ケイ
御奏凪
本編
アンドロイドは嗜好を持つか?
この命題について、わたしは自身の嗜好をもって、イエスと答えられるでしょう。
それは例えば、淹れたてのコーヒー。
「コーヒーを淹れる」という行為は、わたしが旦那さまに差し上げるご奉仕の中でもとりわけて特別です。
グァテマラ産のフレンチローストを三十グラム。カップ二杯分には少し多いその量が、わたしの手にはよく馴染みました。ドリッパーに湯を注げば、モクモクと炭酸ガスが泡を成して見目楽しく、そこから立ち上る芳香の嗅覚センサをくすぐる感覚などは筆舌に尽くしがたいものです。
そしてなにより、注いだミルクの溶けていく様子が、なかなかどうしてわたしの心を落ち着けるのです。
それは例えば、旦那さま。
わたしと暮らしている旦那さま。わたしを作ってくださった旦那さま。
その瞳に射抜かれると、電源回路に大きな負荷がかかりますし、旦那さまのお声の甘美なことといったら──その少ししゃがれたお声で「ありがとう」と聞かせていただくためならば──どんなことだってして差し上げたくなるほどなのです。
コーヒーが好き。旦那さまも好き。
けれどもわたしは、たったの一度もコーヒーを飲んだことがありませんでした。
***
「旦那さま。旦那さま。コーヒーが入りましたよ」
窓際の椅子でお眠りになっている旦那さまに呼びかけると、旦那さまは「ああ」と呻きなが目を開け、──上体を起こそうとして藻掻いていらっしゃいます。
「ああ、いけません」
わたしはすぐさま駆け寄ると、旦那さまの背中に手を添えて、起き上がるお手伝いをいたします。
「そのように無理なされると、また腰を痛めてしまいますよ」
わたしがそのように軽く諌めると、
「ああ、すまないね。ありがとう」
と、旦那さま。──御年六十五歳になられるそのお顔には、人生の記録が深々と刻まれていらっしゃいました。わたしが産まれた頃に比べると、随分とお歳を召された様相です。
従者として、主人の老いを前にすれば物寂しく思うのが道理かと思うのですが、わたしは彼のシワが増えていくこの三十余年の全てを知っていることがどこか誇らしく、──告白すると、悪くない心地であったのです。アンドロイドの身分ではありますが、これが「愛おしい」という感情なのだと、はっきりと認識していました。
「さあ、こちらです」
旦那さまを座らせたテーブルには、淹れたてのブラックコーヒー。年季の入ったカップに注がれて、ふわりと湯気をのぼらせています。
「……ケイ、また二つ淹れたのかい。君はコーヒー、飲まないだろう」
旦那さまがはにかみながらそう言うもので、わたしがもう一度テーブルを見やれば、確かにカップが二つありました。旦那さまのカップの隣に、ピンク色の縁取りがされた、可愛らしいカップ。そのコーヒーにはミルクが注がれていて、──記憶を辿れば間違いなくわたしが淹れたはずのそれは、わたしの前に突然現れたかのようでした。
どうやら、わたしは壊れているようです。
この無意識のコーヒーは初めてではなく、度々わたしの前に現れては決まってミルクが注がれていました。記憶がないわけではありません。確かにわたしが淹れた記憶はあるものの、意識をすることなく出来上がっているのです。
ふと気を抜いてしまったときに現れるそれは、もはや「手癖」というほかありませんでした。
「すみません、いつもの不具合だと思います。手癖で淹れるといつもこうなってしまうのです」
わたしが言うと、旦那さまはすっかり慣れたという様子で首を振られます。
「いや、別にいいんだよ。そうだ。また、
「……承知しました」
頼まれたとおり、コーヒーを写真立ての傍に供えました。
景子さま。──わたしが生まれる少し前に、事故でお亡くなりになられた、旦那さまの奥様。
わたしが知っているのはそんな一行程度の情報と、写真立てに飾られたお姿だけでした。
三十年あまり暮らしていて、それだけなのかと自分ですら思います。当然、気にならなかったわけではありません。ただ、奥様のことをお聞きすると旦那さまは決まって苦しいお顔をされるものですから、自然と聞かなくなっていったのです。
そういうわけで、景子さまのことはほとんど妄想に頼るしかなかったのですが、それでも旦那さまから愛されていたであろうことは想像に難くありませんでした。
それは例えば、綺麗に保管された婦人服。多くの化粧品が陳列された化粧台。そして、先程わたしが無意識に淹れてしまった、ピンク色のコーヒーカップ。景子さまの没後に越されてきたというこの片田舎の家には、その気配を感じるほどに、景子さまの形見が溢れていたからです。
隣の写真に目を移せば、若き日の旦那さまも写っていらっしゃいました。白衣を纏った景子さまに引き寄せられる形で、少し居心地が悪そうに並んでいらっしゃるのが、旦那さま。ネクタイの上から作業服を羽織っていて、おそらく勤めていらっしゃった研究所でのお写真なのでしょう。撮影者は同僚の方だったとすれば、居心地の悪さは恥じらいからくるものだったのかもしれません。
──なぜ、研究所をお辞めになったのかと、幾度か聞いたことがあります。景子さまのことと同様に、これについても歯切れよくは答えてくださりませんでした。ただ、都会に嫌気が刺したのだとか、一生分稼いでしまったからだとか、聞くたびに答えが変わっていく中で、「景子と生きるためだ」と言われたのを一番に覚えていました。
気がつくと、旦那さまは窓際の椅子に戻られていました。
やや傾いた午後の日差しが、痩けた眼窩に影を落としています。そこから覗く双眼はどこか遠くを、あるいはどこも捉えていないのかもしれませんが、なにかを待ちわびるような様子で見つめていらっしゃいました。
旦那さまは以前と比べ、窓辺にいらっしゃることが増えたように思います。もともと気に入りの場所だったようですし、腰が悪く座り勝ちになったというのもあるのでしょう。しかしなぜでしょうか、最近の旦那さまはやけに寂しそうに見えて、わたしはいつもそわそわとしてしまうのです。それで目線を泳がせていると、テーブルに残された、黒いカップが目につきました。
片付けようと覗いてみれば、半量ほどのコーヒーが残されています。
「コーヒーはもう、よろしいのですか」
わたしがお聞きすると、旦那さまは椅子を揺らしながら、
「このところ、調子が良くなくてね」
と、寂しそうに答えられました。
「いつかはこれっぽっちも、飲めなくなるのかもね」
カップから上る湯気は今にも断ち切れてしまそうに、力なく揺らめいていました。
「あの、旦那さま。差し支えなければ、こちらのコーヒをいただいてもよろしいでしょうか」
自分でもなぜこのような提案をしたのかはっきりとはわかりません。ただわたしは、そのコーヒーが冷めていくのがなんだかとても恐ろしく思えて、気づけば両の手に持ち上げていたのです。
「え、ああ。飲みたいのかい」
旦那さまは少し面食らったといった様子で、そう聞かれます。
「はい。障りがありますでしょうか」
「いいや、いいよ。初めてのことで、少し驚いただけなんだ」
「左様ですか。では、失礼して──」
一口。ほとんど使ったことのなかったわたし味覚センサが、激しく発火しているのがわかりました。追いかけるようにして、生ぬるい熱が体に染み渡っていきます。
「どうかな、ケイには少し苦いんじゃないかと思うけれど」
感想を求めていらっしゃるのでしょうか。聞きながら、続けて二口、確かめるように味わいました。
「確かに苦味を感じますが、香りや他の味と合わさると、不思議と悪くなく感じます。……これはきっと、美味しいのだと思います」
「──そう、か」
沈黙のあと発せられたそのお声は、震えていらっしゃいました。
「旦那さま……?」
「……いいや、ちょっとね。そうか、そうか」
言いながら、窓の方を向かれて、隠すように、何度もうなづかれていました。その頬を、西日がキラリと照らしています。どうして、泣かれているのですか。旦那さま、わたしは何か、良くないことをしてしまったのでしょうか。
「すまないね、私にもよくわからなくなるときがあるんだ。 うん、……そうだな、ケイが、コーヒーを飲んでくれるのが嬉しかったからかな」
わたしはわからないままに旦那さまのおそばに寄って、両の手を握りました。けれども旦那さまは泣き止むことなく、何度も何度も、「すまない」と「ありがとう」を繰り返していらっしゃいました。
この日を境に、旦那さまはコーヒをお飲みにならなくなりました。代わりに一杯だけのコーヒーを、わたしに飲ませるのでした。
***
「ええ、大丈夫です。このコーヒーはわたしが飲む分ですから。病人には飲ませませんよ」
「はい。面会は三十分までですね。心得ています」
手荷物検査と聞き慣れた説明を
あれから幾度かの冬が過ぎ、旦那さまはお家にはいられなくなってしまいました。お医者さまのお話では、この冬も越えられるかどうかわからないとのことで、──おそらくもう、あのお家に戻られることはないのでしょう。さればこそ、旦那さまがより良い最期をお迎えできるよう、こうしてあしげく通い詰めているのです。
ドアを軽くノックすると、「どうぞー」と女性の声が帰ってきます。
部屋に入ると、ちょうど看護師の方が旦那さまの回診を終えたところでした。窓の傍の大きなベッドに、旦那さまは横たえられて、体からは何本もの管が伸びていまいた。先月に比べれば管の本数は相当数減ったのですが、それが快方に向かっているためでないことを、わたしは知っていました。
「ええと、……ケイさんでしたかね」
「はい。ケイです。旦那さまと面会をさせていただいても?」
「ええもちろんですよ。畑中さん、今日は目も開いていてお元気そうで、ご飯も食べられたんですよ」
そう言いながら、旦那さまに「ケイさんが来てくれましたよ」と、呼びかけてくださいます。けれど、わたしが入室してから今に至るまで、旦那さまはずっと窓の外をぼんやりと見ているだけでした。
「それでは私は一旦退室しますので、何かあればすぐ伝えてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
看護師の方に軽く会釈をして見送れば、部屋には空調の音と、計器が刻む単調なリズムだけ残されました。
「お昼にはなにをお食べになったのですか?」
お返事は、ありません。聞きながらわたしは、家から持ってきた道具を準備してお湯を沸かしはじめます。その間に、お花を取り替えてしまいましょうか。
しぼんだを新聞紙に包み上げ、お水を入れ替えました。
「お庭のツワブキを持ってきましたよ。今年も綺麗に咲いています」
花瓶に花を生けながら旦那さまの様子を伺うと、珍しく目が会いました。不思議そうなお顔をされているので、わたしが誰かはわかっていないかもしれません。
ここ二年ほどの旦那さまの意識は、沈んだり、そうかと思えば不意に浮き上がったりと日和見です。調子の良い日はお話ができることがあるのですが、──その頃は決まって「うちに帰りたい」と漏らされます。そのために、こうしてわたしはお家のお品物を持ってきては、とりとめのないお話をしているのです。もっとも、ここ最近は大体はお眠りになっていたので、その間にお花を替えて、お隣でコーヒーを飲んで帰るというのが常でしたが。
そうこうしているうちに、ケトルがピープ音を鳴らして、お湯の湧いたのを知らせてくれました。私は手早く一杯のコーヒーを淹れると、それをを片手に旦那さまのお隣に座ります。香ばしい匂いが旦那さまにも届いたようで、こちらをまじまじと見つめていらっしゃいました。看護師さんの仰るとおり、今日は本当に調子がよろしいようです。
そんなことを考えていると、旦那さまがおもむろに口を開かれて、はっきりとした口調でこう言いました。
「景子、ミルクはいらないのかい」
どうやら旦那さまは、わたしを景子さまと勘違いしていらっしゃるようです。記憶が混濁していらっしゃるのかもしれません。
「旦那さま、わたしは、景子さまではありませんよ。ケイです」
「ケイ……? 景子じゃないのかい」
「はい。わたしは、旦那さまに作っていただいた、アンドロイドのケイです」
「アンドロイド、……いいや違う、ケイは
室内に響く計器の音が、やけに大きくなった気がしました。
「景子の意識を、ケイ《ボディ》に繋ぎ止めたんだ」
「何を、おっしゃって──」
「いいや、あれは、失敗だった」
記憶が混濁しているのだと、初めはそう思いました。しかし、その語り口は明瞭で──
「景子の開発した移植プログラムを使った。上手くいったはずだったんだ。けれど、前頭葉の損傷が酷くて、記憶の殆どは──」
そして何よりも、その言葉一つ一つを、わたしの心が理解してしまう。
「手続き記憶はかろうじて──」
コーヒーを淹れる手順。
二杯淹れてしまう手癖。
──そして、ミルクを入れる癖。
「研究所を逃げ出して、隠れて、私は待ったんだ──」
「やめてください」
それは、ほぼ悲鳴でした。
「──景子が、目覚めるのを」
落としたカップが割れるより先に、わたしは逃げ出していました。
どこへ行っても変わらないというのに、人を押し除けてまで、ただ走りました。わたしが人であったなら、涙で前が見えなかったことでしょうが、悔しいことに視界は開けたままでした。わたしはどうしようもなく、作り物でした。
***
あの方の過ちは、世間の知るところとなりました。
わたしは参考人として拘束、喚問され、何度も自分のこととあの方のことを話しました。裁判は全国ニュースでも取り沙汰されるほどの注目でしたが、結局、判決が出ることはなく。あの方が亡くなったために、くすぶりつつも幕引きとなったようです。
用済みとなったわたしは放り出され、行く宛もないので結局この家に戻ってきました。わたしがいないうちに散々立入検査をされたようで、部屋は酷く荒れていましたが、かろうじてお二人の写真立てを見つけることができました。
わたしは手早くコーヒーを二杯淹れ、置き直した写真立ての前に供えました。
曰くアンドロイドは感情を持たないそうです。
だとすれば、この怒りも、悲しみも、それを塗りつぶすほどの空虚さも、何一つわたしのものではないというのでしょうか。
あの「すまない」と「ありがとう」は、誰に向けた言葉だったのでしょうか。
コーヒーは、どちらも飲みませんでした。
わたしはきっと、コーヒーなど、好きではなかったから。
ケイ 御奏凪 @misounagi
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