介護回顧ー病老介護
クライングフリーマン
起の章
それは 突然始まった。
父の交通事故。初めてではなかったが、深刻なものと知り、愕然とした。
梅田の耳鼻科の通院からの帰り、いつもの定食屋で昼食を摂っていると、携帯電話が鳴った。
妹からだった。父が事故に遭って、病院に運ばれたと言う。
急いで食事を済ませ、列車に乗った私は妹に電話して連絡を取ろうとしたが、留守番電話だった。
いらいらしながら何度か電話して繋がった。
私がよく知っている救急病院の名前を聞いたので、「今列車で向かっている」事を伝え、電話を切った。
逸る気持ちを抑えながら、救急病院に駆けつけた時は妹からの最初の電話から1時間半が経過していた。義兄は、妹の勝手な判断で警察の事情聴取に応じて「長男代理として」届を出してしまった。
そのことは、後で「躓きの石」になった。
医師から、重大な決断を迫られ、私は「長男として」初めて決心した。
成功確率が低いその手術は、粉々になった骨を人工物に集め接着剤で固めるというものだった。手術を断れば「植物人間化」することを受け入れることになる。私に拒否する理由は無かった。
そして、手術が失敗しても受け入れる趣旨の誓約書にサインした。
長い手術が終わり、手術は成功したと告げられた。しかし、当面はベッドから立ち上がることもままならないだろうと言われた。
身内の一同は解散し、私が父の傍で一夜を過ごすことになった。
これも後になって判ったことだが、皆「自分の家庭が第一」というスタンスだった。
しかし、これがかえって良かった。父は自分の子供たちと連れ合いを混同していた。
私が到着するまで、「長男然」として振舞っていた男が長男ではなく、長女の連れ合いであることを私が解いた。数日後、父はやっと正気に戻った。どうやら犯人は無謀運転の自転車らしい。
私は敢えて、警察に言って犯人探しを依頼することをしなかった。立て看板は被害者の「せめてもの慰め」に過ぎず、警察が犯人を特定したり犯人が自首したりすることは奇跡的な確率に過ぎない。事故当時、おぼろげな記憶だったことが、鮮明化したのは、ずっと後のことだった。
「犯人は?」とよく知人・友人に聞かれたが、私は「2時間ドラマみたいに探し回っても見つかりはしない」と応えた。
何より、犯人が見つかったり、裁かれたて謝罪されたりしても、父の体が元に戻ることは100%あり得ないのだから。
ただただ延命出来たことに感謝し、父を見守るのが身内の勤めと私は信じた。
これも一つの決断だった。
つきっきりの母と交替で様子を見に来る私たちきょうだいの交換メモが暫く続いた。
父の意識を正常に戻す為、母から「市場の符丁」を言ってもらった。すると、父は長年染み付いた習慣で、手の指を巧みに操り符丁を表現した。これは、精神的なリハビリに役立ったようだ。
しかし、3ヶ月後のある日、またも身内にがっかりさせられた。
仕事の帰り、病院に寄ると、母が明日転院するのだと言う。私は聞いていなかった。
特別擁護老人ホームに転院するのはいいが、「寝耳に水」だった。
私は、翌日、派遣の仕事を早退して、施設に向かった。
そして、入所書類を提出する際に「長男さんは?」と尋ねられ、私が提出、サインをした。
義兄はついて来たが、その質問に「私です」と名乗ることは不可能だった。事故で入院した整形外科の場合は、私が「間に合わないので」と言い訳も立つだろうが、「本人」が、ここにいるのだ。
これもまた、後になって判ったことだが、姉の連れ合い、つまり義兄は「長男の代わり」から「長男になる」積りだったようだ。いや、「長男になった」錯覚があったのかも知れない。「末っ子」のコンプレックスが禍したのかも知れない。
そして、文字通り「元の黙阿弥」になることに強い不満を持っていたようだ。
私は遠隔地に住んでいるわけでもなく、代理人を頼んだこともない。
やがて、姉妹や姉妹の連れ合いの足は遠のいた。
父は、私が見舞いに行くと「皆なかなか来てくれない」と嘆いた。「クルマ移動」が基本スタンスだったから、自分の都合でしか動かなかったのだ。
私は、自宅から1キロ程度なので、折りを見て通った。
急遽決めた特別擁護老人ホームの入居は3ヶ月限定だったので、その間介護施設を見つけて来た妹だったが、今度は私を無視出来なかった。
やはり、私が「長男」だから。私は「法定代理人」なのだ。そして、会計支払いは私の仕事だった。
もう簡単には帰れないことを悟った父は、「自宅に帰れるか?」と可能性を私に尋ねた。
姉妹や身内は、誤魔化すことしかしなかった。私は「男と男の約束」として、父に話した。
私は、「今は無理だが、杖を突けるようになれば帰れる」と励ました。父は、今まで以上に車椅子を操る稽古をした。長い間商売で自動車に乗っていた父には「運転」はお手のものだった。父は可能性が低いことを悟った上で、努力して見せた。
数ヵ月後、妹から深夜、電話があった。転居した施設からすぐ来て欲しいと言う。施設からタクシーに乗せ、救急病院に向かった。
肺炎を起こしていたらしい。
翌々日、介護施設系列の病院で再検査し、父は看護師や医師を笑わせる父ではあったが、9ヵ月後、肺炎は再発。それから3ヵ月後また肺炎が再発。今度は入院生活を余儀なくされた。父は心臓が丈夫な人ではあったが、肺は長年に亘る喫煙によってかなり弱っていたのだ。
最初の肺炎は、インフルエンザが施設内で流行った時ではあったが、インフルエンザにかからずとも影響はあったのかも知れない。
それから4カ月。家の周囲の草取りをしていた私は急に気分が悪くなった。今度は自分の「緊急事態」だと直感した。私は洗濯物を急いで取り入れて、戸締りし、財布とケータイを持って外に出てから救急車を呼んだ。自分で救急車を呼んだのは、生れて初めてのことだった。
点滴でもして貰い、何らかの薬を貰って帰る積りだったが、晴天の霹靂。緊急手術を迫られた。
心筋梗塞だった。全く予想外の展開だった。
ICUというものを初めて体験した。基本的にICUの面会は限られている。妹と姪と親友以外は面会出来なかったのを知り、今後のことを考え始めた。そして、退院した。
まずは、家の周り、そして家の中の片づけ。親と住む用意を進めて行かなくては。
草むしりしていた時に発作が起こったことから、表の塀の裏の場所は防草防犯砂利を敷き詰めた。隣家との境の塀の側は防草シートを敷いた。反対側、庭の方には、除草剤を蒔いた。大木に影響があるといけないので、花壇外に限ることにした。
また心筋梗塞になるといけないので、暫くはケータイにタイマーセットして、屋外作業を行った。時々、体の中に埋め込まれた「異物」を意識するが、嫌なものだ。
それからの私は、入院中考えていた、「両親との同居計画」の準備を始めた。
以前、仕事がなくて困っていた頃、一念発起して襖の張り替え(実際は上張り)を一階二階果ては仏壇スペースの観音扉迄張り替えた経験があるので、根気良くやれば実行可能と考えていたことがあった。それは、風呂場の天井。20日位かけて水性ペンキを塗った。
多少不満な部分もあったが、概ねよく出来た。
心筋梗塞は、色んな意味で私に方向転換をさせた。
大量のビデオを処分し、両親と同居する第一歩の片づけを始めた。
いつ死んでもいい準備を、つまり終活の心の準備だ。
私が心筋梗塞で入院したのは、父が交通事故に遭って入院手術した翌年だ。そして、母が
入院をし、父が亡くなったのはその翌年。目まぐるしく時は移り変わった。
母の入院時には、流石の私も狼狽えた。妹にケータイで電話し、相談した。
119番したら救急車がすぐに到着。すぐに事情を伝えた。私は日に一度は買い物を届けると同時に実家の母の様子を見に行く習慣だった。その時母は頭痛を訴えながらも身動き出来なかったのだ。
予備の血圧計で測ると150以上あったから、119番が適切な処置だったのだ。
高血圧。市民病院の医師が診断した病名だった。
翌日、通院していたクリニック医師の診察・説得で入院した母。やはり高血圧症と栄養不良だった。
母は父の看病でろくな食事をとっていなかった為、食事療法が必要だった。
その母に精神的なダメージを与える出来事が、大きな分岐点となった。
裏切り。その三文字はこの頃から始まっていた。
義兄が姉を通じて、父の預金通帳の残高を問い合わせ始めたのだ。あからさまに財産を狙っているのは、非常にショックなことだった。しかも、母の入院先にまで来て。のちに知ったことだが、
父が外科から、特養に転院した時から、義兄への不信感はあった。
どうやら義兄は、父が事故に遭った時に私が到着する迄の間に周りに頼りにされたことで、「長男替わり」の筈なのに自分があたかも長男になったかのような錯覚に陥っていたようだ。
義兄の役目はとっくに終わっている。そう。「元の黙阿弥」に戻っていたのだ。
やがて、特養の入院は、期限の3か月を迎え、それまでに妹たちが探してきた老健への入院が決まった。
見舞いに来なくなった。
義兄の本性は、この後現すこととなるが、この頃の私は、派遣の仕事帰りに、出来るだけ見舞いに通った。老健では、私の励ましが利いたのか、車椅子を自動車の運転技術さながらに巧みに操る父の懸命な姿があった。
そして、母の介護認定がきまり、デイサービス通院が始まった。母は、あれほど嫌がっていたのに、父に時折面会が出来ることで、父も母も生き甲斐が出来たのだ。
かくいう私も父への面会や母のデイサービスの見学で楽しみが出来た。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。翌年正月、友人たちを迎える為に掃除をしていた私は入口の鉄板をつい蹴ってしまい、その時に挫いたせいで左膝を痛めてしまった。文字通り「躓きの石」だったのだ。
成人の日。均衡はいきなり崩れた。夕方には毎日母の元に通っていた私だが、いつもより早い時間に「頭が痛くて堪らない」と母から電話があったのだ。すぐに駆けつけた私は、体温計や私用の予備の血圧計で測ってみた。異常に高い数値だったので、妹に電話で相談してみた。
結果、救急車を呼び救急病院の市民病院に着いた頃にはもう日が暮れかけていた。
「高血圧症かも知れない」と言いながら、点滴の結果血圧が下がったので、帰宅するよう医師に言われ、仕方なく迎えに来た姪の車で帰宅した。
母を寝かせて妹や姪が帰ったその日の夜。再び頭が痛いと苦しむ母。掛かりつけの医者に行くと行って聞かない。
救急病院からの帰りも盛んにそんな我儘を言っていた。しかし、そのクリニックは日曜日で休診。
翌日、結局、母は入院。退院後に私と同居する為の本格的な準備にとりかかった。
既に風呂の整備は天井のペンキ塗りを初め、出来ている。
門扉玄関は介護保険で工事した。しかし、一番厄介なのは母の荷物だ。
母の「居場所を作らなければ」。焦る気持ちを抑え、遂に完成した。
母は門扉から手すりを伝って玄関の手すりを伝い、ベッドに到着した。歩行器にも満足したようだった。
それから3年7か月。まさかまた入院騒ぎになるとは、この時には夢にも思わなかった。
妹に、母の生活私の生活がお互いに上手く噛み合うように勧められた。尤もだと感じた私は、あらゆる面で工夫を始めた。
二人の時間割を決めたのである。
妹や、訪れた他人は真っ当な評価をしてくれたから、あまり気にしなかった。
至る所にある、電話の受話器についても同様である。普通の家には無い超タコ足配線は、健康な人間の発想。私には「ものぐさ」の発想だが、遅れて住むことになった母には「便利グッズ」なのだ。
母との生活を送るに当たり、母には「病院の延長」である状態を作った。
朝8時頃。整形外科の定期検診の時は母を連れてタクシーで診療所へ。
母のデイサービスの時は送迎車を一緒に待ち、母を送り出した後で私用で出かける。
どちらでもない日は買い物や洗濯の為コインランドリーへ。母は留守番。
午後3時。おやつタイム。普段デイサービスでおやつを頂くので、デイサービスのない日でも「おやつタイム」を作った。仏壇に供えたお菓子を食べるのだ。
介護は、実際に携わった人間でないと実感しない。抱きかかえてベッドや便器に移動させることが介護だと思われがちだが、そうではない。本人が自由意思で動けなくなっている部分を補助すれば、立派に介護なのだ。「要介護」は、そのための基準だ。
母は最初「要支援」だった。しかし、何でも自立出来る訳ではないから、買い物も私の仕事。
「不退転」。いつもその言葉が脳裏をよぎった。母がベッドで寝ていたのは、入院中の名残。
身内の姉妹さえそう思っていた。それは違う。杖を突いても、介助なしには自由に動けなくなってしまっていたのだから、高血圧で入院する前とは違うのだ。
ケアマネの勧めで、歩行器(室内用)をレンタル。母は、日に日に「運転」が上手になった。台所やトイレには歩行器を使用、それ以外では伝い歩きをするようになった。
しかし、母は極端に外出嫌いになってしまった。新しい住まいに馴染みたくなかったのだろうか?私への遠慮か?私や妹がシルバーカーを操るようにさせたことがあったが、続かなかった。
町内とはいえ、前の住所が恋しく、新しいご近所さんと仲良くやっていく自信がなかったのか?
隣家のお婆さんとは以前からの知り合いなのに、不思議でならない。
介護に休みはない。家の用事を、母の用事をしながら私の用事をする。大嫌いだったご近所付き合いも始まった。お蔭で、敬遠していた向かいのおばさんとも仲良くなった。
介護はシンドイ。でも、滅多な人には言えない。介護を分かってくれるのは、意外と他人なのである。「遠い親戚より近くの他人」。その通りである。
しかし、その「他人」はやはり他人だと思うこともあった。誤解、偏見。いつも悩まされていた。
でも、私を助けてくれたのはやはり他人だった。
毎日何回も考える。これでよかったのか?これでいいのか?と。父の死後の、母との同居は後に大きな恩恵をもたらした。
私の人生において、色々な職場や出会いの中で培っていたものは、決して「見せかけだけ」の人間に負けはしないのだ。
いつか誰かに言われた。「努力はきっと報われる」
見ている人は見ている、いや見守ってくれている。長男としての義務も責任も権利も、世間の人の方が熟知しているのだ。
3年9か月。後に、その重みを思い知らされることになる。季節は瞬き間に過ぎて行く。
世間の年中行事のたびに「あの頃は」と思い出す。
母を見守る為に、「インターコム」を配線。それは、究極の作戦だった。二階にいる間全く目が届かないのだから。また、母が「ぱっぱら」と呼んだトイレ用センサーチャイム(光と音のチャイムの音源コードを切った)も工夫の上設置した。
情報とは何のためにあるのか?使い方の分からない者には何の役にも立たない。
「ぱっぱら」は母に好評で、来る人来る人に自慢してくれた。
妹には、こんな発想はないし、工夫力もないのだ。
「何故こうなったのか?」母のつきない悩みだった。
妹の裏切り。妹は「トラの威を借りたキツネ」だった。
だから、あれほど嫌っていた姉夫婦と組むようになった。
そして、何かにつけて姉の傘のもとで私に干渉やイジメを行うようになった。
折角、遺産分割協議書を作成し、裁判所に司法書士に提出したのに、無効だと言い張ったり、生前贈与を母に迫ったりした。母もバカではないから、姉の口から出ても、二人の総意として受け止め、傷ついた。後に長く続く傷だとは、二人とも思っていなかったようだ。
そして、時間が空けば「ほとぼりが覚める」「忘れる」なんて妄想を現実化しようとしたが、現実は甘くはない。表面上は「大人の付き合い」をしても母は根本的には二人を信用しなくなっていった。
「策士策に溺れる」。すべては、逆効果だった。
このことが、後々にケアマネージャーを強力な味方にさせるきっかけになった。
ケアマネージャー以外にも、彼女たちが横暴と判断した友人知人は大勢いた。
妹の猿芝居や屁理屈は、見通せる人間には通用しない。
「母を守る」。父に託されたからだけではない。私の使命であり、宿命なのだ。
人を信じることは難しい。それは、裏切りという行為を体験上熟知しているからだ。
ご近所付き合いは、嬉しい反面、鬱陶しく感じることもある。ここのご近所でなく、以前のご近所だ。もう違う隣組なのに、何かと誘ってくる。
ご近所付き合いも、親族の付き合いも他人には単純に推し量れない。
父の死は、私の人生を大きく転換させた。「みんなお母ちゃんにあげればいいやん」と言い放った妹の言葉は、所詮自らを中心に据え置きたい願望からの思いつきだった。
遺産分割後に裏切った妹は、その後も私の邪魔ばかりするようになる。まだ、この頃は、日々の生活維持で精一杯だった。
信用。それは無くす時は一瞬で、築く時は不断の努力を必要とされる。
妹は、自ら信用を落とす行動を何度も行うようになる。一貫性がないということは、前述の言葉は単なる思い付きで目立ちたかっただけ、ということだ。
人の痛みが分かる人間とそうでない人間。格段の差がある。
近所のおばちゃんたちは、母がデイサービスに行くときや帰った時、必ず手を振ってくれた。
仏壇に拝むことの意味さえ分からない女は、母の痛みを知る由もない。
私は憎んだ、妹の金銭欲を。生前贈与を求めた時も、甥の財政難で訴えるという芝居を姉に
させたことも。「採らぬ狸の皮算用」。浅はかな計算だった。後に、母のトラウマになることを考えなかったことを。
欲にとりつかれた者は欲に溺れ、滅びる。私は、そう信じた。
浅薄な知識と浅い経験。妹の理想は妄想による虚像で出来ている。
現実主義の私には見えていた。どんな謀略も。
だからこそ、「偽物」の嘘は簡単に露見する。
「人に影響を与えるのが私の天命。」50歳を過ぎてから、私の信念になった。
介護とは何か?どうすべきか?いつもそう思い続けた。寝ても覚めても。色んな情報を集めた。
父の死は私に大きな影響を与えた。生前の言葉は何度も私の中でリフレインした。
父からの使命。それは、この家と母を守ること。いつも私を突き動かしていたのは、使命感だった。
「母を、家を守ってくれ」と何度も父は私に懇願した。自由に動けなくなった自分を顧みて、心配だったに違いない。
私は、母の分も動いて、四十九日、一周忌、三回忌を行った。
全ては、妹の虚栄心だった。実家の片づけも、たった3日しか手伝わなかった。
介護に正解はない。
ケアマネさんは、いつも私の心強い味方だった。歴代のケアマネさんは、私の親族と私たち親子の差を認識してくれた。
妹のプライドは、いつも私を悩ませていた。「みんなお母ちゃんにあげればええやんか。」その言葉を元に父の遺産相続をしたが、それは「たかが知れている金額」と錯覚していたからで、後に「あそこに金が眠っている」という考えに変わってから、姉夫婦と共に虎視眈々と母や私の死を願いながら金を狙ってくるようになる。
私が「心筋梗塞」になったことをネタに金の管理を委ねるよう再三恫喝した。
一計を案じて、私は友人二人に協力を求め、公正証書として「遺言書」を作成した。
二人の友人は快く引き受けてくれ、立会人となった。
残念ながら、姉妹は公営証書の遺言書の存在の重さを理解できなかった。
しかし、この後、私の「ぶれない」礎になった。
父の死後、遺産整理(主に家)も殆ど私が行い、遺産分配も、司法書士の下に遺産分配協議書を作成したにも関わらず、姉妹は、母の預金(父の遺産)を分配せよと迫った。勿論、承諾すべくもない。母と私の絆は深まった。彼女たちは一番損な方法を取ったのだ。私を味方につけるのではなく、敵に回したからだ。
その後、甥が病気(メニエル病)の為大金が要るから貸してくれなどと言ってきた。妹が筋書を作り、姉に演技させたことは明らかだった。母も、姉の知恵ではない、と言っていた。
返す当てのない金を借りるのは、妹の常套手段で、姪をダシにして、散々親から金を出させてきた。母も私も、御見通しのことだった。
醜い心。SFだったら、顔が心のままに醜く変貌するだろうけれど、現実は仮面の下に隠れている。
よく考えたら、妹は「介護放棄」していたのだ。特別擁護老人ホームでどんなにバカにされようとも、親の介護をする、任せてくれと言った限り、出来るだけ時間を工面して介護すべきだった。
請求書を貰い、金を精算する時は、こちら任せ。体裁さえよければ満足なのだった。
「忙しい」とは立派な理屈だ。職業を持って収入を得ている訳ではないのに。
この妹の癖は、後々何度も顔を現した。父は何も知らず、「誰も来なくなった」と嘆いていた。
介護とは何か?「寄り添い守る」ことである。介護放棄した自覚のない妹は、この後も大きな顔をし続けることになる。
そして、私は常に脅威にさらされることになる。
思い上がった妹は、「介護のプロなんだから」というステータスとプライドで干渉することになるのだ。
後に判明するが、妹は小さい頃からの「対抗心」を歪んだ形で実現できると盲信するようになっていたのだ。
私の変速自転車を勝手に乗り、怪我をした挙句、私と私の自転車のせいにして、父に泣きついたのを覚えている。私の通う英語塾のすぐそばの学習塾に通い、何も勉強しないから成績が上がらなかったことも覚えている。
わがまま。末っ子の甘え。孫がいる世代になっても、その感じ方考え方は変わらなかった。
父に母に、子供(姪)をダシにして、いや、人質にして引っ越し費用や生活費を捻出することが得意技になった。だから、甥の病気を重病として訴え、姉に借金させようとした。其の後で、「私も」と手を出す算段で。母も私も毅然として断った。「返す当ての借金」はプレゼントに過ぎないからだ。そして、一度味をしめたら際限がない。母は母の叔父でその醜態を目にし、私は同期生を見限る結果になった。
甘やかしていた父はもういない。私は父のような「甘やかし」は出来ない。
父ではないのだから。「父の優しさ」が欲しいのではなく、「父の甘やかし」が欲しい。そんな虫のいい話はない。母を守ることが私の使命なのだ。
介護は。「守り助ける」こと。守って貰うことではない。
会話。これほど貴重で便利なツールはない。話す機会を失くすということは、言語障害に繋がる。
母と私の2年7か月に渡る生活は、断ち難い絆になった。母の過去の話を沢山聞いたことは少しも無駄とはならなかった。
どんな困難な状況でも負けない力。実は母から受け継いだものかも知れない。
私は「毅然とした態度」を貫く決心をした。それが「跡取り」の宿命だから。
父の死は、私を大きく変えた。変わって行かざるを得なかった。
人を信じることの難しさを何度も痛感した。少なくとも妹は信用できなくなった。
自分の意見が通ることが当たり前に思えるのだろう。「責任感」。それがないから、「負けん気」が強すぎるから損ばかりしてきたはずだ。
「コンプレックス」。負けん気はそれを増幅させる。「勉強」とかの努力をしないから、結果自分に損になることをするのだ。
父が亡くなったことは、「いざという時甘える」存在が無くなったということだ。父の介護を途中放棄したことで、もうその資格はない。金の無心をしてきた時、思惑通り運ばなかったのが想定外だったかも知れないが、当然と言えば当然のことなのだ。「お父ちゃんだったら許すはずだ」?何の説得力もない。私は妹の保護者でもなければ、妹は私の保護者でもない。
母は分かってくれている。しかし、直接怒ったりしない。論破されるのが怖いのか?仕返しが怖いのか?母は私が守らねばならないのだ。何としても。
後々に、「自分の愚かさを思い知る」ことになろうとは、この時には分からなかった。
父は寝たきりになる前に何度も言っていた。「母を頼む」と。どんなに笑われようと謗られようと、私は父の遺言を守る。そのスタンスに揺らぎが出たことはなかった。
私にとって「大きな課題」であり、「生き甲斐」になった。何年かかるか分からない。私の課題は、使命は、母を無事に父に届ける、つまり長生きさせることにあるのだ。
他人には分からない。親族にも分からない。私の「孤独な闘い」は延々と続く。
父は何度も何度も夢に出てきた。実際は、父に助けてくれという深層心理があるのかも知れないが、私は「父が心配して夢に出てくる」と自分に言い聞かせ、母にも姉妹にも言い続けた。
妹と同じ失敗は繰り返してはならない。介護は投げ出したらいけないのだ。
妹は、私が死んだら理解するだろうか?私の「本当の遺書」を読んだら涙するだろうか?
自分が介護される立場になれば、考え方が変わるだろうか?「仮の遺産」の通帳はあるが、彼女たちに残すような金はない。
父の遺言はたった二つ。いや、一つか?「母と家を守ること」だ。折に触れ。父は私に遺伝子を残しているのだ、と実感することになった。実家の片づけは勿論、父自身が作った物置を壊す時も、私にしか出来ない、と感じたものだ。
この遺言を他人に話す度に驚かれる。でも、息子として当然の責務だ。
後に、親友が他界した。自分自身も周りもどんどん変わって行った。
私も母も体が悪くなっていったのだ。
親友が他界して2カ月。母は脳梗塞になった。晴天の霹靂だった。
そして、母が脳梗塞になった10日後。私の脊柱管狭窄症が発覚した。
私は運命を感じた。
1か月後、母はリハビリ病院に転院することになった。
そこでもまた、苦難が待ち構えていた。
ー完ー
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