第5話 悪天候には悪夢。

 身の震えに暗い布団の中で目を覚ました。屋敷の中はしんと静まり返っており、美耶子みやこは目覚めたのが朝方ではなく深夜であることを察する。このまま目を閉じても夢の中には入れそうにないので、かわやへ立った。


 かたかたと雨戸が揺れている。今夜はやけに風が強いらしい。吹雪そうだからと取り付けておいて正解だった。洗ったばかりの冷えた手を袖の中に入れて、身を縮こまらせる。もうすぐ桜が咲く季節だというのに今年はずいぶんと冬が居座っている。


 朝になればいつも通り激しい吹雪も止んでいるだろう、と一つ大きなあくびを漏らし廊下を足音ひそめて進んだ。そのまま菊吉きくよしが眠る部屋を通り過ぎようとする。不意に、襖をへだてた向こうから話し声が聞こえてきて足を止めた。その場にしゃがみ込み襖に耳を近づけるが南無南無なむなむとしか聞こえないので、薄く戸を上げて覗き込む。


 部屋の中央に敷かれた布団が大きく盛り上がっており、小さな頭だけがぴょこんと飛び出ている。


 寝言だったのね。


 しかし直後に寝返りを打って露わになった顔は、強くしかめられていた。枕も放り出されており、唸り声さえ混じっている。うなされていたのだ。

 薄い唇の隙間から呪詛のように「やめて」「離して」「助けて」と子供ような言葉づかいの拒絶が漏れている。尋常ではない様子に美耶子は慌てて部屋に失礼をし、血相変えて菊吉の体を揺さぶった。暗がりでよく見えないが顔色も酷そうだ。


「お願いです……、菊を京に帰してください……」

「大丈夫です。ここは京都ですから!」


 目を覚ますことを祈って、悪夢が少しでも和らぐように呼び掛ける。何度も強く揺さぶるが強くまぶたを閉じようとして、なかなか現世に戻ってきてくれない。

 このまま揺さぶっても起きる気配はなかった。なにか過去に関する恐ろしい夢でも見ているのだろうが、他になす術が思い当たらない。


「どうしたら……」

「父様、母様……なぜ菊の手を離したのですか……っ?」


 噛み締められた歯の隙間からしゃっくりのような音が漏れている。美耶子ははっとして菊吉の目元を撫でた。泣いている。


 美耶子は意を決して、細かく震える手を取って握りしめた。酷く冷たく血がうまく通っていないとさえ思える。ただひたすらに白魚のような手を撫でさすり、握り締め続けた。夢の中の菊吉が両親の手を求めている。ならば、美耶子はその手を取ってやることしかできない。


「大丈夫ですから、ここは京都で、夢の昔のこと。今はとても平和です」


 少なくとも現在、何かに怯えて暮らしているわけではない。できる限り優しい声音で繰り返しささやくと、菊吉の眉間に刻まれた深いしわがほぐれてゆく。次第に寝言は寝息へと変わり、夢の中で枕を引き寄せた。

 ほっとして美耶子は布団のそばにへたり込む。


「……昔に、何があったのかしら」


 美耶子は吹雪に共鳴する雨戸の音を聞きながら立ち上がった。







 風を切る音が静かな庭に落ちる。木製の薙刀なぎなたを脇に構え足を引いた。程よい緊張感を携えて息を張り詰めさせながら、握る手に力がこもりすぎないように気を付ける。


 今朝、菊吉は何事もなさそうに仕事へ出掛けて行った。夢にうなされていたことを覚えていないのかと思うほどで、逆に不自然だった。ともあれぐっすり眠れたのならいいのだが。


 薙刀をひるがえし、高く振り上げる。力任せにならないように、と師範に教わったことを心の中で反芻はんすうする。


「何があったのかしら」


 昨晩見た苦しげな表情を脳裏に思い浮かべて、思わず言葉が漏れる。

 あれは確実に過去の出来事を夢に見ていた。両親を求めて涙を流す様は幼子おさなごのようで、小さいころに何かひどい目にでもあったのだろうと思う。これは今、菊吉が男装をして平生を過ごしているのと何か関係があるのだろうか。紐解ければ、あの人のためにもなりそうだ。


 もう一周素振りをしてから休憩にしようと薙刀を構えたとき、大きな羽ばたく音が庭に満ちた。美耶子は空をひらひらと舞う羽根に片目を伏せながら、つむじ風の源に注目する。静かに降り立った松の幹のような四つ股の足が見えたので、薙刀を握る手をさっとをおろした。


「おはようございます」


 お里は羽を整えながらきれいにおじぎする。


「ええ、おはようございます。薙刀ですかいねぇ……お里は久々に見ましたよ」

「歩けるようになったころから握らされていたのです」


 武家の娘ならこのような教育もよく見るものなのだろうが、芦屋家は違う。両親にどういった意図があるのかは聞いたことさえないが、護身としては習得していて悪くない。美耶子は感謝していた。

 それはさておきお里が来たことだ、縁側に折りたたんで置いていた前掛けを手にして屋敷にあがる。


「そうですわ」


 美耶子は手を叩いてお里を振り返った。お里は美耶子よりも前から菊吉と関わりがある。つらい過去について何か知っていることはないだろうか。


「菊吉さまから、あの方が幼いころに何か怖い目にあったことがあるなど聞いたことはありませんか」


 問いにお里はふうむ、と顎に手を添えた。


「旦那さまに雇われたのはここ一年ほどで、あまり話もなさいませんからねぇ」

「……そうですか」


 では仕方がない。己の力で探るしかないようだ。美耶子はぼんやりとたすきを締めなおし、かめから桶に水を汲む。その様子を見てか、今度羽の手で拳を打ったのはお里だ。


「お話と言えば、お出掛けには誘われましたか?」

「お出掛け」


 想像し得なかった言葉におうむ返しをする。京のことはあまり知らない上に嫁いできたばかりで忙しかったため、出掛けるという考えがすっかり抜けてしまっていた。

 米のとぎ汁で桶をいっぱいに満たし、着物のすそをまくり上げて冷たい水の中に足を差し込む。


「しかしわたしはお出掛けに最適な場所を知りません」

「四条河原はどうです。歌舞伎座があります故、賑わっていると噂を聞きます」


 聞き覚えのある地名に美耶子は布を踏み洗いしつつ顔を上げた。


「若者はみなそこに集まると」

「ええ。よい店をいくつか存じておりますよ」


 お里は洗い終えた布を物干し竿へかけながら、ほろほろと鳴く。


「本当ですか?」


 菊吉が美耶子の小袖から作り出した巾着をまじまじと見ていたので、同じように作っていただける店が四条にもないかと尋ねたところ、いい返答が帰ってきた。お里の見た目から山を下りたところにはあまり詳しくないだろうと期待をしていなかったが、そうでもなかったらしい。


桃山ももやま千織ちおり屋という染め物屋ですよ」

「桃山千織屋」

四条しじょう河原がわら沿いにある老舗しにせでしてねぇ、端切れを持ち寄ったり、店に並んでいる端切れを選べばその場で巾着など作ってくださいますよ。もちろん出来上がっているものを選んでもよろしいですが」


 それは良いことを聞いた。


「老若男女に応じた店ですから、夫婦で訪れても楽しめますよ」


 では明後日の行き先として、その店は決まりだ。他にも立ち寄れる甘味かんみどころや、時間さえあれば芝居小屋にも顔を出してみたいのだが。


 美耶子がうわの空で考え込んでいると、お里は手に持っていた洗濯物をささっと竿にかけてしまうと羽を大きく広げて飛び立つ。

 美耶子は呆気にとられながらどこに行ったのだろうとしばらく待つ。かと思えば羽をはためかせて戻ってきた。背中には風呂敷を背負っていて、庭には数枚の羽根が飛び散っている。

 庭に巻き立つ小さなつむじ風に気を取られながらも、美耶子は受け取る手を伸ばした。


「四条の地図です。ここに一通り、人気の店や立ち寄るのにいい場所がまとめてありますよ」


 お里が手にしていたのは懐にちょうど入る大きさの草子だった。


「いただいてもよろしいのですか?」

「ええ。これはあたくしが京に慣れるまでの、ここ五年ほどに使っていたものですからねぇ。もうあたくしには必要ありません」


 そして細い吊り目をより細くして口元を羽で隠した。にまにまと笑みが透けていて、美耶子はかっと頬を熱くさせる。


「そ……そういうものではありません」


 男女の逢瀬おうせだと勘違いしているらしいかった。しかし菊吉も美耶子も女である。ただの休日だ。


「いえいえ、夫婦とはそういうものです」


 お里は美耶子に草子を押し付けると、持ち場に戻って鳥の松の木肌のような手を洗った。

 美耶子は薄い草子をたもとに収めながら、ふと菊吉の顔を思い浮かべる。安倍の姓であるあの人も、神職に携わる仕事をしているのは違いないのだろう。さすれば総髪でも違和感はない。


 お里は美耶子が布を踏みつけたままぼうっと立っているのをとがめると、己の作業に戻っていった。ひらりと抜け落ちた羽根が桶の中に浮かぶ。

 菊吉は自身の性別について、肉親以外には美耶子にしか本当のことを言っていないのだ。

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