灰と星の記憶(Ashes and Stars)

安倍乃 翔平

序章:空に消えた星たち

夜空はいつもと変わらず、淡い星の光で満ちていた。12月の冷たい風が木々を揺らし、丘の上を吹き抜けるたびに草のざわめきがかすかな音楽のように響く。このカリフォルニア州ロサンゼルス郊外の田舎町は、どこか時間が止まったような静けさをたたえていた。だが、その夜の空気には、どこか不穏な重さが漂っていた。真珠湾の惨劇を告げる報道が街中に広がり、戦争という影が少しずつ日常を侵し始めていることを誰もが感じ取っていた。


21歳のジェームズ・コナーは、そんな夜空の下、丘の上に座っていた。手には父から譲り受けた古びた双眼鏡を握りしめている。星を見るのが好きだった父の姿がふと脳裏に浮かぶ。あの頃は戦争の話など想像もできなかった。だが今、その双眼鏡で見上げる星々には、どこか違う意味が宿っているように感じられた。


隣には恋人のエリザベスが寄り添っていた。風が吹くたびに彼女の長い金髪が揺れ、ほのかな石鹸の香りがジェームズの鼻をくすぐる。彼女は少し小柄で、その華奢な肩は、まるで触れたら壊れてしまいそうに思えるほどだった。エリザベスは膝の上に置いた手をそっと握り合わせながら、無言で夜空を見つめている。


「……どうなるんだろうな、これから。」


ジェームズは静かに呟いた。双眼鏡を下ろし、遠くの地平線をぼんやりと見つめる。その声には、自分でも抑えきれない不安と疑念が滲んでいた。


エリザベスは顔を上げ、彼の横顔をじっと見つめた。星明かりがジェームズの顔を淡く照らし、その表情には普段の穏やかさが影を潜め、代わりに迷いが浮かんでいるのが見て取れた。


「戦争が始まるなんて、本当にあり得るのかしら?」


エリザベスの声は、静寂を破るように響いた。けれどその声には、不安を隠しきれない震えが混じっている。


ジェームズは答えなかった。彼の視線は星空に固定されたままだった。彼の頭の中では、幼い頃に聞かされた祖父の戦争の話がよぎる。銃声、爆撃、泥にまみれた兵士たちの姿――それはどれも、遥か遠い世界の出来事のように思えていた。けれど今、その現実が自分にも降りかかるのではないかという予感がじわじわと胸を締め付けていた。


「エリザベス……」


ジェームズは振り返り、彼女の手をそっと握った。その手は冷たく、震えていた。彼女の青い瞳に映る自分の顔が、なぜか小さく見える。


「僕がもし戦争に行っても――君は待っていてくれるか?」


彼の声は低く、いつになく慎重だった。問いかけながらも、彼女の返事を聞くのがどこか怖かった。


エリザベスはその言葉に一瞬目を見開いた。驚きと悲しみが入り混じった表情が彼女の顔に浮かぶ。そして、彼女は視線を地面に落とし、静かに頷いた。


「待つわ。でも……」


彼女の言葉が一瞬途切れる。ジェームズはその先を待つように、彼女の顔をじっと見つめた。


「でも、無事に帰ってきてほしい。約束して、ジェームズ。どんなことがあっても、生きて帰るって。」


エリザベスの声はかすれ、彼女の目には涙が浮かんでいた。ジェームズはその言葉を聞いて、胸の奥に鋭い痛みを覚えた。それが彼女の望みであり、彼の使命になると悟った瞬間だった。


「約束する。」


ジェームズは強く頷いた。その言葉には、彼ができる限りの誠実さが込められていた。だが同時に、戦争がその約束をどれほど困難なものにするのか、彼自身にも分からなかった。ただひとつ、彼が確信していたのは、エリザベスを守りたいという思いだけだった。


ジェームズはもう一度、ゆっくりと夜空を見上げた。そこには、まるで何事もなかったかのように瞬く無数の星々が広がっている。戦場とは無縁の、静かで冷ややかな光。その美しさは、むしろ残酷だった。どれほどの命が失われようと、どれほどの悲劇が繰り返されようと、星々は変わらずそこにある。ただ遠く、冷たく、何も語らずに。


生きて帰る。エリザベスのもとに。


ジェームズはもう一度誓った。どんなに過酷な現実が待ち受けていようと、どんなに運命が彼を試そうとも——必ず、生き抜く。



その夜、東京郊外の農村地帯では、一面に霜が降りていた。夜空には満天の星が輝き、月明かりが田畑を淡い銀色に照らしている。寒さに静まり返った冬の風景は、どこか物寂しく、それでいて雄大な広がりを感じさせる。木々の間を吹き抜ける風が低く唸りを上げ、その音だけが夜の静寂を破っていた。


山下翔太は、家の裏手に広がる田畑の真ん中に立っていた。彼の手には薄手の作業着しかなく、そのポケットにかじかんだ手を深く突っ込んでいる。それでも、冷たい空気が袖口から忍び込み、彼の身体をじわじわと凍えさせていた。鼻から漏れる白い息が、夜空に薄く漂いながらすぐに消えていく。


翔太の家は代々続く農家だった。戦争の影響が徐々に生活を蝕んでいるとはいえ、彼は毎日黙々と田畑を耕し、収穫を続けてきた。兄が召集されてからというもの、翔太は一家の柱として働き続けている。19歳の若者にとって、それは重すぎる責任だったが、彼に逃げ道はなかった。


星空を見上げながら、翔太はポツリと呟いた。


「戦争なんて……誰のためにあるんだよ……。」


その声は夜空に吸い込まれ、冷たい風にかき消された。だがその問いかけは、翔太自身にも答えられないものだった。祖父が語っていた日露戦争の話を思い出す。あの頃も、国のためだと言われながら、多くの若者が命を落とした。結局、それで何が変わったのか。そんなことを考えるたびに、胸の奥にやり場のない苛立ちが渦巻いていた。


遠くから微かに、家の中からすすり泣く音が聞こえてきた。翔太の母親だった。彼女は台所で祖父の世話をしながら、日ごとにやつれていっていた。最近では食事をとるのも億劫そうで、翔太はそれを見るたびに胸が締め付けられるような思いをしていた。すすり泣きが耳に入ると、翔太は拳をぎゅっと握り締めた。その手には固いタコがいくつもできており、それが彼の日々の労働を物語っている。


「俺が守らなきゃならないんだ……。」


翔太の言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。家族を守るという責任感が彼を突き動かしていた。けれど、戦争が彼を家族から引き離すのではないかという不安が心の奥底に潜んでいる。兄が戦地に向かう日、母が見せた涙、祖父の深いため息。それらがすべて、翔太の中に大きな影を落としていた。


「兄貴は……どうしてるんだろうな……。」


翔太の声は再び風に消された。召集されてからというもの、兄からの手紙は数えるほどしか届いていない。戦地での生活がどのようなものなのか、翔太は想像すらできなかった。ただ一つ分かるのは、兄もまた、家族のことを想いながら戦っているだろうということだった。


冷えた土の感触を感じながら、翔太はゆっくりと歩き出した。家に戻る足取りは重い。母と祖父のいる家の明かりが、夜の中でぼんやりと揺れているのが見えた。その明かりを見て、翔太は自分の心に言い聞かせるように思った。


「俺がいなくなったら、この家はどうなるんだ……。でも、もし呼ばれたら……断れない。」


彼の中には、家族を守りたいという思いと、どうしようもない運命への諦念が交錯していた。両者の間で引き裂かれるような感覚を覚えながらも、翔太は心のどこかで既に覚悟を決めていた。どれほど無力であっても、与えられた役割を果たさなければならない――そう自分に言い聞かせることで、彼はようやく一歩を踏み出せた。



翔太が家の引き戸をそっと開けると、ほのかに灯る明かりが目に入った。油の匂いのする小さな行灯の下で、母親が静かに祖父に薬を飲ませている。祖父は痩せた手を震わせながら茶碗を受け取り、ゆっくりと喉を鳴らした。母はそんな祖父をじっと見守りながら、優しく背をさする。その横顔には、疲労の色が滲んでいた。


翔太は足を止め、その光景をじっと見つめた。幼い頃から変わらない母の献身的な姿。家族を守るために、懸命に生きる姿。その姿を見ていると、胸の奥がぎゅっと締めつけられるようだった。


彼は拳を握りしめる。


「俺がこの家を守る。たとえ戦地に行っても、必ず……帰ってくる。」


それは決意であり、願いだった。戦争がどれほど過酷なものかは分からない。だが、それでも——家族を守るために、自分が強くならなければならない。


翔太はそっと目を閉じ、静かに誓った。しかし、その約束を果たせるのかどうかは、この時の彼にはまだ分からなかった。いや——それを知る者など、どこにもいなかった。



太平洋を挟んで、二人の青年は同じように夜空を見上げながら、それぞれに大切なものを守ると誓っていた。しかし、戦争という巨大な力が、その誓いを簡単に飲み込んでしまうのかもしれない。ジェームズが立つ丘と、翔太が立つ田畑。そのどちらも、今は静寂に包まれている。けれど、その静けさは嵐の前触れに過ぎなかった。


二人はまだ互いの存在を知らない。遠く離れた場所で生きる、全く違う人生を送る二人。しかし、運命の糸はすでに動き出している。ジェームズが握りしめたエリザベスの手と、翔太が握り締めた自らの拳。それは、互いに見知らぬ相手を守ろうとする決意の象徴だった。


その運命の糸がどこで絡まり、どのように結ばれていくのか——それを知る者はまだいない。 互いに異なる道を歩んできた二人が、やがて交わることになるのか、それともすれ違い、遠く引き裂かれてしまうのか。答えは、まだ夜の闇の向こうに隠されている。


しかし、ただひとつ確かなことがある。静寂の中で瞬く星々は、時の流れに消えゆく無数の命を見届けながら、それでも変わることなく、夜空の彼方から二人を見守り続けているのだった。

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