「605号室の夜勤日誌 ―消えた姉を追って―」 23時、都市伝説になったホテルで私は姉と出会う
ソコニ
第1話- 23時のフロント
プロローグ - 23時の記録
ホテル・ミッドナイトパレス防犯カメラ記録
2023年10月23日 23:00:15
カメラ6-A(6階廊下):
605号室前で、制服姿の女性が立ち止まる。
扉に手をかけ、ゆっくりと振り返る。
カメラに向かって微笑む。
23:00:45、突如カメラにノイズが走る。
23:01:00、映像回復。廊下には誰もいない。
防犯課職員の報告書:
「上記の女性職員について、人事記録で照合を試みるも該当者なし。ただし、1972年の古い記録に類似の記述あり。現在調査中」
付記:
「605号室での不可解な目撃情報が、過去50年に渡り複数報告されている。特に23時以降の報告が顕著。今後の監視体制について、検討が必要」
第1章 - 23時のフロント
私は姉を探している。
「美咲さん、23時になりましたよ」
フロントに置かれた古めかしい置時計が、重々しい音を立てて時を刻む。夜勤の始まりを告げる音だ。その音は、まるで誰かの足音のように、フロントロビーの大理石の床を伝って響く。
「ありがとう、田中さん」
私は先輩のフロントスタッフに軽く会釈をして、デスクの中の引き継ぎノートを確認する。ミッドナイト・ホテルの夜間フロント、佐々木美咲。この仕事を始めて3ヶ月が経つ。
姉の麻衣がこのホテルで失踪してから、ちょうど1年と3ヶ月。
大理石の柱に囲まれたフロントロビーは、昼間なら優雅な雰囲気に包まれている。しかし23時を過ぎると、その様相は少しずつ変わっていく。柱の影が不自然に長く伸び、シャンデリアの光が歪んで見える。そして、誰もいないはずのロビーに、かすかな囁き声が漂う。
警察の捜査は行き詰まり、防犯カメラにも不審な映像は映っていなかった。ただ、姉は23時過ぎにフロントで最後に目撃されたという証言だけが残されている。それ以来、私は姉の足取りを追うように、このホテルで夜勤をすることにした。
「では、お気をつけて」
田中さんが去った後、フロントには私一人きり。30階建ての巨大なホテルの静寂が、重く降りかかってくる。
窓の外では、都会の喧騒が遠のいていく。23時を過ぎると、このホテルは少しずつ違う顔を見せ始める。廊下の角に映る影が少し長くなり、エレベーターの機械音が少し歪んで聞こえ、鏡に映る自分の姿が少しだけ遅れて動く。
私はそれを毎晩見続けている。
あの日のことを思い出す。麻衣が失踪する3日前、私たちは久しぶりに一緒に買い物に行った。
「美咲、このホテル、何か変なの」
カフェでお茶を飲みながら、姉は不安そうな表情で話し始めた。
「変って?」
「うーん、なんていうか...23時過ぎると、まるで別の場所みたいになるの。廊下が妙に長く感じたり、部屋の配置がおかしくなったり」
その時の姉の表情が、今でも鮮明に思い出せる。普段は明るく自信に満ちた表情の姉が、珍しく迷いを見せていた。
「気のせいじゃない?疲れてるんじゃないかな」
「そうかもね...」
姉は苦笑いを浮かべた。しかし今になって思えば、あの時の違和感に気付くべきだった。
ホテル・ミッドナイトパレスは、築50年を超える由緒正しい高級ホテルだ。戦後の復興期に建てられ、多くの著名人が訪れたという歴史を持つ。クラシカルな外観と、モダンに改装された内装が特徴的で、観光客からの評価も高い。
しかし、地元では別の評判も囁かれている。
「このホテルには、時々人が消えるんです」
着任した日、夜勤の先輩である田中さんがそう教えてくれた。
「消える?」
「ええ。23時過ぎに、まるで霧の中に消えるように。10年前にも似たような事件があったそうです」
その話を聞いた時は、都市伝説のような話だと思った。しかし、姉が失踪してから、その言葉の重みを理解するようになった。
この3ヶ月で、23時以降のホテルで起こる不可解な出来事を、少しずつ理解してきた。それは、現実と非現実の境界が溶け始める時間帯だった。
リミナルスペース。そう呼ぶべき空間が、このホテルには確かに存在する。
幼い頃、私と麻衣は父の転勤で何度も引っ越しを経験した。その度に、姉は私を守ってくれた。新しい学校、新しい環境。不安な私の手を握り、「大丈夫、お姉ちゃんがついてるから」と励ましてくれた。
だから今度は、私が姉を見つけ出す番だ。
フロントデスクの下には、姉が使っていた制服が、今でも保管されている。誰も触れることのない、605号室の合鍵。そして、姉が最後に書いた業務日誌。これらの手がかりを頼りに、私は毎晩、23時の謎に挑み続けている。
時計が23時15分を指す。
ホテルの空気が、少しずつ濃くなっていく。シャンデリアの光が作る影が、床に不規則な模様を描き出す。フロントロビーの大きな鏡には、私の姿が映っている。しかし、よく見ると、その姿の動きが現実より少しだけ遅れている。まるで、鏡の中の世界の時間が、わずかにずれているかのように。
カランカラン──
フロントのベルが鳴る。
「すみません、605号室なんですが...」
中年の男性客が不安そうな表情で訴えてくる。その姿が、シャンデリアの光に照らされると、影が二重に見える。
「お部屋に問題でも?」
「いえ、その...廊下を歩いていたら、突然605号室が消えてしまって...」
私は背筋が凍る。また始まった。
605号室。そこは、姉が最後に清掃をした部屋だった。そして、この1年と3ヶ月の間、何度となく不可解な現象が報告されている部屋でもある。
時計の針が、ゆっくりと23時30分に向かって進んでいく。私は男性客に説明しようと口を開きかけた時、ふと違和感を覚えた。
フロントロビーの温度が、急激に下がっている。
空調の設定は変えていないはずなのに、まるで冷蔵庫の中にいるような寒さだ。呼吸が白く濁り、皮膚には鳥肌が立つ。男性客も、腕を抱きながら身震いしている。
シャンデリアの光が、さらに歪んでいく。
天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアは、ホテル・ミッドナイトパレスの象徴的な存在だ。昼間は温かな光で訪れる客を出迎え、夜は優雅な輝きでロビーを照らす。しかし今、その光は不自然な模様を床に描き出している。
まるで誰かが踊っているような、人影のような模様。
「あの、失礼ですが...」
男性客の声に振り返ると、彼の背後の鏡に、見知らぬ人影が映っていた。スーツを着た女性の後ろ姿。しかし、振り返っても、そこには誰もいない。
私の心臓が早鐘を打つ。その姿は、どこか見覚えがある。
3ヶ月前、着任初日の夜。同じように23時を過ぎた頃、私はフロントで不思議な出来事を経験した。
引き継ぎノートを確認していると、背後で靴音が聞こえた。カツン、カツンという、整然とした足音。振り返ると、エレベーターに向かうスーツ姿の女性がいた。
「お客様、何かご用でしょうか?」
声をかけても返事はない。女性は立ち止まることなく、まっすぐエレベーターに向かっていく。後ろ姿は、どこか懐かしい。
その時、はっと気付いた。それは姉の後ろ姿だった。
慌てて追いかけようとした時、エレベーターのドアが開く。しかし、その中は真っ暗で、まるで深い闇が口を開けているかのようだった。女性の姿は、その闇に吸い込まれるように消えていった。
エレベーターに駆け寄った時には、既に扉は閉まっていた。表示を見ると、6階で停止している。605号室のある階だ。
あの時から、私はこの現象の意味を考え続けている。なぜ23時なのか。なぜ605号室なのか。そして、あの姿は本当に姉だったのか。
デスクの引き出しから、一枚の写真を取り出す。昨年のクリスマス、このホテルのロビーで撮った記念写真だ。まだ姉が働いていた頃の写真。華やかなクリスマスツリーの前で、制服姿の姉が笑っている。
その笑顔の裏に、何か隠されていたのだろうか。
「お客様、605号室の件について、すぐに確認にまいります」
私は男性客に向き直り、落ち着いた声で告げた。表情は平静を装っているが、内心は大きな期待に胸が高鳴っている。今夜も、23時の謎が私を導いてくれる。
そして、その謎の先に、きっと姉がいる。今度こそ、真相に近づけるはずだ。
背後で、古めかしい置時計が23時30分を刻む音が響く。その音は、まるで私の決意を後押しするかのように、重々しく、しかし確かな音を響かせていた。
その時、ロビーの大きな鏡に、奇妙な変化が起きた。
鏡に映る空間が、微かにだが確実に歪んでいく。まるで水面に映った景色のように、揺らめき始める。そして、その歪みの中に、一瞬だけ別の景色が見えた。
無数の扉が並ぶ、見知らぬ廊下。
天井から垂れ下がる、不自然な影。
そして、廊下の突き当たりに立つ、制服姿の人影。
しかし、目を疑って瞬きをした瞬間、鏡は通常の映像を映し出すだけとなっていた。
男性客が不安そうに咳払いをする。私は深く息を吸い、心を落ち着かせた。これが605号室の謎を解く、新たな手がかりになるかもしれない。
時計の秒針が、重たい音を立てながら進んでいく。これから始まる夜が、また新たな謎を見せてくれることを、私は知っている。そして今夜は、いつもと何かが違う。その予感が、背筋をぞわりと走る寒気となって伝わってきた。
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