役割を受けいれない二人にマダグは沸点を迎えた。

「小娘から離れろ」

 ついにマダグは剣を抜いた。その程度のことで、二人の決意は揺るがなかった。

「私はアセナのもの。あんたのものじゃない……!」

「わたしは香雲のものだ。兄上にはしたがえないな」

 二人の言葉が、マダグには理解できなかった。だというのに、二人の気迫にマダグは退いてしまいそうになった。

「やはり……貴様らは金国の法を乱す災いのようだ」

 ここでアセナを斬り、禍根を完全に断つ――その決意のもとにマダグは剣を振り上げた。時を与えれば、アセナは再び兵を募り、まつろわぬ軍を率いることになる。血族殺しの誹りを受けようと、彼は斬ると決心した。

「マダグッ!」

 香雲を後ろに押しやり、アセナは剣と剣を合わせた。力は拮抗し、両者は一歩下がる。その音を合図に加勢しようとしたマダグの衛兵とアセナの兵士が乱闘になる。そこに衛兵を止めようとする娼妓も混ざって執務室は混沌とする。混乱の巷にあってもマダグとアセナは冷静に互いの隙を伺っていた。

 先に仕掛けたのはマダグだった。彼は剣を上段に構え、力強く踏み出す。

「捨!」

 鋭い気勢と共に、マダグはアセナの斜め後ろにいる香雲を狙って突きを放った。アセナも狙いに気づいたが、一手、遅れる。アセナは体勢を崩しながら剣の腹で鋒を受け止め、刺突を逸らす。アセナの剣は真ん中でひしゃげ、折れてしまう。

 続けざま、横薙ぎに振り抜かれた剣を、アセナは辛うじて躱す。帯が切れ、腰に下提げていた弓と矢筒が床に散乱する。散らばった矢を踏み折りつつ、マダグは再び剣を上段に構えた。アセナは臆せず折れた剣をマダグに向けるが、突きを受け止めた際の衝撃が残っているのか、彼女の手は震えていた。

「虚けよ、死を受け入れよ」

 マダグは落ち着き払ったままだった。周囲での乱闘も衛兵が優勢になりつつあった。それでも尚、アセナは剣を下ろさなかった。

「動かないで!」

 だしぬけに死の気配を濃くするアセナとマダグの間に震える声が割りこむ。

 香雲が弓を構えてマダグに狙いを定めていた。先ほどの戦いで床に落ちた弓矢を、彼女は目ざとく拾い上げていた。

 だが、香雲の番えた矢は揺らいでいた。アセナの強弓は、少女に扱えるものではなかった。

 アセナは何も言わず、マダグを睨んだままだった。

 マダグもまた、視線をアセナに戻した。

「下らぬ。女の弓矢で我を討てるものか」

「香雲……わたしはきみを信じる」

 アセナの呼び掛けに香雲は頷いた。香雲は止まった的にどうにか中てられる程度の腕前しかない。さらに手にした強弓はまともに引けず、手練であるマダグに矢が中るかどうかも怪しいものだ。

 それでも香雲は弓を引く。

 弦が食い込み、血の滲んだ指を離す。

 初めから、香雲はマダグを狙っていなかった。

 反動でよろめきながらも、狙いは外さなかった。

 矢が空を裂き、そして――

 自ら射線に飛び出したマダグの肩を射貫く。

 アセナにとっても予想外の行動だったが、アセナは即座に突進し、折れた剣で袈裟懸けにマダグを斬った。

「ぐ……」

 深手を負ったマダグはよろめき、不自然な体勢で体を捻って、褥の側に崩れ落ちた。

 香雲が狙ったのは桃鳩図だった。

 彼女はマダグがあの絵に魅入られているのに気づいていた。彼の部屋を掃除させられた時、他の美術品は入れ替えられていたが桃鳩図だけは、ずっとあの壁にあった。初夜であっても彼は桃鳩図ばかり見ていた。

 動揺を引き出せば、アセナは彼に勝てる。そう見込んでの一射だったが、まさか絵を庇うとは思わなかった。

「マダグ殿!」

 娼妓とアセナの兵士を叩き伏せた衛兵の一人が主に駆け寄る。

 アセナは剣を捨て、香雲の手を取った。二人はしっかりと手を繋いで、窓へと向かう。衛兵が二人を捕らえようと駆け寄ってくる。

「小娘……! 貴様の狙った鳩は、千年後まで継がれるべき宝であるぞ……!」

 マダグはうずくまったまま桃鳩図に血が散っていないことを確認し、微かに笑った。

「我が成すことは全て久遠の繁栄のため……なぜ分からぬ……!」

 気力を振り絞った呻きを聞きながら、香雲は歯を食いしばった。

「滅びない国なんてない。私達はただ、この瞬間を自分のために生きるのよ」

 香雲はアセナに抱えられ、そのまま共に窓の格子を破った。

 外に投げ出された二人は夜道を走る。

 あちこちで怒号が上がり、蛍のように火が掲げられる。雨のせいで明かりは弱く、まばらだった。何が起こっているのか分からない者の方が多いだろう。行く手を遮るものはなく、背後の衛兵も遅れていた。

 脚を泥で汚しつつ、アセナと香雲が辿り着いたのは宮殿へと続く橋、かつて二人の出会った場所だった。

「行くのね、アセナ!」

 結果がどうなるのか分からずとも、これから何が起こるのか、香雲には分かった。

「ああ!」

 今夜は躊躇う暇なんてなかった。

 アセナと香雲は視線を交わし、そして欄干を登った。

 勢いを付けてしまえば、乗り越えるのは簡単だった。

 二人は抱きあったまま河に落ちる。

 このまま沈んでいくかと思ったが、香雲は出し抜けに身体が引き上げられるのを感じた。

「無茶なさる! 儂がもっと遅れていたら、どうするおつもりだったので?」

「きみなら必ず来ると、信じていた」

 アセナと香雲は、九狗の櫂に引っかけられていた。

 河は運河としても使われている。燕京へ赴くにあたってアセナは死を覚悟していたが、みすみす命を捨てるつもりもなかった。彼女は万に一つでも香雲と逃げ出せたのなら、河を使って燕京から離れられるよう、九狗に舟の確保を命じていた。

 舟に引き上げられ、香雲は咳きこむ。荒れた河を行く舟はどんどん橋が遠ざかっていく。

「まずは舟から振り落とされんよう気をつけてくだされよ!」

 香雲は九狗に力強く頷いた。

 雨に濡れた身体を震わせ、それから香雲はアセナに寄り添った。お互いの熱を分けあいたかった。

「これから……どうしようか」

 アセナは舟に横たわったまま、虚ろに呟いた。

 愛する人は救えた。しかし、失った者は戻らず、国にも戻れない。

 眼前の願いを遂げて、アセナは夢を失っていた。

「西域に行きましょう。砂地を見るの……広い広い、あなたのお母様も見ていた砂地を」

 香雲の言葉で、アセナは出陣の前夜、香雲と重なった夜を思い出した。

「でもまずは舟から下りて、身体を温めないとね。西域はそれから。ああ! 子守唄のことだってまだ歌詞が分かっていないわ。西域ならそれも分かるでしょう? それから、それから……」

 香雲もどうすればいいのか戸惑っているようだった。行き止まりから無限の虚空へと放り出されて誰もがその広さに驚いていた。どこを目指すのか、分からなくなっていた。

 しかし、烈しい雨の中で、アセナは唄が聞こえた気がした。

 舟に横たわったまま、アセナは香雲に語りかけた。

「唄を……つくりたい」

「どうして?」

 香雲も子守唄を思い浮かべたのか、彼女の声は優しかった。

「わたしを信じてくれた者は皆、往ってしまった。だから……唄を。わたし達がいなくなっても、誰かが皆のことを口ずさむように……」

 誰でも唄えるよう、色々な国の言葉で作りたい。ならば、西域に限らず様々な国を回るべきか――唄のことを考えていると、アセナは虚空に目指すべき光が生まれたように感じた。

 急流を下っていく舟で、アセナは星を見つめていた。


×××


 靖康の変より十四年後。

 南に逃れた宋と金の間に新たな和議が成り、北方へ攫われた女達も故郷に還された。

 それまでの間に、院の女達の過半はその命を異国にて散らした。

 さらに百年の時を経て、金は新たなる覇者――蒙古族によって滅ぼされ、南方にて再興した宋も蒙古によって今度こそ最期を遂げる。

 金王朝の命脈は百数年ほどの儚いものであった。

 『アセナ』なる者は現存する金王朝の系図には見られず、その名が残された史書もない。

 また宋への帰還者の中に趙香雲の名はなく、ただ金にて没したとのみ史書には記されている。今に伝わるのは、栄枯盛衰を見つめ続けた桃鳩図だけである。

 ただし――ユーラシア東北部から西部にかけての広大な地域には妻と従者を引き連れた女武芸者の童謡が各地に遺されており、多言語に訳されているその歌詞は失われた女真語や漢語を解読するための大きな助けとなっている。

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