唯の茶色い塊

坂口青

唯の茶色い塊

 別に落ちるのは今日に始まったことじゃない。五回目からは数えるのは止めた。でもまだ多分七八回目だ。

 落選。そんな甘ったれた言い方に逃げるのは嫌いだった。落ちることに選ばれたんじゃない、選ばれなかったから落ちたんだ。だから「落ちました」ってツイートにはいいねしても「落選しました」にはしない。俺の勝手なルールだ。

 駅は煩い。唯本屋に行くだけなのにJRに乗り換える人と肩がぶつかり、低い天井に音が反響するコンコースに耳を塞ぐ。地下一階の書店は、果たして本当に地上から一階分地下にあるんだろうか? 地上から中に入ったら二階で、一階から外に出たら地下で。そんな何もかもがめちゃくちゃに接続されたこの駅で、俺は自分が落選した新人賞の受賞作掲載誌を探そうとしている。


 書店はいつから雑貨店になったか、覚えてはいない。俺が小学生のときにはまだ書店は書店だった。しかし今目の当たりにしているのは、間違いなく雑貨店だ。――だって書店にバレンタインフェアは存在しない。

 赤いリボンでくくられた茶色い塊があしらわれたポスター。プレゼントに文房具どうですか? 五パー引きらしい。マスクの中で溜め息をつく。学校で隣の席の奴がばらまいていたチョコの匂いが、する。放課後に食ったからだ。

 季節モノの本が並ぶ棚には、チョコ菓子そのものすら置いてある。食べ物がある書店というのはどうにも気持ち悪い。大体図書館だって、本の保護のために飲食物の持ち込みは禁止のはずだ。

 振り向くと知っている棚。胸を撫で下ろすと同時に不安になる。ここの在庫が変わってるのを見たことがない。文芸誌に興味を持つ十七歳って、一体この世にどのくらいいるんだろうか。大小様々、現代的な見た目になっていたりいなかったり、そんな文芸誌コーナーで目的の物を探す。

 迷わず手に取って会計に行く。文芸誌は予想の二倍する。溜め息は甘ったるい匂いがするから我慢だ。

「こちら三月号でお間違いないですか?」

 店員に聞かれ無言で頷く。カバーは聞かれない。当たり前だ、雑誌だから。

 鞄にしまう。ちゃんと目を通したことはないが、この文芸誌の表紙は好きだった。焦げ茶色に白文字、イカつい明朝体。シンプルなデザイン。俺の書く文学にふさわしい見た目だ。今回の新人賞は「全く新しい作品」の募集だった。落ちたけれど。

 しかし拗ねて受賞作も読めないほどは落ちぶれていない。小口に触れて、紙の鋭さに惚れ惚れした。これでこそ文芸誌だ。頬の緩みも、きっとマスクで隠れる。


 電車、やけに紙袋を持つ人が多い。足元に置かないのは、やはり中身は熱に弱いからか。

 吊り革を掴んでスマホを持つと、毎日やっている動きなのに手の本数が足りない。鞄とスマホを同じ手で持って、吊り革を反対の手で。これに毎日失敗しているのは、二倍角の公式を覚えないで毎回導出する奴みたいだ。

「理解と暗記は違うが、確実な理解は暗記と同等に見える」

 物理教員の言葉だ。物理公式は暗記ではなく理解。そう繰り返すあいつは、今日は休みだった。教室に蔓延る甘さが嫌になったのだろうか。

 理解は得意だった。じゃなきゃ小説なんか書こうと思わない。暗記は苦手だった。だから文学が好きなのに理系だ。

 言葉に意味が与えられる。定義。言葉と言葉がつながり、さらに大きな意味になる。定理。全ての底には暗黙の了解がある。公理。小説も数理も同じだ。

 俺はまだ勉強中。だから賞に落ちたら受賞作を読む。正解を、正解とされるものを理解する。それで初めて、俺が言葉に与えた意味が俺が投げつけたい相手に届く。

 もう最寄り駅のアナウンスが入る。頬は暖房の風を浴びてカサカサだ。ドアが開くときの冷気の気持ち良さを思って、停車を待つ。


 大賞。

 人物の名前がカタカナ。ファンタジーものだった。そういえば、ジャンルフリーなのだ、この賞。名前が頭に入らず困惑しながらも、読み進める。

 竜が、出てくる。恐ろしく美しい竜の繊細な描写が続く。比喩は綺麗だけれど、肝心の竜の姿がどうしても像を結ばない。俺の想像力と語彙の貧弱さの問題なんだろうか?

 主人公とヒロインのやり取り。主人公はひ弱でヒロインは勝気。そんな図式すらも分かり切ったものに見えてしまう。ここで主人公が強さの片鱗が描かれる。そして最後には伏線回収。俺だったらそうするし、それが定石。

 青チャートみたいなものだ。そして良問は、典型問題の図式を逆転させる。あるいはもっと根本を問う。小説も同じだ。何をひっくり返すのか。

 竜は倒さなければならない。ファンタジーの図式。武器は何だか抽象的な力を帯びている。遺伝だとか記憶だとか、主人公の特殊能力が明らかになる。多分高校では習わない、高度な遺伝だ。まだ主人公の師匠の名前が覚えられない。ページをめくる。余白が目をかすめる。もう終わってしまう。

 竜は、倒れた。主人公の力で、いや、語り手曰く「物語の徒労」で。あっけなく風景描写に移る。木の葉が風に揺れている。それだけで終わりが分かるのは、俺たちが物語に毒されているからだ。甘い描写だ。外国のチョコレートみたいな。


 優秀賞。

 PCを前にするシーンから始まる。一重いちじゅうのメタ。勝手にそう呼んでいる。物語を作る人の物語。必然的に劇中劇が発生する。作中主人公と書き手の重なり合い方、現実への侵食方法が問題だが、失敗すれば恐ろしい私小説未満の何かになってしまう。

 書けないことを嘆く主人公が、かれこれ四シーン目だ。どれだけ生活感のあるリアルな表現を連ねても、話が進まないと読むのは辛い。いや、話が進まないというそれ自体が主題かもしれない。大体にして、小説が書けないという話を、書き手のお前は書けているじゃないか。そういう矛盾の表現? しかしこんな作品で優秀賞など取っては、本当に書けなかった俺たちを馬鹿にしているみたいだ。

 描写は続く。逆に言えば描写しか続かない。一文一文は、国語の教科書の直喩と暗喩の例文になってもいいほどだ。「手のひらの皺が、東京中に張り巡らされた地下鉄の路線図のようだった」「私は、この文字情報の一ビットよりも、軽い存在だ」けれど小説は比喩の例文集ではない。

 読むペースが、普段の三分の一くらいまで落ちているのが分かる。行間は真っ白だ。紙が上質なんだろう。それか俺の頭が足りない。

 読了して、しばらく呆然とした。何も起こらず主人公は書けないまま終わったからだ。俺が重大な要素を見落としているのかもしれないが、こんな読書体験をもう一度する気は到底起きない。

 ベッドに雑誌を放ろうとして、次のページに佳作の文字が透けているのに気がつく。折角ここまで読んだのだから、とページを捲る。


 佳作。

 知的な文章だ。高校生の俺にでも分かる。パッと紙面を見たときの黒の密度からして違う。話の筋は、男女が出会って、話す。至って普通だ。

 男は空を見上げる。その空は「君」と「僕」が「同じ位相」にいることを示している、らしい。

 この表現を見た時点で俺は、雑誌を閉じた。駄目だ。良い悪いの問題ではなく、俺はこういう言葉の使い方ができない。

 位相。周期的な現象の、ある一側面。三角関数や波動なんかで出てくる。俺にとってはそういう定義でしかない。定義が違うのに定理は分からない。意味を成さない、というより意味を受け取れない。

 俺が悪いはずだった。だってこれは、佳いとされた作。そういう定義。そこから何かを受け取るべきは、俺。定義から定理を導けないのは、典型的な実力不足だ。

 でも。


***


 その茶色は、破れた。本文も大体五つに裂けた。

 気がついたら、という感じではない。文芸誌は思ったよりも丈夫で、手で引き裂くには力が要る。一度壁に投げつけただけで壊れるのは、せいぜい表紙だけだ。

 だって、可笑しいだろ。あんな適当な言葉が、良い小説なのか? いや、良い小説なのだ。それが定義であって、外れているのは俺の方だろう。

 でも俺が書いたものはあんなのよりよっぽどマシだ。全体が意味になって部分が美しさになる、そういう小説だ。俺の定義はこれなんだ。今までで最高の出来だった。

 紙切れを掴んで、千切る。もう何ページ破ったのかも分からない。もう読めない。もうこの賞には出せない。そもそもの公理が違ったら、どんなに言葉を連ねても分かってもらえない。通じない。

 ――こんな賞に出したのが、間違いだ。「全く新しい作品」がこいつらなら、俺は古くて十分だ。筋も不明瞭な、めちゃくちゃに接続された言葉の群れを良い小説だと認める公理を、俺は採用しない。

 俺は一人のまま、その公理は、定義は誰にも届かないかもしれない。でもいい。この味に迎合なんかしなくていい。落ちることに選ばれたんじゃない、選ばれなかったから落ちた。それは、その網目では掬えないというだけだ。

 半分破れた表紙は、地の厚紙の灰色がむき出しだった。その雑誌の断片は、銀紙のついた板チョコに見える。ただし艶はないし、不味そうだ。

 溜め息をつくと、まだチョコの匂いがした。

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