拉致旅行

弘田宜蒼

第1話

――プロローグ――


「いい加減止めろよ!!」

 助手席に座る少年は声を荒げた。

 その命令に運転する女性は素直に従い、路肩に停車させる。

 暗い車内には、エンジン音とハザードランプの点滅音が響き、しばし沈黙が流れる。

「どこに連れてく気ですか?」

 先に口を開いた少年は、忌々しさを抑えつつ、「一応」敬語で尋ねた。

 一方の女性は、少年の態度に動じる様子は微塵もなく、余裕の笑みを浮かべている。そのことが、少年の感情に火を点けるに十分起爆剤となっていた。

「それは、着いてからのお楽しみってことで」

――!!!!?……こんな時に何惚けたこと言ってんだよ!?

 少年の心は、呆れと諦めの半分半分となった。

「ハー。……お楽しみに出来ないから訊いてるんです」

「「拉致」したから、あなたを。だから私の行きたいとこに連れてく」

「……?」

 不敵な笑みを浮かべて発せられた「拉致」という言葉に、少年はうろたえ、頭が真っ白になる。

――やっぱこの女おかしい……。

 こんな状況になるのは、これが初めてではなかった。少年はいつも女性のペースに呑み込まれ、大爆発する前に意気消沈させられていた。

 「拉致」された少年の名は中山裕介(なかやま ゆうすけ)。そして、「犯人」の名は渋谷文夏(しぶたに あやか)。

 二人は当然恋仲ではないし、友達、とまでも行かない。文夏は裕介に興味津々だったが、裕介にとっては文夏程、煙たい存在はなかった。



――発病――


「うつ病だね」

 東京都内にある総合病院の精神科。女性医師は裕介の言葉をパソコンに打ち込んだ後、診断結果を告げた。

 微笑を浮かべる医師とは対照的に、裕介は無表情で目も虚ろである。だが、うつ病とはっきり言われ、少し安心した気がした。

 しかし、隣に座る母、小枝子(さえこ)は目の前が真っ暗になる思いだった。

 中学三年となって二ヶ月。もう直ぐ受験を控えている。そんな時にうつ病とは、これからどうなるのか?……

「……それで、……どういう感じなんでしょうか?」

 無言の息子に対し、黙っていられなかった小枝子が質問する。

「まあ、中山君の場合、症状としてはまだ軽いと思います」

 「軽い」との言葉に、小枝子は少し安心し、一番気になることを訊いた。

「……学校の方はどうすれば?」

「行くなとは言いませんけど、あまり無理強いをするのも、却って良くないでしょうね」

 安心はほんの束の間。止めを刺されたような、小枝子は全身から力が抜ける思いだった。

「取りあえず、内服薬三種類と、頓服を二週間分出しておきます。頓服は、一日三回までにして下さい」

「……解りました。ありがとうございます」

 押し黙った母に代わり、今度は裕介が口を開き、親子は病院を後にした。

 家に帰り、裕介は部屋に閉じこもり、ベッドに横たわっていた。これから先のこと、まずは明日からの学校のこと、考えることは山程あったが、腑抜けの状態。

 小枝子も同じで、リビングのソファに横たわり、夕飯時になっても、支度する気にもならない。

「母さん飯は?」

 裕介の二歳下の弟、秋久(あきひさ)が尋ねても、小枝子は何も言わない。

 仕事から帰って来た父、譲一(じょういち)も、この状況を怪訝に思ったが、譲一も秋久も、裕介を病院へ連れて行ったことは知っていたので、何となく推測出来た。

 二人は仕方なく、コンビニで済ませることにした。

 やがて、やっと起き上がった小枝子から診断結果を聞いた譲一は、「そうか」と呟いたっきり、晩酌の焼酎を飲み続けた。

 そこに、トイレの為に部屋から出て来た裕介が通りかかる。

「裕介!」

 廊下を歩いていた裕介が、譲一の呼びかけにビクついて足を止める。声の調子からして、そうとう飲んでいることが解った。

 普段は大人しいが、最近は酔うと喧嘩上戸となって手が付けられない。

「お前は、……どれだけ迷惑をかければ気が済むんだ!!」

 嫌な予感がしながら振り返った息子に、父親は目が合うなり怒鳴りつけた。

 決して息子を憎らしく思った訳ではない。夕飯の支度をしていなかった妻への苛立ちを下地に、心配から来る歯痒さ、酒……。それらが重なった結果の鬱憤だった。

「何でそんな言い方するのよ!」

 小枝子は夫の暴言が信じられなかった。

 何も言い返せず、裕介は黙って俯いた。



 小学生の頃の裕介は、成績優秀な少年であった。だが、譲一も小枝子も決して満足はしなかった。

 二人共専門学校の出だが、いずれも学んだ職種には就いていない。譲一は自動車会社の支店で営業を、小枝子はクリーニング店でパート従業員をしている。

 学歴コンプレックスを持つ二人は、裕介が小三、秋久が小一になると塾へ通わせるなど、息子の教育には熱を入れた。

 日本人特有の褒め下手な譲一と小枝子は、テストの点数は百点が当然。例え九十点台であろうと評価は辛かった。

 「大学は国立以外駄目だ」。裕介が公立中学へ上がった頃から、譲一は息子二人に口酸っぱく言い始める。それは、裕介が六年生の時に中山家が新築した為の「お家事情」からだった。

 ところが、裕介の成績は中学へ上がると半ばまで下がってしまう。別に、部活や遊びに熱中した訳ではない。

 この頃から、裕介の調子は悪くなり始めていた。急に襲って来る落ち込み、苛々、怯え……。裕介自身にも原因は解らなかった。

 息子の変化に、譲一と小枝子も気付いてはいた。勉強に熱中すれば打開出来るのではと考え、塾を有名進学塾に変える対策をとる。 だが、一向に改善されなかった。

「こんな成績で(高校や大学に)受かると思うのか!?」。譲一と小枝子は裕介を追い詰めて行った。



 学校では、入学して半年が経った頃から苛めが始まった。

 当時の裕介は、百五十八センチで五十七キロという小太りな体型。その裕介が落ち込みで暗い顔をし、怯えで挙動不審な態度をとる。そこに目を付けられてしまったのだ。

 初めは同級生が面白がり、不意に頭をはたき、背後から蹴りを入れるといったちょっかいを出し始める。やがて上級生の耳にも入り、身体的なものから、「消えろ!」「キモイんだよ!」などの言葉攻め。苛めはエスカレートして行った。



 成績を咎められること以外に、家庭にはもう一つ問題があった。酒乱親父の「出現」。 仕事上のストレス、息子への憂いを、譲一は酒で紛らわせていた。そして一定量を超えると、「お前に親の苦しみは解らないだろ!」「悉く期待を裏切りやがって!」と鬼瓦そっくりの顔で、息子に御託を並べた。

 精神の不調に加え、苛めっ子と父親に恐怖心を抱いた裕介には、反撃する気力はなかった。

『ミシミシミシ……』

 裕介の精神は、音を立てて軋み始めていたのだ。



 そんな状況下で裕介の唯一の支えは、小学校からの親友、高木洋一(たかぎ よういち)の存在だった。

 「大丈夫か?」「負けるなよ!」。高木は笑顔で言った。裕介の精神状態と苛めを、親身になって心配してくれた。

 しかし、裕介には最大の欠点があった。常に誰かに気にかけてもらいたいという、自己顕示欲から来る「害虫」が住み着いていた。 ともすれば、根が懐っこい性格も手伝い、一度しがみついたら離れない「寄生虫」。

 学校では勿論、夜に電話をしてまで、裕介は鬱憤を吐き出した。

「オレ、ずっとこんな運命なのかなあ……」

 裕介が悲観すると、

「何言ってんだよ。オレ達まだこれからだぜ!」

と高木が励ましてくれる。

「もう行くとこまで行っちゃえば良い……」

 裕介がやけになれば、

「明けない夜はないんだ。そう信じろ!」

と高木は諭した。

 神様・仏様・高木様。

 しかし、裕介は「仏」を「鬼」に変えてしまう。



 中三に上がって一ヶ月目の、日曜の夜だった。

 裕介はいつものように、一階から電話の子機を持って二階の自室に入った。

 高木宅へかけ母親に取り次いでもらう。

『……もしもし?』

 電話口の高木の声は明らかに掠れていた。そこで気付けば良いものを、裕介には自分のことしか頭にはない。

「今日も調子悪いよ……」

『……』

 いつもなら、「そうか。辛いよな」などと言って同情してくれる。

 裕介は高木が無言なことを怪訝に思ったが、構わず続けた。

「本っ当、いつになったら善くなることやら」

『……オレも体調悪いんだよ』

 高木の返事に裕介はやっと思い出した。おとといの金曜日。高木は朝から顔が赤く、一目で熱があると解った。その日は配慮して彼に近付かなかったが、一日挟み、裕介の頭からは綺麗さっぱり消えていた。

「……ごめん」

 重苦しい沈黙が流れ、高木が口を開いた。

『……あのさあ、前から思ってたんだけど、お前甘え過ぎじゃね?』

「……」

 最もな指摘と、友人の体調不良を忘れていた自分のバカさ加減に、裕介は言葉が出なかった。

『多くを求められても何にもしてやれねえし……正直ウザイんだよ!』

――!!!!

 瞬間、裕介は頭から冷水をかけられた感じだった。身体は凍りつき、頭の天辺から冷たいものが「ジワー」と広がって行く。

 再び沈黙が続き、裕介はゆっくりと耳から子機を離し、無意識に通話終了のボタンを押した。

 「害虫」がブンブン飛び回り、暴走した顛末であった。



 次の日から、裕介は二日間登校出来なかった。

 やっと登校出来たのは、昼休みが終わる寸前。

 高木とは同じクラスだったが、当然彼の方から裕介に歩み寄ることはなかった。

 裕介も同じで、無論あの日から電話はしていない。直接謝るのが筋だとは解っていても、その勇気はなかった。

 それでも、たまに高木と目が合うことがあった。その都度、彼はあからさまに視線を逸らし足早に去って行った。

 取り残された裕介は、遣る瀬なさと申し訳なさにさいなまれた。

――オレは、人と仲良くしちゃいけないんだ……。

 以降、裕介は苛めを受けようが、気持ちが沈み続けようが、誰にも助けを求めなかった。

 今のままでは人に依存し過ぎ、傷付け、自分も傷を負う。一人でいることを専決し、心に蓋をした。



 その内、身体的にも症状が出て来た。休みであろうが適度な睡眠をとろうが、だるさが付き纏う。慢性疲労の状態だった。

『ミシミシ……ガタン!!』

 裕介の精神は軋みが限界に達し、崩壊した。とうとう、昼休みが終わる時間帯からの登校が当たり前となる。

「もう、こんな命いらない……」

 裕介は憔悴しきった顔で、小枝子を前に譫言のように呟いた。

 いよいよ息子の姿を見ていられなくなった小枝子は、譲一と相談し、精神科へ連れて行くことを決めた。



――欲――


「今日から、お爺ちゃんとお婆ちゃんの家で暮らすことになるから」

 当時五歳の文夏に母の洋子(ようこ)は目を合わせ、優しく微笑んで告げた。



 両親が離婚した文夏は洋子に引き取られ、地元の町を離れて母の実家がある東京で育つことになった。

 なぜ離婚に至ったのか、文夏は未だに知らないままでいる。

 祖父母は娘と孫を温かく歓迎してくれたが、看護師をしている洋子は毎日が忙しかった。

 おまけに交代勤務で文夏とは時間が擦れ違い、娘のことはほぼ両親に任せていた。

 内科医をしている別れた父、尚吾(しょうご)とも一年に一度会えば良い方で、文夏が成長して行くのと同時に、二、三年に一度といった具合に会う機会は激減して行った。

 それでも何不自由なく育ち、親が医者ならありがちの「将来は医者になれ」とは、一度も言われなかった。

 優しい祖父母にも不満は無かった。

 だが、彼女の心にはぽっかり穴が空き、木枯らしが入り込んでいた。蚊帳の外に置かれている訳でもないのに、母の実家にいると、何か取り残されているような居心地の悪さが付き纏った。

 文夏は年齢を重ねると共に、「居場所を見付けたい」「必要とされたい!」との思いを蓄積させて行く。

 その時に見る、毎日時間に追われて過ごす洋子の姿は憧れの的であった。

――お母さんは必要とされてる。

 そんな文夏も、中学二年の時に初めて彼氏が出来る。登下校やたまのデートなど、彼と一緒にいる時、彼女はやっと自分の居場所を確保出来た気がした。

 同時に、必要とされたいという欲求も解消された。



 しかし、欲求が満たされた期間は長くは続かなかった。三年になり受験も近付いたことで、彼の両親と文夏の祖父母は、「今は勉強に専念すべき」と二人を別れさせた。

 文夏は一応納得し受験勉強に励むが、欲求を満たしたい思いは膨張して行く。でも、それは進学して間もなく解消される。

 一年先輩で、サッカー部に所属する彼に憧れを抱いた文夏は、果敢に彼に接近しデートの約束を取り付ける。

 そのまま交際へと発展した現実は、文夏に充実感をもたらした。多感な時期特有の悩みも、彼といる時は忘れられた。

 そして、彼女は新たな自分にも気が付いた。

――SEX好きだなー。

 純愛と情欲は癒着していた。



 一途な二人の交際は、珍しいことに彼が国立大学に進学してからも続く。

 しかし、充実していた文夏も高三となり、正直彼との交際もこれ以上は無理かと思い始めていた矢先のこと。

 文夏は好きなSEXによって彼との子を妊娠してしまい、結果中絶。

 これをきっかけに、文夏は彼との居場所を捨てた。それだけでは終わらず、学校も退学を余儀なくされる。

――今までの充実感は、何だったの?……。

 何もかも失い、憎しみと悲しみに暮れる文夏を、「今は無理だろうけど、人間は許して行かなきゃいけないのよ」

 洋子はこう諭した。

 今回の一件を咎めることもない。洋子の中では、今まで娘をほったらかしにして来た負い目が、ストッパーとなっていた。



――変貌――


「初めまして。夕起(ゆうき)です!」

「っあ、……どうも」

 池袋のホテル型イメージクラブ(店舗で料金を支払い、サービスはホテルなどで受ける)に来店し、近場のホテルで待っていた緊張した様子の青年に、夕起と名乗った彼女は優しく微笑んだ。

「さあリラーックス」

「こういうとこ初めてだからオレ」

 言葉は関東弁だが、イントネーションに九州訛りがある。上京して一年に満たない学生か会社員といったところか。

 鼻息荒く、青年はOLに扮した夕起の制服を嘗め回すように見詰めた後、目線を彼女の胸に移した。

「触っても良い?」

 夕起が「どうぞ」と返事をしても、青年の手の動きはゆっくりで、中々胸まで来ない。その様子に、

――童貞クンだな。

と思った夕起は、シャツのボタンを外し彼の手を取ると、自分の右胸に当てた。

 次に夕起は青年の頭に手を回し、彼の顔をゆっくりと左胸に押し当てた。されるがままの青年の呼吸は更に荒くなり、ブラジャーを介して生暖かく伝わった。



 高校を退学処分となって三ヶ月が経った冬、文夏はイメクラで「夕起」として勤務していた。

 肩書きが「無職」となって以来、文夏は殆どの時間を、居心地が悪かったはずの祖父母の家の自室に篭って過ごしていた。

 誰とも連絡を取らず、喋る気すら起きない。

 現実と向き合うことに疲れ、何をする気にもならなず、時間を潰す日々。

 母や祖父母から「気をしっかり持て」と声をかけられても、「今はそっとしといて」と返すのがお決まりとなっていた。そう言われると、洋子と祖父母はそっとしておく他なかった。

だが、

――このままじゃ自分は落ちてくだけ……。

一番焦りを感じているのは、文夏本人だった。



 そんな折、高校時代の親友、陣内美貴(じんない みき)から着信が入る。出よう

か迷ったが、文夏は意を決して通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『文夏? 元気……じゃないよね?』

「……最悪。毎日ブルー……っていうかブラック」

『LINEなり電話なりしてくれて良いのに』

「最近誰とも話したくなくて……」

 文夏のすげない返しに、美貴は沈黙する。

 その様子に「ヤバい」と感じた文夏は、

「でもありがとう。連絡くれて」

慌ててフォローした。

『あのさ、あたしもう直ぐ冬休みなんだけど、何かバイトしようと思うの。一緒にやらない?』

「バイト……でも受験でしょ? そんな時間あるの?」

『推薦もらったから、少しはね』

 美貴の誘いは渡りに舟だったが、文夏は直ぐには答えられず、「考えとく」とだけ言って、この日の電話は終わった。

 美貴はまだどういうアルバイトかは決めていないらしく、「やりたいのがあるなら言って」と言っていた。

 この機会を逃したら、いつ立ち直れるか解らない。友達からの蜘蛛の糸に掴まろう。決

断すれば後は早かった。「バイトのことは任せて」と、その日の内に美貴にLINEを送信し

た。



 次の日から、文夏はネットを観たり、街中を歩いたりしてアルバイト探しを始めた。

――どうせやるなら稼げるもの。

 そうは思っても、都合の良いものは簡単には見付からない。募集広告が貼ってある店を逐一チェックして歩く文夏が、駅前の交差点に差しかかった時だった。看板を持ち、電柱に寄り掛かっている老人が目に入る。

 内容を見ると、駅近くのイメクラの宣伝だった。

――風俗……か。

 高一でSEXの楽しさを覚えたが、それが原因で自分は落ちた。あの事件以来、やる相手もいなければやる気すらしなかった。

 でも、稼げるバイトであることには違いない。看板を見たまま躊躇う文夏だったが、

――ショック療法ってやつ?

そう思い直し、急ぎ家へと帰った。

「風俗!?」

 美貴は声を裏返し、ドアの外を気にして小声で続けた。

「ちょっとマジ?」

 美貴の塾終わりに合わせ、彼女宅に駆け付けた文夏は、

「普通のバイトじゃお金稼げないじゃん? だからこういうのやったらどうだろうって。勿論無理にとは言わないけど」

あっけらかんと言いながらも、友人の気持ちは察した。

「……確かにお金は稼げるよ。……でも言い方は悪いけど、文夏は良くてもあたしは……」

 美貴は難色を示した。無職の文夏はまだしも、高校生の美貴にはリスクが高い。

 しかし、文夏は平然と続ける。

「解ってる。だからあたしだけでもどうかな? って思って」

 こうあっさり言われると、美貴も引くに引けなかった。誘ったのも「やりたいのがあるなら言って」と言ったのも自分である。

 美貴は「一応見せて」と、文夏がプリントして来た資料を見始めた。

「近場だとヤバイと思って色々調べたんだ。池袋のイメクラなんだけど、日払制で出勤日も自由。合わなければ一日で辞めても良いんだって」

 まくし立てる文夏に、美貴は資料に目を通したまま、

「そう上手く行くかなあ?……まあ、日払いで出勤日が自由っていうのは、大体そうなんじゃない?」

澄ました顔で呟いた。

「っえ? そうなの?」

 目を丸くする文夏に、美貴は苦笑した。

「ほら、いつだったか理沙が言ってたじゃん」

 理沙(りさ)とは、小・中学と一緒で、高校は他校へ進学した同級生のことである。

 文夏が退学する前。久しぶりに再会した時に、理沙は先輩が風俗でバイトした話をしていた。文夏もその場に居合わせていたが、

「……覚えてないなあ……」

彼女の頭からは消え失せていた。

 文夏の性格その一。マイペース。いつもの調子が戻った様子を見て、美貴の心は安心と呆れの半分半分となる。

 そんな美貴に文夏は畳み掛ける。

「もし良ければ、二人共無職ってことで面接受けて、美貴は休みが終わりに近付いたら、家の事情とか言って辞めれる。どう?」

「どう、って言われても……」

 美貴は口篭ってしまった。

 文夏の性格その二。こうだと決めたら邁進、とうより暴走する。

「……あたしも、興味がない訳じゃないんだけど……」

 美貴は微笑を浮かべた。理沙から話を聞いた時、何となく気には留まっていた。

 文夏は「うん」と頷いた。難色を示されるのは予想していたが、意外な反応に驚いた。

 美貴は葛藤していた。風俗でバイト。もし学校にバレたら推薦は取り消しになるだろう。いや、それだけでは済まないはずだ。

 しかも、イメクラといえば客が指定した職業になりきらなければいけない。文夏の頭にそれはあるのか?

 心配が頭を駆け巡りつつも、せっかく文夏はやる気になっている、という友人を思いやる心。プラス、興味はあったし、高額な金が貰えるという、甘い打算が入り混じる。

 この日は結論が出ず、美貴は「考えさせて」と、立場が逆転した返事をするのが精一杯だった。



 一週間が経った土曜日の午後。池袋駅には文夏と美貴の姿があった。

 数日前に美貴から「やってみよう」と連絡を受けた文夏は、「本当に良いの?」と美貴の決心を確認し、面接の予約を入れた。

 高校生というリスクを冒した美貴の頭には、誘ったことの責任感もあったが、やはり、上手く行けば高収入……。この打算に負けたのである。

 二人は緊張の為、殆ど会話をしなかった。

 数分後、「渋谷さんですか?」と声をかけて来た男性スタッフに、文夏は「はい」と上擦った声で返事をした。

 いよいよ、生まれて初めて風俗店に足を踏み入れる。

 駅から程近いビル二階に、イメクラ<Blue Mountain(ブルーマウンテン)>

はあった。

 待機室に案内された文夏と美貴は、綺麗な内装に目を奪われつつ、ソファに座った。

 二人の前には、この時二十五歳の店長玲子(れいこ)と、一つ下の副店長仁美(ひとみ)が座り、履歴書に目を通している。

 一通り読み終えた玲子店長が口を開いた。

「お二人は高校を中退されたんですね?」

 打ち合わせ通り、美貴も高校中退とは書いたが、念を押す玲子の言葉にドキッとした。

 隣の文夏は動揺するはずもなく、「はい」と返事をし、美貴もそれに続く。

 二人は笑顔を絶やさぬよう努めた。これも打ち合わせ通り。

 高校中退の件を信用したのか、玲子は具体的な話に入った。美貴は一先ず安堵した。

「容姿よりも大事にしているのは、お客様に対して、思いやり・優しさ・気遣いが出来るかどうかです。この三つは心得て下さい」

 二人は「はい」と、息の合った返事をした。

 次に、仁美副店長から仕事内容や給料の説明があり、最後に「ここまでで何かご質問は?」

と振られた。

「あのー、希望があれば講習を受けられるってことなんですけど、講師はどなたが?」

 文夏の質問に仁美は、

「ご希望でしたら、初出勤の日に、私か店長の方でご指導致します」

と淡々と答えた。

 安心した二人は、そろって講習を希望した。

「時間は一日三時間から受け付けるとのことなんですが?」

 求人案内に載っていたことを確認する美貴に、

「はい。大丈夫ですよ」

玲子は笑顔で答えた。

 納得した二人は必要書類に記入し、写真撮影を終えて面接は無事終了した。



 初出勤は美貴の休みが始まる翌週からにした。美貴の希望通り平日の週三日、昼間の三時間勤務。万が一に備え、学校関係者が来ないであろう時間帯を狙ってのことだった。

 店長も副店長も優しそうだし、職場も綺麗。気に入った文夏は、玲子から「夕起」と名付けられ、風俗嬢として働き始めた。

 祖父母にはスーパーのパート従業員と嘘をついたが、洋子には正直に話した。予想通り難色を示されたが、根気強く説得し、何とか了承を得た。

「みやび」と名付けられた美貴は、アリバイ会社に登録した。おかげで学校にも親にもバレずに、休みが終わる前日、一身上の都合として退店した。



――心が出血する少年――


 終盤になって登校し、二日連続で休む。その繰り返しで裕介の中学生活は過ぎて行った。

 迎えた卒業式。その日も遅刻した。最後の最後まで地に落ちた状態のままだった。

――終わったか……。

 内心ホッとするような、開放感に似た心境だった。だが、それは一時的なもの。嵐の前の静けさだった。



 裕介の進学先は、東京郊外にある緑ヶ丘学園高校定時制。不調の中彼なりに頑張った末、無事合格した。

 授業開始は午後五時三十分。終了は午後九時である。

 「環境を変えて病気を善くしたい」。裕介は建前を譲一と小枝子にこう告げた。所在する市内の定時制高校を蹴り、自宅の最寄駅から八駅離れた所を選んだ。乗車時間は約二十分。

 譲一は、「一浪してでも全日制の方が良い」と難色を示した。その夫に小枝子は、「もうやりたいようにさせよう」と説得し、譲一は渋々了解した。

 高木と離れ、苛めからもやっと解放され、確かに治療に専念出来る環境は整った。

 しかし、生活態度に問題が生じる。

 裕介は学校から帰宅すると自室に篭り、真面目にその日の復習をした。うつに陥ると、インターネットやオンラインゲームに興じ、気を紛らわせようとした。

 その為、就寝は明け方となり、正午前後に起床する生活となった。うつ病治療は、まず規則正しい生活が必要なのだが……。 

 小枝子は黙認していたが、譲一は毎朝虫唾が走る思いだった。

 家族と生活サイクルを反対にすることで、両親を避けていた。

――オレがこうなったのは、あの親にも責任がある!

 両親に怒りを持つことで、裕介は自分を守っていた。それしか術を知らなかったのだ。



 学校を除き、裕介はほぼ引き篭もりの状態だった。土日に外出することは皆無。知り合いの顔は見たくもなかった。それが、敢えて離れた土地の学校を選んだ、本当の理由だ。

 欲しい物があれば、平日早めに家を出て、学校の最寄駅近くで済ませた。

 病気の症状は大きく三つの種類がある。

 一、気持ちが落ちると死を連想するところまで行ってしまう。

 二、周囲にいる人・物事に一々怯える。

 三、周期的に来るだるさ(慢性疲労)。

 症状には波があり、酷い日は起き上がっていることすら辛く、学校以外は横になって過ごす他なかった。

 高校に進学して半年が経った頃から、自分を「嘲笑う」心の声にも悩まされ始めた。

『自分を棚に上げて親のせいにして、筋違いもいいとこだぞ』

――そんなこと解ってる!

 親への怒りがお門違いだと解っているが故に、裕介は尚苦しんでいた。

『いつまで甘えん坊なんだよ? お前マジウゼえ!』

――だから一人でいるじゃないか!!

 反論通り、裕介は進学しても誰にも心を開かず、人を寄せ付けなかった。話しかけられても、返事は「はい」「そうですか」とまさに一言だけである。

『それで解決させたつもりか? 只逃げてるだけじゃねえか!』

――じゃあどうすりゃ良いんだよ!?

 黙らせようとしても、いつも言い負かされた。



 調子が安定している日に限り、裕介は下校途中、学校の最寄駅近くのゲームセンターに立ち寄った。

 午後九時に全ての授業が終わると、裕介は急いで学校を抜け出し、十時まで遊んだ。十時以降は十八歳未満の入店が、法律で禁止されているからだ。

 しかし、ここでも「あの声」はどこからともなく響いて来る。

『お前が遊んでる間に、みんなは必死に努力してんだぞ!』

――うつを何とかしたいだけなんだよ!

 ネットやオンラインゲームと同じ。気を紛らわせたかった。

『お前がそう思ってるだけ。結局サボッてんだよ!!』

 声を払拭しようと、ゲームに熱中するというより、溜まったものを発散させるが如く、『太鼓の達人』の太鼓を力任せに叩き続けていた。

 その時、背後から声をかけられた。

「あのう、お客様……」

突然のことに裕介は息を呑んで振り向いた。

「もう少し力を加減して戴くとありがたいんですが……」

店員は苦笑いを浮かべて言った。余程目に余ったのだろう。

 てっきり追い出されると思った裕介は、呆気に取られながら、「済みません」と謝った。

 呆然と立ち尽くしたまま、ふと横に目をやると、『パンチングマシーン』が目に留まった。

 裕介は引き寄せられるように、『―マシーン』へ近付いた。

 その間にも、声は容赦なくまくし立てる。

『お前みたいな奴が生きてて何になる? とっとと死ね死ね死ね!!』 

――……言われなくてももう直ぐ死ぬ! こうやって……。

 声に反論し、裕介は人里離れた山中でありったけの薬を飲み、自殺を図る場面を妄想した。

 気持ちが鎮まるのなら、何だって良かった。

『フーン。いつ実行に移すのかなあ?』

――クソ!!

 渾身の力を込め、『―ーマシーン』を殴りつけた。



 年が明け、一月も中旬に入った平日。

 明け方に就寝した裕介は、寒さで目を覚ました。

 カーテン越しに陽光が差し込んでいる。枕元に一応置いている目覚まし時計に目をやると、十時を少し回っていた。

 裕介は布団に潜り込み、また寝息を立てる。その睡眠中、奇妙な夢を見た。

 夢の中で裕介が目を覚ますと、病院のベッドの上。病室だと思われる部屋は、裕介にだけ照明が当てられ、周りは何も見えず暗闇である。

 両腕両足首を見ると、輸血と思われる点滴をされている。驚いた裕介は起き上がろうとするが、頭以外は確りと固定されていて、身動き一つとれない。

 何とか起き上がろうと、もがいた拍子に自分の胸元が目に入り、裕介は更に驚愕した。 白い入院着は赤く染まり、水溜りのように血が溜まっている。

 要するに、出血しながら輸血されている夢だった。

 ハッとして目が覚めた裕介は、夢のせいで憂鬱な気分だった。

 溜息をついてゆっくり起き上がり、一階のキッチンへと向かう。

 この時間は当然、両親は仕事。秋久は学校で、家には裕介しかいない。

 リビングのエアコンを入れ、部屋を暖めながら、コーヒーを飲もうとお湯を沸かし始める。

 やかんを見詰めたまま、裕介はさっき見た夢を思い出していた。内容が衝撃的だっただけに、確り記憶されている。

「……心が、出血している?」

 反芻した結果にボソッと呟かれた、率直な感想。

 自分を執拗に責め続け、傷付いた心の傷口からは血が滴っている。それが、今の裕介。

『ピーー……』

 沸騰し、湯気を噴出させるやかんを、裕介は虚ろな目で見詰めていた。



――風俗嬢の挑戦――


「昼の勤務にしたいって、どうして?」

<Blue Mountain>の玲子店長は、タバコに火を点けながら尋ねた。

 閉店後の待機室には、玲子と夕起だけだ。

「四月から夜に用事が入るんで」

 夕起はみやびが辞めてから直ぐに、週四日、夕方から閉店までの勤務にシフト変更していた。

「用事って何?」

 夕起は事実を告げようか少し迷ったが、二年もお世話になっている人。しかも勤務先の店長にあやふやな返事をするのは気が引けた。

「……実は、定時制の高校に入学するんです」

 夕起の告白に、一瞬驚いた表情を見せた玲子だが、直ぐにいつもの冷静さを取り戻し、「そう」と相槌を打った。

「私高校中退してるんです。この仕事には限りがあるし、やっぱり高卒の学歴はないとなあって……」

 十八歳で入店して来た頃の夕起は、玲子の目には、今が楽しければ良いとしか考えていないように見えていた。そんな彼女が将来を見据えるようになった。

 玲子は「うんうん」と頷いた。

「確かにそうね。ちゃんと将来のこと考えて、成長したね」

 ニヤリとする玲子に、夕起は「もう直ぐ二十歳ですから」と苦笑した。

「でも、昼の勤務となれば売上減るよ」

「解ってます。正直言うと、別の仕事探そうか迷ったんですけど、このご時世ですしね?」

「そうよねえ……まあ、夕起は人気あるし、追っかけて予約入れるお客もいるだろうね」

 夕起の成長に安心した玲子は、経営者として売上を気にしつつも、彼女の為ならと要求を受け入れた。

「結構大変だよ。仕事と学業の両立は……」

 都心のマンションのリビングで、美貴はビール片手にソファに寝そべりながら言った。

 美貴はイメクラを辞めた後、大学に推薦入学した。しかし高収入が忘れられず、今は大学へ通いながら、他店でデリバリーヘルスのアルバイトをしている。

 二人は美貴が進学してから間もなく、都心の賃貸マンションで同居していた。

「想像はついたけど、もう決めたから」

 文夏は冷蔵庫からビールを取り出しながら言った。

 風俗嬢の仕事は、肉体的にはもちろん、精神的ストレスもかなりのもの。不快に思う客、マナーの悪い客にも、感情をおくびにも出さずに、自然な笑顔で愛嬌を振りまかなくてはならない。時にはいかつい客にビビりながら……ということもある。

 そうした環境の中で学業がプラスされる。

 美貴は自分の経験を顧みて、文夏の高校入学を喜び、応援しつつも、思い立つと邁進し過ぎるところがある彼女を心配した。

「今更だけど、何でまた高校に入ろうと思ったの?」

「それは、毎日あなたを見てるからです」

 茶化すように笑う文夏だったが、本心だった。

 美貴は基本、アルバイトを楽しんでいた。それは文夏も変わらない。

 だが、試験中は連日徹夜で勉強し、そうでない時でも、疲れた顔で参考書に目を通す美貴の姿を一年近く見て来た。

 彼女の為に夜食を用意したりしながら、文夏は自分を顧みた。確かに今は生活に困ってはいない。でも風俗の仕事は、後どのくらい続けられるのか? そう思うと焦りを感じた。

 美貴には弁護士秘書になるという目標がある。楽しみながらであっても、彼女にとってデリヘルは、あくまで学生のバイトなのである。

――私も次に目を向けなくちゃ……。

 文夏が思い始めた折、職場の待機室で、「従兄弟が定時制高校に通い出した」と同僚から聞いた。

 気に留めた文夏は都内の定時制高校を調べ、入試に向け久しぶりの勉強に励んだ。

 そして、二十歳となる今年、合格通知を手にしたのである。

「協力出来ることがあれば、何でもするから」

「ありがとう」

 文夏は照れ臭そうに笑い、ビールを口に含んだ。



 翌週日曜日の朝、文夏はこの日の為に購入した紺のスーツに身を包み、都内郊外にある高校の体育館にいた。

 進行役の教師がマイクの前に立つ。

「開式の言葉。新入生、起立!!」

 静寂の中、約五十人の新入生が一気に立ち上がり、白髪が目立つ男性教頭が壇上に上がる。

「只今より、平成二十二年度、東京都立、緑ヶ丘学園高等学校、定時制入学式を開式致します」

 新入生の中には文夏のような若者もいれば、紳士・ご夫人といった人まで年齢層は幅広い。

 服装もスーツから制服、カジュアルと多種多様である。

 しかし、顔は皆キリっとしていて式に出席しているが、文夏の隣に座っている中年男性は、冒頭から俯きっぱなしである。その内軽いいびきをかき始めた。

「新入生、起立!」

 来賓の挨拶の為に号令をかけられたが、案の定男性は立ち上がらない。放おっておこうか迷った文夏だが、念の為、肩を叩いた。

 すると男性は目を覚まし、慌てて立ち上がると、文夏を見て「へへっ」と子供のように笑った。

――これが定時制か……。

 変なところで自覚しながら、文夏も微笑み返した。

 一年生は約二十五人ずつで二クラスに分けられている。

 式が終わり、文夏は自分の教室、二組に移動した。

 机には教科書が積まれ、早い者順で席に着いて行く。文夏は窓際の席を選んだ。

「ええ、では改めまして、二組の担任をさせて戴きます、小早川利秋(こばやかわ としあき)と申します。どうぞ宜しくお願い致します」

 小早川の挨拶に生徒は一礼する。

「では、まずは自己紹介からですね。こちらの方からどうぞ」

 トップバッターは、通路側に座った加藤良雄(かとう よしお)。式中居眠りしていた男性だ。

 抱負を語る者。「宜しく」とだけ言って終わる者。二パターンの自己紹介が済まされて行き、文夏の番となった。

「渋谷文夏です。久しぶりの学生生活にドキドキしています。仲良くして下さい」

 着席する文夏に、さっきのことで親しみを持った加藤が相槌を打った。

「仲良くするよ!」

 教室内に失笑が流れる。

「加藤さん、入学式で寝てましたよね?」

 文夏の返しに小早川を始め、生徒達は更にウケる。軽いいびきとはいえ、静粛な場では気付かないはずがない。

「きのう中々寝付けなくてねえ」

 加藤は照れ笑いしながら言った。

 二年間仕事で培った技術を、文夏は遺憾なく発揮した。

「ねえ、連絡先交換しよ」

 文夏と同じクラスの山下奈々(やました なな)の提案に、文夏と一組の鈴江智広(すずえ ちひろ)はスマートフォンを取り出した。

 加藤と自然なやり取りをした文夏に好感を持った山下は、ホームルームが終わると直ぐに彼女に声をかけた。式前に言葉を交わした鈴江も誘って校庭内に集まっていた。

 辺りに植えられた何本もの桜は全て満開で、太陽に照らされて眩い。

「あたし市内なんだけど、二人は近いの?」

 連絡先を交換しながら、山下が訊く。

「あたしは隣の市から、自転車で通う」

「えっ、遠くない!?」

 山下が目を見開いて驚く。

「市の外れだから。二十分くらいかな? 渋谷さんは?」

 鈴江に話を振られ、

「私は、……都心の方から」

文夏は戸惑いながら答える。

「そっちの方が遠くない!?」

 今度は鈴江が目を見開く。

 文夏にとって、郊外の学校を選んだのには事情があるのだが、それは言えない。

「でも車だから。四十分くらいかな?」

「車持ってんだあ」

「うん。同居してる友達と共同でね」

 山下と鈴江は、「ふーん」「そうなんだ」と相槌を打ったきり、それ以上は何も訊いて来ない。

――セーフ……。

 文夏がホッとしたのも束の間、

「うちらくらいの年齢で定時制に入って来る人って、訳ありなんだよね……」

山下が呟くように言った。

 その突然な発言に、文夏はドキっとする。

――それ言う!?

 鈴江も唐突さに驚いたのか、「うーん……」と唸っただけだ。

「あたし、高校一年で辞めたからおバカでさ。だから、勉強は大いに心配」

 笑って告白する山下に鈴江も、

「あたしだって、二年の一学期に辞めたから。同じだって」

山下を庇うように続けた。

 二人のやり取りを見て、文夏も告白せざるを得なくなった。

「私は、……三年の二学期に入って直ぐ。……訳あり」

 顔を見合わせて笑う三人。

「訳ありどうし、仲良くやろう!」

 文夏の呼びかけに、二人は「そうだよ!」「頑張ろう!」と答え、三人の結束が固まった。



――中山家の事情――


 四月になり、裕介は二年に進級した。

 ある晩、ゲーセンから戻って来た裕介は、玄関の鍵を開ける。時刻は十一時になっていた。

「ただいまくらい言ったらどうなの?」

 音に気付き出て来た小枝子は、息子を諭した。

 しかし、裕介は母には見向きもせず、二階の部屋へと上がって行く。

「本当にもう……」

 溜息混じりに呟く小枝子に、ソファに座る譲一もつられて溜息をついた。

「帰りの挨拶もしないのかあいつは……」

 途方に暮れた表情で小枝子は頷いた。

「何でああなったかなあ」

 譲一は頭を抱えて呟いた。

「でも成績は良いらしいのよねえ」

 それでも、母親は息子を庇うことを忘れない。元々裕介は勉強が嫌いではない。時間に余裕が出来たこともあり、成績は上がっていた。

「所詮は定時制の成績だ。しかも家にいる時間が多いんだ。良くて当たり前だろ」

 しかし、父親は頑なに息子を否定した。

 部屋に入り、鞄と上着を机の上に置いた裕介は、ステレオの電源を入れた。

 すると、間髪入れずに秋久が入って来る。

「兄ちゃん、音楽聴く時はヘッドホンしてくれよ!」

 ノックもせず、「何度言ったら分かるんだよ」と続けたそうな、うんざりした顔をしている。

「気になるか?」

「ならなきゃ言わねえよ」

「……解りましたよ」

 面倒臭そうにヘッドホンを手に取り、ステレオに繋いだ兄を見届け、秋久は出て行った。

 秋久は高校進学を私立の進学校と決め、毎晩勉強に励んでいる。近頃は些細な音にもナーバスだ。

 裕介の病気が発覚して以来、譲一は「国立以外駄目だ」の規制を緩和せざるを得なかった。

 裕介が定時制高校へ進学することを決め、小枝子から説得されてから、子供の意見を尊重する方へ気持ちが傾いたのだ。

 裕介はヘッドホンをしたまま、しばらくベッドに寝そべっていたが、急に立ち上がると、ヘッドホンを外しべランダに出た。手にはタバコが握られている。

 未成年の裕介が、規制も厳しくなった世の中でタバコを手に出来る理由。それは小枝子だった。



 息子がうつ病となり、小枝子は結婚以来止めていたタバコに手を出し始める。 

 初めは、裕介の進路のことばかりが気がかりだったが、定時制高校へ進学してからは、少し気持ちに余裕が出来た。

 保護者会や職場を見渡せば、裕介と同じような子供を持った親達が、結構いることに気付いた。その人達と言葉を交し、気持ちを共有することで軽くなる。そして、最後は「親の責任よねえ……」と締める。

――あの子を苦しめたのは、親の締め付け……。

 息子の発病に責任を感じた小枝子は、「外で吸わないようにして」と一言付け加え、一度に三箱買う内の一箱を、裕介に渡し始める。

――少しでも、気晴らしになってくれるなら……。

 家庭内暴力などに走られるよりはまし。間違った親心であることは承知しているが、どう対応すれば良いのか解らなかった。

「定時制は働きながら学ぶ所だ」。譲一の見解であり、「甘やかすな!」と何度も咎められた。だが、ゲーセン代にファッションなど、裕介が高校生となってからの娯楽費を、小枝子はパートの給料から出し続けていた。

 譲一もそのことは、収入のない息子を見れば嫌でも解っていた。

「息子がバイトの給料で買ってくれたんだよ」

 同僚が照れ笑いを浮かべ、ネクタイを見せて来る。

「娘に彼氏が出来ちゃってさー……」

 他の同僚が溜息混じりに呟く。

 よその子供の成長を聞き、譲一は笑顔を見せながら裕介を思い、いたたまれなくて仕方なかった。

――あいつは成長しているのか?

 裕介を見る度、譲一は疑問に感じた。

 病気は代われることなら代わってやりたい。だが、裕介には別に問題がある……。

 定時制高校進学を反対した理由の一つは、生活が不規則にならないか心配したからだ。案の定それは現実となった。

「朝はちゃんと起きろ!」。口酸っぱく諭すが、裕介は一向に改善しようとしない。

 しかも、最近は自分達どころか、人自体を避けているように思える。

 息子、息子を庇う妻を見れば見る程、心配に歯痒さがプラスされ、憤慨へと変わって行った。



――出会い――

 

 ゴールデンウィーク明けのある日。

 学校には二時限目と三時限目の間に、三十分間の中休みがあり、給食の時間となる。

 急いで食べ終えた文夏は、提出するプリントを持ち、職員室へ小早川を訪ねた。

「失礼しまーす」と言いながら入室した文夏は直ぐに小早川を見付け近付いたが、生憎電

話の最中で、小早川は文夏に気付くと、手で「ちょっと待ってて」と合図した。

 文夏は廊下で待つことにし、退室した。

 その際、向かいの机の前で、若い男女と中年男性二人が集まっているのを目にする。



 中年男性の一人、電気設備工事会社に勤務する学級委員長、武田義晴(たけだ よしはる)は、裕介に決断を迫っていた。

「修学旅行のことなんだけど、どうする?」

「なるべくみんなで行こうって言ってるんだけど……」

 副委員長で、歯科医院の受付をしている武川智子(むがわ ともこ)が続ける。

「もうちょっと考えさせて下さい」

 裕介は無表情で淡々と答えた。

 秋に予定されている修学旅行。因みに行き先は大阪・京都だが、その出欠は、裕介のクラスでは彼以外、皆確認されている。

「じっくり考えるのは良いけど、前期が終わるまでには結論を出してもらわないと……」

 担任の大神哲郎(おおがみ てつろう)も、早くするよう迫った。

「解りました」

 裕介は返事をすると頭を下げ、職員室を後にする。

 クラスメートの自分達が言っても駄目なら、担任だと結論を出すのでは? と期待した武田と武川は途方に暮れた。

 それは大神も同じだった。だが病気のことを母の小枝子から聞いていた為、きつくは言えなかった。

 大神は、無理にクラスに溶け込ませようとしても、却って悪影響だと判断し、静観の立場をとっている。

 職員室を出た武田は数歩歩いた後、深い溜息をついた。

「もうオレは匙を投げかけてるよ」

 入学してから、裕介には努めて声をかけて来たが、一向に心を開かない彼に、最近は諦めモードである。

「そっとしておくのが良いんでしょうけど、ノータッチって訳にもね……」

 武川は引き続き、根気強く裕介と接する決心を固めた。

「うーん。そうなんだけど、……いつになったら、ガチャっと開くのか……」

 武田が胸の辺りで手を重ね、ドアが開くマネをした。

「私達でも駄目。先生でも駄目。ですもんね……」

 決心を固めたとはいえ、武川も溜息を漏らした。

その日の放課後。

 文夏は山下と鈴江と別れて、車へと向かっていた。

 その時、駐車している車の隅でしゃがみ込み、喫煙している人影を発見する。

 よく見ると、さっき職員室を訪ねた際、向かいの机に集まっていた内の一人だった。聞くつもりはなかったが、廊下に出て掲示物を眺めながら小早川を待っていた時、武田と武川の会話も耳に入った。

 内容からして、二人が出て来る前に出て来た彼のことだろうと推測された。

 文夏の旺盛な好奇心がうごめき、足は彼に向けられた。

 靴音が聞こえ、裕介は慌てて火を消した。

「あのう、修学旅行っていつなんですか?」

 文夏は横にしゃがみながら笑顔で尋ねる。職員室から出る寸前に、「修学旅行のこと――」

と聞こえたのだ。

「ハー?」

 裕介の目にはギャルに見えた。自分とは縁のない人種だと思っていた。予期せぬ問いかけに、裕介はまごつく。

 ポカーンとしている裕介に、文夏は「修学旅行」と念を押す。

「……十一月だったかなあ?」

「何泊くらい?」

「二泊三日。それが何か?」

 不意打ちを食らった裕介だが、徐々にいつものクールさを取り戻す。

「いや、修学旅行あるんだって思ったから。来年楽しみだなあ」

「来年って、一年生ですか?」

 無表情で訊く裕介とは対照的に、文夏は「ええ」と満面の笑みで答える。

「ふーん。……っじゃ」

 裕介は独り言のように呟き立ち上がると、振り向きもせず歩き出した。

「お疲れさまです!」

――ったく、ビックリさせやがって……。

 裕介は不快感を、今日だけのことだろうと思い直し、打ち消そうとした。

 しかしこの日が裕介にとって、煙たい毎日の始まりとなる。



 翌日の夕方、文夏は車を駐車場に停め、校舎の玄関へと向かっていた。

 その時、後ろから「アヤカー!」と声がする。

 振り向くと、鈴江が走って向かって来た。

「おーう。こんばんワン!」

 鈴江に挨拶しながら視線を先へやると、後ろから裕介が歩いて来るのが見えた。

「っあ、ちょっとごめん」

 鈴江に断わり、文夏は裕介に近付いて行く。

 裕介は文夏に気付き、怪訝な目を向けた。

「こんばんは。きのうはどうも」

 笑顔で挨拶し頭を下げると、何も言えず呆然と立ち尽くしている裕介を尻目に、文夏は鈴江の元へ戻った。

「誰なの?」

 鈴江は裕介を一瞥した。

「うん。ちょっとお世話になってる人」

 文夏は言葉少なに答え、校舎へと入って行った。鈴江は「ふーん」と返しながら文夏を追う。

 その後ろでは、裕介が尚も立ち尽くしていた。

 その日の中休み。

 裕介が体育館の隅に隠れ、タバコを吸っていると、「こら!」という声と共に、頭上からミニバレー用のゴムボールが落ちて来た。

――!!!!?

 裕介は無意識に火を消し、立ち上がろうとした瞬間、目の前の溝に嵌りそうになる。

 振り返ると、ピンクのジャージを履いた文夏が、してやったりの顔で立っている。体育シューズを履いていた為、気付かれずに忍び寄ることが出来たのだ。

「良いリアクションしますねえ」

「……」

 良いリアクションは、自分が悪いことをしていると自覚している証拠でもある。

「こんなとこでタバコ吸っちゃダメでしょ!」

 文夏はこう言い残し、行ってしまった。また言葉が出ない裕介。さっきと全く同じである。

 後ろ姿を見ながら裕介は舌打ちし、溜息を吐く。

――ほっといてくれよ!!

 不意打ちはきのうだけだと思っていたが、今後も続くのか!?。裕介に不快感と苛立ちが募った。



――平行する父子――


 数日後の午後十時過ぎ、今日はどこへも寄らず裕介は帰宅した。

 近頃また怯えが酷くなり、ゲーセンよりも早く部屋に篭りたかった。

 いつものように鍵を開け、ドアを開ける。すると、音を聞きつけ出て来たのは、母ではなく、かなり酒の入った父だった。

「ただいまの一つも言えないのか?」

 玄関に仁王立ちし、息子を睨み付ける。

「……ただいま」

 裕介はビクビクしながら、か細い声で言った。目が据わった譲一には、これまで幾度も傷付けられ、トラウマとなっていた。

「気分の良い挨拶じゃないな……」

 鼻で笑う譲一から早く逃げ出そうと、裕介は足早に部屋を目指した。

「お前、修学旅行はどうするんだ? さっき先生から電話があったぞ」

「……だから、もう少し考えたいって……」

 話しかけて来る譲一に、嫌々足を止めて答える。

「親には何も言わなくてな?」

 苦々しく笑う譲一に、裕介は何も言えなくなった。

「どうしようとお前の勝手だがな、……金を出すのは親なんだよ!!」

 こうなると譲一は止まらない。無防備な相手をとことん責め続ける。

「病気は軽いくせに、毎日ダラダラと……良い生活してるな!」

 「軽い」。譲一は度々槍玉に挙げる。確かに、ゲーセンに行ける日もあるのだから、裕介も認めざるを得ない。

 耐えられなくなった裕介は、小走りで階段に向かった。

「苦しいのはみんな一緒なんだぞ! お前より大変な人は、世の中山程いるんだから

な!!」

 階段を上り始めた裕介に、譲一は捨て台詞を吐いた。

 「みんな一緒」。これも譲一はしょっちゅう口にする。譲一にとって二つの言葉は、「強くなれ!」との思いに裏打ちされた表現だった。

「そんな言い方じゃ、あの子に届かないわよ」

「……」

 廊下に出て来た小枝子は、うんざりとした顔で呟いた。父親として息子への思いは理解出来るが、その伝え方には到底頷けない。

 夫婦は途方に暮れた顔で二階を見上げた。

部屋に入った裕介は、鞄をベッドに投げつけると、拳で両腿を殴りつけた。力一杯、何度

も何度も繰り返す。

 以前医師にそのことを話したら、それは自傷行為だと言われた。人によっては、それがリストカットになる。

 うつ症状が抑えられなくなると、衝動的にしてしまう。中学を卒業してしばらくは治まっていたが、最近は酷くなり、青痣を作っていた。

 この時の原因は、「軽い」「みんな一緒」に腹が立ったから。裕介は二つの言葉に敏感になっていた。

 「軽い」。――どうせ、見た目で解る症状が出ないと、理解してくれないんだろう……。

 「みんな一緒」。――その反面、人の苦しみは他人のものとは計れないという表現もある。一体、どっちを優先させるべきなんだ?……。

 リストカットはそれによって精神バランスをとる人もいるそうだが、自分もそうなのか? 裕介自身にも解らなかった。



――衝撃の事実――


 六月も下旬に入った放課後。裕介は文夏を避け、裏門から帰ることにした。

 駐車場での一件以来、彼女は自分の顔を見ると挨拶なり必ず声をかけて来ては、脱兎のごとく去って行く。鬱陶しさに加え、絶句してしまう自分も悔しかった。

 今日は平穏無事に帰れるだろうと、安心していた矢先だった。

「いやあ、驚いちまったよ」

 石段下から、聞き覚えのあるべらんめい口調が聞こえて来た。

 裕介と同学年で運送会社に勤める石村(いしむら)だ。

 そしてもう一人、

「どうしたんですかあ? ニヤニヤして」

建設会社に勤める村田(むらた)の声も聞こえる。二人はよくつるんでいる仲だ。

――何だよもう……。

 裕介は家路に入った邪魔者を鬱陶しく思いつつ、足を止め聞き耳を立てた。

「この前息子のパソコンでネットやってたんだけどよお。「お気に入り」の中に風俗情報のページがあったんだよ」

「へえ、それで観たんですか?」

「観ちまったんだよお」

――あのおやじそればっかだな……。

 裕介は呆れるばかりなり。

 石村は、気に入った女子生徒には欠かさず声をかけて回る、校内では有名人である。

「ったく……好きですねえ」

「そしたら、大変な事実を目撃しちまったんだよお」

――どうせくだらねえことだろ。

とは思いつつ、裕介は更に耳を澄ます。

「今年入って来た渋谷って子だっけ? 瓜二つの奴が載ってんだよ!」

「マジですかあ!?」

 女好きの石村は、当然文夏にも声かけ済みである。

 石村によると、洋服から下着姿となり、最後は手ブラで微笑むという内容らしい。

「ありゃどう見ても同一人物だな」

――マジかよ!?

 裕介は驚愕しながらも、足音を立てないように注意しつつ、裏門から遠ざかった。

 高鳴る鼓動を感じながら、裕介は校庭内を歩き続けた。

――風俗嬢が……身近にいた!?

 今までにそっち系の雑誌や、サイトでは何度となく見たが、そういう仕事をする人はずっと遠くにいるものだと思っていた。

 当てもなく歩いていた裕介は、

――そうだ……帰るんだ……。

冷静を取り戻し、正門を目指して歩き始めた。

 早足で校舎の前を通り過ぎようとしていたその時、紙飛行機が目の前を横切り、前方に落ちた。

 後ろからは、「よっしゃあ!」「コントロール良いねえ」と女性の声がする。

 またしても聞き覚えのある声に振り返ると、

「お疲れさまでーす!」

二階の窓から文夏が笑顔で手を振っていた。

――何も知らねえと思って……。

 裕介は鼻で「っふん」と笑うと、紙飛行機を拾って去って行った。

「愛想なくない?」

 山下が遠ざかる裕介を見ながら言った。

「あれが、彼の持ち味」

 気に留める様子もない文夏に、

「物好きなんだねえ」

鈴江は呆れ気味に言った。



 七月に入った放課後。裕介は、急ぎ一階へと降りた。

 校舎から少し離れた玄関が見渡せる位置で、音楽を聴きながらターゲットの登場を、今か今かと待つ。

 次々に生徒達が家路につく中、女性二人を伴って文夏が現れた。

 しばらく立ち話をし、二人は自転車、文夏はトールワゴンの軽自動車に乗り込んだ。

 それを確認した裕介は、車に近付いて行く。

――今日こそは一言言ってやる!

 意気込んで助手席側のフロントガラスをノックする。

「ちょっと良いですか?」

 暗い車内でスマートフォンを観ていた文夏は、突然のことにビックリし、ルームランプを点けた。

 裕介であることを確認し、笑顔を見せると、躊躇うことなく「どうぞ」と言いながら招き入れる。

 車内はディズニーキャラ、スティッチのフロントマットとクッションが置いてあるくらいで、他はシンプルだ。

 助手席に座った裕介は、早速本題に入る。

「あんたさあ、いつもオレに話しかけて来るけど、一体何なんです?」

「話しかける? 挨拶でしょ? 挨拶は大事だと思いますけど」

 全く動じる様子もなく、ニコニコしている。それに言っていることは正しい。それ故に裕介は二の句が継げない。

 口篭る裕介を尻目に、文夏が口を開いた。

「私、渋谷文夏っていいます。シブヤって書いてシブタニ」

「そこまで訊いてないよ……とにかく、オレは挨拶が嫌いなんです!」

 やっとのことで出た二の句は、自分でも支離滅裂だと解った。

「珍しい。お名前は?」

「話を逸らすな!」と訴えたかったが、にこやかな文夏に調子が狂い、何を言いたかったのか見失った裕介は、またも二の句が継げない。

 そしてとうとう、

「……中山裕介です。……ユースケ・サンタマリアの本名と同じ」

ペースに呑まれてしまう。

「ユウ君だって一言多いよ」

「ユウ君!?」

 なれなれしい文夏に目を丸くする裕介だが、彼女は意に介さない。

「多分私より歳下でしょ?」

「……十七だけど」

「タバコはいけないねえ」

 文夏は急に真顔になり、睨みつけて咎めた。

「だから!……」

「話を逸らすなよ!!」と続けたいが、今度は文夏の目に圧倒されてしまう。

 だが、ペースに流されている内にリラックスしたのか、やっと言いたかったことを思い出した。

「とにかく、オレには構わないでくれって申し上げたいんだよ!!」

「申し上げたいって……ウケるう!」

 爆笑され、顔が赤くなって行くのが解った。

 ムキになると、三言の内一言くらい丁寧語になる。裕介の変わった癖で、笑われては自己嫌悪に陥るが、一向に直らない。

「ユウ君って面白いねえ。なのにどうしていつも一人なの?」

「……あんたには関係ねえよ!」

 笑い続ける文夏から、裕介は顔を背けた。

「私はシブタニです」

「シブタニかシブガキか知らねえけど……」

 念を押して来る文夏に、うんざりした裕介は呟いた。

「今度はオヤジギャグかよ!」

 ツッコミを入れながら、文夏は笑いを蒸し返した。

 我慢ならなくなった裕介は、「バカにすんなよ!!」と言い返そうと文夏に目を向けた時、数日前盗み聞きした話を思い出す。

――そういやこの人、風俗嬢なんだっけ?

 裕介は文夏の身体を凝視した。

 視線に気付いた文夏は、

「私の身体って、ガン見するほどイケてる? それとも醜いかい?」

こう言ってニヤつく。

 裕介はハッと我に返る。

「とにかく……って二度目だけど、オレのことはほっといて下さい。……それからこれ」

 裕介は鞄から、折り目の入ったルーズリーフを取り出した。文夏が紙飛行機にして飛ばしたやつだ。

「紙を無駄にしないように」

「これはご親切に」

「……お疲れさまでした」

 ルーズリーフを渡すと、裕介はそそくさと出て行く。

「お疲れさまでーす!」

 裕介の後ろ姿を、文夏はいつものように笑顔で見送った。

 「挨拶は嫌いだ」と言っておきながら、自分から挨拶したことに、裕介は再び顔を赤らめた。

 釈然としないまま家へ帰った裕介は、文夏とのやり取りを思い出した。はっきり物を言えなかった自分。笑われたこと。それらがグルグルと頭を回り、苛立ちに襲われる。

 そして、また両腿を殴りつけるのだった。



 七月十六日、前期最終日。

 ホームルームも終わり、裕介はいつものように急ごうとした。

 文夏と車内でやり合った日から今日まで、念には念を入れ、今まで以上に足早に校内から「脱出」していた。

 しかし、この日は運命の神様が、ちょっといたずらをした。

 さっきから尿意を催しているのだ。

 駅まで我慢するか迷うが、今から我慢するのではなく、三十分程前から始まっている。

――急いですれば大丈夫だろう。

 裕介はトイレへ向かい、用を足すと、小走りで階段ヘ向かった。

 緑ヶ丘学園高校は、一階は職員室や理科室などがあり、教室は二階から四階という造りになっている。

 一階へ降りる踊り場と、玄関を通り過ぎてしまえば、文夏に出くわすことはないはずだ。

 しかし、急いでいた足は、ものの十秒程度で止まる。

 案の定、文夏が踊り場の掲示板前に立っているのである。

 立ち尽くしたまま、このまま行ってしまおうか、戻って時間を潰そうか迷っている内、気配に気付いた文夏が振り返る。

「っあ、お疲れさまー」

 笑顔で手を振る彼女に、裕介は諦めて階段を降りた。

――ベタの王道だな……。

 裕介は思い切りの悪い自分と、尿意を催した運命を呪った。

「後期までどうするの?」

「ほっといてくれって言ったろ」

「彼女と海にとか?」

 裕介の意に反して、文夏はこの前の一件から更になれなれしい。

「いねえよ」

 裕介はハっとする。

――しまった……。

 彼女のペースに呑まれるどころか、お互いタメ口であることにも気付き、襟を正す。

「若いのにねえ」

「自分だって若いじゃないですか」

「十代と二十代は違うの」

「……そんなもんですかねえ……」

 裕介はこれで切り上げようと歩を進めた。

 その時、下の下駄箱に寄り掛かる石村と村田が、ニヤついてこちらを窺っている姿を見てしまう。

――!!!!……あのおやじ共。

 目が合っても、二人は動じる様子がない。

「……っじゃ、帰りますから」

「またねえ」

 ばつが悪くなった裕介は、逃げるように残りの階段を駆け降り、石村と村田には見向きもせず校舎から出た。

 裕介が去った後、山下が鈴江を伴い「ここにいたんだ」と言いながら現れる。

「さっきの彼と、なーんか良い感じじゃん?」

 山下が、肘で文夏を突きながら冷やかす。

「うちらより年下なんじゃない?」

「うん。現役」

 山下に比べ冷静な鈴江に、文夏は含み笑いをして答えた。

 文夏の様子を鈴江は怪訝な目で見たが、山下は気付かないのか、話題を変える。

「ねえ。さっき智広と話してたんだけど、夏休み海行かない? 文夏車持ってんじゃん」

「ああ。良いねえ。行こう!」

「何か企んでる?」

 含み笑いを続ける文夏に、鈴江は怪訝さを抑えられずに訊いた。

「ううん。別にい」

 鈴江の指摘通り、文夏は企んでいた。



――依存――


 七月二十六日。裕介は精神科待合室のソファに座っていた。初めは小枝子が付き添っていたが、今は一人で通っている。

「中山裕介さん、二番へどうぞ」

 初めて診察を受けた日から担当になっている女医のアナウンスを聞いて、診察室へと向かう。

 カーテンを開け診察室へ入る。笑顔で「こんにちは」と挨拶する医師に、裕介は無言で会釈した。

「どうですか調子は?」

「はっきり言って、何にも変わりません」

 溜息混じりで言った裕介に、医師は「そう」と答え黙った。何か考え込んだ様子だったが、裕介を見る目は優しい。裕介は通院する度、医師の目を見るとどこかホッとする。

「学校の方はどう? お友達は出来た?」

「友達や彼女を作る為に学校通ってる訳じゃないですから」

 すげない返事に、医師は含み笑いをした後、

「でもね、医師の私が言うのもなんだけど、この手の病は薬だけじゃ治せないところがあって、人との触れ合いも重要な点なのよ」

と優しく諭した。

「そうでしょうね」。裕介ははにかんだように苦笑した。

 返事の通り、理屈は理解している。高木に愛想を尽かされる前は、彼と会話をするだけで気持ちはスッとし、軽くなっていた。

 だがあの一件以来、裕介には友達がいない。その状態を持続させる結果、正直、「会話の仕方」自体解らなくなっていた。

「自傷行為も相変わらず?」

 そう言いながら、医師は両腿を叩く仕草をした。

「ここのとこ酷くなってます。歩いた時に痛みを感じるくらいに。……薬も効いてる感じがしません」

 裕介の言葉に、医師は「うーん……」と唸ってパソコンに目を移した。画面には薬の画像と効能が映し出されている。

「安定剤を一つ増やしてみる?」

 自分と目を合わせ早口で言われた提案に、裕介は「お願いします」と即答した。

「自傷行為が治まらない原因は、自分で何だと思う?」

「まあ、多分……っとういか、絶対……」

 裕介は言おうか躊躇したが、医師は「何?」と言いながら身を乗り出す。この反応は何か言わなければ収拾が着かないと思われた。裕介は迷った末、両親や学校には漏れないだろうと思い、口を開いた。

「学校で、毎日のようになれなれしく接して来る人がいるんです」

「へえ。男の人?」

「女の人。僕から見れば……ギャル」

 裕介の気持ちとは裏腹に、医師は「そうなんだあ」と言って声を出して笑った。裕介は溜息をついて医師から目を逸らした。

「笑ってごめんね。でも、その人と仲良くなれたら良いね」

「確率は低いでしょうねえ」

 人懐っこい性格は自分でも解っている。だがわがままなもので、誰でも良い訳ではない。自分が認めた人。気を許せると判断した人のみ。なれなれしくされればされる程、気持ちは冷めてしまう。

「それじゃあ、また二週間後に来て。お大事にね」

「ありがとうございました」

 処方箋を渡された裕介は一礼して席を立った。

 通院し始めて二年。今では本音を言える唯一の場所。診察を受け気持ちは幾らか軽くなる。だが、裕介は引っかかっていた。

 夏休みに入り、文夏には会わずに済むが、生活は引き篭もり同然となった。昼夜逆転した状態も相変わらず。それを酒乱親父に指摘されてはイラつき、自傷行為に及ぶ。

 生活態度を改善しようともせず、薬を一つ増やしてもらう……。

 治す気よりも、薬に依存する気の方が遥かに勝っている。そのことに、裕介もさすがに気付き始めていた。



――画策――


 裕介が病院へ行った日の夜。文夏はマンションで一人、テレビを観ながらブツブツ言っていた。

 休み期間中だけ夜の勤務に戻し、今日は休みだ。

「こっから高速に乗るう?」「ここ混むかなあ?」。カーナビをテレビに繋ぎ、目的地である海水浴場を設定し、ルートを確認する。

 一通り確認した後、文夏は中部地方の某県の町役場を目的地にし、ルートを出してみた。

 画面をスクロールさせて行き、現れた町名。

「十五年……っか」

 そこは、文夏が五歳まで過ごした地元だった。離婚した洋子と上京してから、一度も寄り付かなかった町。

 休みに入る一週間前から、文夏は郷愁の念を強くさせていた。きっかけは、祖父の誕生日を祝う為、母の実家を久しぶりに訪ねた時だった。



 文夏は自分が使っていた部屋に入り、本棚に並んだアルバムを一冊手に取った。中には乳幼児だった頃の自分や、離婚する前の家族写真が貼ってあった。

 思わず見惚れ頬を緩ませていると、保育園時代の友達二人と写った写真が目に留まる。

 頭上の看板を見ると、町が主催する七夕祭りだった。入園した翌年、友達の母親達に連れて行ってもらったのだ。



 あの日、尚吾とは別の病院で看護師をしていた洋子は、仕事で付き添えなかった。

 一抹の寂しさはあったが、綿菓子やリンゴ飴を買って貰い、ハイテンションとなった文夏。

 迷子にならないか心配する母親達をよそに、友達とあちこち走り回った。

 その途中、酔った男性二人が喧嘩を始め、「見ちゃダメ!」と言われながらも、怖いもの見たさで見入ったりもした。



「懐かしい……」

 結局、友達とは三年足らずで別れてしまうが、この写真を見た時から、文夏の頭からは地元の町が離れなくなる。



 居場所を探し、必要とされる自分を求めた十代。その欲求は、仕事に打ち込んでいる内に考えなくなっていた。

 でも、人間は欲望多き生き物。新たな欲求が生み出された。

――自分を再確認したい……。

 時を遡って両親の離婚。ここ二年では中絶、風俗嬢となり、高校再入学。文夏には気の休まる時がなかった。郷愁は、少し心労が溜まったことが原因かもしれない。

 何かをきっかけに郷愁に駆られ、久しぶりに地元へ帰る。こんなストーリーのドラマや映画を何度か観たことがある。

 そして、主人公は新たな発見をする。文夏もそんな旅がしたくなった。

 でも、そういった旅には何か演出が加わる。そう考えた時、真っ先に脳裏に浮かんだのが、裕介だった。

 大概の男性は文夏に気を許すが、彼は違う。裕介に心を開かせるには、どうしたら良いか?

 画面を見詰め、文夏は不気味な笑みを浮かべた。



――羨望――


 八月に入ってから、裕介はあることがきっかけで、死に行く人間、逝った人間が羨ましくて堪らなくなっていた。

 八月初旬。群馬県前橋市内にある大学病院。裕介は小枝子に連れられ病棟の廊下を歩いていた。

 群馬は小枝子の地元であり、この病院には小枝子の母、澄子(すみこ)が入院していた。

 澄子は五年前に腎臓ガンを患い、切除手術を受けたが、年が明けた頃から体調不良を訴え、二月初旬から入院していた。



「お婆ちゃん、……もう余命一ヶ月なんだって……」

 夏休みに入って直ぐ、小枝子にそう告げられた裕介は、「ふーん」と聞き流した。入院していることは前に聞かされたが、自分のこと以外で頭が回らなくなっていた。

 秋久は受験を控えた夏期講習などの為に、中々時間が取れなかった。でも、小枝子はどうしても、余命幾ばくもない母に孫の顔を見せてやりたかった。そこで白羽の矢が立ったのが、裕介だった。

 小枝子の気持ちは、裕介も鈍い頭を回転させれば理解は出来た。しかし、「もう駄目だ」と言われている人を見舞うのは辛い。出来れば精神的動揺を加えたくはなかった。だが、「一緒に来て!」と母親の懇願は執拗だった。   

 遂に根負けした裕介は、小枝子の仕事が休みの日に、渋々前橋まで出向いたのだった。



 エレベーターを降りて一分数十秒。親子は無言で病室を目指した。辿り着いた個室の三一二号室。壁の左上には、「大村澄子様」とネームプレートが貼ってある。

 引き戸の前に立ち、裕介は深呼吸をした。息子の様子を気遣い、小枝子は「良い?」と確認し、裕介は無言で頷いた。

 小枝子が戸を開けると、鼻に酸素吸入器を取り付けた澄子がベッドに横たわっていた。その姿を見るなり、せっかく深呼吸して落ち着いた裕介の心は、直ぐに動揺に変わった。

――これが……あの婆ちゃんか?

 俄かには信じられなかった。

 元々細身だった澄子は、二ヶ月程前から絶食状態となり、表現は悪いが正に「骨と皮」

だった。豊かだった表情も消え失せ、虚ろに天井を見上げているだけである。身体も殆ど動かず、看護師にされるがままの体勢で寝かされていた。

「お母さん。また来たわよ。気分はどう?」

 穏やかな笑みを浮かべ、小枝子は澄子に語りかけた。すると澄子は、ゆっくりと声のする方へ顔を向け、ゆっくりと二回頷いた。

「……だいぶ、良いわよ」

 澄子の声を聞いて、裕介は更に動揺した。甲高かった声は今や昔。殆ど聞き取れない、か細い声だった。

「そう。良かった! 今日はね、裕介が来てくれたのよ!」

 そう言って、小枝子はベッドから離れて傍観している裕介に、目で「来なさい」と合図した。

 裕介は、小枝子が敢えて笑顔で接していることが分かった。自分もそうしなければとは思ったが、驚きと戸惑いで中々足が動かない。

 だが、

「ほら裕介よ。解る?」

小枝子が指し示した為、澄子の顔は裕介へ向けられた。こうなると覚悟を決める暇はない。裕介は笑顔になってベッドに近付いた。

「婆ちゃん久しぶり!」

「……裕、介……」

 よく見ると、入院以来初めて孫の顔を見た澄子の口元が、笑っているようにも見えた。

「……元気だった?……」

「うん。元気だよ!」

 裕介は笑顔で答えた。

「……病気は……大丈夫?……」

「……ああ。安定してるよ」

 澄子は裕介がうつ病を患っていることを知っている。会う度に「調子はどうなの?」などと気遣ってくれていた。

――自分がこんな状態なのに……。

 今や寝たきりとなった祖母から心配され、裕介は胸が締め付けられた。まさか「ここんとこ調子悪くて……」とは、口が裂けても言えない判断くらいはつく。

「……そう。……諦めたら駄目よ……」

 裕介は何も言えず、笑顔のまま頷くことしか出来なかった。

 一時間くらい見舞った後、

「また来るから。ゆっくり静養して!」

裕介は気力で笑顔を作り、声を張った。

「……またいらっしゃい……」

「はい。お大事にね」

 病室を出てエレベーターに向かう途中、小枝子は思い出したように話し始めた。

「今日は言わなかったけど、お婆ちゃん、時間のことが気になるみたいでね」

「時間?」

「うん。「今何時?」とか、「食事の用意は大丈夫?」とかね。……早く起きなきゃ、家に帰らなきゃっていう思いが強いのかもね」

「……退院を諦めてないんだ」

 余命一ヶ月の人間が退院……。まずあり得ないことだ。

「そうよ。だから裕介にも、「諦めたら駄目よ」って言ったんじゃない?」

 帰りの電車の中、小枝子とは離れて座った裕介は、ボーっと車窓から入って来る景色を眺めていた。

 その内、さっき胸を締め付けられた思いを台無しにする、非人間的な考えが芽を出した。

――婆ちゃんは良いなあ。

 退院を諦めていないとはいえ、澄子のような死に行く人間は、もう病気と闘うことも、日常生活を送ることも出来はしない。現状から逃げ出したいが故、自分もそうなりたいと強く思った。

 邪な考えであることは百も承知している。が、そんな人達に憧れを持った。



 仕事に友達付き合いと、毎日が活発的な女性。

 片や、現状にもがけばもがく程、悪循環に陥って行き、遂には死に行く人を羨ましく思ってしまう少年。

 こうして二人の夏休みは終わった。



 九月に入り後期が始まった。

 文夏は相変わらず裕介を見付けては、挨拶や一言二言声をかけ続けた。

 裕介は無視を決め込もうとしたが、根が懐っこいが故、押し通すことが出来ない。気が付けば、ぶっきらぼうながら少しずつ会話をするようになっていた。

 それこそが文夏の思う壺であり、旅を実行に移すカウントダウンに入った。



「東京生まれじゃなかったんだあ」

 九月も残り一週間となった夜。

 美貴はソファに足を伸ばし、一日の終わりに必ず飲むビール片手に、目を丸くした。

「うん。久しぶりに里帰りしようと思ってね」

 出会って五年。文夏は一度も地元の町を話題にしたことはなかった。

「ふーん。でも夏休みにすれば良かったのに」

「まあ、……紅葉も綺麗だし」

 もっともな美貴の指摘に、文夏は歯切れの悪い返事をした。本当は、裕介に対する布石が必要だったからである。

「でも何で急に?」

 美貴の質問に、文夏は少し考えた。

「……自分を見詰め直したいの。この二年くらいの間に色々あったし」

「スペクタクルだねえ」

 率直な言葉に、文夏は「まあね」と言いながら笑みを浮かべた。

「私にとっても……」

 文夏が思わず呟いた一言を、美貴は聞き逃さなかった。

「「私にとっても」って……、何か企んでるね?」

 美貴の指摘に我に返った文夏は、「しまった!」と言いながら苦笑した。鈴江が指摘した時と同様、彼女は自分の気持ちを素直に言動に表わしてしまうところがある。

 仕方なく、文夏はもう一つの「計画」を告白した。

「旅のお供っていうか、ちょっと付き合ってもらおうかなって人がいるの」

 それを聞いて、美貴は嫌な予感がした。

「まさかあたし!?」

「ううん。学校の人」

「友達なの?」

「うーん。なりつつあるっていうのか、強引に付き添ってもらおうと」

 自分がターゲットではないと解り、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。美貴は再び動

揺させられた。

「……それって誘拐じゃん!?」

「誘拐っていうか、拉致?」

 物騒なことをあっけらかんと言う文夏に、

「どっちにしたって犯罪でしょ!?」

美貴はツッコミながら呆れるばかりだった。

「相手は幾つなの?」

「十七って言ってた」

「ちょっとヤバくない? 警察沙汰になったらどうすんの!?」

 美貴は動揺と呆れを一遍に感じ、訳が解らなくなる。

「その辺は大丈夫だと思う。彼なら」

「……?」

 その自信はどこから来るのか? ニヤリとする文夏に、美貴は気味が悪くなり、それ以上は訊けなかった。



――拉致旅行――

 

 後期が始まって一ヶ月が経った、十月初めの金曜日。文夏は車で都内某駅に来ていた。

 ロータリーに入り、駅横にあるスーパーの前に停車し、車内の時計に目をやる。午後四時十五分。

「もうそろそろかな?」

 いつもは臆することがない文夏も、今日は緊張していた。

 ハザードランプを点滅させ降車した文夏は、入り口に近付いた。駅へ入って行く若い男をじっくりと見定める。

 経つこと約十分。ようやく「獲物」が現れた。文夏は微笑を浮かべ、小走りで彼に近付く。

「ユウくーん!」

 裕介はイヤホンをしていたが、音楽に混じり、嫌な声が確かに聞こえた。途端に背筋が寒くなる思いがして振り返る。

 あからさまに驚愕の表情を浮かべる裕介に、文夏はニコっとして、「っよ!」と挨拶した。

「……何で、ここに?」

 ゆっくりとイヤホンを外した裕介は、絞り出すような声で言った。

 自分がこの駅を利用していることは、学校では大神と武田くらいしか知らないはず。なのに、なぜ彼女はここにいる?

「うん。ちょっと近くまで来たから。あっちに車あるんだけど、乗ってかない?」

 文夏は左手の親指で車を指した。

「……いいですよ。電車で行くから」

「まあそう言わずに」

 文夏は努めていつも通り振る舞っていたが、ニコニコして腕を掴もうとする彼女に、裕介は恐怖心を持った。

「いや、……本当にいいですから! そんなことして戴かなくても」

 振り切ろうと後退りする中、また丁寧語が出てしまう。が、癖を気にしている場合ではない。

「今日はぜひ乗って戴きたいんです!」

 ここで逃げられては元の木阿弥。文夏も必死だった。素早く彼の腕を掴むと、車の元に急いだ。

「おいちょっと、離してくれよ!」

 抵抗する裕介の声に、行き交う人々は怪訝な目を向けるが、文夏は気に留めない。

 裕介は何とか振り払おうとするが、文夏の手はびくともせず、引きずられて行く。

 スレンダーな身体のどこにそんな力があるのか? とうとう強引に助手席へ押し込まれてしまった。

 この状態に、裕介は深い溜息をつき、完全に諦めモードとなる。

 これ以上抵抗しないと判断した文夏は、急いで運転席へ回り、ドアを閉めるとロックをかけた。

 四ドアの軽自動車内に、「バタン」とロック音が響く。「拉致」完了の合図であった。

――学校に着くまでの辛抱だ……。

 裕介は自分に言い聞かせ、釈然としない気持ちを静めた。だが……。

 授業開始時刻は午後五時三十分。しかし十五分前になっても到着しない。それどころか、学校が所在する市を突っ切ってしまう。

「学校がどこに在るか分かってますよね?」

 怪しんだ裕介は文夏を問い詰める。

「……」

 彼女は笑顔を消し、無言で運転に専念している。その様子に胸騒ぎを覚えた裕介の額と両手からは、脂汗が滲み出す。

 何とかここから逃げようと思った裕介は、信号待ちを見計らい、

「降りますから」

ドアを開けようとするが開かない。慌ててロックを解除しようとしたその時、文夏がアクセルを踏んだ。

 エンジン音に驚いて振り返った裕介に、文夏はゆっくりと目を合わせた。

「開けたら前に突っ込むよ」

 ボソッと脅しをかけられ、裕介は不安と恐怖で血の気が引いて行くのを感じた。

 やがて車は世田谷区内に入り、目の前には東名高速道路の東京インターチェンジが現れた。

 嫌な予感がした裕介の耳に、カーナビから「この先、斜め右方向です」とアナウンスが入り、裕介はパニックとなる。

「何で高速に乗るんですか!? どこに向かっていらっしゃるんですか!!?」

 声が大きくなる裕介に対し、

「ちょっと付き合ってもらおうと思ってね」

文夏は低い声で告げた。

「そんなこと聞いてねえぞ!!」

「静かにしてよ! 今から高速走るんだから!!」

 十九歳で免許を取得してから、初めて高速を使う。運転に集中したかった文夏は、逆ギレを装って黙らせようとした。

 狙い通り、裕介は突然の大声に一旦押し黙る。しかし、強引に行き先も告げられず連れ回されて、じっとしているのは無理である。 不安と恐怖に悔しさがプラスされ、スライドのように出ては消え、消えては出て来る。

 苦痛に顔を歪ませる裕介の目が、ETCレーンを捉えた。堪り兼ねた裕介は、自傷行為と地団太を踏み始める。

 それがうつ症状であることなど知る由もない文夏は、

「事故に遭いたくなかったら静かにして!」

と吐き捨てた。

 山下らと海へ行くにあたり、一応取り付けていたETCがやっと活用され、車はゲートを通過した。

 最早脱出は不可能。裕介は何とか落ち着こうと、深呼吸を繰り返した。

――ごめんね。もう少し経ったら説明するから……。

 裕介の様子に、さすがの文夏も不憫に思い始める。

 高速を走り始めて約二時間。裕介の目が出口を示す標識を捉える。

「いい加減止めろよ!!」

 意を決して声を荒げた。ここに来るまで数箇所の出口があったが、決心がつかないまま通り過ぎてしまった。

「今どこ走ってると思ってるの?」

 文夏の冷淡な口調に、裕介は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 それを横目で見た文夏は、

――そろそろ限界よねー。

一旦彼とゆっくり話そうと決め、高速を降りることにした。

 高速を降り少し走った後、文夏は路肩に停車させた。

 暗い車内には、エンジン音とハザードの点滅音が響き、しばし沈黙が流れる。

「どこに連れてく気ですか?」

 先に口を開いた裕介は、忌々しさを抑えつつ、努めて冷静に訊いた。

 問い詰められた文夏は、いつもの笑顔を見せた。その態度は裕介にとって、腹立たしいことこの上ないが我慢した。

「それは、着いてからのお楽しみってことで」

――!!!!?……こんな時に何惚けたこと言ってんだよ!?

 彼女とまともに話すこと自体が無理なのか? 裕介の心は、呆れと諦め半分半分となり、「ハー」と深い溜息をついた。

「……お楽しみに出来ないから訊いてるんです」

「「拉致」したから、あなたを。だから私の行きたいとこに連れてく」

「……?」

 不敵な笑みを浮かべて発せられた「拉致」という言葉に、裕介はうろたえ、頭が真っ白になった。

――やっぱこの女おかしい……。

「……自分が何を言ってるのか解ってます?」

「解ってるよ。ユウ君こそ自分の置かれてる立場解った?」

 勝ち誇った顔をする文夏に、裕介は「……あんたねえ……」何か言い返したくても、二の句が継げなかった。

 彼女を言い負かす手はないのか、思案に暮れる裕介は、「犯罪だ」と呟いた自分の言葉に、「これだ!」とひらめく。

「あんた犯罪だよこれ?……通報致しましょうか!?」

 負けじと勝ち誇った顔で、ポケットから携帯を取り出した。

 しかし、文夏の表情は変わらず、裕介の癖を嗤う余裕すらあった。

「そんなこと心配してこんなこと出来ると思う? 帰りたいならそれでも宜しいですよ。引き返すだけだし」

 癖を揶揄した挑戦的な口調に、裕介は呆気に取られた。「あんたには通報する勇気も、引き返させる度胸もないでしょ?」。そう言われた気がして、屈辱だった。

 だが、出て来た言葉は、

「絵に描いたような逆ギレ……」

自分でも情けない、惚けたものだった。

「ここから引き返したら、金をドブに捨てるようなもんでしょ?」

 裕介は呟いた。文夏の財布を心配する義理はないが、この数時間、色んな感情が十重二十重に続き、頭は逆上せ上がっていた。

「っじゃ、再スタートさせて戴きまーす」

 文夏は声を弾ませ、再び高速の入り口に向かって発進させた。

「勘違いしないでよ。オレあんたがやったこと許した訳じゃないから」

文夏の態度に裕介は釘を刺した。

「解ってる。ごめんなさい」

 文夏は神妙な面持ちで、初めて謝罪した。



 その頃、緑ヶ丘高校の職員室では話し合いが成されていた。

「どこに向かったか、見当はつきませんか?」

 大神は呆然とする小枝子に尋ねた。

 この日、連絡もなく姿を見せない裕介を心配し、大神は中山宅に一報を入れた。

 それを受け、譲一と小枝子は駆け付けた。

「解りません。荷物も学校の物しか持ち出していないようですし」

「少なくとも、家を出た時には学校へ行くつもりだった……」

 武田が途方に暮れて呟いた。大神から話を聞き、心配で授業を抜け出していた。

 譲一は皆が立っている中、一人ソファに座り傍観している。

「所持金は?」

 武田と同様、抜け出して来た武川が訊いた。

「多くても、五千円くらいだと思います」

 大神は壁掛け時計に目をやった。全ての授業が終わる三十分前の、午後八時三十分を指している。

「家を出て、もう直ぐ五時間は経ちますね?」

 大神の言葉に、小枝子も時計の方を振り返り、「ええ」と言いいながら頷いた。

 大神は少し考えた後、小枝子を気の毒に思いつつ、

「……申し上げ難いですが、警察に相談された方が良いかと」

最終判断を提案した。

 小枝子の脳裏を最悪のケースが過り、顔を青ざめさせた。

 その時、譲一が口を開く。

「その必要はありません。息子にはスマートフォンを渡しています。何かあったら連絡して来るでしょう」

 四人は譲一の顔に釘付けになった。

 譲一の言葉に武田はハッとし、

「電話を持ってるんなら、かけてはみたんですか?」

小枝子に尋ねた。

「ええ。ここに来るまでに何度も。メッセージも残しましたけど……」

 伏目がちで答えた小枝子は、ソファーに置いていたバッグからスマートフォンを取り出した。履歴を確認するが、誰からも着信はない。小枝子は三人の方を振り返り、無言で首を横に振った。

「私達はこれまで、自分のことは自分で責任を取れと教育して来ました」

 譲一は凛とした表情を崩さない。

 息子の行方が解らない時に、なぜそんなに冷静でいられるのか? 大神には不思議だっ

た。

「息子さんを信じたいお気持ちは解ります。ですが、中山君はまだ未成年です」

 大神の言葉に、譲一は溜息を吐きながら腕時計を見た。

「息子は学校が終わっても、真っ直ぐ帰らずにどこかに立ち寄ることが多いようです」

「だから問題なんじゃありませんか?」

 武川も譲一の態度が信じられなかった。

「私達だって手を焼いていますよ」

 譲一は忌々しそうな表情を浮かべた。

「……学校をサボッて、どこかで遊んでいるんでしょう」

 四人から視線を逸らし、譲一は下唇を噛んだ。

 職員室が沈黙に包まれる。



「夕食にしよ」

 中部地方の県に入り、文夏はファミレスの駐車場に停車させた。

 裕介は空腹を感じてはいたが、クタクタで逆に食欲がなかった。

「っあ、スマートフォン持ってるんなら、お父さんかお母さんに連絡した方が良いね」

「……ああ、そうだ……」

 思い出すように言った文夏の言葉に、裕介は頭を抱えた。

 無断欠席。当然大神は家に電話するだろう。そして今頃は……。想像しただけで目眩がした。

「自分は良いんですか? 学校に連絡しなくて」

「私ならご心配なく。前もって知らせてあるから」

「……」

 明るく言い放った文夏に、裕介は呆気に取られた。全身が硬直したように動けない裕介を尻目に、

「先入ってるから」

文夏はさっさと行ってしまう。

「……羨ましいよ。その性格」

 彼女の後ろ姿に、裕介はボソッと呟いた。呆れが大きいと、人間はイラつきもしない。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、裕介はポカーンとした。小枝子からの着信十六件。

「鬼電じゃん。しかも母親から……」

 呆気に取られ、ボソッと呟くこと再び。裕介は吹き出した。ここまで来ると人間は笑うしかない。

 今頃は……と想像して、目眩がしたことなど吹っ飛んだ裕介は、迷わず小枝子に電話をかけた。



 職員室は未だ沈黙に包まれていた。

 その時、握り締めていた小枝子のスマートフォンが振動し始めた。

 慌てて開いた小枝子は、

「裕介からです!」

叫びのような声を上げた。

 それを見ていた譲一は、顔から火が出る思いだった。取り乱した妻には毎回頭を抱えさせられる。

「もしもし! 今どこにいるの!?」



 突然響く小枝子の怒号に裕介は顔をしかめ、スマートフォンを耳から離した。

「あのう……ちょっとそれは言えないんだけどさあ」

『言えないって、どうして!!?』

 歯切れの悪い返事に、更に激しくなった怒号が耳を劈く。

 裕介は電話の向こうが静かになったことを確認し、単刀直入に言おうと決めた。

「上手く言えないんだけど、……旅がしたいんだよ。今日から三日間」

 金曜に出発したということは、土日で収めるのだろう。容易に予想が出来た。

『……旅って、あんた』



 目が点になった小枝子から、譲一は苦虫を噛み潰したような顔で目を背けた。

 何も言わなくなった小枝子を不審に思った大神は、「ちょっと」と言いながらスマートフォンを受け取った。

「もしもし中山君? 大神です」

『先生……』



――やっぱ一緒にいたか……。

 裕介は苦笑した。

 だが、取り乱した小枝子とはまともな会話が出来ない。譲一とは「酒乱」のインパクトが強過ぎて、話す気にもならない。そう思うと却ってありがたかった。

『みんな心配してたんだよ』

「……はい。済みません」

 裕介は深々と頭を下げた。

『旅って聞こえたけど、もう直ぐ修学旅行だよ。何も今そんなことしなくても』

「ええ。そうなんですけど、もう来ちゃったんで」

『一人なの?』

「いえ、友達とです。……僕は大丈夫ですから」

『うーん。その様子だね。まあ、安心した』

「両親には、日曜には必ず帰ると伝えて下さい」

『そう。……解った。でも帰る時はちゃんと連絡するんだよ』

「はい。それじゃ、失礼します」

 裕介は電話を切り、「ふー」とゆっくり息を吐いた。



 大神は小枝子にスマートフォンを渡しながら、

「友達と一緒なんだそうです。日曜日には帰ると」

小枝子と譲一に目を合わせた。

 裕介にそんな友達がいるのか? 二人は訝った。

「気分を、晴らしたいんでしょうね」

 武田はしみじみと言った。

「現状を、何とか打開しようとした行動……」

 考えをまとめるように呟く武川に、大神と武田は無言で頷いた。



 裕介もファミレスに入店し、二人はやっと食事の時間を迎えた。裕介は目玉焼きが乗ったハンバーグ。文夏はたらこパスタを注文した。

 裕介は何か甘い物をと、ドリンクバーからコーラを持って来て一息吐く。

「日曜には帰るって伝えました」

「勝手に予定決めないでよ」

 文夏はアイスコーヒーのストローを口を尖らせて銜え、ジロッと裕介を睨んだ。

「予想外れてますか?」

 裕介も文夏を睨み返すと、文夏は「ご名答」と言いながら吹き出した。

 やがてメニューが運ばれ、裕介は口をモグモグさせながら、引っかかっている内の一つを質問した。

「ところで、目的地はどこなんです?」

「私の地元」

 あっさりとした解答に、裕介は噎せかけた。

「帰郷ってこと?」

 上擦った声で確認され、文夏は頷いた。

「……ハー……夫婦かカップルなら解るけど、独身の人は普通一人で帰るでしょう?」

 裕介は軽蔑した表情を浮かべた。東京生まれの裕介に里帰りはピンと来ないが、誰かを伴ってというのも聞いたことがない。

――そう来たか。

 文夏は間違っていない彼の指摘に少し考え、

「実は……ちょっと不安だったの。身内も誰もいないし」

いたずらっぽく微笑んだ。

「ふーん」

 裕介は相槌を打ちつつ、

――嘘だな。

別に理由があるなと曲解した。

 食事を終え、車は更に一時間走った後、ある場所に停車した。

「ユウ君、ユウ君!」

 文夏に名前を呼ばれながら身体を揺さぶられ、裕介は目を覚ました。

 腹も膨れ、小枝子にも連絡したことで安心し、いつの間にか寝ていた。

 辺りを見ると、蛍光灯が所々に取り付けられた暗い駐車場だった。

 時計を見ると午後十時を過ぎていた。車を降りエレベーターに乗る。

 裕介はここが今日の宿だろうなと推測した。だが、エレベーターが開き内装を見た瞬間、眉間に皺を寄せる。

 薄暗いフロントには誰もいない。ここがどこなのか何となく想像がついた裕介は、「ちょっと」と言いながら文夏の腕を掴み、

「ここラブホでしょ?」

念の為に確認した。

「そうよ」

 文夏はあっさりと答え、受付を始めた。

 初めてのラブホテルに、裕介はきょろきょろと周りを見回した。

 うわつく裕介をよそに、

「どの部屋が良い?」

文夏は訊いた。

「どこでも良いけど……普通のホテルとか、予約しなかったんですか?」

「忘れたの!」

「……」

 笑顔で言い放つ文夏に、裕介は口を開けたまま静止状態となった。

 やがて受付を終えた文夏は、立ち尽くす裕介に「付いて来て」と目で合図した。

――計画的なんだかどうだか……。

 文夏の後ろを歩きながら、裕介は溜息をついた。

 部屋に入るなり、裕介はベッドにダイブした。

 ここがラブホテルであろうが、もうどうでも良かった。部屋を見物する好奇心すらない。

「疲れたね」

 文夏もベッドに座りながら呟いた。初めて高速を長距離走り、彼女もクタクタだった。

「誰のおかげですか?」

 横になったまま、裕介は意地悪っぽく呟いた。

「ごめんなさい。全部私が悪い!」

 ペコリと頭を下げながらも、開き直ったような口調に、裕介は「フン」と鼻で笑った。

「しっかし、遠ーくに連れて来ましたねえ」

 裕介はしみじみと言った。長距離の移動は本当に久しぶりだった。特に病気となってからは、都内から出ることすらなかった。

「っあ、一応交換しとこうか?」

 文夏は急に思い出し、スマートフォンをかざした。

 裕介は起き上がり、二人は連絡先を交換し始める。裕介にとって、他人と連絡先を交換し合うのは、これが初めてだった。

 両親の連絡先しか入っていないスマートフォンは、裕介が高校入学と同時に持たされた。小枝子の提案だったが、譲一は「必要ない」と反対した。しかし、小枝子は「これ以上塞ぎ込んだらどうするの?」と譲一を説き伏せた。少しでも交友関係を築いてほしかったのだ。

 だが、たまに小枝子から「早く帰って来なさい」とLINEか電話があるだけで、後はウォークマンとして使うくらいである。

 スマートフォンの料金だけは、譲一の口座から引き落とされている。それも憤慨の一つになっていた。

 連絡先を交換し終わり、裕介は徐に口を開いた。

「質問があります」

「何でしょうか?」

 裕介の態度に、文夏はクスッと笑った。

「オレの最寄駅どこで知ったんですか?」

 引っかかっていたこと、その二。疑問を解決させたかった。

「ああ。簡単よ。ユウ君の後付けてっただけ」

「はい?」

 あっけらかんとした答えに、裕介の声は裏返った。



 夏休みに入る三日前。「裕介拉致計画」を思いついた文夏は、下校する彼を付けて行った。

 その日は美貴のバイトが休みで、「帰りに友達の家に寄る」と嘘をつき送ってもらった。

 裕介は調子が悪い日が続いていた為、真っ直ぐ帰宅した。駅から自宅までは歩いて十五分程度である。

 裕介の家を確認した文夏は、美貴に迎えを頼む電話をかけ、駅へ引き返した。



「それってストーカーでしょ?」

 薄気味悪いが、裕介は笑うしかなかった。

文夏は無言で微笑み、

「先にシャワー浴びて良い?」

両膝をポンと叩いて立ち上がった。

 裕介は「どうぞ」と言いながら、途中コンビニで買った歯ブラシを袋から取り出した。洗面所へ向かおうと立ち上がった時、浴室が擦り硝子になっていることに気付く。

 ここがラブホテルだったことを再認識する裕介に、文夏はニヤリとしながら、

「見てても良いけど」

とからかう。

――!!!!?

「……しませんよ。そんなこと」

 裕介はクールを装いながらも、鼓動が早まるのを感じた。

 洗面所へ回ると、浴室の出入り口も擦り硝子になっていた。

 文夏が浴室に入ると裕介は歯を磨き始めたが、気になって横目でチラチラ見てしまう。 擦り硝子越しとはいえ、女性の裸体を見るのは当然初めてである。

 興奮がエスカレートする中、何度も歯ブラシを歯にぶつけながら磨き終え、裕介はリュックから頓服薬を取り出した。

――持っといて良かったー。

 一日三回までと決められたその薬だけは、いつでも飲めるよう携行していた。最初は二十五ミリグラムだった成分は、今や百ミリグラムになっている。

 月二回の通院。薬の成分が増えるにつれ上がって行く医療費を見て、小枝子が思わず口にしてしまった言葉が頭を過る。



「このまま行けば、一年で十万越え」

 計算機で弾き出された数字を見て、小枝子はリビングのソファに身を沈めて呟いた。

 裕介は返す言葉もなく、立ち尽くす他なかった。

「秋久の進学もあるし、……正直苦しくなるわあ」

 絶対に言うまいと決めていたこと。だが現実を突き付けられ、小枝子の口は止まらなかった。

「裕介、言いたくはないんけど……病気を治す気はあるの?」

 言ってはいけない。息子の心に動揺を与えては駄目だ。分かっていたはずだが、淳史同様、小枝子も心配から来る歯痒さにさいなまれていた。

「……」

 いたたまれなくなった裕介は、足早にリビングから出て行った。

 「治す気はある?」。いつかは言われるだろうと、少し覚悟はしていた。だが、裕介は「治す気はある!」と反論出来なかった。薬に依存し、快方に向かっている自覚が微塵もないからだった。



『シャーーー』

 背後から流れるシャワーの音を聞きながら、裕介は薬を見詰めていた。

「……飲まなきゃやってられないんだよ」

 そう呟いて一錠飲み、ベッドに横たわった。

 硝子越しの「物体」を眺めながら深呼吸をする。

――疲れたあ……。

 今日一日、これに勝る言葉はない。

 程なくして、裕介は深い眠りに就いた。



 翌日、文夏のスマートフォンのアラームで二人は目覚めた。

「おはよう」

 バスローブ姿の文夏に挨拶され、裕介は息を呑んだ。

「……おはようございます?」

 絞り出すような声の挨拶が終わらぬ内、文夏は微笑みながら裕介に顔を近付けた。

「何ですか!?」

 たじろぐ裕介に、

「きのう見てたでしょう?」

文夏は微笑みをニンマリに変えて訊いた。

「きのう?……!」

 直ぐに理解出来た裕介だが、

「……何のことです?」

咄嗟に惚けた。

「顔が浴室の方に向いてたけど?」

 文夏の追及は止まらない。眠気眼も重なり裕介は頭が真っ白になった。

 目を泳がせる裕介に、文夏は勝ち誇った笑みを浮かべ彼から離れた。

「私シャワー浴びるけど、先浴びる?」

「……いや、オレはいいです」

 裕介は放心状態で呟いた。

「恥ずかしいんだねえ」

 文夏は裕介の頭をポンポン叩いた。

「ドS女……」

 ベッドから降りる文夏の後ろ姿を見詰め、裕介はボソッと呟いた。

「そうかもね。アハハハハ! ……」

 静かな部屋に、文夏の高笑いが響いた。

 ホテルを出た二人は途中コンビニに寄り、おにぎりやサンドイッチを各々選んで、車内で朝食をとる。

「これからどこ行くんですか?」

 裕介がおにぎりを頬張りながら訊く。

「まあ「人質」は黙ってなさい」

 明るく釘を刺す文夏に、裕介はムカッとした。自分が「拉致」されたことをすっかり忘れていたが、今の一言できのうの怒りが蒸し返された。

 膨れっ面の裕介を乗せ、車は住宅街に入って行く。

 あれから二人には会話が一切ない。

 裕介はリュックからタバコを取り出し、銜えて火を点けようとした。

「タバコ吸わないで。これ新車だから」

 文夏は無表情で注意したが、新車は嘘である。文夏も美貴も二十歳からタバコを吸っているが、車内に臭いをつけるのは嫌だった。

 裕介は歯を食いしばり拳を握り締めた。アドレナリン全開で、思わず両腿を殴りつけようとしたが、グッと堪えた。

 やがて坂を登り始めると数棟並んだ団地が現れ、その一角にある二階建てアパートの前で停車した。

「ここだあ」。アパートを見詰め、文夏は達成感に満ちていた。

 場所と文夏の雰囲気から、裕介は大体どこなのか推測が出来た。

「オレ乗ってますから」

 裕介には縁もゆかりもない場所。付いて行っても面白い訳がない。

「何言ってんの? 付いて来なさい」

 子供を窘めるように言う文夏に、

「……ハー……何でだよ」

裕介は不服に思いながら渋々降車した。

 外壁に「オオタコーポ」と看板が貼り付けられたアパートの前に、二人は立った。

「五歳までここに住んでたの」

 二階を見上げ文夏は呟いた。

「まあ、想像はつきましたけどね。でも五歳までしか住んでなかったのに、よく住所を覚えてましたね?」

「当時の年賀状見付けたの」

 夏休み期間中、情報収集の為、再度洋子の実家へ赴いた文夏は、押入れにしまい込まれた洋子宛の年賀状を見付け出したのだ。

 裕介は呟くように「なるほど」と相槌を打った。

 文夏の記憶では、当時はまだ真っ白だった外壁も、十五年の月日を経てすっかりくすんでいる。

 裕介が辺りに目をやっている隙に、文夏は引き込まれるように階段を上り出した。

「ちょっと渋谷さん?」

 裕介は慌てて後を追った。

 文夏は一心不乱に早足で歩いて行き、角部屋の二〇六号室の前に立った。

 表札には「近藤」と書かれている。

「不審者だと思われますよ」

 周りを警戒する裕介をよそに、

「ここに入ってたの」

文夏は感慨無量だった。

 目を瞑り、ゆっくりと幼き頃の記憶を蘇らせる。



 共働きの家庭であった為、文夏は二歳で保育園へ入園し、四歳で鍵っ子となった。

 たまに七夕祭りに一緒に行った二人を家に呼んでは、テレビゲームや綾取りなどをして夕方まで遊んだ。「帰る」と言う友達を「お母さんが送るから」と引き止め、洋子は帰るなり慌てて車で送り届けたこともあった。当然、文夏は叱られた。

 雪が降った日には、父の尚吾と雪だるまを作り、玄関脇に飾ったりもした。



 思い出に陶酔している文夏の後ろで、裕介は退屈極まりなかった。

――人の思い出に付き合うこと程、つまらぬことはナッシング……。

 その時、目の前のドアの向こうで音がし、裕介は反射的に踵を返した。

 ドアが開き、赤ん坊を抱いた「近藤さん」と思われる女性が出て来た。

「何か御用ですか?」

 「近藤さん」は文夏に警戒する目を向ける。

 文夏は一瞬慌てたが、

「っあ、済みません。間違えました」

破顔して詫びると、裕介に小走りで近付き腕を掴んだ。

「違ったみたい。どこだっけ?」

 裕介は渋い顔をしたが、仕方なく、

「ここでもないみたいですねえ」

文夏に乗って部屋を探す振りをした。

 その間に、「近藤さん」は二人を警戒しながら通り過ぎて行った。

 「近藤さん」の姿が見えなくなったことを確認し、裕介は深い溜息を吐いた。

「巻き込まないで下さいよ」

 うんざりして言う裕介に文夏は笑みを浮かべ、ジェスチャーで「ごめん」と謝った。

「もう行ってますから」

 これ以上は付き合いきれない。裕介は階段を降りて行った。

 文夏が名残惜しそうに二〇六号室を振り返る。

 すると、近くのスピーカーから聞き覚えのある音楽が流れ始めた。腕時計に目をやると正午を指している。

 その曲は町のテーマソングで、保育園の「お遊戯の時間」に歌った記憶がある。当時も正午になると流れていた。

♪ ――ふるさとの川には 温かい色がある そよ風の微笑み いつでも優しくて ♪

 文夏は懐かしさに頬を緩ませた。

 文夏が下に降りて行くと、裕介は車に寄り掛かりタバコを吸っていた。文夏は車内のバッグから携帯灰皿を出し、「持ってないんでしょ?」と裕介に差し出した。

 文夏も車に寄り掛かり、先の方で一輪車やボールで遊んでいる子供をぼんやり眺めた。視線を手前に移すと、アパートの右隣の家から初老の女性が出て来た。見た瞬間、文夏の顔が綻んだ。

「おばちゃーん!」

 声をかけ近付いて来る文夏に、女性は「誰?」という表情をした。

「二〇六号室に入ってた「原田」です」

 傍観していた裕介は、文夏が発した「原田」という苗字に、「ん?」と思った。

「……ああ、文ちゃん!? 久しぶりい。どうしたのう?」

 思い出した女性は、破顔しながら彼女に近付き手を握った。

 女性は大家の太田夫人だった。

 文夏が保育園に入園するまで、洋子は太田夫人に文夏を預けて出勤したり、洋子の帰りが遅い時は太田夫人が保育園まで迎えに行くなど、家族ぐるみの付き合いだった。

 子供がいない太田夫妻は、文夏を自分達の子のように可愛がってくれた。

「ちょっと懐かしくなって。きのう帰って来たんです」

「そう。大きくなって」

「今年二十歳になったんです」

 懐かしみながら太田夫人は「うん。うん」と頷き、裕介へ目をやった。

「彼氏?」

「ええ、そうです」

――おい!……。

 裕介は心の中でツッコミを入れたが、一応、

「っあ、どうも」

と挨拶した。

「ごめんね。これから出かけるから」

 太田夫人は名残惜しそうな表情をした。

「足止めしちゃってごめんなさい」

「またいつでも帰っておいで。おじちゃんと二人で歓迎するから」

 文夏はホッとした笑みを見せ、「ありがとうございます」と礼を言いながら頭を下げた。

 車に乗り込んだ太田夫人は、「じゃあね」と言いながら手を振り出かけて行った。遠ざかる車に文夏は手を振り続けた。

 「またいつでも帰っておいで」。よそから帰って来た者に対するお決まりの台詞だが、その言葉にはお決まりの演出効果がある。

――私にも帰る所があるんだ……。

文夏はしみじみと思い、喜びを噛み締めた。

「苗字変わったんですね?」

 車に乗り込み、エンジンをかける前に裕介が訊いた。

「五歳の時に両親が離婚して、母親に引き取られて上京したの。渋谷は母方の苗字」

 文夏はハンドルに覆い被さって答えた。

「そうだったんですか。……父親は?」

 訊いてはまずかったか? 裕介は一瞬思ったが、文夏は気にしなかった。

「県内の病院で内科医やってる。最近はLINEもしてないなあ」

「ふーん。そうですか。……立ち入ったことですけど、会いに行かないんですか?」

「良いのよ。忙しいだろうし」

 そう言って文夏はエンジンをかけ、発進させた。

 明るい文夏にそんな過去があったとは……。裕介は自分を顧みて複雑だった。当たり前のように両親と暮らし、反抗期を迎え、そして、うつ病……。

 人の苦しみは他人のものとは計れない。比べることではないが、

――なんだかなー……。

自分に阿藤快なみのツッコミを入れずにはいられなかった。

 昼食はファミレスにしようと言う文夏に、裕介はせっかく帰ったのだからと、町内の観光レストランへ行ってみようと提案した。

 五歳で町を離れた文夏には地元の味に馴染みはなかったが、誘いに乗ることにした。

 食事を終え、次の目的地へと向かう。引き続き、裕介は連れて行かれるがままであったが……。

 町中を二十分くらい走った後、小高い丘を登り、数台駐車された広場に停車した。

 文夏は「着いたよ」と言いながら降車する。車はあっても人の気配はない。どこなのか気になるが、訊いても答えないことは解っている裕介は、黙って付いて行った。

 目の前には少し急な坂道が更に続いている。しかもかなり長い。ここを登るのかと思うと、裕介はげんなりとした。だが、スタスタ登っていた文夏に「早く早く」と促され、仕方なく登る。

 上へ辿り着くと、そこは無人の水道施設だった。フェンスで仕切られた施設より先へ行くと広場があり、文夏はそこにいた。

「良いでしょここ。よく来てたんだあ」

 広場は高いフェンスに覆われ、文夏は寄り掛かり景色を眺めた。

「一人で来てたんですか?」

「ううん。友達と」

 広場からは市街地が一望出来、遠く町を囲うように連なる山々も望める。フェンスがなければ風光明媚な場所である。

「確かに、良い眺めですね」

 裕介はそう言いながら、フェンスにしがみ付き、力なくしゃがみ込んだ。実は八月半ば頃から、だるさが「復活」していた。さっきのアパートでは何とか立っていられたが、ここに来て辛くなった。

 下に目をやった裕介は、そこが断崖絶壁なことに気が付いた。

 その瞬間、また「あの声」が響いた。

 「死ぬチャンスじゃないか? ここから飛び降りちゃえよ!」

――……そうすれば、楽になるのかな?

 虚ろに眺めながら、悲痛な問いかけをした。裕介の様子を文夏は怪訝に思う。

「具合悪いの?」

「いや……別に」

 呟くような答えに少し心配になったが、

――坂を登って疲れたのかな?

とも思い、それ以上は訊かなかった。



 文夏が初めてここに来たのは、保育園の「お散歩の時間」だった。弁当持参で登り、ここで食べたのだ。

 以来、子供の足にはかなりきつい坂ではあったが、友達との遊び場の一つとした。たまに、男子と縄張り争いがあったかと思えば、その男子と一緒に氷鬼をしたこともあった。

 仲間達と嬉々とした場所。



「生まれて五年しか住んでなかったけど、結構覚えてるもんだね」

「町の雰囲気は変わってませんか?」

「幼かったからねえ。はっきりとは覚えてないけど……」

 そう言って景色に目を移した文夏を見詰め、裕介は病気のことを、彼女に言ってみようかと考えていた。

――この人なら、解ってくれるかな?……。

 中三の時に心に蓋をして以来、一度も開けたことはない。だが、自分の中に溜め込んでおくのも、正直限界に来ていた。

 しかし、

「止めとけ! 人に縋ってまた傷を負いたいのか?」

心の声が嗤って忠告した。

 施設を後にし、車は市街地を走り出した。

 裕介は少しでも楽な姿勢をと、シートを倒した。それを見て文夏は、「お疲れですか?」

とからかおうとしたが、さっきしゃがみ込んだ姿を思い出し、止めた。

 交差点で停車している時、文夏は唐突に、

「ちょっと山道をドライブしたいんだけど」

と言い出した。

 両親が離婚する直前、尚吾は文夏を助手席に乗せ、山道をドライブしたことがあり、それを思い出したのだ。尚吾にすれば、当分会えなくなる娘との思い出作りだったのかもしれない。

 裕介は「どうぞ」と承諾した。日光を浴びながら車に揺られるのが心地良く、もう少しこのままでいたかったので好都合だった。

 当然、文夏は道筋を覚えていないが、取りあえず山の方へ向かって行き、やがて一車線の山道へ抜けた。

 文夏の記憶が徐々に蘇って来る。当時も、今日のようによく晴れた日だった。

 裕介はというと、色付き始めた木々が陽光を反射する光景に見惚れていた。景色を見てゆったりとしたのは、これが初めてかもしれない。

 しかし、少しリラックスし過ぎた。裕介は以前盗み聞きした石村の話が本当なのか、確かめたくなった。

「渋谷さん」

「んー?」

「差し支えなければ訊いても良いですか?」

「何よ改まって」

 内容など知る由もない文夏は、裕介の口調に笑った。

「風俗で働いてません?」

 ダイレクトな質問に、文夏は急に表情が険しくなり、急ブレーキをかけた。

――ベタの王道を……って前にもあったなー?

 首と腹に食い込んだシートベルトを外しながら、裕介は以前トイレへ行ったが為に文夏と出くわしたことを思い出し、鼻で笑った。

 だが、怪訝な目で自分をジーっと見ている文夏に気付くと、気まずいことこの上なくなる。

――ヤベエなこりゃ……。

 裕介がそう思っていると、文夏はゆっくりと口を開いた。

「ユウ君……どうしてそれを?」

「その前に、脇に寄せたらどうですか?」

 ど真ん中にいては確かに邪魔である。裕介は空気を変えようと、わざと笑みを浮かべて言った。

 だが、文夏はにこりともせず発進させる。

 その様子に、裕介はきのうの車内でのやり取りを思い出した。

――時既に遅し……っか。

 後にも引けない状況に、裕介は深呼吸をし、話を続けた。

「石村さんって知ってるでしょ? 気に入った女の人に声かけて回る」

「……ああ。いつか私達のことニヤニヤして見てたオヤジ?」

「あの時気付いてたんですか?」

「気付くも何も、あんだけガン見してたら……」

「そりゃそうか……」

 裕介は、未だ笑顔を見せない文夏に遠慮するように、微笑を浮かべた。

「その石村さんが、風俗サイトに出てる渋谷さんを観たんですって」

 文夏は入学前、万が一に備えアリバイ会社に登録していたが……。

「……そうなんだ。……都心の店なんだけど、バレる確率が低いと思って、郊外の学校選んだんだけどね」

 文夏はすんなりと認めた。

「甘いですね。ネットの世界ですもん」

「百パー安心してた訳じゃないけどさっ」

 やっと笑顔になった文夏に、裕介は一安心した。きのうまで鬱陶しく腹立たしかったはずが、嘘のようだ。

「店長にゴリ押しされて断われなかったんだよー。……やっぱ顔出しNGにしときゃ良かったなあ」

 そうは言いながらも、あっけらかんとした口調で、裕介にはちっとも後悔していないように思えた。

「そうと解ると、いつもニコニコしてるのは、職業柄なのかなあって思いますけど」

「そんなつもりはないけど、まあ、確かに笑顔は絶やしちゃいけないし、自然と技術が生かされることはあると思う」

「ふーん。そんなもんなんですね」

「でも結構大変なんだよ。口臭にはいつも気を付けなきゃいけないし、病院の検診は受け

なきゃいけないしでさ」

 愚痴を溢す文夏に、裕介は「へー」と返すだけだった。「解る」とも言えないし、それ

以外言葉が見付からなかった。

 その態度に文夏は、

「口火を切っといて引くな!」

とツッコミを入れた。

「いや、そうなんだあって思ったから」

――この子にはまだ難しいか……。

 文夏はそう思い直し、話題を変えた。

「それより、今夜どこに泊まる? 今の話を踏まえて、またラブホにする?」

 からかって笑みを浮かべる文夏に、今度は本当に引いた裕介は、渋い笑みを浮かべた。

「……普通のホテルが良いです。今の話を踏まえてラブホって度胸はありません」

 裕介は再び景色に視線を移し、やり取りを振り返った。

――こういう人を豪放磊落っていうのかな?

 胆の据わった人間でなければ、公に顔と裸体を晒すことも、今回のような犯罪すれすれな行為も出来ないだろう。

 悔しいかな、色んな意味で文夏に感服した。

 日が落ちかけた頃、裕介の希望通り、市街地にある観光ホテルにチェックインした。紅葉がまだ本番ではない為、予約なしでも大丈夫だった。

 部屋に入るなり、文夏はベッドに座りスマートフォンを手にし、裕介はベッドに寝そべってテレビをつけた。

 会話がない中しばらく経ち、上着を着たままでいた文夏は、スマートフォンから目を離すと徐に言った。

「私、ちょっと散歩に行ってくるから」

「そうですか。行ってらっしゃい」

 裕介はテレビを観たままの体勢で言った。

 文夏が部屋を出て行って直ぐ、裕介は傍に置いていたスマートフォンを手に取り、LINEを打ち始めた。

『明日帰ります。心配しないで下さい』。小枝子に送信したが、

「まさかもう一日なんてねえよな?」

文夏のことだからどうなるか……。一抹の不安を覚えた。



 夕飯の支度をしていた小枝子は、自分のスマートフォンが着信音を鳴らしたのに気付いた。

 裕介からのLINEを確認し、一先ず安心する。

 金曜日は、大神の「彼を信じましょう」との言葉で収まった。LINEや電話も一切せず、

静観の構えでいたが、今回の息子の行為には我慢ならなかった。

――今度という今度は!

 それまで抑えていたものが、一気に噴出しかかっていた。

 小枝子がスマートフォンを持ってまま下唇を噛み締めて立ち尽くしていると、二階から降りて来た秋久が入って来た。

「お兄ちゃん、明日帰って来るそうよ……」

 小枝子が秋久を一瞥して告げると、

「あっそう。……帰って来たら土産話でも聞かせてもらったら?」

秋久は冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出しながら、気にも留めていない様子で言った。

 その口調に小枝子は溜息を吐き、中断していたキャベツの千切りを再開した。

「おかしいと思わない?」

 秋久は「何が?」と尋ねながらコップにウーロン茶を注いだ。

「五千円足らずしか持っていないのに、旅なんか出来る訳ないわよ……」

「一緒にいる友達に借りてんじゃないの?」

 秋久はウーロン茶を一気飲みし、

「それよりもさ、オレが言うのもなんだけど、もっと息子を信じてやったら?」

母親を諭す口調で言った。小枝子は無言で千切りを続けている。

「最近の兄貴に友達がいたっていうのも驚きだけど、突発的な行動なんてもっとあり得ないじゃん」

「……確かにね」

「兄貴なりの一大決心だったんじゃないの?」

 そう言い残して、秋久は台所から去って行った。

 秋久の言葉に、小枝子は再び手を止めた。自分よりも息子の方が状況を冷静に捉え、裕介に理解を示している。

 親として、小枝子は裕介のことが気がかりでしかたなかった。それ故、感情の方が先に立ち、裕介の内面を冷静に分析することが出来なかった。

 『ゴーー』と換気扇の音だけが響く台所で、裕介に対する申し訳なさと、親としての未熟さを痛感した。



――蟠り――


 駅前まで歩いて来た文夏は、広場にあったベンチに腰を下ろした。橙に染まった空や行き交う人々をぼんやりと眺める。

 やがてその目は、駅出入り口付近で仲良さ気に話す、高校生らしき男女を捉えた。

 文夏の脳裏に、嘗ての「事件」が蘇る。



 あれは、体調不良で学校を早退して、彼の家に寄った時のことだった。

 ベッドに寝そべり、雑誌を読んでいる彼に対し、思い詰めた表情の文夏が口を開いた。

「あのさあ……出来ちゃったみたいなの」

 文夏の言葉に彼は顔を上げ、怪訝な目を向けた。

「出来たって……まさか!?」

 文夏は呆然と頷いた。

「っち。今まで大丈夫だったじゃねえかよ……誰か知ってんのか?」

 彼は頭を掻き毟りながら、苛立った様子で訊く。

「……誰も……」

 知らない。文夏が答えた瞬間、彼はこれまで見せなかった本性を現す。

「墜ろしてくれ! 親にバレるとヤベエんだよ。……オレも父親になる気ねえし。金は用意するから」

 その誠意のなさに、文夏の中で沸々と怒りが込み上げて来た。

「あんた自分のことしか考えらんないの!? 最っ低!!」

 結局、文夏はこのまま産んでも幸せに出来ないと考え、中絶手術を受けることにした。費用は宣言通り彼が負担した。

 事態はそれだけでは終わらず、学校へ飛び火する。

 きっかけは、文夏の急な体調不良を、養護教諭が怪しんだことだった。

 放課後に呼び出された文夏は、担任と養護教諭に問い詰められた。

「渋谷さん。言いにくいんだけど、……あなた妊娠してない?」

 養護教諭の言葉に、文夏は無言で俯いた。

「やっぱりそうなんだな。渋谷、……お前豪いことしてくれたな」

 俯いた文夏に確信を持った担任は、溜息混じりに言った。

 担任の冷たい物言いに、養護教諭は「先生」と窘めて訊いた。

「それで、今何週目?」

「……もう……墜ろしました」

「墜ろしたからといって、このことが他の生徒に知れたら、こっちも困るんだよ!」

 養護教諭は再度「先生」と窘めたが、担任は止めなかった。

「こうなった以上、お前には悪いが……退学を考えてくれ」

 退学処分となったことで、妊娠のことが洋子と祖父母にバレてしまった。

 祖父母は嘆いたが、洋子は気丈に、こうなった半分は文夏の責任と、中絶費用の半分を負担すると言った。

 そのことを彼に告げると、「助かるよ」と、電話の向こうで笑みを浮かべているのが解った。その態度に改めて憎しみを抱き、電話を持つ手が震えた。



――あったねえ。そんなことも……。

 ついでのように、洋子の言葉も思い出す。

「――人間は許して行かなきゃいけないのよ」

 許すも許さないも、仕事や学業に打ち込む内に、頭の中から消えていた。

 東京では黄泉がえらなかった記憶が、なぜかこの町で頭を擡げた。

――許しなさいってこと?

 文夏は釈然としないまま、ホテルへ帰ろうと立ち上がった。

 その時、駅の出入り口から出て来た人物を見て、文夏に衝撃が走る。



――登場――


「……お母さん?」

 文夏は自分の目を疑いながら、洋子と思われる人物を見詰め続けた。

 洋子と思われる人物は、旅行用のバッグを肩に下げたまま出入り口から少し離れ、スマートフォンで電話をかけ始めた。

 すると二、三秒経った後、上着に入れていた文夏のスマートフォンが、着信音を鳴らしながら振動し始める。

――やっぱり……。

 文夏はスマートフォンを確認もせず、恐る恐る洋子に近付いて行った。

「お母さん!?」

 いきなり娘に声をかけられ、洋子はビックリして振り向き、文夏を認識すると、

「あら! こんなに直ぐ会えるなんて」

電話を切りながら素っ頓狂に言った。

「それより何でここにいるの?」

 率直な疑問。もし仕事で来たのなら、自分に電話はかけないはずだ。第一、洋子には今回のことを何一つ告げていない。

 文夏の言葉に、洋子は急に思い出した顔つきになった。

「休暇を無理にお願いして、文ちゃんを追いかけて来たのよ」

「私を?……!」

 文夏の頭の中はこんがらがっていたが、物の数秒で情報源を特定出来た。

「美貴ちゃんから全部聞いたわよ。学校の人を無理やり連れて行くとか……」

 洋子はジロっと文夏を睨み、咎める目をして問い詰めて来た。

「この町にいるっていうことは、美貴ちゃん以外にも迷惑をかけてる人がいるってこと

ね?」

 美貴はさすがに「拉致して――」とまでは言わなかったようで、文夏は少し安心した。

「……あのお喋り」

「何がお喋りよ! 二十歳にもなって人様に迷惑かけて。もっと大人の自覚が必要よ!」

「……面目ない」

 文夏は小声でペコリと頭を下げた。

 洋子は苦笑いを浮かべて溜息をつくと、周囲を見回しながら言った。

「若干変わってるけど、この町に来るのあの人と別れて以来だわあ。出て行く時にはもう二度と来ることはない。って思ってたけど」

「うん。私も思ってた」

「でも、文ちゃんにとっては地元なのよね……」

 洋子の表情は苦笑いから優しい微笑みに変わっていた。

「ところで、文ちゃんどこに泊まってるの?」

「ああ、近くの観光ホテル」

 文夏はホテルの方角を指差しながら言った。

「連れて来た人も一緒なんでしょ? お母さんもお詫びしなくちゃね」

『今日午後二時頃、東京三田(みた)市にあるJR三田駅構内で、男が通行人を次々にサバイナルナイフで切りつけました。この事件で二人が死亡、五人が重軽傷を負いました。殺人と殺人未遂で逮捕されたのは……』

 ホテルの部屋で一人テレビを観ていた裕介は、この無差別通り魔事件の報道を観て、

――良いなあ……。

命を奪われた被害者を羨ましく思っていた。祖母、澄子の変わり果てた姿を見て以来湧いた、死者への羨望……。軽薄だ。被害者や遺族に失礼だ。死というものがどういうことか、全く解っていない……。

 反面、澄子を見舞ってから一、二ヶ月の間に、別の気持ちも湧き上がっていた。

 被害者の一人、十八歳の少年は性格も明るく、将来は介護福祉士になって、人の役に立ちたいと話していたと、友人が取材に答えている。

――そういう人の命は尽きて、何でオレみたいなのが……。

 代われるものならば、自分の命を前途有望な人に譲りたい。死亡事故や事件のニュースを見聞きする度に心底そう思う。自分のような人間が寿命を消化しているのは無駄。高齢ドライバーが運転免許を返上するように、命を返上することが出来るのならば……。

 そんなことを考えると、また嗤う声が聞こえる。

「羨ましいならあの世に逝っちゃえよ! 死ぬチャンスは幾らでもあるじゃねーか」

「……そう、チャンスを活かせてないだけ……」

 裕介が「もう一人の自分」と対話している時だった。

『コンコン』

「ユウ君、私」

ドアをノックされ、裕介はベッドから立ち上がった。

「ちょっと文ちゃん! 連れて来た人って男の人!?」

 ドアの方へ近付いていた裕介は、驚いた様子の中年女性の声を聞き、怪訝に思って足を止める。

「まあね」

「まあねじゃないわよ! そうならそうと早く言いなさい!」

「だから! これから紹介するんじゃない」

 裕介の心情も知らず、ドアの向こうでは何かややこしい方向に会話が進んでいる。普通なら「そんな関係じゃないよ!」とか言って否定するところだろうが、太田夫人の時といい、面倒臭いのか裕介をとことんからかうつもりなのか……。裕介はドアを開ける行為が億劫になった。

 しかし、

『コンコン』

「ユウ君、いるんでしょ?」

「初めまして。文夏の母です」

開けない訳にはいかなかった。

 裕介は覚悟してハっと息を吐き、ドアを開けた。

 憂鬱な裕介とは対照的に、二人は満面の笑みを浮かべていた。

 文夏は裕介に母親を紹介した後、洋子に向かい裕介を紹介しようとした。

「高校の一年先輩の……」

「中山です。初めまして」

 裕介は自分から名乗り、深々と頭を下げる。

 裕介の慇懃な挨拶を見た洋子は、

「こちらこそ初めまして。この度は娘が大変ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません」

娘に代わり、丁寧に謝罪した。

「いえ。こちらこそ渋谷さんにはいつもお世話になっていて、ありがたく思っています」

 口から出任せ。まさか「迷惑してます」と言える度胸はない。

「じゃあお母さん、先行ってて」

 一通りの挨拶が終わり、洋子は裕介に「それじゃぁ」と言いながら軽く会釈し、廊下を歩いて行った。



――吐露――


「お母さんまで巻き添えにしたんですか?」

 裕介はベッドに寝そべりながら呆れた口調で言った。

「違うよ。ちょっと手違いがあってね。追っかけて来ちゃったの」

「どっちにしたって同じでしょ?」

 一瞥する裕介を文夏は鼻で笑い、

「私、今夜はお母さんの部屋に泊まるから」

と言って部屋を出て行こうとした。

 文夏の背中を目で追いながら、裕介はさっき湧き上がった不安を確かめたくなった。

「渋谷さん」

「うん?」

「明日には「解放」してくれますよね?」

「さあ。どうしようかなあ?」

 イタズラっぽくあしらう文夏に、

「またあ。オレは反抗する「人質」だからね!」

裕介は文夏の予想通りの反応をした。

 文夏にとって彼をからかうことは楽しく、可愛くも思っていた。

「解った解った……」

 裕介は「ハー」と溜息をつくと、気分を変えようと、

「それより、オレを「拉致」した理由。もう本当のこと教えてくれても良いでしょ?」

最後まで引っかかっていたことを質問した。 不安だから巻き添えにした。では納得し兼ねる。

 ドア付近に立っていた文夏は少し考え、隣のベッドに座ると、「その前に」と前置きし、ゆっくりと動機を打ち明けた。

「私が地元に帰ろうって思ったのは、今までの自分に区切りを付けたいっていうか、人生の第二弾を歩きたかったからなの」

「スペクタクルな話だな……」

 呟いた裕介に、文夏は「それ友達にも言われた」と苦笑した。

「初めてユウ君を見た時、排他的な印象を受けた。だけど、私の車に乗り込んで来た時、そんなことはないって思ったの。私に見せたユニークな面を、他の人にも見せてほしかった。それで、人に心を開いてもらうには、まず自分が打ち明けなくちゃ駄目だって思ったの。……力になれたかは分からないけど……」

 自分も塞ぎ込んでいる時、美貴が立ち直るきっかけをくれた。それを、裕介にしてあげたかった。

 結果的には、美貴も裕介も巻き添えにした形になるが……。

「ふーん。世話焼きなんですね。……でも買い被り過ぎですよ。ユニークな面って、持ってたんじゃなくてそうさせられただけだし……」

 文夏の態度にマジになっただけ。それをユニークな面とは、裕介にはとても思えなかった。

「自分じゃ分からないものよ」

 裕介は、「そう言われてもねえ」と呟いただけで黙った。

 しばらく沈黙が流れる中、裕介は水道施設でのことを思い出した。声の忠告は気になるが、言うなら今だと意を決する。

「オレも一つカミングアウト」

 ドライブの時と同様、改まった口調の裕介に、文夏は「何?」と訊きながら身構えた。

「実は……今精神科に通ってるんです」

「……そうなの?」

「二年前から。……うつ病」

 予期せぬ告白に、文夏は言葉が出なかった。

「症状としては軽いそうですけど……。でもこればっかりはねえ……」

 譲一に散々指摘され腹を立てていた言葉を、裕介は自ら口にした。やけくそだった。

「そうね。……自分にしか解らないしね」

 文夏は、裕介が水道施設で座り込んだ場面を思い出した。

――やっぱりキツかったんだ……。

 時期が悪かったか……。改めて自分がした行為を申し訳なく思った。

「もう学校と家を往復するだけで精一杯ですよ……」

 呟く裕介に、文夏は「うんうん」と頷いた。

 また沈黙が流れる。

 その間、文夏は自分と照らし合わせて言った。

「でも、私にもあるよ。そんな時」

 文夏にとっては率直な気持ちであり、「お互い頑張ろうよ!」とエールを送ったつもりだった。

 しかし、裕介には鼻に付く言葉。

 彼の心の中で、「気にかけてもらいたい」。自己顕示欲の「害虫、寄生虫」が動き出す。

「最近、ことあるごとに「死」って言葉が出て来て……」

「死んでどうするの?……在り来たりだけど、それしか言えないな。生きてるからこそ、悲しいこともあるけど、喜びを噛み締めることも出来るんだから」

「……そうですね。オレ、疲れたんでちょっと寝ます。夕飯はコンビニで適当に買いますから」

 そう言って裕介は寝返りを打ち、文夏に背を向けた。

 また「ユニークな面」が「害虫」を伴って出て来るのを、残った理性で押し止めた。

 「本っ当、懲りない奴だなお前」。嗤う心の声を無視して、裕介は目を瞑った。

――多分、SOSを出したんだな……。

 裕介の背を見て文夏は思ったが、彼を助ける策は浮かばなかった。



 「精神科に通ってるんです。……うつ病」

 裕介の告白が頭に焼き付いていた文夏は、ベッドに入ってもしばらく彼の言葉を反芻していた。

 娘と同様眠れずにいた洋子は、天井を見詰めたまま「文夏」と声をかけた。

 文夏は咄嗟に枕元のスタンドを点けながら「何?」と答え、身体を洋子の方へ向けた。

「あの人まだあどけない顔してるけど、年下じゃないの?」

 洋子は天井を見たまま言った。

「そうよ」

「付き合ってるの?」

「ううん。そんな関係じゃないよ。あの子も私をそんな風には思ってないはず」

「じゃあどうして巻き添えにしたの?」

 洋子は顔を文夏の方へ向け、問い質す口調で訊いた。

「あの子、いつも寂しそうな目をしてるの。それでいて、私と話してる時は凄く人間味があるの。でも、あまり人と関わろうとしなくて」

「男の子はそういう時期があるからね」

 洋子は軽く伸びをしながら言った。

「私から色々と告白すれば、あの子の目が変わるんじゃないかって思ったんだけど……」

 母親の疑問に、文夏は素直な気持ちで答えた。

「気持ちは解るけど、あまり人様の心には深入りし過ぎない方が良いわよ」

 洋子は忠告しながら文夏と目を合わせた。文夏は苦笑いして洋子から目を逸らした。

「解ってるけどねえ。だけど、一度きりの高校生活だし、一人で時間を過ごすのは勿体ないじゃない? 私は再入学して心からそう思う。……なーんかほっとけなくて」

「フフン。文ちゃん変わってないわね。子供の時から」

「何が?」

「強引なところもそう。かと思えば、自分を脇に追いやって人の心配ばかり。たまには、自分を優先させても良いんじゃない?」

「……」

 文夏は下唇を軽く噛んで宙を見詰めた。そんな娘に洋子は続ける。

「でも文ちゃんの性格は、親の責任なのよね。ずーっと、寂しい思いをさせ続けたんだから。偉そうなことは言えないわね」

 洋子はそう言いながら文夏に微笑みを向けた。

「今頃になって、もっと一緒に過ごす時間を作れば良かったって思うわ」

「……おやすみ」

 文夏は微笑み続ける洋子の顔が見ていられなくなり、慌ててスタンドを消し仰向けの体勢をとった。

 いつも前向きに生きている洋子の口から、初めて悔恨の言葉が出たことに、文夏は返す言葉がなかった。



 文夏が部屋を出て行ってから二時間程眠りに就いていた裕介は、今度は夜半になっても寝就けずにいた。

 この時間を有効に使えないかと、枕元のスタンドを点けただけの静寂に包まれた部屋で、思案に暮れる。

 やがて妙案が浮かぶと、ベッドから起き上がり机に向かった。リュックからルーズリーフとボールペンを取り出し、書いては首を傾げ、書いては首を傾げるを繰り返す。

 幾つかの候補から納得する言葉を選び、新しいルーズリーフに大きな字で清書した。出来上がった文章に、裕介は満足げにニヤついて「よし」と頷いた。



――逆襲――


『コンコンコン!』

「ユウ君! 入れてー!」

 翌朝、裕介は文夏のノックと声に起こされた。

 てっきり朝食の誘いかと思いドアを開けると、文夏は肩にバッグを下げ「おはよう」と挨拶しながら部屋に入り、

「シャワー浴びに戻って来たの」

素っ頓狂に言った。

「お母さんのとこで浴びりゃあ良いでしょ?」

「メイク道具ここに置いてたの」

 裕介は「ふーん」と返事をしながら、却って都合が良いと思った。

 文夏が浴室に入ったことを確認し、裕介はきのう用意したメモを、彼女のベッドの枕元に置いた。

 小声で「よし!」と掛け声をかけ、そそくさと部屋を出る。きのう覚えたルートを思い出しながら、早足で目的地を目指した。

 裕介の頭の中では、色んな思いがグルグル回転した。文夏はあのメモを見て自分が思い描いた通りの行動をとってくれるのか? まさか自分がやったことを棚に上げて激怒するんじゃないか? 不安が過る中、あのメモを見て慌てる文夏の姿を想像すると、優越感に浸った。



 シャワーを浴び終えた文夏は、部屋に裕介がいないことを一瞬不審に思った。

――散歩にでも出たのかな?

 そう思い直し、文夏はポーチからコンパクトを取り出し、ベッドに座って化粧を始める。

 後は眉毛だけとなり、姿勢を変えようと枕に手をついた時、一枚の紙が置かれているのに気が付いた。手にとって読んだ瞬間、彼女は目を見開いた。

――メイクどころじゃない!!

 慌てて裕介に電話するが繋がらない。このことで裕介がしようとしていることを確信に変えた文夏は、素早く外出着に着替えた。

――何バカなことしようとしてんの!?

 廊下を走りながら洋子に電話をかけた。

「ちょっと外出するから」

 早口で告げると、洋子の返事も待たずに電話を切った。

 昨晩の裕介の言葉が過る。「最近、ことあるごとに「死」って言葉が出て来て……」。

 それだけではない。昼間、水道施設でしゃがみ込み、崖下を眺めていた様子といい、嫌な予感が走った。向かうとすればそこしか考えられなかった。



 一方裕介は、文夏が思った通り水道施設にいた。快晴の日曜の朝、知らない町を眺めながらの一服。

――ゆったりして良いもんだなあ。

 慌てて向かっている文夏とは対照的に、まったりとした時を過ごす。

 メモに信憑性を持たせようと、スマートフォンの電源を落としてはみたものの、

――渋谷さん来るかなー?

やはり心配だった。それともう一つ。

――来たら何と言って切り出そう?

 「どっきり」を画策したものの、想定したのは、メモを見た文夏が慌ててこちらにやって来ることまで。そこから先はノープランだった。

 裕介にとって、これは只の「どっきり」ではなかった。文夏は自分探しの旅に裕介を巻き添えにした。だったら、裕介も気持ちを整理することに文夏を使っても、罰は当たらないのではないか?

 施設に着いて約二十分。裕介は何を話そうかシミュレーションし、考えをまとめていた。

 その時、下の方から「ユウ君!!」と叫び声が聞こえた。

――来たか!

 裕介は一瞬で緊張感に包まれた。落ち着こうとタバコに火をつけた。

 そこに血相を変えた文夏が坂を登り終え、裕介を見付けて足早に近付いて来た。

「歩いて三十分ですよ。ここ」

 振り返って笑みを浮かべる裕介に、文夏は表情を変えず、息を切らしながらルーズリーフを突き出した。

「これどういう意味よ!」

 裕介がルーズリーフに書き綴ったメモ。

「暗鬱な日々。高い崖が目に映る。そこから飛び降りたら、楽になるかな?」

「高い崖ってここだと思って。悪ふざけにも程があるよ!」

 その時風が吹き、裕介は文夏の眉が左右半分しかないことに気が付いた。指摘してやろうかと思ったが、空気を考え、笑いを堪えて正面に視線を移した。

「死にたかったの?」

 文夏の眉のおかげで緊張が解けた裕介は、視線を正面に向けたまま、口を開いた。

「そう思ったのは本当ですよ。きのうここに連れて来られた時にね。でも良いじゃないですか? 自分だって同じようなことしたんだし、「拉致」した女を翻弄した男」

 裕介はしてやったりの表情を向けた。文夏は呆れたが、彼の言ったことも間違いではない。

「お主中々やりよるなあ……」

 減らず口を叩く文夏を鼻で笑い、裕介はゆっくりとした口調で打ち明け始めた。

「済みません。渋谷さんをここに来させたのは、自分の気持ちを伝えたかったからなんで

す。……うつ病になってから、めちゃくちゃ苦しいのに、「軽い」の一言で片付けられたり、不安や症状を口にすれば、「そんなのみんな一緒だ」みたいに言われて……」

 文夏は昨晩のことを思い出した。「私にもあるよ。そんな時」。

「だからそれはさあ……」

 諭すように言う文夏を裕介は制した。

「解ってます。「そんなこと気にしなくて良い」って意味なことは」

 裕介の解釈に、文夏は「まあね」と頷いた。

 裕介は堰を切ったように続ける。

「だけど、頭では解っていても、心がね……。みんなと同じなのに、病院通って挙句に薬

に頼ってるオレは何なんだ!? って、頭と心が反比例して行くばっかりで……」

 初めて聞く裕介の胸の内に、文夏は「ごめん……」と呟いた。

 人間誰しもが感じる気持ちの浮き沈み。うつ病患者は、落ちた時に「うつ」という余計なものが重なる為に、いらぬ苦しみを味わう。

「病気になってからは人間関係も上手く行かなくて。もう全てが嫌で怖くなったんです。だから定時制に入ったんですけどね。……少しは人と接しなくても済むと思ったから……」

「そうだったの……」

「渋谷さんが入って来て調子狂いましたけど」

 そう言って微笑む裕介に、文夏も笑みを浮かべた。彼の自然な笑みを見るのは、これが初めてだった。

「一人になってもちっとも楽にはならなくて。……けど不登校はしたくなかった。自分が選んだ道だし、何か負けた気がして」

「良いじゃん。ゆっくり大人になりながら治して行けば」

「渋谷さんが言ってくれたユニークな面、自分ではそう思わないけど、もしそうだとしたら、久しぶりに引き出してもらいましたよ」

 文夏に真情を吐露した裕介は、快晴も手伝って清々しさに満ちていた。心を塞いでいた蓋はようやく取り除かれ、光が眩しく差し込んだ。

「私で良かったらいつでも話聞くから」

 歯を見せて微笑む裕介に、

「サービスしときまっせ!」

文夏はウインクして付け加えた。

 その時、正午を告げるイメージソングが流れ始めた。文夏は途中から歌い出す。

「♪ ――(ふるさとの川には)温かい色がある そよ風の微笑み いつでも優しくて 触れ合う季節には すばらしい歌がある 山々を見上げる 瞳が輝いて キラキラでいようよ いつだって キラキラでいようよ この街で―― ♪」

「良い歌詞ですね。……でも「キラキラでいようよ」って……」

「いつでも輝いて行こうって意味なんじゃない」

 苦笑する裕介に文夏は解説した。

 二人は空を見上げる。

「おかげで私も自分を再確認することが出来た。この町が土台としてあるから、何だって

頑張れるんだって……」

 空を見たまま呟く文夏に、裕介は『ふーん』と頷いた。

――彼とのことも……。

 許せた。というより吹っ切れた。

 今までは、過去を思い出さない為にがむしゃらにやる。だったが、これからは未来に向かってがむしゃらに……。

 文夏が思いに耽っていると、裕介が口を開いた。

「渋谷さん」

「何よ?」

「眉毛、半分ずつしかありませんけど……フフハハハハ……」

 ずっと堪えていたが、もう限界だった。爆笑する裕介に文夏はハッとした。

「誰のせいだと思ってんの!?」

 静かな施設内に、裕介の高笑いが響いた。



――幼馴染み――


「ちょっと寄り道させて」

 爆笑され少し機嫌が悪い文夏は、車内のルームミラーを使い、コンビニで買った眉用ペンシルで眉を整えながら言った。

「どうぞ」

 金・土と連れ回された裕介は、「もう好きにしてください」というスタンスであった。

 眉を書き終えた文夏がカーナビに目的地を入力し、コンビニの駐車場から出発した。

 十分程車を走らせた後、カーナビから「目的地に到着しました」とアナウンスが流れ、文夏は少し離れた路肩に停車させた。

 裕介が身動き一つしないでいると、シートベルトを外す文夏と目が合った。裕介は「はいはい……」と言わんばかりの表情で降車する。

 門の所まで歩いて行くと、門柱の看板には「ひかり保育園」と書かれていた。説明されなくても文夏とどういう縁があるかは一目瞭然。

「建物は昔と同じですか?」

 裕介は解り切った口調で尋ねる。

「うん。変わってない」

 文夏の一歩後ろに立ち、裕介も建物を見詰めて自分の幼稚園時代を思い出した。

 幼児の頃から集団生活が苦手で、毎日送迎バスを見る度憂鬱な気持ちになっていた。それでも楽しかったことはあったはずだが、何一つ思い出せない。

――オレは、何に「楽しい」って感じるんだろう?

 裕介が自問していると、

「あの頃は園庭も広く感じたし、遊具も大きかったんだけどなあ」

 文夏は感慨深げに言う。

「身体が大きくなったからでしょ」

 笑顔でツッコミを入れた裕介に、文夏も笑って「そうよね」と答えた。

「済みません。通して下さい」

 門の前に立ち尽くす二人に、背後から女性が声をかけた。二人は振り返ると、「済みません」「ごめんなさい」と言いながら道を開けた。

「保護者の方ですか?」

 門を開けながら、ロングTシャツにジーンズ姿の女性が尋ねた。格好と言葉遣いからして、ここの保育士だと思われる。

「っあ、いえ。私ここの卒園生なんです。懐かしかったんでつい」

 文夏が破顔して言うと、保育士も笑顔で

「そうだったんですか」

と言いながら門を閉めようとした。だがその手を止めると、急に真顔になって文夏の顔を凝視した。

 保育士の様子を文夏は不審に思ったが、文夏も目を逸らさず、二人は数秒間見詰め合った。

 向こうは記憶を手繰っているように見えたが、文夏は何も思い出せない。

――眉毛がおかしいの?

 文夏はそう思い、

「……私の顔、何か変ですか?」

と訊いた。

 文夏の問いに、保育士は慌てて「いえ違うんです」と言いながら右手を左右に振った。

「あのう、間違ってたらごめんなさい。……もしかして、文ちゃん?」

「ええ。この町ではそう呼ばれてましたけど……」

 自分を「文ちゃん」と呼ぶということは、面識があるはずだが、文夏はまだピンと来なかった。

「やっぱり! 私、覚えてない?」

 保育士は自分の顔を指差しながら言った。文夏は更に目を凝らした。

「……ああ!! 麻子ちゃん!? ごめん。全然解らなかった!」

 本谷麻子(もとや まこ)。七夕祭りの写真に写った二人の内の一人である。

「やっと思い出してくれたか! 十何年ぶりだからしょうがないよねえ」

 二人は手を握り合って再会を喜んだ。

 その光景を後ろで傍観していた裕介は、文夏に黙って車に戻ることにした。

「旧友……っか」

 高木との一件以来、自分には「友達」という存在と縁がなくなったと思っていた。しかし、小中学校の同級生を避け、高校に上がってからも周りに壁を作っていたのは裕介自身である。「縁がなくなった」のではなく、自分から「捨てた」のだ。そんな中、文夏は積極的に裕介に接近し、今回、心に塞がった蓋を取り除くのに一役買ってくれた。

 再スタートを切る裕介にとって、文夏は友達第一号となってくれた。これをきっかけに、自分もいつか、旧友との再会を喜ぶことが出来れば……。そう考えながら、裕介は車を目指した。

 乗車するとシートを倒し、「ふー」とゆっくり息を吐いた。だるくて横になった訳ではない。小春日和の陽光を全身で受け止め、午前中から続く清々しさで包まれた心身を維持させたかったのだ。



 旧友との再会を喜びながら、文夏は初めて麻子と出会った日を思い出していた。



 「ひかり保育園」に入園して一年が経ったある日。文夏の粘土が盗まれる事件があった。先生と一緒に隈なく探したが結局見付からず、仕方なく新しい粘土を貰いに職員室に行った。

 粘土を持って出て来た直後、三人の男子が、女子が入ったトイレの戸を開閉させて遊んでいるのを目撃した。園児が使うトイレには鍵は付いていない。女子は泣き出していた。

 その女子が麻子だった。文夏は「もも組」、麻子は「ゆり組」で特に面識はなかったが、

「何やってるのあんた達!」

見逃せなかった文夏は、開閉させていた男子の襟元を掴んで止めさせた。

「何するんだよ!」

 男子が振り払おうとしても文夏は手を離さず、

「先生ー! ちょっと来てえ!!」

と叫んで助けを求めた。



「きのうはありがとう」

 廊下で擦れ違った文夏に、麻子は満面の笑みを湛えて礼を言った。

 これをきっかけに、二人は仲良くなった。



「っていうか、今日お休みじゃないの?」

「園児達はね。私は来週運動会があるから、その準備で」

「そっかあ。そんな季節だよねえ。でも麻子ちゃんが保育園の先生かあ」

「ううん。まだ「先生」じゃないよ。去年からバイトで働いてるの。今は資格取る為に、短大の通信教育受けて勉強中の身」

「へー。ふふん。実はね、私も今、東京の飲食店で働きながら、定時制の高校通って勉強中の身」

 いきなり「風俗店」とも言えず、文夏は咄嗟に嘘をついた。

「ハハハ。一緒だね」

 二人は声を出して笑った。

「っあ、東京だったら、私年に一回くらいディズニーランドに行くんだけど、連絡しても良い?」

 麻子は急に思い出したように言うと、ジーンズからスマートフォンを取り出した。

「うん。全然オッケイだよ!」

 文夏と麻子は連絡先を交換し、名残惜しそうに別れた。

「フンフンフンフーン」。文夏は鼻歌を歌いながら車に向かった。午前中は裕介に翻弄され気が気でなかったが、そのおかげで予定にはなかった場所に立ち寄り、幼馴染みと再会することが出来た。

――ありがとうよ!

 ドアを開ける前、文夏は心の中で車内の裕介に礼を言った。



――父母の見解――


「どこ行ってたの! どれだけ心配したか解ってるの!!?」

中山家のリビングでは、小枝子の怒号が響いた。

 「――もっと息子を信じてやったら?」。「兄貴なりの一大決心だったんじゃないの?」。秋久の言葉に、感情が先走る自分を反省した小枝子だったが、裕介を目の前にし、すっかり頭から消え失せていた。



 帰りは文夏の母、洋子も加わり、家の前まで送ってもらった頃には、空はすっかり暗闇に包まれていた。

 ためしに玄関のドアノブに触る。いつもなら鍵がかかっているが、今日は裕介が帰って来ることを予感してか、ドアは『ガチャ』と音を立てて開いた。

「ただいま帰りましった」

 小声で呟いた裕介に襲いかからんとするばかりの勢いで、『バタバタ!』とスリッパで走る音が聞こえた。

 いきり立った表情で現れた小枝子は、靴を脱いで上がってきた裕介の腕を掴み、「来なさい!!」と言ってリビングに引きずり込んだ。

「っちょ、行くから離せよ!」

リビングでは、譲一が腕組みしてソファに座り、引っ張って来られた息子を一瞥した。



 小枝子の怒号からどのくらい経ったか。ソファに座った両親に対し、裕介は絨毯に座らされていた。

 さすがに「拉致された」とは言えず、「ごめん」と頭を下げることしか出来なかった。

――あの女ー!

 改めて文夏に怒りを持ったその時、黙っていた淳史は、隣の妻に対して「もう良いだろ」と呟いた。

 今日の譲一は珍しくしらふだった。その理由は、明日健康診断を受けるからである。

「何が良いのよ!」

 怒りが収まらない気配の小枝子に、譲一は「ふー」と溜息を吐くと、目の前の息子を諭した。

「大勢の人に迷惑をかけて、自分の立場を弁えろって、いつも言ってるだろう」

 無言で俯く裕介に、譲一は意外なことを口にする。

「友達と旅っか……お前にもそんな「悪友」がいたとはな。……少し安心した」

 「友達と一緒」。俄かに信じることは出来なかったが、家の前に停まった車の音で確信に変わった。

 小枝子は、「何言ってるの!?」といった表情で夫の顔を見た。裕介も怪訝な目で父の顔に釘付けになった。最近は裕介を否定し続けている譲一の口から、久しぶりに息子を肯定する言葉が出た。



――溶け込み――


 翌日、いつも通り登校した裕介は、教室に入る決心がつかなかった。

 中からは、大神や武田らが授業前に談笑しているのが聞こえる。

 母親の機嫌はじき直るとして、無断欠席を咎められるのは必至だ。しかも皆の目の前で……。

――ったくあの女のせいで……。

 しなくても良い決心を迫られ、怒りを蒸し返したが、ムカついても仕方がない。裕介は意を決して教室に入った。

「こんばんはあ」

 いつもならイヤホンをしたまま無言で入って来る裕介が、挨拶しながら入って来た。大神を始め、武田ら数名は驚きながら振り返り、「こんばんは」と返した。

 裕介は脇目も振らず、自分を見詰めている大神の元へ向かい、

「先生、金曜日は済みませんでした」

と頭を下げた。

「まあ無事で良かったよ。……私は良いけど、中山君、ご両親を心配させちゃ駄目だよ」

 穏やかに諭した大神は、安心した表情を見せた。大神の言葉に、裕介は「はい」と答え、再び頭を下げた。

「リフレッシュ出来たか?」

「ええ」

 様子を窺っていた武田が声をかけ、裕介は苦笑した。

「不登校かと思っちゃった私」

 武川が微笑みながら言った。

「それはないですよ。もう直ぐ修学旅行ですし」

 裕介も自然と笑顔になっていた。文夏とは違い、大神達は裕介の苦笑すら見たことがなかった。

 大神は「うんうん」と頷き、初めて見る裕介の笑顔に成長を感じた。



 ホームルームも終わり、文夏は家路につこうと山下・鈴江と共に廊下を歩いていた。

「やっと終わったあ」

 山下が伸びをしながら呟いた以外は、三人共無言でスマートフォンのチェックをしている。

 その時、文夏のスマートフォンに着信があった。画面上に出た名前を怪訝に思ったが、「先行ってて」と二人を行かせ、通話ボタンを押した。

――おっそいなあ。

 裕介は一人、一階へ降りる階段の踊り場にある掲示板の前にいた。ここにいれば文夏が通りかかると思ったのだ。

 特に用事はないが、ウザかった挨拶も今となっては、されないと何となく調子が狂う気がした。

 しばらく掲示物をぼんやり眺めていると、「お疲れさま」と挨拶しながら文夏が現れた。

 裕介に安心感が広がる。だが表情には出すまいと、クールに「お疲れさまです」と返した。

「今日の調子はどう?」

「まあまあですね」

 笑顔で尋ねて来る文夏に、裕介は不覚にも笑って答えてしまう。

「ところで、きのう怒られた?」

 文夏が申し訳なさそうに訊いた。

「ああ、親父はそうでもなかったけど、お袋がね」

 裕介は微笑を浮かべて文夏を睨んだ。

「そっか。改めて、申し訳ない」

「然るべき報いは受けるでしょうけど、もう良いんです」

 ペコリと頭を下げた文夏に、裕介は呟いた。

「それで、修学旅行はどうするの?」

 文夏が話題を変える。

「行きますよ。……おかげで少しは楽しくなるかもね」

――「ありがとう」なんか言わねえぞ!

 裕介は心の中で食って掛かった。

 にんまりとして頷く文夏は、廊下から二人の男がニヤニヤしてこちらを窺っているのに気付いた。

 文夏の視線に気付き裕介も振り向くと、石村と村田だった。

――またか……。

「何か用ですかー!?」

 裕介はわざと大声を出して声をかけた。

 不意打ちを食らった二人はひねくれた笑みを浮かべ、無言で階段を駆け降りて行く。

 その光景を見て、裕介と文夏は顔を見合わせて吹き出した。

「帰ろっか?」

「そうですね」

 文夏の呼びかけに、二人は並んで歩き出した。



――エピローグ――


 放課後に文夏のスマートフォンに着信があってから五日後の土曜日。

 電話は文夏の父、尚吾からだった。出張で上京すると言う尚吾の都合に合わせ、夜の新宿駅で三年ぶりに再会した。

「新宿に来たんだから歌舞伎町に行こう」。尚吾のミーハー心に付き合って、歌舞伎町にある「叙々苑」で食事をすることにした。

「急に連絡して来てビックリしたよお」

「久しぶりに少しでも会えないかと思ったんだ」

 尚吾はお絞りで手を拭きながら、照れ臭そうに笑った。

 文夏も、尚吾が学会で東京に来ることがあるとは知っていたが、この三年、親子が連絡を取り合うことは一度もなかった。

 尚吾は生中、文夏はレモンサワーで乾杯した。久しぶりの親子水入らずの食事。カルビやロース。タン塩に舌鼓を打ちながら、お互いの近況や思い出話に花が咲いた。

「ところでお前、また高校に入学したそうだな?」

「ちょっとお父さん! そのこと何で知ってるの!?」

 文夏は動揺した。尚吾には高校再入学のことは話していない。情報源と予想出来るのは一人しかいない。

「この前洋子から電話があってなあ。その時聞いたんだ」

「やっぱりね」

 文夏は溜息混じりに言った。口止めしていた訳ではないが、美貴といい洋子といい、気の置けない二人は案外口が軽いようだ。

「でも連絡取ってたんだ?」

「滅多にないけどな。あの町にも行ったそうじゃないか?」

「うん。太田夫人にも会ったよ」

「太田さんかあ。懐かしいなあ。近くまで来たんなら寄ってくれれば良かったんだ」

「忙しいと思ったから」

「気を遣うことないじゃないか。……しっかし、お前は相変わらず頑張り屋だな」

 尚吾はしみじみと言った。父の言葉に文夏ははにかんだ後、にこっとした笑顔を向けた。

 尚吾は箸を止め、物思いに耽った表情をした。その様子に文夏も箸を止め黙った。しかし網の上の肉が気になり、「焦げちゃうよ」と言いながら自分と尚吾の皿に取り分けた。

 尚吾はコップに残ったビールを飲み干して、徐に口を開いた。

「……酒の力を借りて言う」

 真剣な顔で改まった口調に驚いた文夏は、じっと父の目を見詰めた。

「……お前には、親の都合で辛い思いをさせて来た。今更申し訳ないと言ったって遅いが、苦労をかけたな」

「……」

 地元のホテルで洋子から悔恨の言葉を聞いた時と同様、初めて言われた父からの労いの言葉に、文夏は戸惑った。

 そんな娘の心境を知ってか知らずか、尚吾は文夏の目を見詰め、更に続けた。

「オレも洋子もそうだが、お前のような子供を持ったこと、親として誇りに思う。……よくここまで育ってくれた」

 そう言うと、尚吾は安堵の表情を浮かべ、微笑んだ。

 文夏は尚吾の顔を見たままで、視線も身体も動かすことが出来なかった。そうしている内、胸がキュンと締め付けられて行くのを感じた。

 やがて、視界の下の方からうるうると込み上げて来るものを認識した。

 「ヤバっ!」と思った文夏は、素早く網の上にカルビを三枚乗せ、わざと網に顔を近付けた。

「ああ煙い!」

 煙は網の側で吸収される為、殆ど立ち上ることはないが、涙を煙のせいにして両手で拭った。



 裕介が修学旅行から帰って来た二日後の十一月十日。祖母、澄子が息を引き取った。

 最期の方はガン細胞が脳に転移し、殆ど意識のない状態だったが、余命一ヶ月と宣告されてから半年近くが経っていた。

 心が少しずつ変化し始めたとはいえ、死に行く人、逝った人を羨ましく思う気持ちは継続されていた。間違った道へ進む心を方向転換させようと、打開策を模索している矢先のことだった。

 それだけに、訃報を聞いた裕介は複雑だった。せめて何かしらの結論に達するまで待ってほしかった……。

 不可抗力だとは解っていても、裕介は祖母を悼む気持ちにはなれないまま、通夜・告別式を迎えた。

 この機会にと買って貰った、少し大きめの濃紺のスーツと黒いネクタイ。ネクタイを締めるのは中学の制服以来である。

――あのババア、このタイミングで死にやがって!

 首周りに違和感を、着慣れないスーツに窮屈さを感じたまま、裕介はムカつきに支配されていた。式中の焼香と合掌も、心ここにあらずの形式的なものだった。それが、今の裕介なりの供養でもあった。

 出棺を終え火葬場へ移動し、点火された後は待合室で待機することになった。

 その間、裕介は一人外に出た。駐車場には身内の車が五、六台停まっていたが、それでも広々と感じられた。

 裕介は駐車場の端まで進むと、火葬場を背にしてタバコに火をつけた。

 陽光に照らされた周辺の木々は、紅葉も終わりに近付き、風がなびく度葉を落としている。

 ボーっとその風景を眺めていると、「裕介」と自分を呼ぶ声が聞こえた。だが後ろから聞こえたのではない。裕介の中で聞こえたのだ。

「諦めたら駄目よ」

 裕介はハッとした。紛れもなく澄子の声だ。最初の見舞いの時に言われた言葉。しかし声はか細くはなく、元気だった頃の澄子で、優しく微笑みながら語りかけているようだった。

「裕介、諦めたら駄目よ」

 再度声が聞こえた時、裕介の目は視界不良となった。周りの景色が滲んでいき、生暖かいものが頬を伝った。

 裕介は涙を拭うこともせず、流れるまま、感情が動くままにしておこうと思った。

 悲しさでも寂しさでもない。説明がつかないが、今まで心に溜まっていた老廃物が出て行くような、どこかスッキリして行く涙だった。

――婆ちゃんは、諦めなかった……。

 裕介の中で一つの答えが出ようとしていた。「――早く起きなきゃ、家に帰らなきゃっていう思いが強いのかもね」。

 小枝子が言った通り、澄子は最後の最後まで、生きることを諦めなかった。澄子だけではない。病を患った人も健康な人も、生かされている限り、その天命を全うしなくてはならない。自分もその中の一人なのだ。寿命を消化することに、無駄なんか一つもありはしない。

 生かされているのだから、病気は必ず治るのだから、その日を根気強く待って、天命を全うしなさい。

 諦めたら駄目。それは、退院する希望を持ちながらも、頭の片隅で死期を悟っていたかもしれない、祖母から孫への最後のメッセージ、遺言だったのだ。

「婆ちゃん……ありがとう」

 自分なりの結論が出た裕介の目からは、更に大粒の涙が溢れ出した。歯を食いしばろうとするが、ガタガタ震えて止まらなかった。

 もう二度と、死に行く人、逝った人に対して、羨ましいなどと思ったりはしない。そして、うつ病を必ず治してみせる。裕介は誓った。

――婆ちゃん、見ていてくれよ!

 裕介は火葬場の方へ向き直すと、今度は心を込めて合掌した。

 やっと涙が止まり、裕介は待合室に戻った。

 隣に座った兄に、制服姿の秋久は、

「随分遅かったじゃん。(タバコを)何本吸う気だよ」

参考書に目を向けたまま言った。

「周りのことも考えてよ」

 小枝子が忠告した。譲一は無言だったが、「全く……」とでも言いたげな呆れ顔をしている。

「そんなヘビー(スモーカー)じゃねえよ」

 裕介がそう返すと秋久は顔を上げ、兄の顔を覗き込んだ。

「兄ちゃん、目が赤いよ」

 ニヤつく秋久の言葉に、両親も裕介の顔に目が行った。友達とのひとっ旅以後、表情は随分穏やかになったが、涙を流すなど予想外だった。

 譲一と小枝子は安心したように目を合わせ、微笑みあった。

 この事態に戸惑った裕介は、

「……オレにも感情はあるんだよ!」

ぶっきらぼうに言い放ち、家族に背を向けた。

 窓の外を見詰めた裕介の顔は、澄み切った空を映写したようであった。

                                       

                   了


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拉致旅行 弘田宜蒼 @sy-ougi

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