第10話
「行っちゃったね……」
「行っちゃいましたね……」
時雨は彼女が出て行ったドアを見つめる。あれは本当にユズなのだろうか。顔は確かに彼女だった。あのキャップだって見覚えがある。初めて彼女と会ったときもあれを被っていた。秋の陽射しが眩しい日。彼女は無邪気な笑顔で距離を感じることもなく話してくれた。そんな彼女と今この場にいた彼女はまるで別人だ。
知り合いといった雰囲気さえない。まるで初対面の相手に対するような態度。
「どう思う?」
ミユの言葉にハッとして時雨は視線を彼女に戻す。彼女は困ったように時雨のことを見ていた。
「どうって……。あんなのユズじゃないです」
「やっぱそうだよね」
ミユは頷くと珈琲を口に運んだ。時雨はしばらく無言のまま手元を見つめる。
「――体調悪いって言ってたじゃない? ユズちゃん」
ふいにミユが口を開いた。気づくと彼女はスマホを手にしていた。
「わたしが初めてユズちゃんに会ったのも病院だったんだよね」
「え、ユズが病院に……?」
「そう。去年の春くらいだったかな。わたし、ちょっとかなり落ち込んでる時期でね。待合ロビーのベンチに座ってたんだけど、よほど暗い顔でもしてたのかユズちゃんが心配して話しかけてくれたの」
そのときのことを思い出したのか、ミユは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だって言っても、そうは見えないって話し相手になってくれたんだ。それからよく病院のロビーでお喋りするようになって……。それまでSNSとかやったことなかったのに誘われるままにアカウント作っちゃってね」
「ユズきっかけだったんですか。ミユさんがSNS始めたの」
「うん。とりあえずユズちゃんと仲良さそうな子たちだけフォローして。あとのフォロワーさんたちとはあまり交流もないままなんだよね」
それを聞いて時雨はなんとなく納得した。彼女がポストしているところをあまり見たことがない。誰かとやりとりしているところを見かけるのは稀だ。それは交流を目的としてSNSを始めたわけではないからなのだろう。
「それからSNSでもやりとりするようになったんだけど、わたしがいつまでもウジウジしてたからかな。ある日、LINEのアカウント教えてくれて」
「どうして?」
「こっちの方がメッセージに気づきやすいから愚痴でも悩みでもいつでも聞くよって」
ミユは力なく微笑む。
「本当に良い子だなって思った。わたしも彼女が悩んでるときには相談にのってあげられたら。そう思ってたんだけど……」
小さくため息が漏れる。ミユはそっとスマホをテーブルに置いた。
「やっぱり頼りないのかな、わたし」
「そんなことは――」
少なくともミユとユズには何か特別な信頼関係があったのだろう。でなければユズがそう簡単にLINEのアカウントを教えるわけがない。そしてその信頼関係は時雨が得ることはできなかったもの。
――シグには何でも話せる気がする。
そう言って笑ってくれていたのに。時雨はため息を吐く。
「わたしよりは頼られてたんじゃないですか。たぶんミユさんの方がユズと仲良いですよ」
「え……?」
驚いたように目を見開いたミユに時雨は笑みを浮かべた。
「すみません。わたしも今日は帰りますね」
「シグちゃん?」
「えっと、代金を――」
「あ、いいよ。ここはわたしが奢るから」
「いえ、大丈夫です」
言って時雨はカフェオレの代金をテーブルに置くと立ち上がる。そして困惑した様子のミユを置いて店を出た。
外に出てすぐに周囲を見渡したが、ユズの姿は当然のことながら見当たらない。時雨は「なにやってんだろ」と呟きながら歩き出した。
ミユに嫌な態度を取ってしまった。そんなつもりはなかった。彼女は良い人で、ユズのことを心配して時雨に連絡をくれた。知砂でもパピでもなく、時雨に。
――なんでわたしに。
ミユには自分とユズはどんな関係に見えているのだろう。仲の良い友達だとでも思っているのだろうか。
――友達なら。
時雨はさっきのユズの表情を思い出す。友達ならあんな表情を向けたりしない。メッセージを無視したりもしない。リアルでの連絡先を知らないなんてこともないはず。
イライラした気持ちを胸に抱えたまま駅に向かって歩き続ける。苛立つ気持ちを逆撫でするように小さな雪が降り始めた。夕方になりかけた時間帯の空気は、まるでユズの表情のように冷たかった。
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