綾夜
ススキノにあるビアンバーワルキューレ店長、
レモンジュースをバースプーンに一杯、ウスターソースとタバスコ、黒コショウを適量、氷を入れ最後にトマトジュースをグラスいっぱいに注ぐ。バースプーンで軽く混ぜて出来上がり。
静華たちはカクテル以外にパンケーキセットも頼んでいた。量が多いので一人前を二人で分けて食べている。ヴァージンマリーにしたのはケーキが甘いので、飲み物は甘くない方が良かろうと思ったのともう一つ理由が有った。
「このカクテルを選んだ理由って何? 小夜さん」今日の静華はそんなに酔っていない。読心術でも使ったのか静華が尋ねてきた。
真理愛はグラスを取るとちびちびと飲み始めた。小夜を期待を込めた目で見つめる。
「それは――」小夜は遠くを見るような目で語り始めた。
* * *
「3、2、1」ハンドルに左指でリズムを取ると小夜はアクセルから足を離すと一瞬だけブレーキを踏みハンドルを右に回した。クラッチを踏みつけシフトダウンする。後輪が滑る。ハンドルを戻すとアクセルを調整する。続いて左カーブ。ハンドルを左に切る。カーブが緩くなるとアクセルを踏み込む。ギアを上げた。
ライトが深夜の道路を照らす。街灯のオレンジの光が次々と後ろに流れていく。
〝イイ感じ――〟次のカーブまで七秒――その時小夜の目は信じられないものを捉えた。道路に人がうずくまっている。
小夜はシフトレバーを一速まで一気に落とすと思い切りブレーキを踏む、ハンドルを右に切った。幸い対向車はいない。対向車線にはみ出す形で、軽くスピンした車は停まった。
小夜はほっと息をつく。どうやら撥ねずに済んだようだ。
エンストした車のエンジンをかける。二度目に息を吹き返した。車を対向車線から出すとハザードランプを点け、うずくまった影に向かう。危なっかしいことこの上ない。文句の一つも言ってやろうと大股に近寄った。
人影は少女だった。古風なセーラー服に身を包み、腕に何かを抱えている。
「貴女、こんなところで危ないじゃない。それにこんな時間に何をしてるの?」ホッとしたせいできつい口調になってしまう。
「死んじゃったの。この子。貴女みたいな人に撥ねられて」
腕の中には奇妙にひしゃげた動物の死骸があった。多分ネコだろう。
「責任取ってよ」少女は有無を言わせない口調で言った。
「撥ねたのは私じゃありません」
「もう少しで私を撥ねるとこだったのに?」
「それは貴女が道路にいたからでしょう」
「ずるい。死んだこの子をもう一度撥ねて私も同じ目に遭わせようとしたくせに」
「好き好んで人を殺してるみたいに言わないで。それにこんな山道になんで貴女みたいな子がいるの? 家出でもしてるの?」言いがかりをつけられて小夜は頭に来た。流石にキレはしなかったが。
「教えてあげない」
「そう、なら好きにしなさい」小夜はムッとした。少女を置いて立ち去ろうとする。その手を少女が引っ張った。
「責任取って」真剣な眼差しだった。小夜は一瞬だが怯んでしまう。溜め息をつくと少女に向き直る。
「分かったわよ。ついてらっしゃい」少女は手を離さない。死骸を離さないのを見て小夜はさらに溜め息をついた。
「その子も連れてくのね」
少女の顔が明るくなる。思い切り首を縦に振った。
車まで戻るとダッシュボードからタオルを出す。死骸を丁寧に包むと助手席を倒して後部座席に安置した。お気に入りのスポーツタオルだったのに――小夜は心の中で愚痴る。
「乗りなさい」助手席に少女を案内する。
ドライブの気分ではなくなった小夜は車を逆方向に向けると自分の賃貸マンションに帰る。
帰り道、少女は一言も言葉を発しなかった。
* * *
翌朝早く、仕事前――もっともワルキューレの開店時間は早くても正午からだ――に二人は北区にある市営の動物火葬場に行った。料金は小夜が出した。
「この貸しは身体で払ってもらうわよ」小夜は本気で言った。家に着いても少女はだんまりを決め込んだのだ。
連絡先を聞こうとしても警察に連絡しようとしても拒絶された。少女の言葉を無視しても良かったのだが、彼女の視線に妙な迫力があって言うとおりにしてしまった。未成年者誘拐で捕まりたくは無いのだけど――小夜は我ながら自分の行動に不可解さを覚えた。
少女に劣情を抱いたせいだろうか。
少女は地味だが整った顔立ち、ストレートの黒髪を背中まで伸ばし、十代半ばから後半に差し掛かったくらいの平均的な背丈、折れそうな位華奢な、小夜好みの女の子だった。
それでも――。
帰宅した小夜は買ってきた早い昼食を少女と食べようとする。専門店のサンドイッチにコーヒーだ。朝食抜きで、もう少ししっかりしたものを食べたかったが、出勤の時間が押しそうだった。
少女はまるで難民キャンプの子供みたいに顔を輝かせた。紙袋に手を伸ばす。もう少しで少女の手が届くというところで小夜はひょいと袋を持ち上げる。
「意地悪」
「欲しかったら名前くらい教えなさい。貴女学校に通ってないの? そのあたりは突っ込まないけど、世話になるなら最低限の礼儀を見せなさい」
「あや」
「私の名前そっくりね。漢字は?」
「綾夜」少女は机にあった紙に綺麗な字を書いた。漢字まで一緒とは――小夜は運命めいた因縁を綾夜に感じる。
小夜のスマホがアラームを鳴らす。
「時間か、聞きたい事は色々あるけど帰ってきてからね。サンドイッチだけじゃ足りないでしょ、お金置いてくから欲しかったら何か買って食べなさい。鍵も預けとくわ。じゃあね、綾夜」
小夜は急いで仕事着の上にコートを羽織ると、駐車場に向かって軽く走った。
車に乗り込んだ時には綾夜のことは頭から消えていた。
* * *
帰ってきた小夜は、部屋の明かりが点いていないのを見て綾夜が自宅に帰ったのだと思った。こんなことなら昨日の晩に抱いておけばよかった――獲物を逃した野獣の思いを自覚する。そこで気付きたくない事に気付いてしまった。
もう午前四時だ。多分寝ているのだろう。ぬか喜びした自分を嫌悪する。エレベータに乗って自室の前に来るまで綾夜をどうやって犯してやろうかと下らない妄想に
鍵は掛かっていない――不用心な、小夜は舌打ちすると部屋に入る。電気を付けると予想外の光景が眼前に広がっていた。綾夜は寝ていなかったのだ。真っ暗な部屋の中、ソファに座ってゲーム機で遊んでいた。ゲームソフトが床に昆虫標本みたいに几帳面に並べられていた。テレビの光が綾夜を不健康に照らしていた。
「おかえりなさい。小夜」綾夜が振り返った。
「徹夜は肌に良くないわよ、まさかずっとゲームしてたの? それに鍵くらいかけときなさい」電気を付けて、小夜は言いながらテーブルの上に置かれた金が手付かずなのを見る。
「何も食べてないの――?」
「小夜の手料理を食べたくて、我慢しちゃった」
「馴れ馴れしいわね。大したものは作れないわよ」小夜は服を脱ぐと、浴槽にお湯を張る。全裸の小夜を綾夜は熱っぽい眼差しで見つめてきた。
「綾夜はお風呂に入ったの?」まさかと思って聞いてみる。綾夜はうんともすんとも言わない。それで小夜の疑惑は確信に変わった。
「一緒に入る?」綾夜の顔がパッと明るくなった。彼女は綺麗な所作で服を脱ぐと、丁寧に折りたたむ。その様子に小夜は彼女の育ちの良さを見た。綾夜は軽い拒食症なのだろうか、瘦せていて不安になるほど細かった。
浴室に二人で入る。夜中なのでシャワーは使わない。洗面器に貼ったお湯で身体を洗おうとする。タオルにボディソープを付けて腕から洗おうとした時、背中に柔らかい物が触れる感触があった。
「ちょっと、綾夜――」彼女の手が小夜の豊かな胸に触れてくる。綾夜が抱きついてきた。ぞわっとした感覚に小夜は襲われる。綾夜の手がねちっこく身体を嬲ってくる。同時に綾夜は小夜の背中に押し付けた胸――大きすぎず小さすぎず、美乳と呼びたいそれを円を描くように動かす。綾夜の右手が小夜の秘所を捉える。首筋に冷たい口づけを感じた。歯が押し当てられる。小夜は押しとどめようとしたが、綾夜の力はその身体つきからは信じられない程強かった。
「ンッ――」小夜の口から艶っぽい息が漏れた。頭に血が上った様な貧血に襲われる。身体が宙に浮く様な、脳だけが無くなるような、そんな感覚が襲ってくる。
小夜は意識を失った。
* * *
小夜が目覚めたのは昼過ぎだった。ベッドの中にいる。小夜は裸だった。綾夜は――隣にやはり裸の綾夜がいた。意識が鮮明になるにつれ、小夜はハッと気づいた。スマホで時間を確認する。寝過ごした、とうに出勤時間を過ぎている――慌ててベッドから抜け出そうとする。気付いた綾夜が腕を引っ張ってくる。既視感の有る光景に戸惑いながらも、綾夜の手から逃れようとする。
「今日はお休みでしょ、小夜」小夜はスマホの画面を確認する、確かに仕事は無い日だった。
小夜は身体の力を抜くとベッドに倒れ込んだ。猛烈な虚脱感に駆られる。回らない頭で今の状況を考えた。綾夜と一緒に寝てるということは、そういう事に及んだということか。
しかし記憶に残っていない。感じていてもおかしくないのに空腹は全く感じなかった。
綾夜の手を振りほどこうとしたが、彼女は頑として放そうとしなかった。
「もっとイイコトしようよ、小夜」小悪魔の様な笑みを浮かべて綾夜が舌を出す。
それを見た小夜は頭の中が欲望で埋め尽くされる。言われるがままに小夜は綾夜と唇を重ねた。嬌声を上げて二人の女は絡み合った。
* * *
綾夜は従順で素直で敏感で――小夜は彼女に溺れた。
二人は一緒にドライブし、一緒に食事を取り、一緒に遊び、一緒に情事を交わし、一緒に寝た。
小夜は満たされる。綾夜は幸せそうに笑う。あっという間に時間は過ぎていく。しかしどんなおとぎ話にも終わりは来る。
それは小夜と綾夜が出会って二週間目の事だった。
* * *
店から戻ってきた小夜は綾夜が思い詰めた表情を浮かべているのに気付いた。綾夜の手には女性用の性具が握られている。U字型をした曲がったキュウリの様な外観だ。
「小夜はこれを使ったことあるの?」嫉妬心が滲んだ声だった。
まさかこんなものを見つけられるとは思っていなかった小夜は返事に詰まる。
「ねえ、教えてよ」綾夜は追及の手を緩めない。嘘をついても無駄だと小夜は悟った。
「あるわ。もう別れたけど」努めて明るく言ったつもりだったが、綾夜は表情に渋さを加えた。性具を見つめたまま、両手に力を込める。
しばらく沈黙した後、綾夜は意を決したように小夜を見る。
「小夜、これ、私にも使ってよ」
「自分を安売りするのは止めなさい。貴女ヴァージンを行きずりの女に捧げるつもり?」小夜は断固とした大人の口調で言った。しかし綾夜は聞く耳を持たなかった。
「小夜は私のことを愛してるんでしょ――一生のお願い、私の、処女、貰って――私を、小夜の女にして――」語尾が宙に消えた。
少女は見捨てられた子犬のような目で小夜を見る。目を離したら死んでしまいそうだ。暫く迷った末、小夜は覚悟を固めた。綾夜への責任を取るつもりだった。
小夜は綾夜を抱いた。
行為の最中、小夜は最初に出会った時の綾夜の目を思い出した。あの時の目と違い、今の綾夜は瞳は満たされた色を浮かべていた。前世から探していた恋人と巡り合った乙女の様に。
破瓜の痛みを感じていないのか、想い人に処女を奪われたせいなのか、綾夜は痛がるそぶりを見せない。それでも彼女の女性の部分からは血が流れていた。
小夜はこれ以上ないくらい精一杯の優しさを込めて綾夜を愛した。彼女を何度も高みに連れて行く。二人は時間経過の感覚も無くなるほど悦びを交換し合った。
疲れ切った二人は眠りに落ちていく。暫く味わった事の無い幸福感に小夜は酔った。
* * *
翌朝早く小夜は目覚めた。太陽の光がカーテンの隙間から部屋を暖める。身体の疲れは全く無い。生気が満ちた身体で伸びをする。隣にいる恋人におはようを言おうとして、綾夜がいない事に気付いた。綾夜の服も無くなっていた。
「綾夜――!」小夜は起き上がると広くもない部屋を綾夜を求めて探し回る。浴槽の中やクロゼットの中まで総ざらいした。
コンビニにでも出かけたのかもしれない――そう思って朝食を作ろうとして、テーブルの上に紙が乗っている事に気付く。
恐る恐る紙を手に取る。綾夜の筆跡で書かれた言葉に、小夜は嗚咽を漏らした。涙が零れてくる。後から後から流れた。紙を握りしめたままへたり込む。
〝ありがとう〟
紙にはそれだけ書いてあった。
小夜はただ泣き続けた。
* * *
「小夜さん、いくら何でもそれは出来過ぎ。女日照りが続いたせい? その綾夜って娘がこのカクテルを美味しいといったの?」
「私は嘘なんて――」
「三日もお店を休んだ言い訳がそれ? イマジナリーセフレなんて。もっと良い言い訳考えないと首よ首」パンケーキをぱくつく静華は辛辣だった。喉に詰まりそうになって慌ててヴァージンマリーをあおる。
「どうして信じてくれないのよ」小夜は駄々をこねる子供のような表情になる。
沈黙が落ちた。
神妙な顔で小さく切り分けたパンケーキを口に運ぶ真理愛はヴァージンマリーを飲むと型落ちのスマホを操作する。しばらくいじくり回した真理愛は画面を小夜と静華に向ける。
「その綾夜って女の子、この娘じゃないですか? 小夜さん」
小夜は目を見開く。見間違う筈も無い、綾夜だった。
「どこでこの写真――いや、どうして真理愛ちゃんが綾夜の事を知ってるの!?」
「小夜さんが話してる時、綾夜さんの顔が頭に浮かんだんです。強い共感と一緒に。どこかで見た顔だと思ってそれで」
「真理愛ちゃんも能力者なの? 勘が良いって聞いたけど、――それより綾夜は何処に――」
「落ち着いて下さい小夜さん。よく写真を見て下さい。この写真、80年前のものです」
「え?」小夜はスマホを見直す。写真はモノクロだった。
「昔の
「小夜さんが会ったのって、その娘の子孫なんじゃない?」静華が真っ当な疑問を口にする。
「いや、違うわ、この娘で間違いない。私が抱いた女の子を見間違うはず無いわ」小夜はスマホを凝視する。綾夜が絶頂した時に流れ込んできた彼女の記憶には古い学校があったのを思い出す。
「真理愛ちゃん。この画像、私のスマホに送ってくれる?」
「良いですよ」真理愛はスマホを操作する。
普通の女の子ではないかも知れないけど、もう一度彼女に逢えるかもしれない。そう考えただけで小夜は幸せな心地になった。
――綾夜の笑い声が聞こえた気がした――。
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