壊滅のギフテッド

星降

無題

 ◆

 カツン、カツン、

 雲に覆われた満月のぼんやりとした光以外が無い階段を、少年は一人で上がっていく。

 カツン、カツン、

 「ごめん、母さん。ごめん、父さん。ごめん、姉さん」

 おんぼろで今にも崩れ落ちそうな死の階段を、一段一段踏みしめるようにして、少年は自分の意志を貫く。

 カツン、カツン、

 「先立つ不孝をどうかお許しください」

 今からしようとしていることとは裏腹に、少年の心はひどく凪いでいた。それは、地獄から解放されることへの安堵感から来ているものなのか、はたまた脳が上手く機能していないもののか。

 とにかく、少年の心は静かで平穏だった。

 カツン。

 最後の一段を上りきり、錆びた取っ手を回して目の前のドアを開ける。

 ぶわりと巻き起こった冷たくて強い風と、やんわりとした月光以外に少年を迎えるものは何もなく、世界が自分ひとりきりになったかのような錯覚を覚える。

 「おかしいな、」

 冷たいアスファルトの上で一人、少年は首を傾げた。

 「どうして、僕は、涙を流してるんだろう?」

 地獄からの解放を悟り、心はいたって落ち着いている。しかし、その反対に心臓はばくばくと今にも体から逃げ出しそうなほど早鐘を打っていた。さっきまではあんなに静かだったのに、生命の終焉を察して一生分の鼓動をおわらせようとしているのだろうか。それとも重病に伏せる母を残して逝くことへの罪悪感に耐えられなくなったからだろうか。

 透明な涙が一粒、青白い月の光をきらきらと反射しながら地面に落ち、小さな染みを作った。染みはじわじわと増えていき、アスファルトの色を濃くする。

 「ほんと、何でなんだろうね、桃香」

 ふらふらと歩いていき、震える体で柵を乗り越え、屋上の淵に足をかける。いつもポケットに入れているせいでぼろぼろになってしまった、お守り替わりのキーホルダーを取り出し、ギュッと握った。今は亡き幼馴染の桃香がこれをくれたのはいつのことだったっけ、とぼんやり考える。

 下を見下ろしても、暗くて何も見えず、ただ、ぽっかりとした深淵が、少年を飲み込もうと口を開いて待っているだけだ。月の光すら吸い込むような虚無の深淵が。

 少年は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、屋上の淵から足を離した。

 体が地面に向かって落下し、耳の横を風がごうごうと音をたてて通り過ぎていく中、少年は独り、涙をこぼした。

 長いとはいえない自分の人生が、走馬灯のように脳裏をよぎる。

 どこで、自分は道を違えたのだろう。

 どうして、他の人のように生きられなかったのだろう。

 なぜ、自分は生きることを諦めたのだろう。

 今の自分を、彼女はどう思うのだろう。

 もしあの時違う選択をしていたのならば、未来は明るかったのだろうか。

 「今行くよ、桃香」

 その命が燃え尽きる直前、少年の心にあったのはただ一つの想い。

 お願いだから、次は、次こそは、普通の人間として生れ落ちますように。誰からのものだっていい、愛情がもらえますように。そして、自分も誰かを愛せますように。

 いよいよ地面が目の前まで迫り、少年は目を閉じようとした。

 その瞬間だった。

 無数の数字に彩られた幾千もの数式が突如具現化し、光の帯のように少年の体を包み込んだ。

 余りにも切実すぎる願いが神に聞き届けられることはなく、少年の体の落下が止まり、意識を失った少年の体はゆっくりと地面に横たわる。

 少年を囲むようにして、空中で数式が踊り狂っている。

 だが、それは徐々に勢いを失い、少年の体に吸い込まれていく。

 最後の数式が溶けるようにして少年の体に入り込み、辺りは静けさに包まれた。

 そこにいるのは、数に選ばれた少年ただ一人だった。

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