情熱の行けない場所
ささなみ
情熱の行けない場所
足にシーツが擦れる感触に、目が覚めた。鎧戸の隙間から薄く差す光が、闇に沈んだ意識を徐々に引き上げていく。毎朝目にする、芥子の花が金糸で刺繍されたビロードのタピスリー。
今日もまた、朝が来てしまった。
しぶしぶダイニングのある地上階に降りて行くと、階段の途中からすでにクロワッサンの香ばしい匂いが立ちこめていた。女中のアリスが、もう朝食の準備をしているのだ。
「おはよう、ゾーイ」
夫は先に食事を始めていた。食事は一緒にとると決められているが、私の起床が遅いので、彼が先に食べ始めていることが多かった。
「おはよう、バスチアン」
クロワッサン・ブールにバターをつける。そのひとかけらを口に入れると、舌の上にねっとりとしたバターが広がった。美味しいはずなのに、喉の奥に何かが詰まっているようで、飲み込むのが苦しい。
ああ今日もか、と他人事のように思って、テーブルの横に控えていたアリスに視線を向けた。
「ごめんなさい、あまりお腹すいてないみたい。一つで充分」
「かしこまりました。では、リンゴ酒をお持ちしますね」
アリスは気を悪くした様子もなくにこやかに告げ、キッチンに引っ込んだ。
「おいおい、今日もかい? もう少し食べないと体に悪いし、アリスにも悪いだろう」
「仕方ないじゃない。食べられないんだから」
バスチアンが「でも」と言い募ろうとするのを「もうやめて」と遮る。彼の、善意を押しつけるような物言いが癪だった。
ふう、と息をついて木製の椅子の背もたれに体重を預ける。高い天井とナーシスの壁を眺めながら、ただぼんやりとする。朝食を済ませたら、昼食まで特にすることはない。
以前はよく、姉と一緒にアトリエで時間を過ごしたものだった。池の周りを散歩して、オランジュリーを覗いてみるのも好きだった。薔薇のアーチの向こうにある温室では、蘭の花が咲き、芳しい香りを漂わせていることだろう。名前を忘れてしまったが、紫の小さな花をつける、バニラのような香りの蘭が気に入っていた。姉がここにいた頃にはあんなに足繁く通っていたのに、今は足を運ぶ気にはなれない。
「食事もろくに食べない、一日中何をするでもない。することがないなら、針仕事でもしたらどうだい」
わかったわ、と呟いて、夫の視線から逃れるように俯く。少ししか手をつけていないクロワッサンののった白い皿から、パンくずがこぼれていた。
部屋に戻ろうとすると、アリスが手紙を持って来た。私に来る手紙といえば、差出人は一人しかいない。封筒を裏返して確認する。姉のルイーズからの手紙だ。
はやる気持ちを抑えて、寝室に戻った。
親愛なるゾーイ
元気にしていますか。パリに来て、もうすぐ二度目の春になります。窓からマグノリアの木が見えて、咲くのが今から楽しみ。
そちらを出るとき、お父さまに『本を焼くような国はそのうち絵を焼き、人も焼くようになる。そうなれば、それが国境を越えるのも時間の問題だ』と言ってずいぶん反対されましたが、最近はまさに『絵を焼く』段階になってきました。ノルデやマティス、ピカソなど、政権が『退廃的である』と見なした絵が、美術館から没収されているようです。それらに多額の税金がつぎ込まれているなんて言って、先の大戦の賠償金による経済崩壊の責任までなすりつけたいみたい。
そちらは何も変わりないとは思いますが、くれぐれも気をつけて。バスチアンの言うことを、よく聞いてね。 ――ルイーズ
修道院に入る前、姉はよくイーゼルとカンヴァスを抱えて庭を散歩した。私はその後を、絵の具箱を持ってついて歩いた。池のほとりやオランジュリーの中で、彼女はイーゼルを立てて風景画を描いた。
『修道院では、デッサンや水彩画しか描けないんですって』
そんなの拷問よね、と言いながら、ルイーズはカンヴァスの上に大胆に絵筆を走らせた。彼女がカンヴァスの角度、構図、絵の具の重ね方まで几帳面に計算し尽くしていることを知っていたが、それを感じさせないような筆の運びだった。
私は太陽の下で絵を描くのはなんだか勇気がなくて、散歩に行かない日にはルイーズと一緒にアトリエにこもって花の絵を描いた。チューリップ、水仙、菜の花。むせ返るような油絵の具の匂いをさせながら、光を放つような黄色い花を描くのが好きだった。テレピン油の匂いが取れなくて、両親に文句を言われたものだった。
ルイーズは私より二年早く修道院に入った。そこで数年の月日を過ごした後も、彼女は変わらず大胆だった。画家になるなら縁を切ると言う父親を根気強く説得し、本当にパリへと行ってしまったのだ。私が修道院を出て、ここに帰ってくる直前のことだ。いつも後ろをついて歩いていた私を、彼女は待っていてはくれなかった。
あのときルイーズを追ってここを出ていたら。もしくは、ここに残ったのがルイーズで、パリに行ったのが私だったら。
寝室の窓から庭を見下ろして、ぼんやりと意味のない問いかけをしてみる。
ふと、庭に花ではない何かが見えた。身を乗り出し、目を凝らす。
「猫だわ」
一人で呟いた。私は結婚してから、一人でいるときにはしばしば独り言を言うようになっていた。誰にも聞こえないという事実が、私を饒舌にさせていた。
よくよく観察してみると、黒、茶色、白がまだらに混ざった、混沌とした模様をした猫だった。
「ああ嫌だ、トーティシェルの猫を見ると事故に遭うって言うじゃない」
それはこのあたりに伝わる迷信だった。私は身震いした。ルイーズの手紙の穏やかではない内容のせいか、なんだか全てが不安だった。
昼食に出された舌平目のポワレを黙々と食べていると、アーモンドとバニラの香りが漂ってきた。おそらく、アリスが私の好物のミルリトンを焼いているのだろう。そういえば、舌平目のポワレだって、私がよく食べるメニューだ。いつも以上に朝食を食べなかったせいで、気を遣わせてしまったのかもしれない。胃のあたりが痛くなった。
「ねえ、バスチアン」
「なんだい」
夫が微笑んで私の顔を見た。私が食事をきちんと食べているので、朝より機嫌が良いらしい。
「さっき、庭にトーティシェルの猫がいるのを見たの。事故の予兆って言うから、心配になって」
「迷信だろう。大丈夫だよ」
「でも怖くて」
「何が怖いって言うんだい。ほとんど家からも出ていないのに、事故なんて起こるわけないじゃないか」
いつも穏やかな声が、少し苛立っていた。
「でも、私じゃなくても、あなたとか、姉とか……」
それは実際、少し冷静さを取り戻したのちに私の胸中に湧いてきた考えだった。私以外の人物に降りかかる事故、という可能性だってあるのだ。私はその恐ろしい考えに、胸が締め付けられていた。
彼は席を立って私の後ろに立ち、肩をそっと抱いた。
「迷信は迷信に過ぎないよ。何も心配することはない」
添えられた指は優しかった。私は反論する機会を奪われて、おとなしく頷いた。
「そんなことより、温室にトケイソウを植えさせたんだよ。見に行くかい?」
「ええ」再び頷く。「そのうちに」
バスチアンは安心したように頰を緩め、食事に戻って行った。私の気を逸らせようとするためか、新しい取引の話や親戚から聞いた話などをとめどなく話した。ドイツでは、ユダヤ人の財産__装飾品や家具などが没収され始めたらしい、という話だけが、ルイーズからの手紙の内容と結びついて、いつまでも頭の中に残っていた。
ベッドに入る前、ルイーズに手紙の返事を書いた。実のところ、返事を書くのは久しぶりだった。
親愛なるルイーズ
最近のドイツ政権のことは心配だけれど、あなたが好きなことを自由にできているのは嬉しく思います。
庭に猫が来ました。プラタナスの並木を抜ける前の、私の部屋の寝室から見えるところよ。黒茶のまだら模様の猫です。バスチアンに事故の前触れだわ、と言うと怒られてしまいました。ほとんど家からも出ていないのに、ですって。
温室にトケイソウを植えたと彼が話していました。あなたと見る日を楽しみにしています。 ――ゾーイ
封をして、自分が書いたパリの住所とルイーズの名前をじっと見つめた。
彼女は今も、絵の具とテレピン油の匂いに塗れながら、絵を描いているのだろうか。彼女は危険に晒されてでも、そちらを選んだのだ。青空の下ではなくアトリエの中でしか絵を描けなかったあの頃から、私にはそんな勇気はなかった。
机の上に手紙を置いて、真っ白なシーツに滑り込む。私の体からはもう、テレピン油の匂いは消えてしまっていた。
それから二週間ほど過ぎた頃、バスチアンと温室に足を運んだ。約束したものの、庭に出るのは久しぶりのことで、延ばし延ばしにしていたのだ。
トケイソウは時計の文字盤のような形の白い花で、ラテン語で『情熱の花』というのが名前の由来だとバスチアンが教えてくれた。
もう少し温室を見てから帰ると言う彼を残して、先に屋敷の中に戻ることにした。一緒に見て回らないのかと寂しそうな顔をする彼に、「長時間外にいるのは落ち着かなくて」と言い訳すると、「仕方ないね」と微笑んでくれた。紫の小さな花をつける、バニラのような香りの蘭も見つけたが、一刻も早く自分の部屋に帰りたかった。温室の中の蒸し暑い空気に、背中が汗ばんでいた。
薔薇のアーチの下を早足で歩く。バスチアンといると、いつも息が詰まる気がした。修道院を出てすぐ、父の勧めに従って結婚した。しかし、今思えば、それは決して強要されたものではなかった。断ることだってできたのだ。
そんなことを考えながら屋敷の前まで来たとき、目の前をさっと猫が横切った。黒と茶のまだら模様の、例の猫だった。
「あなたはいいわよね、自由の象徴なんだもの。事故に遭うのだって、あなたでなくてこちら側のことなのだし」
猫はゾーイの顔をちらりと見やると大きなあくびをし、再び走り去って行った。
屋敷に戻ると、アリスが小包を持って出迎えてくれた。温室に行っている間に、郵便配達人が来たらしい。
寝室のドアを開けながら、びりびりと大きな音を立てて包み紙を破いた。バスチアンが見たら眉をひそめるかもしれない。手紙と一緒に小包が送られてきたのは初めてのことで、なんだか胸騒ぎがしていた。包み紙の下から、鼈甲の小箱が姿を現した。中には何も入っていない。
封筒の端を千切って手紙を広げた。不安に反して、心なしか少し弾んだ字が踊るように並んでいる。ベッドに腰掛け、その文字を目で追った。
親愛なるゾーイ
あなたが手紙の返事をくれて、とても嬉しい。
あなたはとても嬉しいニュースを知らせてくれました。猫のことよ。彼は多分、私の友人です。この嗅ぎタバコ入れに似た模様の、雄猫ではありませんか? トーティシェルの猫はほとんどが雌で、雄はごくわずかしか生まれないそうです。だから、彼に出会えたのはむしろ幸運なことよ。お祝いに、このタバコ入れをあなたに贈ります。
トケイソウ、アメリカの熱帯地域に咲く花よね。素晴らしい造形をしていると聞いたことがあります。次にそちらへ行くのが楽しみになりました。
あなたが変わりなく生きていてくれて、嬉しい。 ――ルイーズ
『変わりなく生きていてくれて、嬉しい』――ルイーズの几帳面な文字を見つめた。喉の奥の異物感が、重さを増した。
嗅ぎタバコ入れを見るのは初めてだった。姉はタバコを嗜むようになったのだろうか。想像してみようとするが、それは私の知らない姉だった。
間近で見ると、小箱の蓋には金銀の象嵌細工が施されていた。内側には、伸縮性のあるブルー・ナティエの布が使われている。ちょうどナティエが人気だった頃に作られたのかもしれない。
ユダヤ人の装飾品が没収されているとバスチアンが言っていた。そのうちユダヤ人以外にも範囲は拡大して、彼女がこれを持っていると取り上げられてしまう日が来るのかもしれない。
そんな考えが脳裏をよぎったことに恐ろしくなって、私はうろうろと歩き回り、もう一度庭に出た。姉はいつ例の猫と会っていたのだろう。姉の友人だという猫はまだ、先ほどの場所でうずくまっていた。
「ねえ、ルイーズは大丈夫よね?」
彼は答えない。前脚と後脚を順番に伸ばし、先ほどと同じように大きく口を開けてあくびをしている。呆けたように見つめていると、その小さな生き物はゴロンと草の上で腹を見せて転がった。空に厚くかかっていた雲がさあっと流れ、彼の上に日光がさす。
茶色と黒の腹が波打ち、太陽の光にきらきらと輝いた。
「トーティシェル……」
思わずため息が漏れた。不吉さのかけらも感じさせない輝きが、彼を照らしていた。『彼と出会えたのは、むしろ幸運』――ルイーズが寄越した手紙の文字が、瞬きをした瞼の裏に浮かんだ。
立ち尽くしていると、バスチアンがこちらに戻ってくるのが見えた。ハッとして、屋敷の中に引き返そうとする。
「ゾーイ!」
仕方なく足を止めると、夫は嬉しそうに駆け寄ってきた。トケイソウを手にしている。
「一輪だけ、花瓶に活けてみようと思って持ってきたんだ」
情熱の花。ルイーズにぴったりな花。
「実はトケイソウはね、君に似ていると思ったから花屋に送ってもらったんだよ」
「私に?」
バスチアンの言葉に、面食らって聞き返した。独り言以外で、考える前に声を出すのは久しぶりだった。
「アトリエで君が昔描いた絵を見たんだ」
私は目を見開いた。姉の小箱を握ったままの手のひらが汗ばんでいた。
「今の君は時が止まってしまったように絵を描かないけど。あの、情熱に溢れた黄色が好きだよ」
私の夫は、そう言って微笑んだ。その視線から逃れるように庭を見渡すと、みずみずしい緑の中に、チューリップや水仙、菜の花が一面に咲いていた。
春が来ていた。
「この庭って、こんなに綺麗だったのね」
バスチアンの顔が、ぱっと光がさすように明るく輝いた。足元には、のびのびとくつろぐ鼈甲の猫。アトリエにある絵筆はまだ使えるだろうか。まるで庭全体が、一枚の絵画のように明るく光を放っていた。
情熱の行けない場所 ささなみ @kochimichiko
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