第2章 放課後の調べ〜合唱部との出会い

1.昼休みの決意


二日目の学校生活が始まって、私の中でひとつの小さな決意が固まっていた。


放課後、合唱部を見学してみよう。


朝のホームルーム中、隣に座る奈々から


「今日こそ行ってみようよ!」


と誘われ、少しだけ緊張しながらも


「うん、行ってみる」


と答えている自分がいた。


もし西園寺未来が伴奏をしているなら、せっかくだし、どんな演奏か聴いてみたいと思ったのだ。


授業が続く合間、私はノートを取りながらもどこか落ち着かず、時々窓の外を見つめてしまう。黒板には先生が書き込む歴史の年号や用語がずらりと並んでいるが、なかなか頭に入ってこない。


「おい、さくらー、さっきの問題わかるか?」


授業中、隣の席の男子から声をかけられ、私は急に意識を引き戻される。慌てて教科書をめくるが、申し訳ないくらい集中していなかったため、答えを見つけられない。


結局その男子は苦笑しながら


「まあいいや、自分で調べるわ」


と言って、話を切り上げてしまった。


軽い罪悪感を抱きつつも、私の心は放課後の合唱部へ向かっている。転校後の二日目にして、もうこんなに考え事ばかりしている自分が不思議だった。


昨日出会ったばかりの人たちのことを、こんなにも気にしている。どこかで、“ここでなら私も何かを得られるかもしれない”と思いたいのだろう。


昼休み。私はいつものように奈々や数人の女子と机を寄せ、簡単に弁当を広げた。昨日よりも心持ち会話が弾んでいる気がする。まだまだ全員の顔と名前が一致するわけではないが、少しずつクラスに馴染めてきているのは自覚できた。


「ねえ、さくらちゃん。放課後の予定はバッチリ?」


「あ、うん。できれば早めに教室を出て合唱部に顔出せたらって思ってる」


「じゃあ四時間目が終わったら私が職員室に用事済ませてくるから、そのあと一緒に行こっか! あ、もしかしたら白鳥先輩にも会えるかもよー」


白鳥先輩、たしか合唱部の部長だと聞いている。三年生で、指揮やリードを担当しているらしい。多くの部員から慕われている優しい先輩だと奈々が教えてくれた。そして、西園寺未来は“外部サポート”のような形で伴奏を手伝っているのだとか。


「……未来、今日は部活に来るのかな」


そんな言葉を出しかけて、私は途中で口を噤んだ。


奈々は私の表情を読み取り、からかうような笑みを浮かべる。


「あれ? もしかして気になってる? 西園寺さんのこと」


「べ、別に、そういうわけじゃ……」


「ふふ、いいんだよ。あの子のピアノはほんとにすごいから、一度聞いたらみんな惚れちゃうんだって!」


「そ、そういう惚れるとかの意味じゃなくて……」


私はあたふたしながらも、否定の言葉がうまく出てこない。でも確かに、未来のことが“気になる”というのは間違いない。あの憂いを帯びた瞳と、どこか孤高な佇まい。その奥に秘められたものは何なのだろう。


「はいはい、わかったわかった。とにかく行ってみれば全部わかるって!」

奈々が笑顔でそう締めくくる。その笑顔を見ていると、私も少し落ち着く。



2.放課後へ向けた胸の高鳴り


四時間目の授業が終わると、チャイムと同時に奈々は席を立った。


「ごめん、ちょっと先生とこ行ってくるね。少し待ってて!」


「うん、わかった……私も着替えとかいらないし、先に荷物まとめておくよ」


私は奈々を見送りながら、自分のノートや教科書をカバンへしまい、帰り支度を整える。合唱部の見学が終わったら、そのまま帰宅するつもりだ。


ふと見ると、教室の中には西園寺未来の姿がない。どうやら先に出ていったらしい。もしかしたら、もう部室へ向かったのだろうか。それとも別の用事があるのかもしれない。


少し胸がざわつく。まだきちんと話したことはほとんどないのに、相手の行動をこうも気にしている自分が不思議だった。


鞄を持って廊下に出ると、入れ違いにクラスメイトの男子たちがわいわいと喋りながら戻ってきた。その中の一人、背が高く短髪の男の子が私に手を振る。


「おー、転校生。ちょっといい?」


「え……?」


「なんかさ、奈々が“さくらちゃんは合唱部に興味ある”って言ってたから。俺、去年ちょっとだけ合唱部の友達に手伝いしてたんだよね」


「へえ、そうなんだ。すごいね」


「でも、やっぱり男が一人で参加するのは照れくさくてさ、結局続かなかったんだけど……。合唱部、結構面白いらしいよ。あの白鳥先輩がカリスマみたいでさ、みんな彼女を慕ってるって話」


そう言いながら、男子は“合唱部は和気あいあいとしてる”と聞いたエピソードを語ってくれる。


私は「へえ……」と相槌を打ちながらも、やっぱり一番気になるのは未来のことだ。彼女がそこにいるなら、私も勇気を出して一歩踏み込みたい。


「じゃあ、また合唱部入るつもりなの?」


と聞いてみるが、彼は


「いやー、部活はちょっとなあ」


と首を振る。


どうやら続ける気はないらしい。私が


「そっか、残念」


と言うと、


「まあ、さくらちゃんが入るなら応援するよ」


と笑われた。


廊下での何気ないやり取りをこなしつつ、ふと窓の外を見る。青空が広がっているが、ところどころにグレーの雲が浮かんでいる。


夕方には天気が崩れるかもしれないな……。


そんな天候の移ろいを感じながらも、私の胸は少し高鳴りを増していた。



3.合唱部の部室へ


奈々が戻ってくると、私たちは急いで教室を後にし、校舎の三階へと向かった。そこに音楽室や合唱部の練習スペースがあるらしい。


途中、廊下ですれ違う上級生たちが「こんにちはー」と声をかけてくれる。奈々は元気に手を振って挨拶を返し、私は少しぎこちなく会釈する。


やがて辿り着いた先は、音楽準備室と書かれたドア。窓ガラス越しに中を覗くと、ピアノが並んでいて譜面台や楽譜の束が置かれているのが見える。そこが合唱部の“仮”部室になっているようだった。


「ここが合唱部の部室……なんだけど、ちょっと狭いから大勢で練習するときは本館の音楽室を借りるんだって。まずはこっちに挨拶しよ」


奈々がノックをする。すると、中から


「はーい、どうぞ」


という声が聞こえた。


ドアを開けて顔を出すと、そこには五人ほどの生徒がいた。譜面を広げて話し合っている女子生徒や、椅子に腰かけて休憩中の男子生徒もいる。みな同じ合唱部の部員なのだろう。


「こんにちは。あの、合唱部を見学したいって子を連れてきましたー」


奈々が手短に紹介してくれると、部員の一人が顔を上げてこちらを見た。肩までの黒髪を一つ結びにして、きりりとした目元が印象的な上級生……きっとこの人が白鳥先輩だろう。


「いらっしゃい。二年の……高橋さん、だっけ? 転校生なんだって?」


白鳥先輩はにこやかに問いかける。私は軽く会釈して、


「はい、高橋さくらです。あの、合唱部がとても盛り上がってるって聞いて……」


と答える。


先輩は満足そうに頷き、


「いいね、ウェルカムだよ。うちはいつでも見学・入部大歓迎だから」


と言ってくれた。


「あとで音楽室に移動して本格的な練習をする予定だけど、今はちょっとコンサート用の曲を確認してたところなんだ。良かったら見学していって」


「ありがとうございます……!」


部屋の中には、二年や一年と思しき部員もいる。それぞれ顔を向け、「よろしくー」と軽い挨拶を飛ばしてくれた。思ったよりも和気あいあいとした雰囲気に、私はほっとする。


しかし、肝心の“西園寺未来”の姿は見当たらない。私がキョロキョロと視線を動かすのを察したのか、白鳥先輩が


「未来ならもう少ししたら来ると思うよ。伴奏をお願いしてるから」


と教えてくれた。


「そ、そうなんですか……。よかった……」


思わず言葉が漏れ、奈々が「にやり」とした顔をこっちに向ける。私は再び赤面して「べ、別に……」などと呟く。


白鳥先輩はそんなやり取りに気づいているのかいないのか、微笑ましそうに続ける。


「未来がいるとピアノ伴奏が華やかになるのよね。彼女は定期演奏会やコンクールでも何度も手伝ってくれて助かってるの」


「やっぱり、すごい腕前なんですね」


「ああ、すごいよ。中学生の頃から有名だったらしいし。でも……そこまで得意なはずなのに、彼女自身はどこか達観してるというか、あんまり表に出たがらないのよね。ま、人それぞれか」


先輩の言葉には愛情が感じられた。どうやら部員たちも未来の実力を認めつつ、彼女を大切に思っているらしい。しかし、その一方でやはり「謎めいている」という印象を持っているようだ。



4.先輩たちとのやりとり


さっそく私は部員たちに挨拶し、一通り自己紹介を終える。一年生の子も含めて総勢十数名の部員がいるらしく、今日はそのうちの数名しかここにいないらしいが、みんなフレンドリーだ。


「へえ、転校生かー。途中から合唱始めるのって勇気いるよね?」


「最初はパート分けとかで戸惑うかもしれないけど、声なんて練習すればどんどん伸びるしね」


そんな言葉が次々と飛んでくる。


そうこうしているうちに、部屋の扉が開いて、


「お疲れさまでーす」


と声がした。振り向くと、そこに立っていたのは——西園寺未来、まさに私が気にかけていた本人だった。


今日の彼女は軽く髪を後ろで束ねていて、少し汗ばむ季節だからだろうか、前髪をピンで留めている。顔立ちが一層はっきり見えて、やはり美人だなと感じる。


「お、未来、来たねー」


白鳥先輩が笑顔で声をかけると、未来は小さく頷く。私の存在に気づいたのか、目が合った瞬間、彼女の瞳がかすかに揺れるのが見えた。


「あ……さくら。……ううん、高橋さん、だっけ?」


「さ、さくらでいいよ。あの……今日は見学に来ちゃいました」


私がそう答えると、未来はほんの少しだけ口元をほころばせ、「そうなんだ」とつぶやく。


白鳥先輩が未来に指示を出す。


「じゃあ、音楽室へ行く前にちょっとだけ合わせたい曲があるの。伴奏お願いできる?」


「うん、了解」


未来は自分のバッグから楽譜を取り出し、ピアノ椅子へ腰掛ける。それがあまりにも自然で、板についた動きに見える。


部員たちが軽く発声練習を始めると、未来は鍵盤を試し弾きして音程を確かめる。ドレミファソ……と上がっていく音階が、私の耳を優しく包み込んだ。


「すごい……」


思わず口から感嘆の言葉がこぼれる。まだ本格的に弾いているわけではないのに、その響きだけで胸が高鳴ってしまった。すると、奈々が


「でしょー?」


と得意げにうなずく。


すぐに部員たちが軽く歌い始める。何の曲かはわからないけれど、どこかクラシックのアレンジ風に聴こえる。ソプラノ、アルト、テノール、バス……と各パートが小さく合わせるだけで、重なり合う声に温かみを感じた。


そして未来のピアノが、それらの声を優しく支えている。まだ本調子ではないのだろうが、私にはすでに十分に美しく聴こえた。



5.初めての合唱体験


「じゃあ、さくらちゃんも少しだけやってみない? 難しい曲はまだ無理でも、簡単な発声から始めればいいし」


誰かがそう提案してくれて、私は


「え、私なんて素人ですよ……」


と尻込みする。だが、周囲が


「大丈夫大丈夫!」


と声をそろえて応援してくれるものだから、断りきれずに譜面を受け取った。


「最初は音程やリズムを気にしなくてもいいから、声を出してみよう。軽くね」


白鳥先輩がそう促して、部員全員でウォーミングアップを兼ねた発声を始める。ピアノの音に合わせて「ラ~」と声を伸ばしていく。


私は恥ずかしさを感じながらも、小さく声を出す。すると


「もう少し大きく出して大丈夫だよ」


と声がかかる。喉がぎこちなく震えるが、やってみると不思議と楽しい気持ちが湧いてきた。


そんな私の様子を、ピアノを弾きながら未来がちらりと見ていた。視線が合うたびに胸がドキリとする。なんでこんなに意識してしまうんだろう。私がぎこちなく声を出すと、彼女はうっすら微笑む。


やっぱり優しい人なのかも……。


そう感じた瞬間、また声を出すことが少しだけ楽になった。


簡単な発声練習が終わると、白鳥先輩が


「よし、じゃあ音楽室に移動しようか。今日は合唱曲の候補をいくつかテスト的に歌ってみる予定だから、途中まででいいからさくらちゃんも聴いていきなよ」


と提案する。


私も


「はい、ぜひお願いします」


と言ったところで、先輩や他の部員たちはパッと荷物をまとめ始める。どうやら短時間のウォーミングアップを済ませたら、次は広い音楽室で本格的な合わせをするらしい。



6.音楽室での本格的な練習


校舎の別フロアにある広めの音楽室は、グランドピアノが中央に据えられ、ステージ風の段差がある。そこに合唱部のメンバーが集まって、パートごとに立ち位置を確認する。


私と奈々は後ろの方で見学させてもらい、白鳥先輩が


「じゃあさっそく一曲目、例の『Harmonia』を歌ってみましょう。未来、伴奏頼むわね」


と号令をかける。


未来はグランドピアノの椅子に腰を下ろし、譜面台に楽譜を置く。そして一度深呼吸をしてから、鍵盤に指をのせた。


まるで世界が一瞬静止したかのような空気感。私の全身が、これから奏でられる音を待ち構えていた。


そして——ピアノが流れ始める。


穏やかでいて、どこか壮大なメロディ。高低差のある旋律を、未来の指先が正確に、そして情感を込めて奏でていく。


続いて合唱部員たちの声が重なる。男声も女声も入り混じった多重のハーモニーが、空間いっぱいに広がった。スケールの大きな曲というよりも、柔らかい包容力のある曲調。それでも高音部は伸びやかで、低音部は安定感をもたらしている。


すごい……すごいな、これ。


私は息を呑む。


ピアノだけでも素晴らしいのに、それに合唱が加わると、こうも豊かな音の世界が生まれるのか。普段ライブやコンサートに行く機会がほぼない私にとって、これは想像を超える体験だった。


曲の中盤、ソプラノがメロディを引っ張り、アルトが柔らかく支え、テノールとバスが低音域を厚くする。そして未来のピアノ伴奏が、それらすべてを一つに束ねるかのようだ。


最後の和音がふわりと消えていく瞬間、私の心は不思議な震えを感じていた。胸の奥が温かく満たされるような感覚。この場所にいられてよかった、と素直に思えた。


「はあ……」


思わず大きなため息をついてしまうが、それは落胆や疲労のためではなく、感動によるものだ。隣にいる奈々が私を見て微笑む。


「すごいでしょ? ここ、マジでレベル高いんだよ」


「うん、ほんとに……」


私はうなずき、視線を未来へ向ける。彼女は鍵盤に手を添えたまま、軽く首をまわしている。集中して弾いたから肩が凝ったのかもしれない。


視線が合うと、未来はわずかに口元を上げてうなずき返してくれた。なんだか、その“ありがとう”にも似た微笑みに、私の心がまた一度掻き立てられる。



7.未来の微妙な表情


「じゃあ、次はもう一曲試してみましょうか。次の曲はちょっとポップ寄りで、リズム感を大事にしたいから……未来、いける?」


白鳥先輩が声をかける。未来は譜面をパラリとめくり、


「了解」


と短く答えた。


すると先輩が冗談めかして


「大丈夫? お疲れじゃない?」


などと言う。未来は


「平気だよ」


と苦笑いするが、その笑顔はどこかぎこちないように見えた。


どうしたのだろう、と少し気になる。先輩たちとのやり取りでは普通に受け答えしているが、先ほどよりも目が濁っているというか、集中力がやや落ちているような雰囲気を感じた。


しかし、再び曲が始まれば、彼女のピアノは完璧に近い完成度を保つ。部員たちも合わせて歌い出し、リズムに乗った合唱が音楽室に響く。


私は手拍子を打ちたくなるような明るい曲調に、思わず身体を揺らす。奈々も足で小さくリズムを踏んでいる。


曲が終盤に差しかかり、クライマックスに向けて盛り上がりを見せたその瞬間——


「……っ」


微かにピアノの音が乱れた。未来が鍵盤を押し間違えたのだ。ごく小さなミスタッチで、普通の聴衆なら気づかないレベルかもしれない。だが合唱部員たちは一瞬


「あれ?」


という表情を浮かべたし、何より未来自身がそのミスに眉をひそめているのがわかった。


ほんの一拍だけ間を置いた後、未来は即座に立て直し、曲は最後まで無事に終わる。大きな破綻はなかったし、部員たちも仕切り直してしっかり合わせていた。


曲が終わると、白鳥先輩が


「ナイスファイトー」


と声をかけ、部員たちが拍手をする。私は


「すごい迫力だった!」


と感想を伝えたい気持ちでいっぱいだ。しかし、未来はしばらく顔を上げず、譜面を見つめたまま沈黙している。


「未来? どうかしたの?」


先輩の問いかけに、未来は少し困ったような表情を浮かべる。


「ごめん、ちょっと集中力切れちゃったみたいで……。弾き直していい?」


「全然いいよ! さっきのミスなんて小さいものだし、気にすることないけど、弾き直したいならいつでもどうぞ」


「うん……ありがとう。でも、もう一度やらせて」


未来は申し訳なさそうに部員たちに頭を下げる。周りは「大丈夫大丈夫」と口々に言ってくれるが、彼女自身の顔色は冴えない。


私はなんとなく、その横顔を見るのが辛い気がして視線を外した。彼女は完璧でいたいタイプなのかもしれない。ちょっとしたミスでも大きなストレスになるのかな——そう思う。



8.一時休憩と雑談


白鳥先輩が


「じゃあ五分くらい休憩入れましょう」


と言い、部員たちは譜面を置いて各々で水分補給を始める。私と奈々も「いやー、合唱ってすごいね!」などと興奮気味に話し合う。


「さくらちゃん、どうする? あと少し聴いてく?」


奈々が聞いてくる。私は「うん、もうちょっとだけ聴いてみたい」と答える。こんなに生の演奏を目の前で聴ける機会は滅多にないし、正直もっと浸っていたい気分だった。


すると、突然背後から声がかかった。


「楽しんでる?」


振り向くと、そこには未来が立っていた。ピアノ椅子を離れ、ペットボトルを手にしている。


「う、うん! すごく迫力あって、感動しちゃった」


私が答えると、未来はちょっと照れくさそうに目を伏せる。


「そっか。よかった……。ごめんね、さっきミスっちゃって」


「いや、全然気にならなかったよ。むしろ、あれだけ弾ける方がすごいって思うし……」


「ありがと。合唱のみんなも優しいから助かってるけど、今日は調子が今ひとつかもしれないな。……変な夢見ちゃってさ」


「夢……?」


思わぬキーワードに、私は首をかしげる。夢とピアノの演奏に何の関係があるのだろう。


未来はポリポリと頬をかくようにして苦笑した。


「まあ、ただの寝不足かな。気にしないで」


そう言うと、彼女はまたステージ前方の方へ戻っていく。何か言いたげだったが、結局それ以上は何も言わなかった。


奈々が怪訝そうに小声で言う。


「西園寺さん、ちょっと疲れてるのかな?」


「……かもね。でも、みんなの前じゃ気丈に振る舞ってるように見える」


「普段からそんな感じだよ。みんなに気を遣わせないよう、あえて自分から悩みを言わないタイプっていうか。まあ、私もそんなに深く話したことないんだけどね……」


奈々の言葉を聞き、私は何とも言えない切なさを覚えた。自分も似たようなところがある——“人に弱音を吐くのが苦手”という面で共感を覚えるのだ。慣れない環境や転校で苦しんでいても、周囲に心配かけないように振る舞ってきた。


彼女もまた、自分の本当の心境をうまく吐き出せずにいるのかもしれない。そんな印象を受けた。



9.ちょっとしたトラブル――譜面の紛失


休憩が終わり、部員たちは再び練習体制に入ろうとする。すると白鳥先輩が


「あれ、次に使うはずの楽譜が見当たらない……」


と困った声を上げた。


「さっき音楽準備室にいたときはあったはずなんだけど、移動のときに誰か持ってきてくれてない?」


先輩が部員たちに問いかけるが、みんな首をかしげている。どうやら誰も持ってきていないらしい。


「困ったな。まだ仮の写ししかなくて、ほかに手元にないのよ。あれがないと次の曲の練習ができない」


「あ、じゃあ私が取ってきましょうか?」


私が思わず声を上げると、先輩は


「え、悪いね、でも助かる」


とほっとした表情をする。奈々も


「私も行くよ」


と言ってくれた。


「いや、二人も行かなくても大丈夫だよ。高橋さん一人じゃ迷うかもしれないけど……」


と先輩が気を使うが、奈々が「演劇部兼任で慣れてるから私が案内する!」と張り切る。


結局、私と奈々が連れ立って音楽準備室へ戻ることになった。いったん荷物をそこに置いたままの部員がいるかもしれないし、譜面はそこに置き忘れている可能性が高い。


音楽室を出て廊下を歩き始めると、奈々が私を肘で突っつきながらニヤリと笑う


「いいとこ見せたねー、“譜面取ってきます”ってさりげなく手を挙げて。白鳥先輩、感激してたよ」


「いや、そんな……誰も行く人いなかったし、私も見学で何もしてないし、これくらいは……」


私は照れ隠しに笑う。クラス以外の人たちの輪に入ろうとすると、どうしても消極的になりがちな自分を克服したい。そういう思いもあった。


準備室の前に到着し、中を覗いてみる。誰かが使っている様子はなさそうだ。ノックをしてからドアを開けると、やはり無人だった。


「うーん、と……あれ? この譜面かな?」


奈々がテーブルの上に置かれた楽譜の束を手に取る。そこには「Harmonia」とは別の曲名が書かれている。白鳥先輩が言っていた曲はこれだろうか。


表紙には手書きの文字で「Route of Green」とあり、譜面が何枚かホッチキスで留められている。確か先輩が“次は『ルート・オブ・グリーン』を歌う予定”と言っていた気がする。


「たぶんこれだね。よし、じゃあ戻りましょう」


奈々が満足気に譜面を抱え、私もうなずいて準備室を出ようとした――そのとき。

廊下の奥から足音が近づいてくる。振り向くと、そこにいたのは松田俊介だった。サッカー部のエースで、未来の幼馴染という噂の男子生徒。タオルを肩に掛け、少し息を切らせている。


「お……お前ら、合唱部の……?」


「えっ? あ、まあ私はただの見学だけどね。さくらちゃんも同じく」


奈々が答えると、松田は


「ああ、そうなのか」


と頷き、ちらっと私を見やる。


「えっと、高橋……さんだっけ。転校生の。あんまり話したことないけど」


「うん、そうだけど……」


私が戸惑っていると、松田は何やら言いづらそうな表情を浮かべている。


「あのさ、未来……元気にしてる?」


いきなりの質問に、私は


「え……」


と答えに詰まる。奈々が意図を察したのか、


「さっき合唱部でピアノ弾いてたよ。ちょっと疲れてるみたいにも見えたけど、まあ普通にやってると思う」


と返す。


「そうか……。そうだよな、あいつ頑張りすぎるタイプだからな。……なんか、最近うまく話せてなくて。よかったら、元気出るように声かけてやってよ」


松田は苦笑いを浮かべてそう言う。どうやら幼馴染として未来を気にかけているようだ。サッカー部の練習が終わったのか、トレーニングウェア姿のまま廊下を走ってきたらしい。


私はなんとも言えない複雑な気持ちになる。彼の言う通り、確かに未来はどこか無理をしている節がある。でも、この私が何かしてあげられるのだろうか。


「うん……気をつけて見てみるね」


と答えるのがやっとだった。すると松田は


「頼むわ。じゃ、俺は急いでシャワー浴びてくる」


と言って去っていく。


奈々は彼の背中を見送りながら肩をすくめる。


「まあ、あの二人はいろいろ複雑みたいだし、私たちがどうこう口出すのも変かもしれないけど……なんかあるなら手を貸してあげてもいいよね」


「……うん。でも、どうしたらいいのか、私にはまだわからないよ」


「焦ることないって。まずは私たちにできることをやるだけさ!」


奈々は譜面をかざし、


「じゃ、戻ろー!」


と明るく提案する。私も


「そうだね」


と頷き、準備室を後にした。



10.続く練習と、ほんのわずかな心の触れ合い


音楽室へ戻ると、白鳥先輩たちが


「ありがとう助かった!」


と出迎えてくれた。失くしていた譜面を手渡すと、


「これで次の曲がちゃんと練習できるわ」


と喜ばれる。さっそく部員たちが譜面を受け取り、配布を始める。


未来はピアノ椅子から立ち上がり、水分補給をしていたようだ。私たちが戻ったのを見ると


「あ、ありがとう」


と小さく会釈してくれる。


「ううん、何もしてないよ、持ってきただけだし……」


と照れる私に、未来はほんの少し微笑んだ。


「……さくら、ありがとね。さっきは集中切れちゃったけど、気を引き締めて頑張るよ」


「無理しすぎないでね。もし疲れてたら、休んでもいいんだし……」


思わず本音がこぼれた。相手はただのクラスメイト。いや、クラスメイトというほど親しいわけでもない。しかし、なぜか放っておけない気持ちがある。


未来は


「ふふ、優しいね」


と小声で笑うと、


「大丈夫だよ、少し休憩できたし。じゃあ、行ってくるね」


と言い残してピアノへ戻っていく。


そんなやり取りを見ていた奈々が、また何か言いたげな顔をしているのに気づく。でも、私は無視するように視線を反らす。自分でもまだ整理のつかないこの感情を、誰かにとやかく言われたくなかった。


ほどなくして、次の曲の練習が始まる。今回はさっきとは違ってややテンポが速い、ジャズコーラス風の合唱曲のようだ。先輩のカウントに合わせ、未来のピアノが心地よいリズムを刻み始める。


部員たちはまだこの曲に慣れていないのか、ところどころでミスが出る。それでもめげずに歌声を重ね、少しずつまとまりを見せていく。


未来も、さっきのミスタッチが嘘のように安定した演奏を続けており、時折余裕のある表情で周囲を見渡している。きっと曲への没入感が復活したのだろう。音が生き生きとしているのが伝わってくる。


こうやって、みんなで音楽を紡いでいくのって、素敵だな……。


私はまた、胸にあたたかなものがこみ上げてくるのを感じた。こんな体験、今までの学校生活では味わったことがなかった。



11.合唱部見学を終えて


その後、合唱部は三曲ほどを通しで歌い、細かいハーモニーの確認などを行っていた。私は奈々と一緒に見学し続け、部員が休憩するタイミングで多少の雑談を交わす程度。


最終的に


「今日はこんなところかな」


と白鳥先輩が締めの合図を出し、部員たちは片づけを始める。時計を見ると、もう夕方を過ぎていた。


「さくらちゃん、どう? 合唱部、入る気になった?」


先輩にそう尋ねられ、私は


「あ、あの……まだ即答は難しいです。でも、すごく感動しましたし、興味は……あります……」


と正直に答える。


先輩は笑ってうなずき、


「焦らなくていいよ。合唱は楽しいけど、向き不向きもあるしね。好きなときにまた顔出してくれたら嬉しいな」


と言ってくれた。部員たちも


「待ってるよー」

「いつでもどうぞ!」


と温かい言葉をかけてくれる。


未来は譜面をまとめながらこちらを見て、


「また来てね。私も伴奏する日に合わせておくから」


とポツリと付け加えた。その口調はあくまで淡々としているが、私にはなぜか“招待”の意味合いが感じられる。


また来てね、か……。


心のどこかで嬉しさを噛みしめる自分がいる。その一方で、どうしてこんなに彼女が気になるのか、自分でもわからないままだ。憧れなのか、それとも友達になりたいという気持ちなのか、もしくは別の感情が芽生えているのか。



12.思わぬ言葉――「入部しようよ」


部室の片づけが終わり、解散の流れになったところで、奈々と私は先に部室を出ることにした。奈々は本来演劇部員だが、今日は私の付き添いもあって遅くまで合唱部を見学してしまったからだ。


廊下を歩きながら、奈々が突然私の腕を引っ張る。


「ねえ、さくらちゃん……正直言うと、私、合唱部にも興味あるんだよね」


「え、そうなの? でも演劇部はどうするの?」


「うーん、実は兼部してる子ってけっこういるんだよ。練習日程がうまくずれれば、両方できなくもないし。ま、演劇部のほうがメインだけどね」


彼女は少し頬を染めて言う。


「実は昔、合唱コンクールとかで歌うのけっこう好きだったんだよね。でも自分の声に自信がなくて、本格的に始める勇気がなかったの」


「ああ……気持ちわかる。私も声に自信はないし……」


「でも今日見学して、やっぱりやってみたいなって思ったの。何よりさくらちゃんと一緒なら、心強いし」


奈々の言葉に驚きつつも、私は心がほっこりと温かくなる。そうか、彼女も私と一緒に合唱をやりたいと思ってくれているのか。


「……私も、ちょっとだけ入ってみようかなって気になってきたよ。でも、本当にできるかな? 歌なんて全然……」


「大丈夫だって! 合唱は一人が全部を完璧にやる必要はないんだもん。パートのみんなで支え合えばいいし、失敗したってチームでフォローできる」


そう言われて、少し気が楽になる。ソロではなく、みんなで声を重ねるのが合唱の醍醐味なのだとすれば、私一人で頑張りすぎる必要はない。


「……じゃあ、入部しようかな。転校してきてすぐだけど、新しいこと始めるのも悪くないよね」


私がそうつぶやくと、奈々は


「よっしゃー!」


と小さくガッツポーズ。


「そうと決まれば、あとで白鳥先輩に伝えなきゃね! 私は演劇部にも顔出すから、日程調整が大変そうだけど……うん、なんとかなるよ!」


話がやたらスムーズに進んでいるようにも思うが、私自身、合唱に興味を惹かれているのは紛れもない事実だ。それに、未来がいる場所でもある……という点は否定できない。



13.下校、そして夕暮れの校門で


私たちが校舎を出る頃には、空が少しずつ茜色に染まり始めていた。雲は重たげなグレーを帯びていて、いつ雨が降り出してもおかしくない気配。


奈々と私は昇降口で靴に履き替え、校門へ向かって歩く。周囲では他の部活生もちらほら姿を見せ始めたが、まだ練習が続く部活も多いのだろう。


「明日も行けたら行きたいな、合唱部」


奈々が無邪気に言う。私は


「うん、私も……」


と軽く返す。早速入部届けを出すかどうかはまだ悩ましいところだが、早い段階で空気になじめるならそのほうがいいかもしれない。


校門をくぐる直前、どこからともなく声が聞こえた。振り向くと、体育館の方から未来が歩いてくるのが見えた。どうやら合唱部の片づけが終わり、帰り支度をして出てきたらしい。


「あ……」


お互い目が合い、なんとなく会釈を交わす。すると、未来は少し足早にこちらへ近づいてきた。


「もう帰るの?」


「うん、今日はこのあと用事もないし……未来は?」


「私も帰るよ。両親は海外だし、家には誰もいないしね」


その言葉の裏に何か寂しさを感じるが、彼女はあっさりと言うだけで深くは触れない。


「そうなんだ……。じゃあ……帰り道、一緒に行く?」


どこかで“断られるかも”という不安があったが、彼女は少し考えたあと


「いいよ」


と答える。奈々も


「お、じゃあ三人で駅まで行こ!」


と楽しそうだ。


こうして私、奈々、未来の三人は歩調を合わせ、夕暮れの校門を出ていく。近くの駅まで一本道を歩く道を、並んで進むのはささいなことだけど、私には新鮮だった。転校が多かったせいで、こうして“放課後に友達と帰る”という行為自体が貴重に思えるのだ。



14.夕暮れと微かな雨の匂い


歩き始めて数分も経たないうちに、ぽつり、ぽつりと小さな水滴が額に落ちてくる。


「わ……雨?」


奈々が手をかざして空を見上げる。グレーの雲はますます濃くなり、どうやら夕立のようなものが来そうな気配だ。


「傘持ってない……どうしよう」


私がぼやくと、未来も


「あ……私も」


と苦笑い。奈々も同様に


「ないよー」


と声を上げる。


近くにコンビニやスーパーがあれば、ビニール傘を買う手もあるが、この辺りは住宅街が続く地域。駅まではあと十分ほど歩く必要がある。


「うーん、とりあえず走る?」


「そうだね、少しでも雨が弱いうちに……」


私たちは駆け足になり、駅へ向かう歩道を急ぐ。雨足はじわじわと強くなり始め、頭や肩に雨粒が当たってじんわり濡れていく。制服が雨を吸い始めて、湿っぽい。


途中、奈々が


「やばい、携帯が濡れちゃう」


とカバンを抱え直した。その拍子に足が止まり、私も未来も合わせて足を止める。


「なんか運動部のランニングみたいになってるね……はぁ、はぁ……」


息を切らせつつ私が笑うと、未来も少し口元をほころばせる。


「そうだね……ごめん、誘ったのに私が傘を持ってないなんて……」


と小声で呟く。


そんなの誰のせいでもないよ……。


雨の音が大きくなってきた。私たちは再び駆け足で進むが、今度は未来が軽く足を滑らせそうになる。すんでのところで踏みとどまったが、ヒヤリとした。


「大丈夫?」


「うん……ありがと」


私は彼女の腕を支える形になり、至近距離で息を合わせていることに気づく。雨粒が彼女の頬を伝っていて、なんだか妙に色っぽく見えてしまい、心臓が跳ねそうになる。


(あれ……なんでこんなこと考えてるの、私……)


一瞬、頭の中が真っ白になるが、奈々の「早く行こう!」という声で意識を取り戻す。


三人で声をかけ合いながら、ようやく駅前のコンビニへ駆け込んだ。ずぶ濡れというほどではないが、髪や制服はそこそこ湿っている。



15.濡れた制服と温かい飲み物


「うわあ……雨宿りできてよかった。ほんと急に降り出したね」


奈々が息を整えながら、店の入り口で立ち尽くす。コンビニの冷暖房がじわりと涼しく感じて、濡れた体が少し震える。私も


「うん、ずいぶん濡れちゃった……」


と呟きつつ、スマホや荷物をチェックする。


未来は自分のバッグを開いて中身を確認している。


「あーあ、ノートがちょっと湿っちゃったかも。あとでドライヤーかけよう……」


と嘆いている。


その顔を見て、私はなんとも言えない親近感を覚える。西園寺未来といえば“完璧”なイメージが強いのに、こうして雨で荷物を濡らしてしまう普通の女の子の姿を見ると、安心するような、愛おしいような気持ちが湧いてくる。


「よし、ちょっと温かい飲み物でも買おう。体が冷えそうだし」


奈々が提案し、私たちは棚に並んだホットドリンクを物色する。私はレジ横のカフェラテを手に取り、奈々はココア、未来はほうじ茶ラテを選んだ。


それぞれ商品を持ってレジへ向かい、会計を済ませる。コンビニの入り口を出ても、雨は相変わらず降り続いているようだ。そろそろ傘を買った方がいいか……と考えていると、未来が


「家まではけっこう距離あるし、私も傘を買わなきゃ」


と言う。


「それなら私も買おうかな……。奈々は?」


私が尋ねると、奈々は


「うーん、実はうちわりと駅近だから、ここでちょっと雨宿りしてたら小降りになるかも」


と微妙な反応。


「じゃあ、私と未来は先に傘買って帰ることにしようか。奈々はここで待つ?」


「そうだね。二人とも先に帰っていいよー! 私はもうちょっとだけ様子見して、ダメなら私も傘買うわ」


そんな流れで、私と未来はビニール傘を一本ずつ手に取り、再度レジへ戻る。下校中に買うことになるなんて、少し予想外だが仕方ない。


「じゃあ、また明日ね」


と奈々に挨拶をして、私と未来は店を出た。駅を通り過ぎれば私の家と彼女の家は方向が違うらしいが、とりあえず駅までは一緒に歩くことになる。



16.駅までの帰り道


小雨の降る中、コンビニを出て駅へ向かう道を歩く。ビニール傘が雨粒を受け止め、パラパラと音を立てている。


私は温かいカフェラテの紙カップを右手に持ち、左手で傘を支えている。未来も同じようにほうじ茶ラテを飲みながら傘を差している。


「このラテ、おいしいね」


「うん、暖まるね。さっきまで冷えちゃったから助かった」


ほんの当たり障りのない会話だけれど、こうして二人きりで歩くのは初めてなので、妙に意識してしまう。未来も同じように少し照れくさそうな顔をしているように見える……のは、私の勘違いかもしれない。


「ねえ、さくら……合唱部、入るの?」


不意に、未来が問いかける。雨音に紛れそうなほど、控えめな声だった。


「え……迷ってるけど、たぶん入ると思う。今日見てすごく興味湧いたし、それに奈々も一緒に入りたいって言うし……」


「そっか……そしたらまた、私の伴奏聴いてくれるんだよね」


未来は静かに微笑む。その笑顔が、雨粒を受けてもなお輝いているように見えた。


「もちろん。楽しみにしてるよ。でも、無理しないでね? さっきちょっとしんどそうに見えたから……」


「あれは……本当にちょっとした寝不足なだけだから大丈夫。ピアノは好きだし、合唱部の人たちも優しいから、気楽にやってるよ」


彼女の声にはどこか少しだけ陰りがある気がするが、深くは踏み込めない。踏み込んでもいいのかどうかもわからない。


しばし無言で歩を進め、駅の改札口が見えてきたところで、未来が


「ここで別れかな」


と足を止める。私も同様に立ち止まり、彼女の傘の下から見上げるように目を合わせる。


「……今日はありがとう。合唱部、見に来てくれて嬉しかった。私もね、最初は“誰かに聞いてもらう”ことが怖かったけど、今は慣れた。だからさくらも、最初は恥ずかしいかもしれないけど、絶対大丈夫だよ」


未来の言葉はまっすぐで、まるで私の不安を知っているかのようだった。少し胸が熱くなる。


「うん……ありがとう。私、頑張るね」


それだけ言葉を交わして、私たちは改札前で


「じゃあ、また明日」


と小さく手を振る。未来は別の路線を利用して帰るようで、そちらの改札へ向かって歩いていった。


私は反対方向の入り口へ進みながら、振り返る。彼女が人混みに紛れて見えなくなるまで、その後ろ姿を視界に焼き付けておきたいと思うほど、心が揺れている。


どうしてこんなにドキドキしてるんだろう……。


胸の高鳴りが収まらないまま、私は改札を通り、電車へ乗り込む。発車を待つ間、ビニール傘に残った雨粒が窓から滴り落ちる様をぼんやり見つめていた。頭の中は、未来の瞳とピアノの旋律でいっぱいだ。

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【百合ソナタ】放課後の旋律は、桜散る想いとともに〜ふたりが重なるハーモニー〜 波の音 @naminone

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