『23時の美術館で呪われた肖像画』 〜永遠の美をめぐるだ少女たちの怪異譚〜
ソコニ
第1話「美術館の噂」
プロローグ 「美しき呪いの始まり」
美しくなりたいと願わない女性などいない。
それは百年前も、今も、変わらない真実。
大正八年の夏、都内某所の美術館で開催された美人コンテスト。その時を境に、奇妙な噂が囁かれるようになった。
「白いワンピースの少女を見た者は、永遠の美を手に入れられる」
「でも、その代償は——」
都市伝説は、時代を超えて語り継がれていく。
例えば、こんな話。
深夜の美術館で、誰もいないはずの廊下に、一人の少女が佇んでいるのを見たという。
純白のワンピースに身を包み、黒髪を靡かせる美しい少女。
彼女は振り返り、微笑みかける。
その笑顔に魅入られた者は、二度と元の自分には戻れない。
美術館の関係者の間では、「幽靄(ゆうあい)の肖像」と呼ばれる一枚の絵が、決して展示されることなく、地下の収蔵庫で眠っているという。
「見てはいけない」
「近づいてはいけない」
「決して、彼女の誘いに応えてはいけない」
その警告の理由を知る者は、もういない。
あるいは——。
語ることができない。
第1話「美術館の噂」
雨の匂いが漂う夕暮れ時、私は古びた美術館の前に立っていた。
「ここが噂の旧佐々木美術館ね」
暗雲が垂れ込める空を見上げながら、私——芹沢千尋は取材ノートを開いた。築80年を超えるという建物は、まるで時の流れから取り残されたかのように佇んでいる。窓という窓は板で塞がれ、正面玄関には重い鎖が巻かれていた。
美術ライターとして活動を始めて5年。いくつもの美術館を取材してきたが、これほど物悲しい雰囲気を漂わせる建物は初めてだった。
「芹沢さん、お待たせしました」
声の主は、地域の文化財保護を担当する浅田係長。温和な笑顔の中年男性だ。
「ご足労をおかけします。今日は館内を案内していただけるとのこと」
「ええ。ただし地下収蔵庫は…」
浅田係長は言葉を濁した。私は取材前に仕入れていた情報を確認するように切り出した。
「地下には、例の『呪われた肖像画』があるんですよね?」
その瞬間、浅田係長の表情が強張った。まるで禁忌に触れてしまったかのような沈黙が流れる。
「…そうですね。確かにあの肖像画は地下にあります。ですが、あまり近づかない方が」
「どうしてですか?」
「ここ最近、変な噂が立っているんです。あの絵を見た人が、夜な夜な奇妙な夢を見るようになって…」
私は思わず身を乗り出した。これこそが今回の取材の核心。過去3ヶ月の間に、この美術館にまつわる怪異の噂が急速に広まっていた。
「白いワンピースを着た少女が出てくる夢、ですよね」
「ええ。『幽靄(ゆうあい)』と呼ばれる肖像画の少女です。夢の中で彼女に呼びかけられた人は、現実でも彼女の声が聞こえるようになる。そして…」
「そして?」
「その声に応えた人は、二度と戻ってこない——そんな噂です」
浅田係長は苦々しい表情を浮かべた。噂の真偽はともかく、彼が本気で怯えているのは明らかだった。
「実はね」と私は切り出した。「今回の取材、その肖像画がメインなんです。都市伝説の検証企画として」
「やめた方がいい」
浅田係長の声が急に強まった。
「あの絵には、ただ者ではない何かが宿っている。昔から館の関係者の間では、『決して展示してはならない』と言い伝えられてきました」
私は黙ってメモを取る。これほど強い警告は、取材経験の中でも珍しかった。
「でも、見せていただけませんか?」
「芹沢さん…」
「記事にするなら、実物を確認しないと。それに」
私は意図的に明るい声を作った。
「幽霊や呪いなんて、この時代に信じる人もそういないでしょう?」
その言葉が、後になって私を嘲笑うことになるとは、まだ知る由もなかった。
重い扉が軋むような音を立てて開く。懐中電灯の光が、長年人の気配が途絶えた館内を照らし出した。埃っぽい空気が鼻をつき、かびの匂いが漂う。
「足元に気をつけて。電気は通っていないので」
浅田係長の後に続いて、私たちは静寂に包まれた美術館の中へと足を踏み入れた。
壁には色褪せた額縁だけが残され、展示室には空っぽのガラスケースが並ぶ。かつての優美な佇まいを想像することすら難しいほど、荒廃が進んでいた。
「地下への階段はこちらです」
奥まった場所に、螺旋階段が続いている。手摺に触れると、厚い埃が指につく。
一段、また一段と下りていく度に、空気が重くなっていくような錯覚を覚えた。地下収蔵庫は湿気が多いはずなのに、どこか乾いた冷気が漂っている。
「ここです」
浅田係長が立ち止まったのは、分厚い防火扉の前だった。複雑な形状の鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
「中には様々な価値のある作品が保管されていますが…」
言葉を切った彼は、懐中電灯の明かりを奥へと向けた。
「問題の肖像画は、一番奥の壁際にあります」
私たちは沈黙のまま、収蔵庫の中へと進んでいく。無数の梱包された絵画や彫刻が、まるで私たちを監視するように並んでいた。
そして——。
「あれ?」
浅田係長が慌てた様子で懐中電灯を動かす。
「おかしいな。確かにこの場所のはずなんですが…」
私も自分のスマートフォンのライトを取り出し、壁際を照らした。そこには、古びた木製の額縁だけが残されていた。
問題の肖像画は、跡形もなく消え失せていたのだ。
「ど、どういうことだ…!」
狼狽える浅田係長をよそに、私の目は、床に落ちた一枚の紙に釘付けになっていた。それは古ぼけた図録のページ。おそらく、肖像画の写真が載っているページだろう。
手を伸ばそうとした瞬間、背後で物音がした。
振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
再び図録のページに目を向けた時、私の血の気が引いた。
白いワンピース姿の少女が、こちらを見つめていた。その瞳には、どこか憐れみのような感情が宿っている。画面の中の少女は、黒髪を風になびかせながら、かすかに——しかし確かに、微笑んでいた。
自然と手が伸び、図録のページに触れた瞬間、異様な冷気が指先を襲った。まるで氷の表面に触れたかのような。
「芹沢さん!それは!」
浅田係長の警告が遅すぎた。私の指は既にページを持ち上げ、肖像画の全体を露わにしていた。
少女は純白のワンピースに身を包み、どこか懐かしさを感じさせる古めかしい椅子に腰かけていた。背景には薄暗い林が描かれ、その木々の間から漂う靄が、まるで少女を包み込むように見える。
しかし、最も印象的だったのは、その表情だ。微笑みの奥に潜む何か——言いようのない哀しみ。まるで永遠に癒えることのない傷を抱えているかのような。
「綺麗な少女...」
私の囁きが、冷え切った空気の中でこだまする。
その瞬間だった。
画面の中で、少女の瞳が僅かに動いた——。
「!」
思わず図録を取り落とし、それは床に舞い落ちる。しかし、ページは消えていた。まるで初めからなかったかのように。
「今のは...」
動揺する私の背後で、かすかな足音が響いた。カタン、カタン、と。まるで誰かが階段を上っていくような。
「誰か、いるんですか?」
浅田係長が懐中電灯を向けるが、そこには誰もいない。しかし、足音は確実に上へと遠ざかっていく。
「ここは私たちしか...」
言葉が途切れた。私たちの頭上で、異様な音が響き始めたのだ。パキパキと。まるでキャンバスが裂かれていくような。
「上に戻りましょう!」
浅田係長が叫ぶ。私たちは急いで階段を駆け上がった。足音は私たちのものだけのはずなのに、どこか別の誰かの足音が混ざっているような錯覚。
一階に戻った時、私は思わず息を呑んだ。
薄暗い展示室の壁に、見覚えのある少女の顔が浮かび上がっていた。靄がかかったようなぼんやりとした輪郭。しかし、確かにそこにいる。
「あれは...」
振り返った時、その姿は消えていた。代わりに、壁には無数の細かな亀裂が走っている。よく見ると、それは人の顔の形を描いていた。
その日の帰り際、美術館を振り返った私の目に、二階の窓際で揺れる白い影が映った気がした。だが、それは夕暮れの光の錯覚だったのかもしれない。
ただ、確かなことが一つある。
あの日以来、私の夢には必ず、白いワンピースの少女が現れるようになった。そして彼女は、いつも同じ言葉を繰り返す。
「あなたも、私のように美しくなりたいですか?」
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