第23話:厳冬に宿る命の温もり

 一月下旬の朝は、まだ闇に包まれていた。星の温室では、小さな明かりが揺らめいている。葉月は早朝から水やり作業に没頭していた。厳冬期特有の繊細な作業に、細心の注意を払う。


「おはよう、今日もみんな頑張ってるのね」


 一鉢一鉢に優しく語りかけながら、葉月は慎重に水を与えていく。寒蘭の新芽は、凍てつく寒さの中でもしっかりと成長を続けている。


「葉月さん、やっぱりここにいましたか」


 温かな声が背後から響き、葉月は振り返った。蓮華が両手にマグカップを持って立っている。


「あら、蓮華……また私のことを心配してくれたの?」


「ええ。寒い朝は、温かい飲み物が必要ですから」


 蓮華は葉月の傍らに寄り添うように近づき、そっとマグカップを差し出した。ココアの甘い香りが、冷えた空気の中に溶けていく。


「ありがとう……体が温まるわ」


 葉月は蓮華の胸に寄り添うように身を寄せた。二人の吐息が、静かに白く混ざり合う。


「この子たち、寒さに負けずに頑張ってるのね」


 葉月は寒蘭の新芽を愛おしそうに見つめる。


「ええ。葉月さんの愛情が、しっかりと届いているんでしょうね」


 蓮華は葉月の髪を優しく撫でながら答えた。その仕草に、葉月は頬を染める。


「もう、蓮華ったら……」


「だって、可愛いんです」


 蓮華は葉月の耳元で囁くように言った。その温かな息遣いに、葉月の心臓が高鳴る。



 朝日が昇り始める頃、二人はメインガーデンの見回りを始めた。霜柱が地面一面に立ち、まるでガラスの森のような景色が広がっている。


「今年は寒波が厳しいわね」


 葉月は息を白く吐きながら言った。


「ええ。でも、その分だけ春の開花が見事になるはずです」


 蓮華は専門家らしい視点で、植物たちの状態を確認している。


「ロウバイの蕾が膨らんできたわ」


 葉月は黄色みを帯びた蕾を丁寧に観察する。まだかすかだが、確実に芳香を感じ取ることができる。


「花芽分化が順調ですね。この調子なら……」


 言葉の途中で、蓮華は葉月の手を取った。


「手が冷たいですよ」


「えっ?」


「温めましょう」


 蓮華は葉月の手を自分のコートのポケットに入れた。二人の指が絡み合い、その温もりが心地よい。



 午前中、二人は温室での特別な作業に取り掛かっていた。寒蘭の株分けと、着生ランの植え替えが今日の主な仕事だ。


「この子、随分と立派に育ったわね」


 葉月は寒蘭の根を丁寧に解きほぐしながら言った。


「ええ。バルブの充実度も申し分ありません」


 蓮華は専門家の目で、植物の状態を細かくチェックしていく。その真剣な横顔に、葉月は思わずうっとりとしてしまう。


「また見とれていますね」


 蓮華は葉月の視線に気づき、少し照れたように微笑んだ。


「だって……蓮華の集中してる姿が、とても素敵なんだもの」


 作業の手を止め、蓮華は葉月に近づいた。


「葉月さんこそ、植物を愛おしそうに扱う姿が美しくて……」


 二人の唇が重なる。温室の中で、静かなキスを交わす。植物たちが、その愛を見守っているかのよう。



 昼下がり、せせらぎの小径では思いがけない発見があった。


「葉月さん、こちらです!」


 蓮華の声に、葉月は足を向けた。小川の縁で、フクジュソウの新芽が顔を出し始めていたのだ。


「まあ! もうこんな時期なのね」


 葉月は慎重に膝をつき、新芽を観察する。まだ小さな芽だが、その中に確実に春への準備が進んでいる。


「自然の営みって、本当に不思議ね」


「ええ。厳しい寒さの中でも、次の季節への希望を持ち続けている」


 小川では、カワガラスが餌を探していた。冷たい水しぶきを浴びながら、小魚を追う姿は実に勇ましい。


「私たちも、春を待つ間、温め合っていましょう」


 蓮華は葉月を後ろから抱きしめ、その温もりを分け合った。



 午後、風の広場では特別な準備が始まっていた。春の花々のための土作りだ。


「この土壌の状態、理想的ですね」


 蓮華は専門的な視点で、土の状態を確認していく。


「ええ。去年の落ち葉が、良い具合に腐葉土になってるわ」


 葉月は土を手に取り、その感触を確かめる。命の循環を実感できる瞬間だ。


「この環境なら、きっと素敵な花を咲かせてくれるはず」


 蓮華の言葉に、葉月は優しく微笑んだ。


「私たちの愛も、この土壌みたいに、少しずつ深まっていくのね」


「ええ。毎日が、新しい発見に満ちています」


 二人は見つめ合い、また優しくキスを交わした。



 夕暮れ時、月見亭からは冬の夕陽が美しく見えた。


「日が短くなったわね」


 葉月は蓮華の肩に寄り添いながら、茜色に染まる空を見つめる。


「ええ。でも、これからまた少しずつ昼が長くなっていきます」


 遠くから、ツグミの群れが飛んでくるのが見えた。渡り鳥たちも、厳しい冬を乗り越えようとしている。


「蓮華」


「はい?」


「私ね、こうしていると永遠に時が止まってくれたらいいのにって思うの」


 蓮華は葉月の頬に触れ、その目元に映る夕陽の光を愛おしむように見つめた。


「私もです。でも、時が流れるからこそ、こうして季節を感じられる。それも素敵なことじゃないでしょうか」


 二人の唇が再び重なる。夕陽の最後の光が、その瞬間を優しく照らしていた。



 その夜、星の温室では不思議な出来事が起きていた。


 月の光を受けて、寒蘭の一つが突然、かすかな光を放ち始めたのだ。それは淡い青白い光で、まるで月光を閉じ込めたかのよう。


「見事ね……」


 葉月は蓮華の腕の中で、感動的な光景を見つめていた。


「私たちの愛を祝福してくれているのかもしれません」


 蓮華は葉月をより強く抱きしめた。花からの光は、二人の愛を優しく照らし続けている。


「ねえ、蓮華」


「はい?」


「この温室で、あなたと過ごせて本当に幸せ」


 蓮華は葉月の唇を優しく塞いだ。


「私こそ、葉月さんと出会えて、この上ない幸せです」


 月の光の中で、二人の愛は静かに深まっていく。



 翌朝、葉月は蓮華の腕の中で目を覚ました。


「おはよう、葉月さん。少し寒くないですか?」


「ううん、蓮華の温もりで十分よ」


 窓の外では、寒蘭の新芽が朝日に輝いていた。厳しい寒さの中でも、確実に春への準備は進んでいく。二人の愛もまた、季節と共にゆっくりと、しかし確実に育まれていくのだ。


 朝日が昇り、新しい一日が始まろうとしていた。温室の花々も、二人の新たな一日を静かに見守っているようだった。冬の寒さは、二人の心をより一層近づけていく。それは、この植物園でしか味わえない、特別な愛の形なのかもしれない。


 一月の朝の光が、そんな二人の姿を優しく包み込んでいった。

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