ジル・バルツァルという獣について
犬森ぬも
プロローグ・灰色の街で少女が見た夢
さすが古都の図書館だ。
エントランスを抜けて『大閲覧室』という文字が見えた扉を開くと、教会の聖堂のように高い天井と縦長のホールがアンナの瞳に飛びこんできた。
中央は閲覧席。左右には書架が整然と並び、無数の本がおさめられている。回廊のような吹き抜けの二階にもガラス戸つきの書架が並んでいるのが見えた。あまりの量に気が遠くなりそうだ。
ひんやりとした空気の中に、紙とインクの匂いが漂っている。
誰もいない。
かたいタイルの床を歩くアンナの足音ばかりが異様に響く。
ホールは薄暗かった。明かりは高い位置にある窓から差しこむ冬の弱々しい白光だけ。随所に設置されているオイルランプに火はともっていない。ついさっき市街地に響いた時鐘は午後三時を告げた。まだ人がいてもおかしくない時間だというのに。
「本をお探しですか?」
急に背後から声をかけられて心臓が跳ねた。
今まで人の気配はなかったのに、振り向けば見上げるほどの大男が手にランタンを提げて立っている。
丁寧に磨かれた黒の革靴、黒を基調とした紳士的な服装、闇を集めたような黒い髪――その中で男の瞳にだけ鮮やかな色がついていた。
深い金色だ。頭二つ分も背が高い彼を見上げたアンナの視線がその色に触れた途端、急に鳥肌が立った。
なぜだろう。足がすくみ、上手く息ができない。
体は大きいが落ち着いた雰囲気の人だった。年齢は十五歳のアンナより、だいぶ上。おそらく三十手前だ。大きな目と鷲鼻気味の高い鼻、男前の部類に入る顔立ちの彼はニコリともしない。しかし気難しい感じはなく、思慮深く、物静かな印象を受けた。
そんな人なのに、金色の目だけは獰猛な獣のようなのだ。
「怪しい者ではありません。この市立図書館を任されている、ジル・バルツァルといいます」
アンナの警戒を察して男は図書館の主席司書だと名乗る。
やはり笑みは見せないが、彼のゆっくり話す低い声は誠実だった。悪い人には思えない。
「あの……誰もいませんが、今日はお休みですか?」
「だいぶ雪が降ってきたので、他の職員には帰ってもらいました。利用者にも声をかけようと、館内を見回っていたところです」
言われて思い出す。
そういえば外では視界が真っ白になるほどに雪が降っていた。アンナもしっかりコートと手袋を身につけて防寒している。
細かい記憶が抜け落ちていた。今朝、何を食べたか、ここへ来るまで何をしていたのか。
ただ『あれ』から逃げるのに必死で、目についたこの建物へ飛びこんだことは覚えている。
「探している本があるなら僕が案内しましょう」
「えっ。でもえらい司書さんに案内してもらうなんて、そんな……」
「かまいません」
アンナが緊張するので困るのだ。本が目的で図書館へ入ったわけでもない。
「特に読みたい本がなければ、ひととおり大閲覧室――このホール内をお見せしますよ」
「……それなら、お願いします」
ヒマなのだろうか。いやいや、きっといい人なのだ。アンナのような子供に丁寧な言葉と態度で接してくれている。断るのは悪い。
「ちょうど人がいない良い時に来てくれました」
「どういう意味――」
疑問は不意に頭上を飛んだ影にかき消された。
大きな黒い翼を広げ、その影は窓から差しこむ白光の中を旋回する。そうかと思えばいきなり降下をはじめ、思わずアンナは短く悲鳴を上げて頭を抱えた。
「驚かせましたね。彼女はここを棲み処にしているんです」
翼が起こした突風に襲われたが、衝突はしない。主席司書の落ち着いた声が聞こえて目を開けると、彼の肩にそれがとまっている。
カラスだ。街中で見かけるカラスより大きい。
棲み処と言ったが図書館で飼っているのだろうか。確かに懐いているようで、主席司書の肩に大人しくとまったまま動かず、彼と同じ金の目をアンナに向けている。
見比べてみれば、まったく同じ色で不気味だ。
「では、こちらの書架から」
カラスを肩にとめたまま主席司書が歩きはじめたので追いかけた。
「この辺り一帯は神学と教会史。続いて倫理学」
薄暗い中、手に提げるランタンの灯りで書架を照らしながら教えてくれる。
改めて驚かずにはいられない。
「すごい量……」
アンナが生まれ育った田舎町には本屋もなかった。町の教会に小さな本棚があり、そこの本は自由に読めたが、祈祷書や聖人について書かれた本ばかりだったのだ。こことは当たり前に違う。さすがは首都と同じくらい古い歴史がある街だ。
「かつて古都に神学をはじめ、様々な分野の研究の支援に力を入れた枢機卿がいたのですが、この建物は元は彼の私設図書館です。彼の死後、膨大な蔵書が建物ごと市に遺贈され、あらゆる人が知識に触れられるようにとの遺言に従って市民に公開されるようになりました。公開されているのはこのホールのみで、蔵書のごく一部ですが」
今、視界に映っている以上の本が、この建物内におさめられているらしい。想像もつかない。
「貴女は古都の外から来たようですね」
「……だったら、なんですか?」
思わず身構えてしまった。
古都の人は余所者に冷たい。余所者だと分かると、急に態度を変える人をたくさん見てきたのだ。
「気を悪くしたようでしたらすみません。山あいのここは、外からめったに人が訪れない時代が長かったんです。他所から来た者を奇異の目で見たり、好ましく思わないことも少なくない。貴女はすでにそんな経験をしたようですね」
主席司書は足を止めず、背後を歩くアンナにちらりと視線を向けてくる。
彼の言うとおりだ。露骨に嫌な顔をされたり、そっけない態度であしらわれたり、パン屋で値段をつり上げられたこともあった。
「昨今は変わりつつあります。街へ至る道の整備が進み、人や物の出入りが増えています。外と触れ合う機会が増え、排他的な気質を持つ者は徐々に減ってきていると僕は感じているのですが」
もちろん、アンナもそういう人ばかりではないと知っている。
「僕が他所からと思ったのは、貴女からこの街にない甘く華やかな香りがしたからです。ジャスミン……いや、キンモクセイだったかな」
驚いた。確かにアンナの故郷では金木犀の花が咲く。
「ここから南西、温暖な気候の半島で咲く花ですね。果実酒の生産をしている修道院があって、僕は酒を飲まないので話に聞いただけですが、その果実酒にも花を集めて入れるとか」
昔、修道院の人が異国から持ち帰った花らしい。海から吹くあたたかい風のおかげで温暖な気候の故郷で咲く。独特な香りが強い花で、花が咲く季節は体に移るほどの甘い香りが充満する。
アンナが故郷の町を出たのは金木犀が咲いていた秋だった。しかし古都に来てから数ヶ月が経っている。花の匂いが残っているはずがない。
「わずかですが服から匂いがします。この感じは香料じゃなくて生花だと思うんですが。右のポケットかな。僕の鼻は獣のようにいいので」
アンナの怪訝な視線に主席司書が答えた。
コートのポケットの奥に指を入れてみると、カサリと何かが触れる。取り出してみれば、それはいつの間にか入りこんで乾燥していた金木犀の花だった。
「ありましたか?」
主席司書が声を発するのと同時に、不気味な音が耳をかすめる。
人のものではない息遣いだ。
辺りを見回したが街中に、しかも建物の中に狼や野犬がいるはずもない。主席司書の肩にとまっているカラスの呼吸音でもないだろう。正直なところ、彼の喉から聞こえた気がしたが、まさかそんなわけがない。
その間にも主席司書は書架の間を縫うように進んでいく。
書架にさえぎられ、窓から差しこむ光が届かなくなってきた。彼が手に提げているランタンがひどく眩しく感じる。日も落ちてきたのかもしれない。
おかしい。図書館はこんなに入り組んでいただろうか。まるで迷路だ。
「か……母さんは幼い頃に死んで、父さんも去年。馬車の事故で」
言うつもりがなかった話を口が勝手にする。
鼓動が早い。冷や汗が浮かぶ。ひんやりとしたホールに響くアンナと主席司書の二人分の足音の中に、やはり獣の息遣いが混じって耳をかすめるのだ。それをかき消そうと声を出す。
「頼れる親戚もいないから外で働かなきゃいけなくて……」
「なるほど、そういった経緯でこちらに。身寄りもない場所へ来るのは大変だったでしょう」
「父さんの知り合いがあちこちで商売してて、働き口を紹介してもらって……」
今は砂糖や茶葉などの食料雑貨をあつかう店で働いている。
古都は余所者に冷たい。しかし雇い主はアンナを歓迎とまではいかないが受け入れてくれた。両親が死んで天涯孤独と聞いて同情したのだろう。店の屋根裏部屋を安価で貸してくれ、質素ながらも生活できている。
ただ、ひとつ問題を抱えていた。
(悪夢……全部あれのせいで……)
この街で毎夜、アンナは悪夢を見る。
はじめは気にしていなかった。しかし同じ夢をずっと見ていると気づいてから、恐怖にさいなまれている。
夢の中でアンナは冷たい霧が立ちこめる湖にいた。
自分の手足の先が見えないほど深い霧の中に、恐ろしい何かの気配がしている。すぐ近くにいる気もするし、遠くにいる気もする。前方にいるのは確かで、アンナは微動だにできずに前を見つめていた。
絶対に見てはならないと頭の中で警鐘が鳴っている。それでも目を逸らせない――思い出しただけで、背骨を這い上がってくる恐怖に心臓が凍りつく。
ただの夢ではない。あの尋常ではない恐怖の塊は実在する。最近は起きていても霧が視界に広がり、あれの気配を感じていた。さっきも街中で白昼夢のように見て、半ばパニックになりながら目についた図書館へ駆けこんだのだ。
思い出した。教会へ向かう途中だった。
日曜の礼拝にはたまにしか行かず、信心深いわけではなかった。しかしもう祈ることしかできない。
ここしばらく、できるだけ眠らないようにしている。寝ていないせいで仕事はミスばかり。近いうちに仕事を失うだろう。いや、その前に気がふれてしまうかもしれない。
「ところで、声は聞こえますか?」
突然、主席司書が言い出した言葉の意味が分からない。
「声?」
「霧の中にいる存在の呼び声です」
「……なんで、あれを知ってるんですか?」
足を止めたアンナとそろえるように歩みをやめ、振り返った彼は相変わらずニコリともしない。薄暗い中、ランタンの明かりよりも不気味に光る金色の目が、後ずさるアンナを逃がさず捉えている。
さっきから聞こえていた獣の息遣いは、より鮮明になっていた。それは明らかに彼の喉から聞こえてくる。
ジル・バルツァルと名乗った彼は、本当に図書館の館長なのか。本当に――人間なのか。
「声が聞こえていないなら、戻ってこられるかもしれない」
「手遅れじゃない?」
主席司書に返事をしたのは、彼の肩に止まるカラスだ。
カラスがしゃべった。いや、しゃべったのだろうか。カラスの鳴き声と、少女のような声が重なって聞こえた。
「そうとは限らないよ。でも、もう自力では難しい。僕の本性が視えている」
何を言っているのか分からない声は、あくまで静かで思慮深く、余計に気味が悪い。
ふと思う。あの夢を知っている彼は、あれのしもべではないか。自分を捕まえにきたのではないか。きっと、いや、間違いなくそうだ。
急に激しい目眩に襲われ、おさまると愕然とした。
「ひっ!」
男が姿を恐ろしい四つ足の異形に変えていたのだ。
闇を集めたような黒く長い毛並み。図書館特有の匂いと混じって、むせかえるほど濃い獣の臭いがする。
形は狼に似ているが、あまりに大きい。頭部には巨大な複数の角。手足には皮膚と肉を切り裂く刃物のような爪。口は大きく裂け、骨をも粉々に砕くだろう獰猛な牙がのぞく。
逃げなくてはいけない。思うよりも先に体が動いた。
背を向けて走り出したが、あんなものから逃げきれるはずがない。すぐに追いつかれるだろう。それでも立ち止まるわけにはいかない。恐怖と絶望にすくむ足を必死に動かし、つまづきながらも書架の間を走った。
「古都で見る夢には『魔女』が潜んでいます」
低く唸る獣の声と、男の声が重なって頭に響く。
「人でもなく、獣でもない、恐るべき異質な存在です。僕たちが『魔女』と呼ぶそれがいる場所は人々が見る夢と繋がっていますが、通常はそう簡単に気づくものではありません。でもひとたび『魔女』の気配に気づけば、貴女のように心が耐えきれないほどの畏怖を抱いて正気を失ってしまう」
夢に潜む魔女に、畏怖、何を言っているのだろう。
「貴女は何も悪くありません。ただ運が悪かったんです」
憐れむ声とともに、突如として視界が闇に呑まれる。喉から悲鳴がほとばしったが、その音はアンナ自身の耳には届かなかった。そして――。
*
「それで、ジル。その子はどうなった?」
「教会に保護してもらったよ」
ジルの執務机の端によりかかってエドガーが尋ねる。
軍の重厚な黒いロングコートを羽織り、右目に革の眼帯をした中年の軍人――エドガー・グレゴル伯爵は、ジルの年の離れた友人だ。
エドガーは図書館の二階、主席司書の執務室へ来るや否や、魔女の夢を見て正気を失いかけていた少女の話をくわしく知りたがった。どこから情報が漏れたのか。
考えるまでもなく、ミラが面白おかしく話したのだろう。
机に積み上げた書類の上にとまっている大カラスのミラに、ジルはちらりと視線をやったが彼女は知らんふりをしている。
「街から離れて修道院で療養すればよくなると思う。時間はかかるかもしれないけど」
「それなら良かった。十五歳の少女か。親を亡くして遠くに働きに出て、更にこれでは不憫だな」
エドガーの愛娘が生きていれば同じくらいの年齢だ。だから気になったのだろう。
「少し落ちつかせてから教会へ行こうと思ったんだ。職員がみんな帰って、他に利用者もいなくて静かでちょうどいい時だったし、館内を散策して。その間に色々と話を聞いた」
「ジル……ホコリ臭くて薄暗い図書館を散策なんて、子供が落ち着くわけないだろう。余計に怖がらせたんじゃないのか?」
「僕も途中からそんな気がしていた」
ジルなら落ち着くのだが。
とにかく、話す中で彼女の故郷を知った。だからその近くの修道院で療養させてあげてほしいと、教会に頼んだのだ。
金木犀の香りがあふれる修道院だ。
黄金色の花が咲くのは秋だと聞いた。今は冬。執務室の窓の外には、先日、降った雪で化粧をほどこされた古めかしい街並みが広がる。花は一年ほど先に咲くということだ。
その頃、少女の状態が少しでも回復しているといいのだが。
「お前が見つけなければ手遅れになっていたはずだ。誤解されたと思うが、回復すれば感謝される日も来るだろうよ」
エドガーはそう笑うが誤解ではない。少女が怯えたのは正しい反応だ。
ジルははるか昔、『魔女』を崇めて眷属となった異端者の血をひく。本性は獣。人の皮をかぶっているが人ではない。
魔女の夢を見た者は、正気を失えば失うほど常人とは違う景色が視えてくる。少女の目も、人とそうではないものの区別ができていた。
(僕の本来の姿を視た彼女はたとえ回復しても、忌まわしい獣など思い出したくないだろう)
もとより感謝などいらない。願わくばこの先、彼女が平穏な日々を送らんことを――と祈るだけだ。
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