第3話

 

 日が暮れて来たシャルタナ家のテラスで、少しソワソワしていたアデライードは、暗がりの道を馬に乗った姿で戻って来たネーリを見つけて、胸をなでおろした。

「お帰りになりましたわ」

 暖炉の側で寛ぎながら本を読んでいたレイファが笑って立ち上がる。

 ネーリはテラスまで直接やって来ると、黒馬の背から降りた。

「ただいま戻りました」

 アデライードとレイファに挨拶をする。

「おかえりなさい」

 レイファが黒馬を労うように撫でてやりながら出迎えてくれる。

「たくさん描けました?」

「はい」

 ネーリは嬉しそうに頷き、鞄を抱えている。

「ほら、言ったでしょう」

 温かなショールを広げて、ネーリを包んでやりつつ、レイファとアデライードは屋敷の中に戻った。

「?」


「このあたり一帯海に面したシャルタナ家の私有地ですから、恐ろしい生き物なんていませんと説明してますのに、アデル様が陽が落ちたのにネーリ様が戻らない戻らないと心配なさっていましたのよ」


「なにかあったのではないかと……」

 ネーリは笑っている。


「北の、湿地帯の外れまで行っていました。海まで見えて。初めて見える角度でヴェネツィアの市街も見えて……僕、あの森のあたりを外からよく描いていました。誰かの別荘地なのかなと思ってたんですが、シャルタナ家の私有地だったんですね。

 夕暮れ時の湿地帯が美しくて、陽が沈むまで見ていたかったんです。でも、陽が落ちてからの湿地帯の雰囲気も良かった。今日は軽装で出てきてしまったからさすがに風邪引くなぁって思って戻って来ましたが……レイファ様、僕一度夜じゅう湿地帯で過ごしてみたいんですが、シャルタナ公にお願いしても大丈夫でしょうか?」


 心配そうだったアデライードが目を瞬かせている。

 レイファは声を出して笑った。

 少し冷気に赤くなったネーリの頬を両手で包み込む。

「大丈夫も何も、反対する理由がありませんわ」

「今、温かな紅茶を淹れます」

 用意していたティーセットに、アデライードが急いで紅茶を淹れている。

 ネーリは暖炉の前のソファに座った。レイファはその側の一人掛けの椅子にゆったりと座る。すぐにアデライードはやって来た。彼女の淹れてくれた紅茶を飲んで、ネーリが「あったかい」と笑顔になると、ようやく彼女は安心したらしい。


「陽が落ちたら迎えに行ってきますとアデル様が何度も仰るので、画家が夢中になっている時は止めても無駄ですわよと申し上げましたわ」


「シャルタナ家の私有地は広大過ぎて……その……ネーリ様が迷子になってしまったのではないかと」

「ツァベルが付いているのだから絶対大丈夫ですわよ。あの子温かいですし」

 ネーリが頷いている。

「あの子がずっと隣に蹲っていてくれて、寄りかかって描いてたから全然寒くなかった」

「まあ……そうでしたの。ネーリ様、わたしネーリ様がシャルタナ家で絵をお描きになるうちに乗馬を覚えます。そうしたらネーリ様が夢中で時間を忘れてしまっても、夕食の時間ですよと迎えに行けますもの」

「そっか、夕食……全然忘れてた。すみません」

 こういう貴族の家は決まった時間に食事を取るのだった。

「アデル様には先に少し召し上がる様にお勧めしたんですけど、ネーリ様が戻られてから一緒に召し上がりたいと仰ったので」


「ごめんね。心配させてしまって。遅くなっても心配しないでって言っておけば良かった」


 ネーリがアデライードを抱きしめた。アデライードはラファエル以外の男にそんな風にされたことがなく、一瞬驚いたが、温かなネーリのぬくもりを感じたら、心底安心した。

「いいんです。私が落ち着きなく心配などしすぎてしまいました。レイファ様はとても落ち着いていらっしゃいましたもの……」

「私の屋敷の使用人にも趣味で絵を描く画家がいますの。空き時間には好きに描いていいと雇う時に言っておいたんですけど、一旦描き始めるとネーリ様みたいに全く戻って来なくなる時ありますから。慣れてますわ」

「でも、私が駄々を捏ねるのでレイファ様も夕食を後回しにしてくださったんです……」

「すみません!」

 ネーリが慌てて頭を下げたが、レイファは笑っている。

「いいんですのよ。私も兄も道楽貴族で、決まった時間に食事なんて普段から全く取ってません」

「そういえば、シャルタナ公は……」


「夕暮れ時一度こっちに顔を出しましたけど、本館でお客様たちをお見送りした後は、お友達が訪ねて来たので、今頃二人でのんびり飲んでますわ。ご心配なく」


「ドラクマ様もレイファ様も、初めて見る景色に描きたいものがたくさんあるんだろうと笑っていらっしゃって。さすがにお二人とも落ち着いていらっしゃいました……。わたしだけソワソワしてしまって」

「いいんですのよ。そんなアデル様も可愛らしいこと、とたっぷり鑑賞させていただけて楽しかったですし」

「まあ」

 ようやくアデライードに笑顔が生まれた。

「私は全然このままゆっくりしてもいいんですけど、ネーリ様。一度湯に温まっていらっしゃったらいいわ。その間にこちらに夕食の準備をさせておきますから、ゆったりと体を温めたあと、三人で夕食にしましょう」

「はい。ありがとうございます」

「わたし、浴室にご案内します」


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