カナリアを迎えに
霙座
黄金と春 前編
王都から北の方角、断崖に建てられた円塔の最上階に放り込まれて一年が経つ。
稀代の悪女と恐れられた噂も審判が終わって数年もすれば、世間の関心は薄れる。王都の監獄にいた頃に比べると、もう、かなり無に近い。悪意でも誰かの関心があった方がよかった。
短くため息をついた。家を失って身分も、家族も失った。尊敬していた父から譲り受けた金色の瞳で、サラセニアは北側に一カ所だけ開いた窓を見た。高く上がった太陽は降り積もった雪を光に変える。白を頂いた山脈を小さく切り取った絵画から、冷たい空気が吹き込んで、肩の上の髪を揺らした。
サラセニアは硬いベッドサイドに腰掛けて、暖を取るため炎の魔術を唱えた。ふわりと空気が温まる。
この塔には王都の魔術師の結界が張られている。王国屈指の魔術師だったサラセニアを閉じ込めるための強固な結界だった。だから結界の中で使える魔術は限られていた。
——正確に言い直せば、塔に閉じ込められてからサラセニアが開発した結界内で使える魔術、に限られていた。
塔の中は死にそうなほど寒いわけではない。紐の一本の飾りもない木綿のワンピースの他に履物も羽織も与えられていた。だけど快適ではない。
また北風が吹き込んだ。
「早く春になればいいのに」
呟いてはみたものの、春に何か楽しみがあるわけではない。それでも季節を巡る度に、残る刑期は縮まっていく。十年後、自分は果たして、いや、諦めるわけにはいかない。
こおん、こおんと螺旋階段を上がってくる足音が聞こえて、サラセニアは立ち上がった。塔の螺旋階段は妙に響いた。肩で切り落とされた髪をざっとかき上げて、迎え撃つ準備をする。
鉄格子の向こう、階段から頭を覗かせた警備の兵士は、最上階の室温が高い理由にすぐに気が付いた。
「魔術の使用は禁止されていま」
「紙とインクを持って来いって言ったでしょう!」
何か小言のようなものが聞こえた気もしたが、先に怒鳴りつけた。
兵士はサラセニアの勢いにたじろいで、息を飲んだ。
「……それは昨日差し入れたばかりなので」
深呼吸した後、サラセニアとなるべく目を合わせないように、兵士は鉄格子の間から昼食の盆を入れた。この兵士で塔の見張りは何人目だろうと考える。一人目は悪女の顔を見ただけで竦み上がった。ひと月持たず交代した二人目は、サラセニアが結界内で魔術を使ったことを王都に報告に行って帰ってこなかった。報告のためと言われて交代した三人目は罪人が毎日要求する書物を馬鹿正直に差し入れしたから辞めさせられて、今四人目。比較的肝が据わっている。
ふん、とサラセニアは顎を突き出す。
「書物も足りないわ。研究書もみんな古いのよ」
「そうは言われましても、検閲を通ったものしか」
「この論文はとっくに読み終わっているものよ」
三年前に発表された論文は、演題名も簡素に「ビクトリシア王国魔石師に関する報告」だった。
兵士に投げつけた冊子は鉄格子をすり抜けたが、兵士が避けて、ばさりと中身がむき出しになって石畳に落ちた。
「それは、光栄ですね」
気の毒な冊子は、兵士の後ろから上がってきた人物の手によって拾われた。その顔を見て、サラセニアはぎり、と奥歯を噛む。
サラセニアが魔導士団に在籍していた当時、わざわざサラセニアをアカデミーの研究発表会に招待してきたこの著者は、少なからず縁のある、むしろ直接的に共犯者の。
「フォース!」
「ゴールド・フォース伯爵、ですよ。サラセニア」
すっきりした目鼻立ちの男は、細い縞柄の暗色のコートを着こなしていた。流行の淡い色ではないコートは、サラセニアが世間を断って数年流行が変遷したのかは知らないが、一見地味だった。だが上品な光沢は、落ち着いた佇まいによく似合う。相変わらず趣味がいい。
学者風情が、と心の中で毒づいたが、今のサラセニアには貴族に歯向かうことは許されない。
サラセニアは黙って、柔和に微笑む男と視線を合わせた。
魔導士団に所属していたサラセニアは、魔物を捕獲し、生きた状態で保存する装置の開発を進めていた。完成の決定打となった理論を、当時助教授だったフォース伯爵から買ったのだ。目の前の男は、自分で確かめるだけの魔力を持たないからとサラセニアの装置の完成に期待を寄せ、助力を惜しまなかった。連日連夜細部に亘る議論を重ね、ようやく装置は完成した。
「元気そうで安心しました。急に会えなくなったから」
「支払いは済んでいたでしょう」
「売買契約だけの関係だとは思っていなかったのですがね」
装置の完成後すぐに、南の森への遠征が入った。仕事だったし、挨拶ができなくても仕方がない。装置が完成したから会う理由はもうなかったが、恋人としての伯爵を捨てたわけではない——が、確かにあのときは、少しばかり位が高い男に目移りしていた。
初恋のひとだったもの、しょうがないじゃない。
自分がのめり込むタイプなのは承知している。高望みできる条件が重なって、今となって思えば、やや無謀な執着をしてしまった。その結果、こんな籠の中で幽閉されることになった。恋愛だけにはまったわけじゃない。それでも原因の一端になっている。こんな環境になってしまったからって強がっているわけじゃない。恋だとか愛だとかはもういい。心からそう思う。
フォースは冊子をパラパラとめくり、ところどころ書きなぐられたサラセニアの筆跡に満足そうに頷いた。
「良かった。貴女の魔術の探求に対する情熱は薄れていない」
「……当然よ。わたくしには最初から魔術だけだったのよ」
フォースは仕切られた鉄格子の前まで歩を進めた。サラセニアは動かずにフォースが近づいてくるようすを眺めた。対峙すると、自分のみすぼらしさが悔しかった。
ぱたんと書籍を閉じ、フォースはサラセニアを見つめた。
「魔術師サラセニアに、死を与えに来ました」
男の口から放たれた言葉の意味が、わからなかった。
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