【短編集】虹に火を点けたら世界は焦げる
大地
公証ワンナイト
「じゃあ、そろそろ行く?」
佐藤修一は、グラスを空にしながらそう言った。
「うん。でも、公証役場、まだ開いてるかな?」
高橋由美もまた、最後の焼き鳥を口に運びながら答える。
ここは新宿の雑居ビルにある居酒屋「酔いどれ判」。カウンター席には、今日も男女のペアが何組か並んでいる。どの組もそれなりに酔っていて、それなりに打ち解けていて、それなりに互いを見つめている。そして、会話の最後には必ず、この一言を交わすのだ。
「公証役場、まだ開いてる?」
そう、202X年のこの時代、ワンナイトに公証人の立会いは必須だった。
この国では、性交同意契約書(正式名称:性的行為合意確認契約書)を公証役場で交わさない限り、合意の証明ができない。つまり、事後になって片方が「やっぱり嫌だった」と言えば、それだけで不同意性交罪が成立するのだ。
そのため、もはやナンパも合コンも全て公証役場行きが前提である。
当然、役場は大繁盛。
「23時まで」と書かれた看板の前には、夜な夜なカップルたちが列をなしている。
これを「役場デート」と呼ぶ者もいるし、「契約締結(コントラクト)」と呼ぶ者もいる。真面目な者は「ラブ・ドキュメンテーション」と格好をつけるが、居酒屋の酔っ払いどもは単に「公証行こうぜ」と叫ぶ。
ともかく、佐藤と高橋も、その流れに乗っていた。
居酒屋から役場へ。
「まだ間に合うな。」
佐藤は時計を見ながら、財布を取り出す。
「タクシー呼ぶ?」
「いや、歩こう。酔い覚ましに。」
二人は連れ立って、居酒屋を出た。
繁華街のネオンの中を進み、公証役場の入るビルへ向かう。
「最近の契約って、どこまで細かく書くの?」
高橋が聞く。
「基本のテンプレートは、『性交渉に関する双方の合意』と『事後の取り消しは一切不可』だけど……最近は追加条項を入れるのが流行りらしい。」
「追加条項?」
「例えば、『翌朝の朝食は提供しない』とか、『連絡先の交換は不要』とか。」
「へえ、そんなのまで?」
「他にも『二回戦を希望する場合は追加契約』とか、『翌日まで泊まり可』とかもある。」
「なんかもう、賃貸契約みたいだね」
「まあ、そうだな。最近は合意管轄も指定できるんだよ。」
「合意管轄?」
「契約が揉めた場合、どこの裁判所で争うかってやつ。」
「そんなの、必要?」
「万が一、事後になって『実は無理だった』とか言われたときに、どこで裁判するかを事前に決めておくんだよ。東京地裁で争うか、相手の住居地の裁判所にするか、とか。」
「……どこで揉める気満々なのよ。」
「念のための保険だよ。契約社会では、何事も細かく決めておかないと。」
二人は笑いながら、役場のエントランスに入った。
「本日、最後のお客様ですか?」
受付の職員が、疲れた顔で出迎える。
「はい。性交同意契約、テンプレートで。」
佐藤が言うと、職員は慣れた手つきで契約書をプリントアウトする。
「テンプレートに追加事項があれば、今のうちにどうぞ。」
「ええっと……」
二人は顔を見合わせる。
「どうする?」
「別に、普通でいいよ。」
「じゃあ、追加なしで。」
佐藤は契約書を確認し、サインする。
高橋も同じように署名をし、二人の契約は公証人の印鑑によって正式に成立した。
「性交渉に関する双方の合意、確認しました。これにより、いかなる事後の異議申し立ても無効とします。」
「よし、これで準備完了。」
佐藤は契約書のコピーを受け取り、高橋と並んで役場を出た。
「じゃあ、行くか。」
「うん。」
契約書を手にした二人は、タクシーに乗り込む。
「どこ行く?」
「近くのホテルでいいんじゃない?」
「そうだな。」
後部座席で揺られながら、佐藤はふと考えた。
(これって、本当に楽しいのか?)
以前は、こういう流れにもドキドキしたものだ。居酒屋で打ち解け、自然と手をつなぐ——そんな展開にスリルがあった。
だが、今はどうだ。契約を交わし、権利関係を明確にした上で、まるで業務のようにベッドに向かう。
ふと隣を見ると、高橋もまた、契約書を見つめながら、何かを考えているようだった。
タクシーは、静かにホテル街へと向かっていた。
翌朝。
佐藤は、ベッドの上で目を覚ました。
隣には高橋が寝ている。
(……まあ、普通だったな。)
契約通り、一夜を共にしただけのこと。特に問題もなく、トラブルもなく、スムーズに事は進んだ。
ただ——
(何か、物足りないな。)
そう思いながら、佐藤は契約書をもう一度眺めた。
「性交渉に関する双方の合意」
「事後の取り消しは一切不可」
「専属的合意管轄:東京地方裁判所」
妙に現実的な文字を見つめながら、佐藤はベッドを抜け出した。
部屋の窓から外を見ると、公証役場のビルが朝日に照らされていた。
——今日も、また何組もの男女が、そこへ向かうのだろう。
(そういえば、宿泊の追加条項はいれてなかったな……)
「……東京地裁か。」
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