最終話 勇者は知っている

 闇の大地を一望できる丘の上に、ひとりの若者がたたずんでいた。

 均整のとれた身体を銀色に輝く甲冑で包み、意匠の凝らされた長剣を腰に帯びたその姿は、誰もが足を止め、見惚れてしまうだけの風格があった。

 だが、若者は騎士でも、英雄でもなかった。


 彼は異世界からやってきた転生者であった。


 前世で不幸な事故にあって死んだあと、神を自称する謎の老人によって特別な力を与えられ、このオーソシア大陸に転生したのだ。

 老人から出された条件はただひとつ。

 光の勇者となって、闇の魔王を打ち倒すこと。

 彼は喜々として転生を受け入れた。

 前世でうだつの上がらなかった自分が、勇者となって魔王を打ち倒し、人々から英雄として称えられる……そんな輝かしい未来を想像し、期待に胸を膨らませた。


 転生したのは、大陸の東端、ガラト王国の辺境にある山の中だった。てっきり貴族家の三男あたりに生まれるものと勝手に思い込んでいただけに当てが外れた。保護してくれたのも善良だが王族でも貴族でもない、ただの木こりの青年である。

 若者は最初こそ戸惑ったが、辺境の地から成りあがっていくのも悪くないと気を取り直した。

 神を自称する老人からは、勇者として必要な様々な能力を与えられていた。

 自由に身体が動かせるようになったら、その力を使って思う存分、異世界生活を謳歌してやろう。そんなことを考えた。


 だが、この世界がそんな甘い世界ではないと、すぐに思い知らされることになった。

 いきなり村がモンスターに襲われたのだ。

 彼はどういうことだと困惑し、適当に転生させた老人に憤りすら覚えた。

 いくら力をもらったといっても、赤子ではどうすることもできない。

 村は瞬く間に壊滅した。

 危ういところを救ってくれたのは、七人の旅人だった。

 聖者フィリス。聖騎士アイラ。魔術師トーキル。そして、ラーズ、ウォーレン、オッシ、イームクレンの四人の騎士たち……。彼らが命懸けで迫りくるモンスターを退け、安全な場所まで連れて行ってくれたのだ。


 その後、彼はロセヌ教団の庇護(という名の監視)のもと、ラーズの妹アニーネに引き取られ、育てられた。

 世界を救うかもしれない神託の子……。その立場は非常に複雑で危ういものだった。信じる者、懐疑的な者、己の野心に利用しようとする者、様々な思惑を持った人間が彼の周りで暗躍した。それでも無事に成長することができたのは、聖者フィリスをはじめとする近しい人たちの尽力のおかげであった。


 あれから、十六年の月日が流れた。


 今や世界中が闇の脅威に怯えていた。 

 東の地ガラトで発生した黒い霧は、いまや大陸の三分の一を覆い、今もなおその勢力を拡大し続けている。瘴気によって生み出された怪物は、多くの人々の命を奪い、その死体を使って際限なく数を増やしていった。


 ロセヌ教団は滅亡したガラト王国の古い伝承にあった『魔王』の存在を正式に認め、敵の総称を『魔王軍』、闇の怪物を『魔物』と呼称した。

 魔王はガラトの王都ガラトバルガンにいると目されているが、黒い霧を突破してそこまでたどり着いた者は誰もいない。魔王の正体も、魔王軍の全貌も、未だベールに包まれたままだった。


 強大な勢力を誇っていたエレニール帝国は、初動の対応のまずさが最後まで尾を引き、黒い霧の猛威と大挙して押し寄せてくる魔物に為す術なく敗戦を重ね、わずか七年で領土の大半を失い、崩壊した。


 世界が混迷を深めるなか、教団内の腐敗を正すことに成功した聖者フィリスは、魔王軍に対抗すべく世界各地を奔走した。

 帝国崩壊によってばらばらとなった諸国をまとめあげて連邦国家を樹立すると、瘴気の研究で一気に躍進を遂げた魔術大国パールハットンと、西の大国プルトゥスを説得し、三国同盟を成立させた。

 さらにエルフ族、ドワーフ族といった亜人種や、光の神々を信仰する聖職者たちに協力を要請し、一大反抗勢力を築き上げたのである。


 しかし、そこまでしても魔王軍の侵攻を遅らせるのがせいぜいで、すべての黒い霧を浄化することなど夢のまた夢であった。

 そもそも、全人類が一致団結して闇と戦っているわけではなかった。

 人々のなかには闇を信奉する者も少なからずいた。そういった者たちが各地で事件を起こし、さらなる悲劇を量産していった。


 三国同盟の関係も良好とは言い難かった。

 プルトゥスは国土が黒い霧と接していないこともあって、魔王軍と正面から事を構えることには及び腰で、戦後の大陸征服を見越して戦力を温存しようという思惑が透けて見えた。

 パールハットンも表向きは協力的ながら、その目的が魔王討伐になく、多くの魔物を捕獲し、瘴気の研究をすることにあるのは明白だった。

 連邦の国々も決して一枚岩とは言えなかった。人が集まれば、それぞれの国や組織が好き勝手に権利を主張し始める。連邦議会では足の引っ張り合いや裏切り行為などが日常茶飯事となっていた。

 今の世界は聖者フィリスが望んだ相克を乗り越えた世界とはとても言えないだろう。

 人類は着実に滅びの道を歩んでいた。


「……けど、それも今日までだ」


 若者は決意と共に呟いた。

 なぜなら、光の勇者の名が人類の未来を照らす希望の光となるからだ。

 この日、十六歳となった彼は、人々の期待を一身に背負い、魔王軍との初陣に臨もうとしていた。





「――コルウィン」


 ふいに名を呼ばれ、若者は振り返った。

 少し離れたところに、彼と同じ銀の甲冑を身に纏った少女が立っていた。眉を寄せ、詰問するような目つきでこちらを睨んでいる。


「イダ姉さん」


 若者――コルウィンは親しみを込めて少女の名を呼んだ。

 イダは彼の育ての親であるアニーネの一人娘であり、騎士ウォーレンの忘れ形見だった。母親似で愛嬌のある顔にはまだあどけなさが残っているが、父親譲りの剣の才は師であるアイラによって磨き上げられ、史上最年少で聖騎士に選ばれたほどである。

 今はコルウィンの専属の護衛役として、常に傍にいる。

 彼にとっては誰よりも信頼できる存在であった。


「まったく、こんなところでなにしてるの?」


 イダが腰に手を当てながら近づいてくる。


「ああ、いや、戦いが始まる前に敵の様子でも見ておこうかなって」


「様子って……どうせ霧でなにも見えないでしょ。そんなことより騎士隊長が呼んでる。そろそろ軍の準備が整うって。あと、あまりひとりでうろうろするなって怒ってた」


「相変わらず心配性だな、ルーカスにぃは」


 今や騎士隊長となった兄貴分の名をコルウィンは口にした。


「あんたが勝手にいなくなるからでしょ。少しは自分の立場を考えなさい」


「はいはい、わかってるよ」


「はいは一回」


「……はい」


 コルウィンは苦笑しながら言い直した。

 イダとは同い年だが、数か月先に生まれたというだけでやたらと姉貴風を吹かせてくる。特に名前を呼ぶときは必ず後ろに「姉さん」を付けないと怒るのだから始末に悪い。実際、赤子の頃から姉弟のように扱われてきたわけだが、前世の記憶があるコルウィンからしてみれば妹みたいなものである。もっとも、逆らうと色々面倒なので言われるがままにしているのだが。


「……いよいよ始まるのね」


 イダがさりげなく横に並んで手を握ってきた。


「ああ」


「緊張してる?」


「別にしてないよ」


「でも、手、震えてる」


「ああ、これは違うよ。武者震いってやつだ」


「ムシャ……なにそれ?」


「ようは嬉しくてたまらないってこと」


「嬉しい?」


「ああ。オレは、ずっとこの日を待っていたんだ。十六年間、ずっと……」


 聖者フィリスは「勇者の実戦投入はまだか」と催促してくる連合軍上層部に、ずっと時期尚早だと言って拒み続けてきた。

 たったひとりしかいない光の勇者なのだから、慎重になるのは理解できる。

 ただ、コルウィンは日々耳に入ってくる敗戦の報や、民の悲痛な声を聞き続けることに、これ以上耐えられなかった。

 戦うことを熱望するコルウィンと慎重論を唱えるフィリス。ふたりで何度も話し合った結果、十六歳の誕生日が初陣の日と決まったのである。


「でも、これでようやく戦うことができる」


 コルウィンは無意識に拳を握りしめていた。


「肩の力を抜きなさい、コルウィン」


 イダの手が優しくコルウィンの拳を包み込む。


「たしかにあなたは特別だし、気負うのもわかるけど、戦うのはあなただけじゃない。みんながあなたを支えようとしてくれてる。もちろん、あたしもね」


 その言葉に、コルウィンは後ろを振り返った。

 丘の向こうでは、今も数万を超える兵士たちが集結を続けていた。人間だけでなく、エルフ族やドワーフ族の姿まである。

 聖者フィリスの檄に応えて集まった連合軍の軍勢だ。彼らの役目は光の勇者を守ること。そのためだけに集められたと言っても過言ではなかった。


「大丈夫、わかってる。頼りにしてるよ」


 コルウィンは姉と慕う少女に向かって、安心させるように微笑んだ。





「オッシ将軍に伝えてくれ。予定通り始めるって」


 隊に戻ったコルウィンは、近くに控えていた伝令兵にそう告げた。

 しばらくすると、戦闘準備を告げる角笛の音があちこちから聞こえてきた。

 コルウィンはひとり前に進みでて、剣を抜き放った。

 数度、軽く深呼吸し、そして最後に振り返る。

 連合軍のなかでも選りすぐりの精鋭が護衛として付き従ってくれていた。

 彼らのなかには、あの旅を共にしたガラト人の子供たちが幾人かいた。そして故郷の地を失ったハルディの若者たちも……。彼らは戦士となって、自らの手で故郷を取り戻すべくここにいるのだ。


 ――もしお前が本当に光の勇者で、人々のために戦ってくれるというのなら、ハルディの民が将来、この地を取り戻す戦いに挑むことがあれば、そのときは力を貸してくれないだろうか。


 騎士ラーズの願い……。


 十六年前のあの日々を、コルウィンは昨日のことのように思い出せた。

 転生して最初に手に入れた『神眼』という能力は、身体が動かせなくても意識を自在に飛ばすことができた。なんなら眠っているときは夢という形で周囲の人間の過去や想いを半ば強制的に見させられた。


 だから、彼はすべてを知っていた。


 騎士たちの散りざまも、トーキルの最期も。

 彼らがなにを想い、なにを願って戦ったのかも。

 なにもかもだ。

 ずっと見ていた。


 臆病だった青年が勇気を振り絞って敵に立ち向かった。

 心優しき魔術師が友との誓いを果たすために命を捨てた。

 己の誇りをかけて戦った者がいる。

 家族を守るために散った者がいる。

 民の未来に殉じた者がいる。


 彼らの想いに、ようやく応えるときがきたのだ。


 コルウィンは前を向き、眼前に広がる黒い霧を睨みつけた。

 怒りは、とうに限界を超えていた。

 彼らの命を奪った魔物どもへの怒り。そして、力を制御することができず、見ていることしかできなかった過去の自分への怒り……。


 あの頃の無力な赤子はもういない。

 この日のために血の滲むような努力をしてきた。

 十六年間、鍛えに鍛え抜いたこの力で、魔王も魔物も一匹残らず駆逐する。そして黒い霧を消滅させ、大切な人たちの故郷を取り戻す。

 それがここにいる理由のすべてだった。


「みんな、オレから離れててくれ!」


 コルウィンは振り返らずに叫ぶと、剣を正眼に構えた。

 意識を集中し、力を溜める。

 全身から放たれた眩い光が、剣へと集まっていく。

 刀身が高密度の光を纏うと、その切っ先を黒く染まった大地に向けた。


「――人類オレたちの怒りを思い知れぇッ!」


 絶叫とともに、一気に力を解き放つ。

 剣の切っ先から白く量感に溢れる光の束が放たれ、一瞬で大気を切り裂くと、射線上にあったすべての物を吹き飛ばした。


「うおおおおおおおぉぉぉッ!」


 コルウィンはそのまま剣をゆっくりと水平に動かし、大地を覆う黒い霧を薙ぎ払う。

 黒が白に塗り替えられていく。

 それはまさしく、奇跡のような光景だった。


 残響と共に光が消失する。

 立ち込めていた土煙が収まると、黒い霧も、多数いたであろう大型の魔物も、跡形もなく消し飛んでいた。

 しばしの静寂の後、割れんばかりの大歓声が連合軍から湧き起こった。


「我らが光の勇者よ!」


 連合軍の兵士たちは興奮の坩堝と化し、それまで光の勇者の存在に懐疑的だった者さえも歓喜の声をあげている。

 その歓声に、大地を揺らすほどの馬蹄の轟きが重なった。

 オッシ率いる連合軍本隊が突撃を開始したのだ。あるいは彼こそが、今日という日を最も待ち望んでいたのかもしれない。

 雪崩のような怒涛の勢いで、騎兵隊が地上にわずかに残っていたメッサーなどの小型種を呑み込み、蹂躙していく。

 それはもはや戦闘とも呼べない、一方的な虐殺だった。

 だが、この場に眉をひそめる者など誰ひとりとしていなかった。これは人類の正当な怒りで、やつらは然るべき報いを受けたに過ぎないのだから。


「すぐに敵の増援がくるぞ!」


 コルウィンは周囲に向かって警告を発した。すでに彼の感覚は、地平の向こうから押し寄せてくる新手の魔物どもの気配を捉えていた。

 魔王は無限とも思えるほどの魔物を従えている。

 本当の戦いはここからだった。

 だが、黒い霧さえなくなれば、戦士たちは存分に戦うことができる。なにより、この日のために人類は数多の強力な魔術や兵器、そして戦術を生み出してきたのだ。

 すでに連合軍本隊は敵の先兵に対応すべく陣形を整えつつあった。


「コルウィン!」


 イダが馬を寄せてきた。彼女の手にはコルウィンの愛馬の手綱が握られている。


「オレたちも行くぞ!」


 コルウィンは愛馬の背に跨ると、高らかに剣を掲げた。


「これまでに散っていった勇者たちの魂は我らと共にある! 戦え、戦士たちよ! 勝って故郷の大地を取り戻すのだッ!」


 戦士たちから一斉に「おおーッ!」と怒号があがった。


「続けぇッ!」


 コルウィンは馬に拍車を入れ、一気に丘を駆け下りる。


 五百年の時を経て、光の勇者の快進撃が、今、始まった――。




    了


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