名前のないまま肌を知る
羽山つばさ
白く霞む境界線
とろけるような煙が静かに空気を支配する。
深く吸い込んだ瞬間、肺の奥にひんやりとした湿気が広がる。吐き出すと、視界に映る薄暗い部屋が、白く霞んだ膜で上書きされていった。 私はそこで一瞬だけ迷子になる。
「吸ったことあるの?」
「うん、まあ、前に…」
ふと、遠い記憶が蘇る。
あのとき、押し付けられたリキッドの冷たい感触。いいもんだから、と差し出してきた日焼けした手。
あれは確か、大麻成分が含まれているナニカ。今はもう非合法かもしれない。
もう一口。
こぽぽぽぽ…
白い煙の向こうに、彼の姿が透ける。
顎を少し上げ、見下ろしてくる目線。ベタ塗りの瞳は焦点が定まっていない。
薄暗く湿った空気の中で、シーシャの煙がゆらりと揺れる。
ふと口をつけたグラスが重い。ワイングラスを持つのはその日が初めてだった。そっとテーブルの上に戻す。
私は無意識に息をつめ、もう一度、煙を吸い込む。喉がむず痒くて、肺の中が湿度に満ちていく。吐き出せない苦しさが、頭の奥をぼんやりさせていく。
窓の向こうに広がるのは、どこまでも続くコンクリートの街。五階の高さ。もし覗き込めば、無機質な都市の灰色に身を投げてしまいそうだった。
「おいで。」
囁くような声。
思考は痺れ、身体は微かに熱を帯びてゆく。
舞台袖を追い出された役者のような気持ちでゆるりと距離を詰めた。
膝の間に座ると、後ろから腕が回ってくる。
重力のかかり方を間違えたみたいに、自分の身体の輪郭がぼやけていく。大きな体躯が柔らかな光を遮り、視界には、その影だけが浮かんで見えた。背中に感じる体温が、妙に生ぬるい。
私のお気に入りの真紅のブラウスが、彼の生気のない腕を鮮やかに映し出す。
家を出る前に振りかけたバニラの香水が、苦しいくらいに喉を刺激して、32ミリのコテで巻いた毛先に、ふと枝毛を見つけて、無性に帰りたくなる。
突然、マウスピースを押し付けられた。
促されるまま、また煙を吸い込むと、そのまま彼を見つめ返す。
長いまつ毛と通った鼻筋。
ふー、と吐き出した煙が私と彼の間の空間を満たした。口元が少しだけ緩む。
顔の見えない彼がわずかに私を引き寄せる。散り散りになっていく雲の向こうから何も写っていない瞳が現れた。
名前のないまま肌を知る 羽山つばさ @88m_tsubasa
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