夕融けの零氷ーNONAMEー
槻白かなめ
プロローグ
静寂。そして異質。
たった二語で表してもなお余りあるほど、この空間は正しく静寂であり、異質であった。
薄暗い天井に埋め込まれた蛍光管は、出入り口を示す唯一の目印として淡い光を放ち続けている。だが、その光さえも、冷たく重々しい鉄の扉に吸い込まれるように届かない。「関係者以外立ち入り厳禁」と深く刻まれた警告が、扉の表面に無機質な威圧感を与えていた。その扉は、外部との唯一の通路を頑なに遮断し、この部屋を孤立した小宇宙へと変えている。唯一の例外は、鼠一匹がやっと通れるほどの狭い換気口だ。だが、壁と同じタングステンで造られたルーバーが厳重に嵌め込まれているため、虫一匹すら侵入を許さないだろう。
換気口としての用途を考えると、明らかに設計に無理がある。空気は通るものの、そこから漏れる僅かな風音すら、この空間では異物のように感じられた。温度すら感じさせないひやりとした空気が漂うこの部屋は、無機質の極致だった。鼻腔を掠める匂いも、微かな湿気すらも存在しない。ただ、壁際に整然と並ぶ機器が「コウン、コウン」と低く規則的な呼吸を繰り返し、まるで生き物の脈動のように空間を満たしている。
その音は、人工的な生命の証であると同時に、どこか不気味な単調さを孕んでいた。部屋の中央には巨大な培養槽が鎮座し、薄緑の液体が静かに揺らぎながら、内部の“何か”を包み込んでいる。その静寂を初めて破ったのは、電子モニターに映し出されたデータを報告する、一人の女性研究員の声だった。
「── α_072。照合適正率98.2%。物質濃度、バイタル共に安定。数値に変動はありません。」
彼女の声は落ち着いており、まるでこの無機質な空間に溶け込むように平坦だった。糊の行き届いた白衣が、バインダーの用紙にペンを走らせるたびに小さく揺れる。栗色の髪が一房、頬を滑り落ちると、彼女はそれを指先でそっと耳に掛け直した。細い指先が紙に触れるたび、カサリと微かな音が響き、それがこの部屋で唯一の人間らしい気配だった。
ややあって記入を終えた彼女は、モニター画面の情報と自身が書き留めた記録を二度見比べ、慎重に相違がないかを確認する。
満足そうに頷くと、落としていた視線を再び上げ、ヒンジの曲がったメガネを掛け直した。その動作は緩やかで、どこか儀式めいた厳粛さすら感じさせた。振り返った彼女の視線が次に向かったのは、部屋の中央にそびえる培養槽だった。薄緑の液体で満たされたその槽の中には、人間が──いや、正確には人間を模した“何か”が、何本もの細い管に繋がれて浮かんでいる。その姿は、あまりにも完璧すぎて現実味を欠いていた。顔の造形は一言で「精悍」と表現できるが、細部に目を凝らせばさらにその美しさが際立つ。伏せられた睫毛は長く、閉じた瞼の下に濃い影を落とし、鼻筋は直線的で彫刻のように立体感を帯びている。唇は薄いが口幅は広く、輪郭はすっきりと細い。髪は液体の流れに合わせてゆらゆらと揺れ、まるで夢の中の幻影のように儚げだった。だが、その完璧さはどこか人工的で、生気のない静けさを湛えている。
報告を受けたのは、先程から休む間もなく電子キーボードに指を滑らせ続ける初老の男性だった。彼の白衣は、女性のものとは対照的に、長年の使用でくたびれていた。ふくらはぎほどの丈は、袖や腰周りに細かな皺を刻み、背中から裾にかけて酷くよれている。裾の端は外側にわずかに反り返り、まるで疲れ果てた彼自身の姿を映しているようだった。それでも、白衣には染み一つなく、着古した様子を除けば新品のような白さを保っている。その清潔感は、彼の執念の表れなのかもしれない。 キーボードを叩く指先は細かく震え、長時間集中し続けた疲労がそこに滲んでいた。
「……他の二体は?」
声は低く、少し掠れている。だが、その中に秘めた期待は隠しきれなかった。
「滞りなく進行しております。」
女性の返答は簡潔で、まるで機械のように正確だった。
「……よし。このまま順調に進めば、ようやく
男性は忙しなく動かしていた指を止め、モニター画面を追い続けていた灰銀の瞳をゆらりと培養槽へと向けた。 その瞳には、長年の研究で磨かれた鋭さと、達成を目前にした興奮が混じり合っていた。
ややあって、彼は「長かった、実に……」と熱のこもった深い溜息を吐き出す。その息は、白衣の襟をわずかに揺らし、部屋の冷たい空気に溶けていった。
「いよいよですか。
女性の声には、普段の冷静さを超えた微かな昂揚が含まれていた。 こぽり。培養液の中に生まれた小さな気泡が、個体の輪郭をなぞるように揺らぎながら上昇していく。その動きは、まるで個体が微かに息づいているかのような錯覚を与えた。
「精神を器として、もう一つの人格を新たに植え付ける……でしたよね?」
彼女の言葉に、男性は小さく頷いた。
「ああ、端的には、そうだ。」
彼はぽつりぽつりと語り始めた。言葉の一つ一つに、長い年月をかけて熟成された思索が込められているようだった。
「個体の成長と共に精神は育つ。どのような環境に置かれるかによって、その分岐点は無数に存在する。その伸縮性のある性質を利用し、元の人格とは別の人格を植え込み、共生させれば、いったいどうなるのか? と。」
口調は穏やかだが、灰銀の瞳には燃え滾る情熱が宿っていた。それは、科学者としての好奇心と、何かを成し遂げたいという強い意志が混ざり合った光だった。
「……これは量産型
「確か、この
女性の言葉には純粋な賞賛が込められていた。彼女の視線は、培養槽の中の個体を見つめる室長の背中に注がれている。
「……よせ、尚早だ。完遂していないのだからな。だが、そうだな。もしこのプロジェクトが成就した時には、我々で打ち上げでもしようか。酒でも飲みながら、この長い道のりを振り返るとしよう。」
さて、と男性は言葉を切り、姿勢を正した。
「喋りすぎた。引き続き頼む。」
「はい。」
その様子を背中越しに見つめた女性は、ふと口元を緩く綻ばせ、メガネの位置を指の腹で整えた後、手元の資料に目を落とした。
彼女の手元には、厚いバインダーに挟まれた無数のデータシートが広がっている。それぞれのページには、数値やグラフ、細かなメモがびっしりと書き込まれていた。 作業は終盤に差し掛かり、やがてつつがなく完了する──はずだった。
突如、鼓膜を劈くブザー音が瞬く間に静寂を呑み込んだ。 その音は鋭く、まるで部屋全体を切り裂くように響き渡った。モニター画面が赤く点滅し始め、警告音と共にエラーメッセージが次々と表示される。 画面に傾注していた男性は、「……何だ?」と肝をつぶし、眉間に深い皺を刻んだ。おもむろに端にある解除キーを叩いて対処を試みるが、画面は点滅を繰り返すばかりで応じない。
「…… α_072、混入物発見エラー発生。直ちに問題の解析に移ります。」
女性は冷静さを保ちつつ、バインダーを机に置くと、足早に培養槽の近くへ移動した。掌を下に返し、横へスライドさせると、管理者を識別したロックコードが解除され、虚空に投影されたキーボードが現れる。 彼女が指先で枠を叩くたび、こぽこぽと気泡が浮かび上がり、培養液がわずかに波打った。個体は依然として瞼を閉ざしたまま、覚醒する気配はない。その無反応さが、かえって不気味な緊張感を漂わせていた。
「……混入エラー対象不明。摘出不可。
数分後。培養槽の壁面に映る「Error: Failed to remove contaminants.」という文字を前に、女性はついに動きを止めた。 彼女の手は宙に浮いたまま、虚しくキーボードの上に留まっている。培養槽の液体は静かに揺れ続け、気泡が消えていく様子が、まるで希望が溶けていくかのようだった。男性もまた打つ手がないと悟ったのか、垂らされた一本の蜘蛛の糸が輝きを目前にして断ち切られたような失望感に打ちひしがれていた。彼は意気消沈し、画面の前で項垂れている。灰銀の瞳は力を失い、ただ虚ろにモニターを見つめていた。
女性は振り返り、
「……いかが致しますか。」
と静かに尋ねた。声にはわずかな震えが混じっていたが、それを隠すように彼女は唇を引き結んだ。
「……この後、検体を調べる。それが終わり次第、検体を分解しろ。その後、加熱して蒸発させろ。」
男性の声は低く、まるで呻きのように響いた。彼の手はキーボードの上に重く置かれたまま、動く気配すらなかった。
「承知しました。」
女性は短く答え、再び培養槽の方へ視線を戻した。
男性は酷く落胆し、呻くように呟いた。
「──また、
その言葉は、部屋の冷たい空気に吸い込まれ、静寂の中に消えていった。
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