第8話
「――セーフ」
ぬいぐるみを盾にしていたシグはホッと息を吐くと「ひどいですよ、知砂さん」と不満そうに顔をしかめた。
「走って来たシグが悪い」
「それは……たしかに」
諦めたのかシグはため息を吐くとぬいぐるみを膝に置いてスポーツドリンクのキャップを開けた。
「……いつから来なくなったんですか?」
一口飲んでシグが言う。誰が、とは聞かなくとも分かる。
「最後にここで会ったのは去年の十二月」
「みんなで遊ぶちょっと前ですか」
「うん。でも、その前からなんか様子が変だった」
「変って……?」
「ぼんやりする時間が増えたというか、会話が続かなくなったというか――」
いつもなら知砂の皮肉にも笑って答えてくれるのに、ただ無表情に「そうだね」と答えることが増えた。何かあったのかと聞いても誤魔化すばかりで答えてくれない。彼女は知砂と話すことを拒否しているようにすら見えた。
そして少しずつ彼女との間には距離が開き、やりとりも減っていった。いや、もしかすると知砂から距離を置いてしまったのかもしれない。怖かったのだ。会話が続かなくなってからの彼女は知砂のことを見てはいなかった。知砂の言葉を聞いていなかった。それはまるで知砂の周りにいる他人と同じだった。
――もし、あのとき言えていたら。
ユズのことを友達だと言えていたら彼女は何か話してくれたのだろうか。知砂の言葉を今も聞いてくれていただろうか。その思いが今もずっと消えない。
「シグはユズから何か聞いてないの」
視線を上げてシグの方を見る。そのとき向こうの通路を見覚えのあるキャップを被った人物が横切った。思わず知砂は立ち上がる。あのキャップはユズが以前被っていたものと同じ。
「知砂さん?」
呼ばれてハッと視線を下ろす。シグが驚いた表情で知砂のことを見上げていた。
「あ、なんでもない」
――いるわけがない。
そもそもあのキャップは人気のブランドでよく見かけるものだ。思い出に浸っているから見間違えただけ。きっとそうに違いない。彼女がまたここに来るはずがない。
「あの、誰かいたんですか?」
不思議そうに周りを見渡すシグに、知砂は「別に」と答えると再びベンチに腰を下ろす。
「で、聞いてないの?」
「わたしは何も……。というか。多分わたしは知砂さんほどユズと会ってないから」
「そうなの?」
「そうですよ。わたしが彼女と初めて会ったのって、去年の秋ですし」
それを聞いて知砂は少し目を見開く。
「意外」
「え、そうですか?」
知砂は頷く。ユズはよくシグの話をしていた。きっと彼女のフォロワーの中で一番仲が良いのはシグなのだと勝手に思っていた。だから気になってシグをフォローしたのだ。ユズの友達がどんな人なのか気になったから。だが、思い返してみれば彼女がシグの話をし始めたのは確かに去年の秋頃だった気がする。
「友達じゃないの? ユズと」
思わず訊ねると彼女は困ったような笑みを浮かべた。
「さあ、どうなんでしょう……」
そして一瞬寂しそうに目を伏せると「知砂さんは」と続ける。
「ユズの友達なんですよね?」
彼女は寂しそうな笑みで知砂のことを見てくる。知砂はじっと彼女を見返し、そして嘲笑を浮かべた。
「違うんじゃない?」
「え……」
「だって結局いまだにユズのこと何も知らないし。初めて会ってから分かったことは年齢くらい。あとのことは何も知らない。リアルの連絡先も知らない。こんなの友達でも何でもないでしょ。ユズは――」
――友達だって、言ってくれたのに。
目頭が熱くなってきて知砂は思わず袖で目を擦る。そのとき遠慮がちに知砂の頭に温かな手が乗せられた。腕を下ろすとシグが不安そうな表情で知砂の頭に手を置いていた。
「なに」
思わず睨むと彼女は「あ、いや」と困ったように笑って首を傾げた。
「その、なんとなく」
「子供扱いしないで」
「ごめんなさい」
しょんぼりと手を下ろしたシグに知砂は笑ってしまう。そして深く息を吐き出す。
「……友達ができたって、そう思ったのに」
「うん。そうですよね」
シグは頷いて手元に視線を下ろす。そこにはスマホが握られていた。「……なんで来たの」
横目で彼女を見ながら知砂は聞く。シグは顔を上げると不思議そうに首を傾げた。
「それ、さっきも言いましたよ?」
「普通はああいう一方的な約束とも言えない約束は無視する。というか、わたしなら無視するしブロックする」
「ブロックまで……」
シグは少し笑うと「なんで、か」と考え始めた。そしてスポーツドリンクを一口飲む。
「んー。友達――」
「は?」
「あ、いや」
シグは慌てたように両手を顔の前で振ると「できれば、なんですけど」と前置きをしてから続けた。
「友達になりたいなと思って」
はにかむように言う彼女の表情は不安そうでユズとは全然違う。知砂は彼女をじっと見つめて「なんで?」と訊ねる。
「わたしとシグ、何も個人的なこと知らないよね? リプのやりとりもそんなにしてないし」
「たしかに。でも、こうして一緒に遊んだし」
その言葉とあの日のユズの声が重なる。知砂は少し目を細めてシグを見つめた。
「一緒に遊んだら友達? じゃあ、パピやミユとも友達?」
「あー、んー? それはどうでしょう」
彼女は難しい表情で眉間に皺を寄せると「二人とはまだこうして一対一で遊んだことはないので」と答えた。その答えに知砂は思わず吹き出す。
「なにそれ。シグの友達の境界は一度でもサシで遊んだかどうか?」
ユズよりもハードルが低いのは予想外だった。しかし真剣な顔で考えていた彼女は「まあ、そうですね」と笑った。そして首を傾げる。
「知砂さんは違うんですか?」
「わたしは……」
どうなんだろう。ユズのことは友達だと思っていた。でも彼女は消えてしまった。ではシグはどうだろう。まだ数えるほどしか会ったことはない。ユズ以上にシグのことは知らない。それでも彼女は知砂と友達になりたいと言う。
「――少なくとも敬語で話してくる人は友達じゃない」
「え……」
「あと、一度遊んだくらいで友達とも思えない。SNSでのやりとりも少なすぎる相手は友達とは思えない」
「えー……」
悲しそうにシグは俯いていく。そんなシグの反応に笑みを浮かべながら知砂はスマホを開いた。そしてシグへDMを送る。
『だから、これからよろしく』
次の瞬間、通知に気づいたシグがスマホの画面を開いた。そして目を丸くして知砂を見ると嬉しそうに笑いながらスマホに視線を戻す。
『よろしく、知砂ちゃん』
――ユズにもこう言えたら良かったのに。
そうしたら今もまだ友達でいてくれたかもしれないのに。思いながら知砂は立ち上がった。
「じゃ、帰る」
「え! いきなり?」
「用は済んだし」
「用って……。そういえば、なんでわたしを誘ってくれたんですか?」
「ユズのこと何か知ってるかと思ったから」
「ああ……。すみません」
「敬語」
「ごめんなさい」
反射的に言い直したシグの言葉は、しかしやはり敬語に近い。知砂は笑って「今度はシグの街のゲーセンで遊ぼうね」と手を振る。
「あ、じゃあ調べとくね!」
何を調べるのだろう。ゲームセンターの場所だろうか。それともゲームセンターの規模だろうか。シグの言うことはどこかズレているような気がする。
「よろしくー」
軽く手を振って知砂はその場を後にする。歩きながら振り返った先では、ベンチに座ったままのシグが嬉しそうにぬいぐるみを抱きしめている姿があった。
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