第36話:薔薇の雨に濡れて

 五月の柔らかな雨が、植物園「花風」を優しく包み込んでいた。朝もやと雨粒が混ざり合う中、葉月は星の温室での作業を終え、ローズガーデンへと足を向けていた。雨に濡れた薔薇の花が、まるで宝石のように輝いている。


「おはよう、可愛い子たち」


 朝靄の中、葉月はゆっくりとローズガーデンを巡回していく。雨に濡れた薔薇園は、まるで宝石を散りばめたような輝きを放っていた。ピエール・ド・ロンサールが、まるで優美な貴婦人のように淡いピンクの花を咲かせている。その花びらは幾重にも重なり、中心に向かうほど深い色合いを見せていた。


「今日もみんな綺麗だわ」


 葉月は柔らかな笑みを浮かべながら、ピエール・ド・ロンサールの花に指を添える。雨に濡れた花弁が、まるで絹のように滑らかな感触を残した。その隣では、グラハム・トーマスが深い黄金色の大輪を揺らしている。陽を受けて輝く水滴が、花びらの上で小さな虹を作り出していた。


 かすかな風が吹き抜けると、甘く芳醇な香りが漂ってくる。メアリー・ローズの花房が、可憐な小花を揺らしながら、繊細な香りを放っている。淡いピンクの花びらは、まるで薄明かりを帯びたかのように優しい光沢を持っていた。


 葉月は足を進め、アイスバーグの純白の花に目を留める。清楚な白い花びらは、朝の光を受けて真珠のような輝きを放っていた。その周りを取り巻くように、アンジェラの花が鮮やかなコーラルピンクの色彩を競い合っている。花弁の一枚一枚が、まるでレースのような繊細な造形を見せていた。


「素晴らしいわ……みんな、それぞれの個性を見せてくれるのね」


 葉月は静かに微笑む。ウェッジウッド・ローズは青みがかった淡い紫を、オールド・ブラッシュ・チャイナは柔らかな桃色を、そしてムンステッド・ウッドは深い赤紫の花を咲かせていた。それぞれの薔薇が、朝の光の中で独自の輝きを放っている。


 シャルル・ド・ミルの大輪が、重なり合う花びらの間から朝露をこぼす。その様子は、まるで涙を流す乙女のよう。葉月はそっと手を伸ばし、その露を受け止める。冷たい水滴が、指先に小さな刺激を与えた。


 ローズガーデンの奥では、レディ・エマ・ハミルトンが琥珀色の花を咲かせ始めていた。その花びらは外側から内側へと、黄金から深い橙へとグラデーションを描いている。朝もやの中で、その色合いは一層神秘的な印象を与えていた。


「今年は特に素敵な花を見せてくれそうね」


 葉月は一輪一輪に語りかけるように、優しく手を触れていく。ジャスト・ジョーイの花びらは、サーモンピンクから黄色へと移ろう独特の色彩を見せ、クイーン・オブ・スウェーデンは上品な淡い桃色の花を咲かせていた。それぞれの薔薇が、まるで葉月の言葉を理解したかのように、雨粒を輝かせながら微かに揺れる。


「今日も素敵な朝ですね」


 蓮華が、剪定バサミを手に現れた。


「ええ。バラたちが最高の姿を見せてくれる時期になったわ」


 葉月は蓮華の頬にそっとキスをする。まだ冷たい朝の空気の中で、二人の頬が僅かに紅潮する。


 朝霧の向こうから、ツグミの澄んだ声が響いてくる。初夏の訪れを告げるような、爽やかな鳴き声だった。


 雨は細かな粒となって、バラの葉を打ち続けている。葉月は慎重に花がらを摘みながら、一輪一輪の状態を確認していく。五月は病害虫の発生にも気を配らなければならない大切な時期だ。


「この子、少し黒点病の兆候が見えるわね」


 葉月が指差した葉には、かすかな黒い斑点が見え始めていた。


「早めの対処が必要ですね」


 蓮華は専門家らしい視点で観察を続ける。その手つきは的確で、無駄のない動きで作業を進めていく。


 バラの香りが風に乗って漂う中、二人は時折見つめ合い、小さな笑みを交わす。汗で髪が少し濡れた蓮華の姿に、葉月は胸が高鳴るのを感じていた。


 突然、蓮華の小さな悲鳴が響く。


「あっ……」


 誘引作業中の手が滑り、鋭い棘が指先を傷つけていた。


「蓮華! 大丈夫?」


 葉月は慌てて駆け寄る。蓮華の指から、小さな血の滴が落ちていた。


「大したことありません。ただの不注意です」


 そう言いながらも、蓮華の表情には珍しい乱れが見える。葉月は迷うことなく、その傷ついた指を自分の唇で包み込んだ。


「葉月さん……!」


「昔から、唾液には殺菌作用があるって言うでしょう?」


 葉月の優しい仕草に、蓮華は思わず顔を赤らめた。


「でも、ちゃんと消毒しましょう」


 葉月は蓮華の手を取り、近くの東屋へと導いた。そこには救急箱が常備されている。


 雨は次第に強さを増していった。東屋の屋根を叩く雨音が、二人の密やかな時間を包み込む。


「痛くない?」


 葉月が消毒液を染み込ませた脱脂綿で優しく傷を拭う。


「いいえ。葉月さんの手当ては、とても優しいです」


 蓮華は葉月の手を取り、その手のひらに自分の頬を寄せた。


「蓮華……」


 二人の吐息が重なる。東屋に立ち込める雨の匂いと、バラの香りが混ざり合う。


「ねえ、この雨が上がったら」


「はい?」


「もう一度、あの朝の続きをしましょう」


 葉月の言葉に、蓮華は静かに頷いた。


 雨は二人の心を洗うように、しばらく降り続いた。やがて、東の空から一筋の光が差し始める。雨上がりの空気が、バラの香りを一層色濃く漂わせていく。


「見て、虹が……」


 葉月の声に導かれ、蓮華は空を見上げた。二重の虹が、ローズガーデンの上に架かっている。


「美しい……」


 蓮華は葉月を後ろから抱きしめ、その温もりを確かめるように強く抱いた。


「私たちの愛も、あの虹のように」


「ええ。もっと、もっと鮮やかに」


 二人の唇が重なる。バラの園で、永遠の愛を誓うような、深いキスが交わされた。


 その日の午後、二人は通常の剪定作業を再開した。しかし、時折投げかける視線には、いつも以上の愛情が溢れていた。


 夕暮れ時、最後の見回りを終えた二人は月見亭で休息を取っていた。


「今日のバラたち、とても幸せそうだったわね」


 葉月は蓮華の肩に寄り掛かりながら言った。


「ええ。きっと、私たちの愛を感じ取ってくれたんでしょう」


 遠くから、ホトトギスの声が聞こえ始めた。初夏の夜の静けさを彩る、清らかな声。


 二人は寄り添いながら、夕闇に溶けていくバラの園を見つめていた。明日も、また新しい愛の一日が始まる。そう信じて疑わない、確かな幸せがそこにはあった。


 五月の優しい夜風が、二人の愛を見守るように吹き続けていた。

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