第31話:桜の舞う午後

 春霞の立ち込めるなか、植物園「花風」の朝が始まろうとしていた。メインガーデンでは、ソメイヨシノが満開を迎え、淡紅色の花びらが朝の光を優しく透過させている。葉月は早朝から、桜の根元に咲くキバナノアマナの株間の草取りに没頭していた。


「おはよう、可愛い子たち」


 葉月は一つ一つの花に優しく語りかけながら、雑草を丁寧に抜いていく。黄金色の花弁が朝露に濡れ、まるで宝石のように輝いている。


「葉月さん、また早起きですね」


 背後から聞こえた蓮華の声に、葉月は振り返る。


「ええ。今朝は特別な予感がしたの」


「予感、ですか?」


「ええ。今日は、素敵なことが起きそうな気がして」


 蓮華は葉月の髪に落ちた桜の花びらを、そっと指先で取り除いた。


「こんなに早くから、桜が舞い始めているんですね」


「風が出てきたのよ。今日は沢山の花びらが舞うわ」


 二人の上で、桜の枝が優しく揺れる。その動きに合わせて、花びらが舞い始めた。



 午前の陽射しが強くなり始めた頃、植物園の入り口に二人の来訪者が現れた。一人は着物姿の凛とした女性、もう一人はカメラを持った現代的な装いの女性だった。


「まあ、なんて素敵な桜でしょう!」


 着物姿の女性が声を上げる。


「千代子様、こちらの角度から撮影してみましょうか?」


「そうね、麗子。その構図も良さそうだわ」


 葉月と蓮華は、メインガーデンの手入れを一時中断して、訪問者に近づいていった。


「いらっしゃいませ」


 葉月が優しく声をかける。


「あら、園の方ですか? 素晴らしい桜を、ありがとうございます」


 千代子と名乗った着物姿の女性が、深々と頭を下げた。


「私は千代子、こちらが麗子です。写真撮影のために各地の桜を巡っているんです」


「はい、私は葉月、こちらが蓮華です。ごゆっくりお過ごしください」


 蓮華は二人の佇まいに、何か特別なものを感じ取っていた。



 昼過ぎ、せせらぎの小径では、シャガの群生が見頃を迎えていた。淡い青紫の花が、桜の花びらと混ざり合って、幻想的な風景を作り出している。


「千代子様、このアングルはいかがでしょう?」


 麗子がカメラを構える姿に、千代子は優しい眼差しを向けた。


「ええ、素敵よ。でも、その前に……」


 千代子は麗子の頬に触れ、花びらを払う。その仕草があまりに自然で愛情に満ちていて、葉月と蓮華は思わず見とれてしまう。


「お二人は、お付き合いが長いんですか?」


 葉月が思わず尋ねる。


「ええ、もう10年になります」


 麗子が答える。その声には誇らしさが混ざっていた。


「写真を通じて出会って……」


 千代子が続ける。


「それ以来、共に日本中の美しい風景を巡っているんです」


 蓮華は葉月の手を、そっと握った。



 午後、風の広場では桜の花びらが風に乗って舞い、まるで雪のような光景を作り出していた。葉月と蓮華は、来訪者たちにお茶を用意した。


「このお茶、とても香り高いですね」


 千代子が感嘆の声を上げる。


「ええ、蓮華が特別にブレンドしたハーブティーなんです」


 葉月が誇らしげに答える。


「お二人も、素敵な関係ですね」


 麗子が優しく微笑む。


「はい。植物園と共に、少しずつ育んできました」


 蓮華の言葉に、葉月は頬を染めた。


「私たちにも分かりますよ。二人で大切なものを育てていく喜びが」


 千代子の言葉に、四人は優しい笑みを交わした。



 夕暮れ時、月見亭に四人が集まった。麗子がその日撮影した写真を、小さなモニターで見せてくれる。


「まあ……」


 麗子がモニターに写真を映し出すと、葉月は思わず息を呑んだ。そこには、自分たちの知らない瞬間が切り取られていた。


 最初の一枚は、朝の光を受けた桜の下での場面。蓮華が葉月の髪に落ちた花びらを取る瞬間を捉えている。蓮華の指先が葉月の黒髪に触れる直前、その仕草には限りない優しさが滲んでいた。葉月の表情には、蓮華を見上げる無意識の愛情が浮かんでいる。桜の花びらが二人を祝福するように舞い、まるで絵物語の一場面のよう。


 次の写真は、せせらぎの小径でシャガの群生を観察する二人の姿。葉月が地面に膝をつき、花に手を伸ばそうとする横で、蓮華が温かな眼差しを向けている。春の陽射しが斜めから差し込み、二人を柔らかな光で包み込んでいた。専門家としての真摯な眼差しの中に、確かな愛情が垣間見える。


 最後の一枚は、風の広場での後ろ姿。寄り添って歩く二人の間には、ほんの僅かな空間があるだけ。それでいて、その距離感が絶妙で、深い信頼関係を感じさせる。風に揺れる二人の髪が、まるで一つの波のように同じリズムを刻んでいる。背景では桜の花びらが舞い、その光景がより一層詩的な雰囲気を醸し出していた。


「こんな風に見えているのね……私たち」


 葉月の声が微かに震える。写真は、普段意識することのない二人の関係性を、静かに、しかし確実に映し出していた。


 蓮華は葉月の肩を優しく抱き、答える代わりにそっと頬に触れた。その仕草は、まさに写真の中のように自然で、愛に満ちていた。


「大切な瞬間を、こんなに美しく切り取ってくださって……」


 蓮華の言葉に、麗子は柔らかな微笑みを浮かべた。


「写真って、不思議なものですね」


「ええ、お二人の間にある想いが、自然と私のカメラに飛び込んできたんです」


 麗子が静かに語り始める。


「写真は一瞬の光景を切り取るのに、その中には永遠が宿るんですよ」


 蓮華は葉月の肩を抱き、その言葉の意味を噛みしめた。


 夕暮れが深まった月見亭で、四人の前には空になった茶器が置かれていた。窓の外では、夕陽に染まる桜が風に揺れている。写真を見終えた後の静かな時間の中で、千代子が懐かしそうに語り始めた。


「私たちが出会ったのは、ちょうど今頃の季節だったのよ」


 千代子の声には、柔らかな追憶が滲んでいた。


「当時、私は祖母から受け継いだ着物店を営んでいて。麗子さんは、着物の広告写真の撮影で来てくださったんです」


 麗子は千代子の手に自分の手を重ね、優しく微笑んだ。


「千代子様が着物を可憐に着こなされる姿に、思わずシャッターを切り続けてしまって」


「ええ。普段は几帳面な麗子さんが、すっかり夢中になってしまって」


 二人の間で交わされる視線に、年月を重ねた愛情が溢れていた。


「でも、最初は随分と遠回りをしましたよね」


 麗子が少し照れたように目を伏せる。


「ええ。着物の撮影を口実に、何度もお店に通ってきてくださって」


「その度に、千代子様は素敵なお茶を淹れてくださって」


 葉月と蓮華は、二人の言葉に聞き入っていた。


「きっかけは、あの大震災だったわね」


 千代子の声が少し沈んだ。


「ええ。被災地で着物の救済活動をされる千代子様の姿を追って、私もカメラを持って同行させていただいて」


「避難所で着物の着付けをお手伝いする中で、人々の心が少しずつ癒されていくのを感じて……」


「その時の千代子様の凛とした後ろ姿が、私の心に深く刻まれました」


 蓮華は葉月の手を静かに握った。


「その後、二人で日本中を巡るようになって」


 千代子が続ける。


「古い着物に秘められた物語を探して」


「その土地の風景と、着物の美しさを写真に収めて」


「そんなことをしているうちに、気が付けば、もう10年」


 麗子が柔らかく微笑む。


「最初は、周りの目も気になって」


 千代子が少し言葉を詰まらせる。


「でも、本物の愛は、必ず理解してもらえるって信じていました」


 麗子が千代子の言葉を受け止める。


「お互いを認め合い、支え合えたから、ここまで来られました」


 葉月の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。


「素敵な物語ですね」


 蓮華が静かに言う。


「ええ。でもこれはこれからも、まだまだ続いていく物語なんですよ」


 千代子が麗子を見つめる。


「二人で見る景色は、いつも新鮮で」


「心が震えるほど、美しくて」


 夕陽が二人の横顔を優しく照らしていた。その光景は、まるで一枚の古い写真のように美しく、深い愛情に満ちていた。


「私たちも、おふたりのように歳を重ねていけたら……」


 葉月が囁くように言う。


「きっと、そうなりますよ」


 千代子が優しく微笑んだ。


「だっておふたりの目に映る世界は、同じように輝いているから」



 月が昇り始めた頃、千代子と麗子は帰り支度を始めた。


「素敵な一日を、ありがとうございました」


 千代子が深々と頭を下げる。


「また来てくださいね」


 葉月が笑顔で答える。


「ええ、必ず。この園の四季折々の表情を、是非撮影させていただきたいです」


 麗子がカメラを大切そうに抱える。


 見送る二人の頭上で、夜桜が静かに輝いていた。



 その夜、星の温室では二人きりの時間が流れていた。


「素敵なカップルだったわね」


 葉月が蓮華の胸に寄り添いながら言う。


「ええ。私たちの未来の姿を見ているようでした」


「10年後も、こうして一緒に……」


 言葉の続きは、優しいキスで遮られた。温室のガラスに映る二人の影は、まるで一輪の花のように見える。


 窓の外では、満開の夜桜が月明かりに照らされ、神秘的な光景を作り出していた。花びらが風に乗って舞い、永遠の愛を誓うようにきらめいている。


 新たな季節の始まりと共に、二人の愛もまた、新しい花を咲かせようとしていた。

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