ナットウキナーゼにさよなら

箱女

01 はじまり

「……は? なんだって?」

「ですから! ハートの強いあなたにハートの弱い私の手助けをお願いしたくて!」

 ふたりがいるのは昇降口の庇の上。くちばしのように昇降口が出っ張っている校舎のデザインのせいで二階の窓を乗り越えると行くことができる。もちろん危険ということで立ち入り禁止になってはいるが、そこは高校生、つまるところ彼らの自主性に委ねられてしまう部分が大きい。もちろんバレれば怒られる。

 意を決した表情と呆気に取られた顔が向かい合う。そこには暖簾を全力で殴ろうとする種類のかみ合わなさがある。

「ハートがどうの以前にお前誰だよ」

「一年一組、藤高ふじたか芙由ふゆです」

「藤高ね。で、俺お前のこと知らないんだけど、それで頼みごとってマジ?」

「マジです」

 軽薄とも取れるような問いに芙由は迷いなく返す。ふたりの間には気圧の差ができている。真剣さのずれ。しかし世界を貫く法則のひとつは決定的なものだ。遮るものがなければ高いところのものは低いところに流れ込んでいく。滝のように。

「私は、羽鳥さん、あなたから学びたいんです!」

「ちょっと待て。そんなに気合入れんな。よく意味もわかってねえし」

 羽鳥は背中に校舎の壁を感じた。下がることはできない。ついでに逃げ道の窓も遠い。その気になれば庇から飛び降りることもできなくはないが、羽鳥本人はともかく下校中の誰かが下にいた場合はシャレにならないことになる可能性がある。

 空を見上げるとまだ青い。ちいさいころには放課後といえばすぐに夕方を想起したものだが、実際はそんなこともない。すくなくとも上着を着るような季節にならないと放課後直後と夕方は一致しない。羽鳥は余計なことを考えていた。

「失礼しました。でも言葉どおりです。私は羽鳥さんからハートの強さを学びたいと思ってるんです」

「そもそもそれが何だ、って話もあるけどよ。学ぶとどうなんの?」

「これからの人生、それが弱くてどうしますかってことです。この先、怯えてすくんでちゃいけない日がいつか来ます。私の足で立ってないといけない時が来ます。でもいまのままだと私はきっとその時に弱さが出ると思うんです」

 はじめから芙由から出てくる言葉を想定していなかったこともあって、羽鳥はそのスケール感にちょっとヒいた。初対面の相手に先々の人生の懸念点を語る女子高生にプラスの印象を抱くのは難しい。これがたとえばテレビドラマやマンガだったりの出来事ならそれほど思うところもなく聞き流すだろう。しかし羽鳥が直面しているのはその言葉が自分に向けて投げかけられているという現実だ。仮に芙由の言うハートが強いという評価が妥当なものなのだとしても、この状況を楽しめるほどの大人物ではない。

「あ、ああ、そうだな。頑張れよ」

「はい! よろしくお願いします!」

「待て待て待て、許可はしてねえよ、お前個人で頑張ってくれよ」

 羽鳥は手のひらを芙由に向けるが、自分の指のあいだから見える彼女の目に宿った決意がまぶしい。こういった手合いを折るのは困難だ。どこか子どもの強烈な願望に似た部分がある。そこまではかなり距離があるが、拒否を続ければいつか泣くのではないかという予感さえある。

 逃げたい気持ちと、いったい何をやっているんだという気持ちがぐるぐると回って混じって、よくわからない、という結論が出力された。それは諦めたことと意味を同じにしていた。

「……わかったよ、好きにしてくれ。でも俺から教えることなんて何もねえからな」

「はい! ありがとうございます!」

 こういうふうにお礼を言われるのはガラじゃなくて、羽鳥はなんだか照れた。

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