第2話 それは僥倖
「いますよ。今年の新入生にオメガ」
朝食の時間、宰相の息子、ハルヴェルがしれッと言ってきた。
学園に通うハルヴェルは、仕事に行く宰相と同じ時間に朝食をとる。夫人は美容のためにたっぷりの睡眠をとるため、朝は遅いのだ。こんなことだから、誤解が生まれるのである。もっとも、最近はこの会話を執事が夫人に聞かせるので問題がなくなった。録音の魔石が手に入ったからである。使い方がだいぶ間違ってはいるが、宰相の家では大変有効な使い方であった。これで今日これから宰相が起こすであろう行動で、夫婦間に亀裂が起きることはなくなるのだ。
「そうか、それでそのものの名は?」
食いつくように聞いてくる父親に、息子であるハルヴェルは何処かめんどくさそうに答える。わざとらしく胸ポケットから手帳を出して、ペラペラとめくり、そうしてその名前を口にした。
「マイヤー子爵令息レイミ―。十五歳。栗色の髪に緑の目をしていて、そばかすのある愛らしい顔立ちです」
それを聞いて宰相は目を丸くした。
「子息?お、男か?男オメガなのか?」
食事中に大きな声を出すのはマナー違反なのだが、息子であるハルヴェルトは気になどしない。
「ええ、そうです。男オメガです。首にチョーカーを巻いてました。同級生に隠れるように行動していましたね」
それだけ言うとハルヴェルトは手帳を胸ポッケトにしまった。ハルヴェルトがレイミーを知ったのは偶然ではない。生徒会役員として、新入生の名簿を見たからだ。
「マイヤー子爵か。たしか、部署は……」
父である宰相は、もはや息子のことなど見ていなかった。食後のお茶を飲み干すと、あっという間に出て行ってしまったのだ。愛する夫人に挨拶もせずに。
「ようやく光が見えた」
馬車の中、宰相は喜びをかみしめるのだった。
登城して、部下への挨拶もソコソコに、宰相はマイヤー子爵の勤務先の部署に走った。下級役人ほど出勤が早いものだ。その部署に近付くにつれ、廊下を歩く人影が減っていく。目的の部屋の前で宰相は立ち止まった。ドアの中は随分と静かだ。まるで誰もいないかのようだが、人の気配は大量にあった。
「鏡もないのか」
入室前に身だしなみを整えるための鏡が、ドアの横に備え付けられていなかった。つまり、そういうことをする相手がこの部屋には、存在しないと言うことだ。
「入るぞ」
礼儀として軽くノックをしてからドアを開けたが、返事は無い。部屋の中では役人たちがひたすらに書類の精査をし続けていた。誰も顔を上げるものはいない。つまり、誰もこんなところに宰相閣下がやってきたことにさえ気づいていないのだ。
(何たることだ)
宰相はこの部屋の状態に暫し呆然とした。この城で働き始めてから10数年の時が経つが、自分という存在をここまで無視されたことは初めてだった。一人で勇んでやってきたものだから、宰相は誰に声をかければいいのかさえ分からなかったのだ。
「マイヤー子爵はいるか」
気を取り直して声を出せば、全員が一斉に宰相を見た。そして、上から下までじっくりと確認をして、ようやくドアのところに立っているのが平役人などではなく、とんでもなく上の上、雲の上のようなお偉いさんだと気がついたのだ。
「は、は、は、はい。わたくしめにございます」
ガタンっ、と、立ち上がった弾みで椅子を倒し、真っ青な顔で宰相の前で直立不動の姿勢を取った平役人。初めて見る顔だが(当たり前だけど)、息子の報告にあった髪色に似ている男だから、きっとそうなのだろう。明らかにベータ。しかも平凡。可もなく不可もなく、汎用な雰囲気を醸し出している。
「ふぅむ……」
顎に手を当て、宰相は考え込むフリをした。別に説教をしに来た訳でもないし、書類の不備があった訳でもない。もしそんなことがあったのなら、宰相ではなくもっと下の役人が来たことだろう。宰相が悩んだことはただひとつ、この男を連れ出すのに誰の許可が必要なんだ?ということだった。
「マイヤー子爵、ちょっと込み入った話があるのだが、時間はあるだろうか?」
見た感じ、全くなさそうな様子である。誰もが忙しそうで、もはや宰相の事など見てもいない。
「そ、れは……もちろん、でございます」
マイヤー子爵はそう答えながらも、目線がどこかに行っている。きっと今日の仕事の量を考えているのだろう。倒れた椅子の席に積まれた書類は、まだほとんど片付いてはいないようだ。
「そうか、この部署の上司はどこにいる?」
部屋の奥を見ても、みな似たような役人服を着ている。上司に当たりそうな服装が見当たらない。
「奥の部屋に……」
マイヤー子爵が、掠れた声で答えた。
「そうか」
宰相がそう言うと、マイヤー子爵はすぐに察して案内をした。もはや自分で倒した椅子など気にしている余裕は無い。
「ああ、すまないが、マイヤー子爵をしばらく借りていく」
宰相はだいぶ説明を端折った。
それはそうだ。
何しろ重大なはなしだ。こんなところで話していい内容では無い。とんでもない予算と書類が動く案件だ。しかも最重要機密にもなる。
「は、はいっ」
マイヤー子爵の上司はどこぞの伯爵家の次男だった。もちろんベータである。アルファである宰相閣下に言われれば、断ることなどできるはずもなく、しゃちほこばってひたすらに頭を下げマイヤー子爵を送り出したのだった。
そうしてマイヤー子爵は宰相閣下の後ろを歩き、普段足を踏み入れることの無いフロアにやってきた。並んでいるのは重厚な扉。しかもすべてが観音開きだ。見張りの兵士もたっている。
「この部屋でいいか」
宰相は一番奥のとんでもなく立派な扉の前にたった。その扉の部屋は最重要会議をする、遮音の魔法がかかった会議室だった。
「入りなさい」
マイヤー子爵にとって、死刑宣告にも近い声だった。
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