レイコ
鳥尾巻
レイコ
仕事で腹が立つことがあったので、酒でも飲んでやろうと冷蔵庫の扉を開けた。たしか実家に届いたお中元のビールを譲り受けて冷やしておいたはずだ。
扉を閉めようとすると、キュイ、と小さな音がした。学生時代から使っている冷蔵庫は少しガタがきていて、少し乱暴に扱っただけでパッキンの部分が悲しげな音を立てる。
『あまり飲み過ぎないでくださいね』
色白でスリムな冷蔵庫は、キュキュイ、とパッキンを鳴らして冷ややかに俺をたしなめる。
「分かってるよ」
『何かありました? よかったらお話聞きます』
相変わらず冷たいようで懐が深い。俺は缶ビールのプルタブを引きながら、今日会社であったことを話し始めた。
冷蔵庫との出会いは、大学一年の夏だった。都会の一人暮らしならコンビニでも食生活はこと足りるが、氷を作ったりアイスや飲み物を冷やしたりしたいと思い立ち、大学の近くの中古家電を扱う店までブラブラと歩いて行った。卒業して地元に帰る学生から引き取ったものを格安で売っているので、何か掘り出し物がないかと覗いてみる。狭い店内に所せましと並ぶ家電の間を縫うように歩き、奥にいた店員に声をかけた。
「すみません、冷蔵庫はありますか?」
エプロンを着けた痩せた中年の男は、眼鏡の奥の瞳を無感情に瞬かせて俺を見た。少し居心地の悪い時間が過ぎ、気まずさから俺が何か言おうとしたところで、ようやく店員が口を開いた。
「ありますよ」
あまりにも間を持たせるものだからないのかと思った。と、俺はのちに手に入れた冷蔵庫にそう語ることになる。
「どのようなタイプをお求めですか?」
「氷とか飲み物とか冷やせればいいんで単身者用の小さなもので。色も特にこだわりありません」
「陽気でお喋りな世話好きタイプと、一見冷たいようで手厚く心配りをしてくれるタイプがございます」
「機能とか色じゃないんですね」
「昨今の家電は人に寄り添うものが増えていますから」
そういうものか。よく分からないが、俺は店員のおススメする「一見冷たいようで手厚く心配りしてくれるタイプ」の白を選んだ。俺自身も会話が達者な人間ではないので、冷蔵庫を開けるたび陽気なお喋りを聞かされるのは勘弁してもらいたい。
数日後、配送されてきた白い冷蔵庫は、狭いアパートのキッチンの一角に澄まして収まり、電源を入れ扉を開けた俺の顔を明るく照らし『お世話になります』と一言挨拶をした。
俺は当時を思い出しつつ、冷蔵庫に寄りかかって二本目のビールを開ける。劣悪な労働環境やムカつく上司への愚痴も止まらない。
『それは大変でしたね』
「そうだろ。やってらんねえよな」
一気に飲み干して三本目を取り出そうとすると、そんな俺を心配するように冷蔵庫のパッキンがキュキュキュと音を立てた。
『少し飲み過ぎでは? 明日もお仕事でしょう?』
「大丈夫だって」
『お水も冷えてますから、あとで飲んでくださいね。昨日作ったオカズも残ってますよ。お早めにお食べください』
「ありがとう」
お礼を言って扉を閉めると、冷蔵庫はフシュンと犬の鼻息のような音を立てた。喜怒哀楽があるのかはよく分からないが、どうやら笑ったらしい。
酔いが回って少し火照った体に低い振動音が心地よい。コンプレッサーで冷やされた空気が冷却ファンで庫内に循環される音だ。最近は劣化が進んでいるのか音が大きくなってきた気がする。霜取り装置も上手く稼働してないようで冷凍庫に霜が溜まりやすい。犬の鼻息みたいな音から察するに、パッキンも緩んでいるようだ。
「なんかごめんなあ」
『何がです?』
「二十四時間三百六十五日働き続けてるキミに、休みがある俺がこんな愚痴吐いてさ」
『いいんですよ』
素っ気ない言いぶりだが、俺の心情と体温を感知してか、励ますようにブーンという音が大きくなる。あまり温めすぎても負担がかかると思い、俺はそっと体を離した。
思えば恋人よりも一緒に過ごしている。今では笑い話だが、寝言で「レイ……コ、明日のごはんどうする?」と呟いてしまって他の女の名前と誤解され、恋人のベッドから叩き出されたこともある。あの時もヤケ酒する俺に付き合って愚痴を聞いてくれたっけ。
大学の頃から使い始めて社会人になり独り暮らしのアパートでも数年。中古だったことを考えれば、そろそろ替え時なのかもしれない。長年親しんだ友人のような、もはや家族と言っても過言ではない冷蔵庫が弱って行く姿が妙に切なくて、お役御免の日が近いとは言い出しにくい。
俺は冷蔵庫の忠告に従い、昨日作った野菜炒めの残りを取り出し、電子レンジに放り込んで温めスイッチを押した。
それから数週間後、怖れていた日がやってきた。前日から調子が悪そうだった冷蔵庫はカラカラ、カタカタ、コンコン、カチカチと異様な音を立て続け、中の食材を冷やすことが出来なくなった。庫内を片付けてみても電源を入れ直してもダメだった。
一応製造元にも問い合わせて修理を依頼してみたが、型が古くてもう部品が製造されていないと残念そうに言われた。修理と買替の費用を比較検討した結果、新しい冷蔵庫を買うのが妥当だと納得せざるを得なかった。
電源を切る最期の日、俺は冷蔵庫に向かって頭を下げた。家電リサイクルに出すので、業者が引き取りに来る前にお別れをしておきたかった。
「今まで本当にありがとう」
『こちらこそ大切に使っていただきありがとうございます。あなたとお話するのは楽しかったです』
冷蔵庫にも楽しいという感情があったのか。いつも素っ気なく冷たい態度だったけど、あれでも楽しんでいたんだな。なんだか涙が出そうだ。リサイクル料金と運搬費用、新しい冷蔵庫の代金で夏のボーナスが全部飛んでいくのも懐が痛くて悲しい。
俺は冷蔵庫の中から取り出しておいた腐りやすい食材を全部使って別れの宴を催し、既に物言わぬ物体と化した冷蔵庫との別れを惜しんだ。
さらに数日後、俺は家電量販店に来ていた。前任の冷蔵庫との思い出を胸に、新しい冷蔵庫を探すのが目的だ。
色は白がいい。性格は「一見冷たいようで手厚く心配りしてくれるタイプ」がいいと接客係の若い女性店員に告げると、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「冷蔵庫に性格なんてあるんですか?」
「まあね」
曖昧に笑う俺を、少し危ない人間を見るような目つきで見た彼女だが、すぐにプロとして気持ちを切り替えたらしく、最新の冷蔵庫の前まで案内してくれた。
「性格というか、AI搭載GPS機能付きの冷蔵庫がありますよ」
「へえ」
「庫内の食品が少ない時や、ドアの開閉が少ない時など、自動で省エネ運転してくれるんですよ。スマホと連携すれば外出時や買い物途中でも適温に冷やしてくれて、最適な稼働をしてくれるすぐれものです」
「俺より優秀だな」
「まさかあ」
思わず呟くと、店員はコロコロと笑った。実際怠惰で賞味期限切れなども気にしない俺をサポートしてくれたのはあの冷蔵庫だった。あれがいなければ何度腹を壊したかしれない。アプリで食材管理できるタイプもあるらしく、前任よりも優秀だという触れ込みの商品パンフレットをいくつか貰って、とりあえず一人で冷蔵庫コーナーを見て回ることにする。
容量の多いもの、カメラ付き、急速冷凍機能、半解凍機能、粗熱を取らなくてもすぐに冷凍してくれるもの。一人暮らしだし家族が増える予定もないから大きくなくていい。
両開き、どちらからでも開閉できる扉、俺は無意識にあの冷蔵庫に似た形を探していた。試しに全部の商品の扉を開けながら、一番奥に置いてあった冷蔵庫の前に辿り着く。
俺の背丈よりもわずかに低い、単身者向けの小型の白い冷蔵庫。大袈裟な機能はついておらず、ドアもシンプルな片開きだ。
俺は柔らかく照明を照り返す白い機械の面に手を掛ける。ゆっくりと開け、再び閉めようとした冷蔵庫の扉から、キュイ、と小さな音がした気がした。
レイコ 鳥尾巻 @toriokan
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