有刺鉄線の向こう
祐里
1.オンリーになれるかも
四年前の夏だった。家の脇の大きな木から猫の鳴き声がうるさく聞こえてきた。また猫が下りられなくなっているのかと思って見に行ったら、僕より少し年下くらいの男の子が、枝の上で鳴いている猫に向かって腕を伸ばしていた。
「もしかして猫を受け止める気? 危ないよ」
「でも……」
「僕が下ろしてやるから」
そうして僕は木に登った。手の甲や腕なんかを引っかかれながらも何とか猫を地面に下ろしてほっとする僕に、彼は「痛い?」と顔を近付けた。
「平気だよ、でも水で洗わないと」
「井戸、ある? 僕が汲み上げようか?」
「うん、家の裏にね。自分でできるよ」
そう言ったのに、彼は付いてきた。桶に汲んだ井戸水を手と腕にかけて傷を洗うと、彼は僕の濡れた手を取って言った。
「ありがとう、おにいちゃん」
大きな目の笑顔が、温かく細い指が、僕の胸をぎゅうっと掴んだ気がした。
◇
玄関を入ると、明るい会話が聞こえてきた。
「ママさん、今日は
「ああ。もう入れるよ」
「ふふっ。あたし、オンリーになれるかも」
「そうかい、なれるといいね」
母さんと楽しそうに話す、花柄のスカート、黄色いブラウス。大きく開いた首元には珊瑚色のネックレスが見えている。
「ただいま」
「おかえり、ブンちゃん。今日もご苦労さん」
下駄を脱ぎながら二人の間を通り過ぎると、朗らかな笑顔を僕に向ける。
「こんにちは。千代さん、オンリーさんになるの?」
「なれたら、もっとおいしいの持ってくるよ」
戦争が終わって二年、僕たち日本人はまだ貧乏なままだ。でもこの町には米軍基地がある。飛行機の音はうるさいけれど、時々町に流れてくる食べ物などの物資は魅力的だ。
「まだわからないけどね」
千代さんはそう言うと、きれいな赤い靴を脱いで軽やかに二階へ上がっていった。
『おねえさんたちに部屋を貸すことにしたよ。うちは二階に二部屋あるから』
終戦直後、母さんはそう言って
「洋パンだなんて言う輩もいるけどね」
母さんが軽くため息をついた。
「……うん」
「生きるのに必死なのさ」
三年前、父さんが戦死したという報告を聞いたとき、母さんは少しだけ泣いた。でも翌日には立ち直り、僕の分まで食べるものをどこかしらで見つけてきてくれた。配給がもらえるはずの点数があっても食べ物と交換なんてできなかったのに、自分の着物や、ばあちゃんから受け継いだ形見のかんざしと交換してまで。私たちまで死んでたまるかと、口うるさく言いながら。
「うちは運がいい。この町には大きい爆撃は来なかったし、歓楽街から少し離れているから憲兵の狩り込みも来ない」
「うん」
終戦から母さんが何度も繰り返している言葉だ。何度聞いても、僕は大きくうなずく。
「命がさ、一番大事なんだよ」
「うん」
「
「配達が少ない日だったから。でもこれから増えていくんだ、きっと。今日は宇宙のことを書いた本を持っていったんだよ」
最初は本の配達なんて仕事にならないと思っていたけれど、今では毎日何かしらの配達をしている。みんな食べ物だけでなく読み物にも飢えていたのかもしれない。
「ウチュウって、空の向こうのことだろ? そんな本まであるのかい」
「そう。宇宙を調べている国があるんだって。空の向こうには何があるんだろう」
「……何でもいいけど、戦争がなければいいよ」
下を向いた母さんに「そうだね」と言おうとしたけれど、喉が詰まってしまって言えなかった。
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