猫の名前はシュレーディンガー
るぬね
猫の名前はシュレーディンガー
御茶湯博士(以下博士)は、白の防護服を全身に纏い、荷物を載せたカートを押し『実験室』と書かれた引き戸の前に立った。カートに積まれていた荷物はジェラルミンのアタッシュケースとペットキャリーケースである。
引き戸を開けて中に入ると、中は風除室になっていた。正面の壁は金属でできていて、貸金庫入り口のような厳重で重そうなドアが付いている。
博士は、ドアの前にカートを停めてから、両手でハンドルになっているドアノブを回す。渾身の力を入れるとドアはゆっくりと開いた。ドアの向こうから乱反射した光が漏れだしてくる。中の光を反射する金属の壁で囲まれた実験室は、中東の宮殿のように眩しかった。しかし置かれているものは高価な壺や絨毯ではない。キャットタワー、砂のトイレ、自動の餌やり機、ソファーやクッションなど。複数の機械類を除けば、猫カフェのそれと同じであった。
ここで解説しておこう。御茶湯博士はこれから量子力学の『シュレーディンガーの猫』実験を行う。
〇シュレーディンガーの猫実験は、量子力学の「重ね合わせ」状態を検証する思考実験である。密閉された箱に、猫、放射性物質、そして放射性崩壊に連動して毒ガスを放出する仕掛けを入れる。
〇放射性物質は一定の確率で崩壊する。崩壊が起こると毒ガスが放出され、猫は死ぬ。しかし、量子力学では放射性崩壊が観測されるまで「重ね合わせ状態」にあり、崩壊した状態と崩壊していない状態が同時に存在する。
〇箱を開けて観測するまで、猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なり合った状態にあるとされる。観測によって初めて、猫の状態はどちらかに確定する。
さらに「重ね合わせ状態」を分かりやすく解説する。この実験において猫が生きているか、死んでいるかを考えると、丁半博打のように、壺笊の中のサイコロの目は、壺笊を開ける前に決まっている。と一般的には考えられる。しかし、量子力学の世界では、箱の蓋を開けるまではカジノのルーレットのように、球が回り続けるのと同じで、開かれた瞬間に球は数字の描かれた回転盤に止まり、勝敗が確定する。つまり、箱を開けるまでは、猫の生死は確定しない。のである。
博士は、アタッシュケースとペットキャリーケースを室内に持ち込んだ。そのうちのアタッシュケースを、奥に設置された二台の装置の前まで運んでから、ひざまずいて床に置く。一台ずつバッテリーを点検し装置の電源を入れた。どちらの装置も異常はないようだ。
アタッシュケースを引き寄せて開ける。ドクロのマークの付いたガラスのアンプルと、テニスボールぐらいの金属製の容器が入っていた。容器には放射性物質が入っていることを示すハザードマークが貼られていた。
まずは金属製の容器を取り出す。収められている放射性物質の量は、その半減期から逆算して、24時間で1つ目の原子が崩壊する確率が50%になるように入れてある。当然今は開けられない。一台目の機械は、タイマーをセットすることで、自動で容器を開閉できる装置である。
金属の容器をセットして、タッチ画面で「開00:30閉24:30」と入力する。原子が崩壊すると信号が二台目の装置に送信される。
次にドクロの付いたアンプルをアタッシュケースから取り出す。落さないように慎重に二台目の毒ガス発生装置にセットし、蓋をした。信号を受け取ると、アンプルが叩き壊され、毒ガスが発生する仕組みとなっている。
博士は立ち上がりペットキャリーケースを取りに行く。運び込み蓋を開けると中から灰色の猫が顔を出す。しかし、なかなか出てこない。一歩下がり距離を置くと、猫は周囲を警戒しながら出てきた。博士と目が合った猫は、キャットタワーを駆け上がり、頂上から博士を見下ろした。博士も見上げてから、防護服のフードを取って脇に抱えた。
「元気そうでよかった」
ライオンヘアの白髪を整えて猫に話しかける。
「お前に運があれば、明日にまた元気な姿で会えるだろう」
博士は実験室の隅のボックスから、入れておいたキャットフードをお皿に盛り、ソファーの上に置いた。残りを自動餌やり機の蓋を開け中に入れる。入れ終わり、振り向くと猫はソファーに座りキャットフードを食べていた。博士が近づいても、猫は食事に夢中で逃げなかった。
「もし、お前がワシのように運がなかったなら、ちゃんと弔ってやるぞ。お墓も立ててやる。科学の進歩の礎になった…………ここに眠る」
博士は首を傾げた。
「名前なかったな。じゃあ『シュレーディンガー』だ」
博士は猫を撫でた。
「また会おう。シュレーディンガー」
猫は耳を動かすも、食事をやめない。
「……呼びにくいな。……お墓に刻む戒名なら呼ぶこともないし、まあいいか」
あまり懐かなかった灰色の猫を背に実験室から立ち去った。御茶湯博士が次に実験室の重いドアを開けるのは約24時間後のお昼時である。
次の日の正午過ぎに前日同様、博士は防護服で身を固め、実験室と書かれた引き戸を開け風除室に入った。振り返り、引き戸を閉めて内鍵を掛けた。猫の脱走を防ぐ為でもある。
左の壁にある配電盤のようなスイッチが並ぶボードの前に立った。まずは、実験室を覆う磁場発生装置の電源を切る。この装置は、放射性物質や毒ガスなどの微粒子はもちろん、中の音などの情報も遮断する。次に、大型の空気清浄装置のスイッチを入れた。もし室内に毒ガスが充満していたのなら、ダクトホースを突っ込んで迅速に除去しなければならない。50%の確率で毒ガスは噴出されている。最後に実内の照明のスイッチを入れた。
博士はドアの前に立って、力を制御しながら慎重にドアノブを回す。
「南無阿弥陀仏……」と唱えながらドアをゆっくりと開ける。
中の明かりが漏れ始めたとき、背中に冷たいものを感じた。
「わぁ!?」思わず叫んだ博士。 振り返るも特に異常はない。空気清浄装置の音だけが響く。腕時計式の毒ガス検知器も正常値を示していた。
気を取り直してドアを開ける。ある程度の隙間ができたところで、腕を室内に突っ込んでみるが、警告音はならない。どうやら毒ガスは噴出されていないようだ。それならば猫は生きているはず。博士は足元を気にしながら、ドア開け実験室の中に入った。しかし猫の姿は見えなかった。物陰に隠れているのだろうと博士は思った。
博士は室内に気を配りながら自動餌やり機を確認する。容器の中の餌はなくなっているが、受け皿にはかなりの量の食べ残しがある。猫が「重ね合わせ状態」になっていたことを示しているのか? それとも単に食欲がなかったのかと、博士は考えた。生きているのならどこかにいるはずと、キャットフードを握って博士は猫を探し始めた。
「出ておいで~。美味しいごはんもあるよ~。シュレーディンガーちゃ~ん」
ソファーの後ろ、キャリーケースの中、機械類と壁の間、クッションをひっくり返してみても猫は見つからない。
「シュレーディンガーちゃ~ん、出ておいで~」
同じ所を二度三度探しても、猫の毛一本見つからなかった。博士はフードを外して汗をぬぐった。ふと、毒ガス発生装置に目をやると、電源ランプが消えていることに気付いた。歩み寄りアンプルを確認すると、やはり収めたときそのままだった。電源ランプは確認したはずだ。
装置の蓋を開け中を確認すると、バッテリーの残量が0になっていた。バッテリーは通信販売で買ったものだった。made in ○○と刻印があった。博士は生産国までは確認していなかった。
「安いから買ったが、容量詐欺のバッテリーだったか」
博士は放射性物質をセットした装置を調べる。放射性物質が入っている容器は厳重に閉じられていた。タッチパネルを操作して、原子の崩壊があったかどうかログを確認した。
「まさか! こんなに?」
記録されたデータは予想した原子崩壊をはるかに上回る数を記録していた。しかも、この装置が計測できる最小単位である0.01秒の間に起こったのである。博士はしばらく立ち尽くした。
「確率論では説明がつかない。この部屋の時間も圧縮されるということか…………」
しばらく考えをめぐらした後、重大なことに気付いた。
「早くトイレに行きたい……」
小走りに実験室を出て風除室の引き戸を開けると、首筋を冷たい気配が通り過ぎるのを感じた。
「ひゃっ!」
猫の霊? 博士の背筋がゾクリとして体が硬直した。
しばらくして冷静さを取り戻すと博士は「少し、ちびった」と呟いた。
猫の名前はシュレーディンガー るぬね @moumou
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