『血翳(ちかげ)の35階 ―深夜零時、呪われたオフィスの古き約束―』
ソコニ
第1話「深夜零時の警告」
プロローグ 「母からの手紙」
遺品整理の最中、古い箪笥の引き出しから一通の手紙が見つかった。母の達筆な文字で、私の名前が書かれている。開封すると、かすかに線香の香りが漂った。
『愛する娘へ
あなたが、この手紙を読む頃には、私はもうこの世にいないでしょう。そして、あなたの左手首の痣が、これまでとは違う輝きを放ち始めているはずです。
あの日、私は選択をしました。古い血の因縁から、あなたを守るための選択を。しかし、それは逃避ではなく、新しい時代のための布石だったのです。
35階の記録を守る者たちを探しなさい。そして、あなたの中に眠る血の記憶が目覚めた時、すべてを理解することでしょう。
ただし、気をつけなければならないことがあります。血の力は、使う者の心次第で、祝福にも呪いにもなり得る。そして、あなただけではないのです。血の記憶を持つ者たちが、今も世界中で目覚めつつあることを...
必ず、また会えることを信じています。
母より』
手紙を読み終えた時、左手首の痣がかすかに疼いた。窓の外では、朱く染まった夕陽が、高層ビル群の間に沈もうとしていた。
第一章「深夜零時の警告」
画面に映る自分の顔が、一瞬歪んだような気がした。最近導入された顔認証システムは、深夜になると時々誤作動を起こす。その度に、モニターに映る自分の顔が、まるで古い浮世絵のように歪んで見える。同僚たちは単なるシステムの不具合だと笑うが、私には何か不吉なものを感じずにはいられなかった。カラスの鳴き声に驚いて顔を上げると、35階の窓の外には漆黒の夜空が広がっていた。時計は午後11時15分。システム移行まであと45分。
「佐伯さん、チェックリストの確認をお願いします」
声をかけてきたのは、新入社員の木村だった。彼女の心配そうな表情に、私は安心させるように微笑みかけた。
「ええ、もう一度確認するわ」
グローバルITソリューションズ社の本社ビル35階。普段は200人以上の社員で賑わうフロアも、この時間になると私たち5人だけが残されていた。システム移行チームのメンバーだ。
ガラス張りのパーティションで区切られたオフィスは、夜になると妙に冷たい印象を与える。昼間は心地よく感じる空調音も、この時間になると不気味な囁きのように聞こえる。白を基調としたモダンなデザインのオフィスは、深夜になると異様な存在感を放っていた。
先週から、この35階だけで奇妙な出来事が続いていた。夜勤の警備員が不可解な物音を報告し、清掃スタッフは早々に帰るようになった。誰もが口にはしないが、この階には何かがいる。そんな噂が、社員たちの間で密かに囁かれていた。
チームリーダーの私、佐伯麻衣。入社8年目で、システム移行プロジェクトの指揮を任されている。スリムな黒縁メガネをかけ、常にストレートな黒髪を後ろで束ねている私の姿は、典型的なIT企業の中堅社員そのものだ。
新人システムエンジニアの木村舞は、入社3ヶ月とは思えない実力の持ち主。丸い瞳と清楚な雰囲気の中に、鋭い知性を感じさせる。もう一人のエンジニア、山田健一は口数が少なく、常に不安そうな表情を浮かべている。この数日、彼の様子がさらにおかしい。
データベース担当の中村俊介は、温厚な性格で誰からも信頼されている存在だった。だが最近は、深夜残業の疲れからか、別人のように沈んでいる。
そして、顧客データ管理の責任者である藤井部長。50代後半の彼は、この会社の古株で、35階の歴史を知る数少ない人物の一人だ。何かを知っているような、そんな表情を時々見せる。
「佐伯さん、移行後のバックアップは私が担当します」
木村が真面目な表情で言った。彼女は入社してまだ3ヶ月だが、仕事への姿勢は誰よりも真摯だった。
「ありがとう。でも無理は禁物よ。特に今夜は…」
その言葉を遮るように、フロア全体の照明が瞬時に消え、また付いた。刹那、窓に映った私たちの姿が、まるで別の人のようにゆがんで見えた。
「また停電?」
山田が不安そうに周囲を見回す。先週から、この階だけ微細な停電が続いていた。営繕に確認しても原因は特定できないという。
「サーバールームの温度が下がっています」
中村の声が、やけに冷たく響いた。普段は温厚な彼が、ここ数日様子がおかしい。目の下のクマが濃く、肌の色も悪かった。昨日から、彼は誰かと話をしているような独り言を繰り返していた。休憩室で居眠りをしている時も、「もう時間がない」と呟いているのを聞いた。
「中村さん、具合が悪いなら帰りましょうか?」
私が声をかけると、彼は一瞬、まるで別人のような鋭い目つきを向けてきた。その瞳の奥に、得体の知れない暗いものが潜んでいるような気がした。だが次の瞬間、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「大丈夫です。この仕事を、終わらせないと」
その言葉には、どこか切迫した響きがあった。
「確認してきます」
藤井部長が立ち上がった瞬間、全員のパソコンの画面が青く明滅した。チャットウィンドウが勝手に開き、意味不明な文字列が流れ始める。
【まもなく、私たちの時間です】
誰も打ち込んでいないメッセージが、次々と表示されていく。
【約束の時が来ました】
【35年目の、約束を】
「誰かのいたずらかしら」
私が声を上げた時、中村のデスクから異様な音が響いた。彼は画面に釘付けになったまま、椅子に深く沈み込んでいた。
「中村さん?」
木村が声をかけても返事はない。その姿が、まるでディスプレイに吸い込まれていくように見えた。次の瞬間、彼の姿が消えた。椅子には、一枚の古ぼけた写真が残されていた。
江戸時代の着物を着た女性が写っている。その表情は怒りに満ち、今にも写真から飛び出してきそうだった。裏には達筆な文字で「祟り神」と書かれていた。
警備室に連絡を入れると、すぐに警備員2名が駆けつけてきた。年配の加藤警備員と、新人の村上だ。
「防犯カメラの映像を確認させてください」
加藤が操作卓に向かい、中村の失踪時刻の映像を再生した。最初は通常の監視映像だった。中村がパソコンに向かい、何かを必死に入力している。その背後に、一瞬、着物姿の人影が映り込む。誰も気付かなかったその存在は、中村に近づくにつれて実体を帯びていく。
突然、画面全体が大きく歪んだ。中村の姿が霧のように薄れ、ついには完全に消失。その瞬間、着物姿の女性の顔がはっきりと映し出された。怨念に満ちた表情で、まっすぐにカメラを見つめている。
「これは...」
加藤の声が震えていた。35年の警備員生活で、こんな映像は見たことがないという。
「藤井部長、以前も似たような...」
村上が何か言いかけた時、加藤が彼の腕をきつく掴んだ。何かを言いかけて、口をつぐんだ。
「申し訳ありません。以前の事故について話すことは、厳しく禁止されているのです」
村上は深く頭を下げ、加藤警備員の制止を受け入れた。その表情には、何か重大な秘密を知っているような影が浮かんでいた。
藤井部長は険しい表情で二人を見つめていた。その目には、ただならぬ緊張が浮かんでいる。携帯電話を取り出すと、緊急連絡網をスクロールし始めた。だが、その手が微かに震えているのが見えた。
「警察には、まだ連絡しないでください。これは社内で解決しなければならない問題です。歴史のある問題なのです」
藤井部長の声には、どこか切迫した響きがあった。その言葉に、警備員たちは意味ありげな視線を交わした。彼らもまた、この建物の暗い歴史を知っているようだった。
「35階の記録は特別に管理されています。そして、その理由を知る者は、もう数人しか残っていないのです」
藤井部長はそう言って、古びた手帳を取り出した。その表紙には「35F記録」という文字が、かすれた金文字で刻まれていた。
このとき、誰も気付いていなかった。中村のパソコンの画面に、さらなるメッセージが表示されていたことを。
【次はあなたの番です】
【血は、血を呼びます】
時計は午後11時30分を指していた。システム移行まで、あと30分。35階の闇は、私たちの存在を静かに包み込んでいた。
中村のデスクに残された写真。それは確かに江戸時代のものだった。しかし、よく見ると写真の隅には現代的なオフィスビルが写り込んでいる。そして、その建物は紛れもなく、私たちが今いるこのビルだった。
「佐伯さん、人事データベースに異常が…」
木村の声が震えている。画面には、中村のプロフィールが表示されていた。入社日から現在までの記録が、みるみる消えていく。まるで、彼がこの会社に存在していなかったかのように。
「藤井部長、35階の記録係というのは、どういう部署なのでしょうか。私は入社以来、そんな部署があるとは聞いたことがありません」
私の問いかけに、藤井部長は一瞬、言葉を詰まらせた。額に浮かぶ汗が、蛍光灯に照らされて光る。
「佐伯さん、このビルには古くからの決まりがあります。ただ、今はその話をする時ではありません」
藤井部長の声には、どこか取り返しのつかないことが起きてしまったような諦めが混じっていた。
その時、藤井部長のスマートフォンが震えた。画面には「35F記録係」という見覚えのない名前が表示されている。しかし彼は慌ててそれを消した。
「35階の記録係って...」
私が問いかけようとした時、全てのパソコンの画面が一斉に暗転した。再び点灯した時、デスクトップの壁紙が一様に変わっていた。画面の明滅に合わせて、藤井部長の表情が徐々に硬くなっていく。彼は何かを知っている。この階で起きている出来事の真相を。
夜の街並みを写した写真。よく見ると、このビルの35階のオフィス。窓際に立つ着物姿の女性が、こちらを見つめている。その表情には、これから起こる出来事を予言するような不気味な微笑みが浮かんでいた。
「システム移行は中止します」
藤井部長の声が、やけに虚ろに響いた。
「帰りましょう」
その言葉に誰もが頷いた。しかし、エレベーターのボタンを押しても、扉は開かない。非常階段へ向かおうとすると、ドアが重く、びくともしない。
私たちは、35階に閉じ込められていた。
時計は午後11時45分を指していた。深夜零時まで、あと15分。
「藤井部長、実は私も気になることがあるんです。先週から、この階で奇妙な出来事が続いているように感じます」
木村が震える声で切り出した。彼女は自分のスマートフォンを取り出し、保存した写真を見せた。先週の深夜、このフロアで撮影したものだという。写真には、窓際で佇む着物姿の女性が写っていた。その姿は、防犯カメラに映った女性と瓜二つだった。
「これを撮影した後、スマートフォンの調子がおかしくなって...」
木村の言葉を遮るように、彼女のスマートフォンが突然、けたたましい音を発した。画面には意味不明な文字列が流れ始める。
【約束の時が来ました】
【35年目の、私たちの時間です】
その瞬間、フロア全体の温度が急激に下がった。窓ガラスが結露し始め、私たちの吐く息が白く濃くなっていく。
この夜が、私たちにとって永遠の夜になるとは、まだ誰も知らなかった。だが、その予感は確実に、35階の闇とともに忍び寄っていた。
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