忘れられたものたちへ

藤之宮

耳鳴

 「耳鳴りがする時は、幽霊に見られてるんですって」


 この季節には珍しい晴れた空、俺が運転する車の走行音に蝉の声が聞こえている中、リンと鈴を転がすような、忘れられるわけのない声が俺の耳に入る。

 まさかと思いながら助手席の方をチラリと見ると、ボタンフロントの涼し気な黒のワンピースを着た、あの日と変わらないツキ子さんが俺の方を見ながら座っていた。俺は震える喉を精神力で何とか押さえつけて彼女との対話を試みる。

 「へぇ、耳鳴りってどんな音がするんですか?」

 そう問いかけると、彼女は右上を見ながらニコニコと俺の問いに答え始める。俺は、彼女の視線が逸らされたのを幸いと思いながら目線を正面に戻す。

 「えーっと、ブーンっていう重低音にキーンっていう金属音、あとは……」

 彼女は、白魚のような指を1つずつ折りながら耳鳴りの種類について話し始めた。俺はその間に、この現象について思いをめぐらせていく。彼女が何故、今更になって俺と会話をしてくれているのか?これは、何か悪いことの始まりなんじゃないのか?とそんな暗いことを考えていくと、頭が痛くなってしまって何も考えられない。……それならばいっその事、この状況を楽しんでしまった方がいいのではないか、という悪魔の囁きに心が傾く。どうせ、こんな機会なんて後にも先にも、今回しかないのだし……。

 「翔太郎さん?」

 思考の海に溺れかけてる中、彼女の声で、ふっと意識が現実に戻ってくる。俺は、努めて冷静に彼女の話題に着いていく。

 「金属音ってやつは何回か聞いたことがありますね」

 俺がそう言うと、彼女はコロコロと声を上げながら笑い始める。

 「ふふふっ、それなら幽霊にずっと見られてるかもですね」

 その言葉を聞いて俺は、ずっとスピリチュアルなことを言う彼女がなんだかバカバカしくて口を開けて笑ってしまう。彼女に健康について説くのはもう遅いかもしれないが、それでも俺は彼女のことを思ってこう言った。

 「ハハッ、病気の可能性もあるんで気をつけないとですね」

 蝉の声が一瞬だけ止まった気がした。


 しばらく町の中を進んでいき、国道に出ると視界が一新し、目の前に眩しいほどの青が飛び込んできた。

 「わぁ、見て翔太郎さん!海が見えますよ!」

 一瞬、外の青に見とれていたが、彼女の声にふと我に返る。彼女のほうを少し見ると、興奮したように頬を上気させながら海のほうをじっと見ていた。その顔に俺の緊張は少しだけ軽くなり、出来もしない約束が口から出ていく。

 「本当ですね、帰りに寄りましょうか」

 そう口にした途端、蝉の声が一層激しくなる。俺は驚いて周りを見てみると、彼女と目が合ってしまった。真珠のような黒い瞳に吸い寄せられてしまう。

 「そういえば、どこに向かってるの?」

 彼女の薄い唇から発せられた疑問に反射的に答えてしまう。

 「北川旅館ってところですよ。山中の辺鄙なところですけど、天然温泉があって食事も美味しかったみたいですね」

 俺のその言葉に彼女はコテンッと首をかしげる。

 「でも、旅館なら南町にも有名な旅館があったのに、なんでそっちにしなかったの?」

 その疑問を聞いた瞬間、少し可笑しくなってしまって口元が少し緩む。

 「それは、ツキ子さんが社員旅行で行っていたからですよ。あれは何年前でしたっけね」

 俺がそう言うと彼女は一瞬、虚を突かれたような顔をしながら話し始める。

 「2…年前とかかな。でも、どうしてそんなこと覚えているの?だって…」

 「だってツキ子さんのことが好きだったんですから」

 俺は彼女の珍しい顔を見て満足しながら、激しく聞こえる蝉の声をかき消すようにカーステレオの音量を上げていった。


 海沿いをしばらく走っていき、木々が少しずつ増え始めて山の中に入っていった。木々の隙間から夕日がこぼれ、車内を茜色に染めていった。

 「夕日が差し込んで綺麗ね」

 彼女がそう言いながら手に差し込む光をまじまじと見ている。そんな彼女の横顔を見ながら幸福感に包まれる。

 「本当に神秘的で美しいですね」

 しばらく山道を走っていくと赤い錆がついていてかろうじて読める看板がポツンと鎮座していた。その看板には『北川旅館コノサキ→』と書かれている。その看板の通りに進んでいくと昔は豪華であっただろう旅館のロータリーが見えてくる。

 ロータリーに車を止めて外へと降りていく。ヒュウッと北風が吹き、俺は身体を震わせる。

 振り返って彼女のほうを見ると、家から持ってきたスーツケースが助手席に鎮座していた。

 「……俺も一度来てみたかったんですよ。廃旅館になったとしてもツキ子さんと一緒に来たかったんですよ」

 俺は、助手席にあるスーツケースを取り出して、寂れて窓がところどころ外されている北川旅館の中に足を踏み入れる。

 コツコツ、ガラガラと俺と俺の持つスーツケースの車輪が回る音だけが、西日に照らされた旅館の廊下に響いていく。廊下には吹きざらしになっている影響なのか、ところどころカビが生えている壁と肝試しに来た人が置いていったのであろうお菓子の空き箱や煙草の吸い殻が散乱している。

 しばらく廊下を歩いていくと目的の部屋の前にやってきた。部屋の上には木札で『天竺』と書かれており、俺は無事に誰にも見られずにこの部屋へたどり着いたことの一人安堵する。


 天竺の部屋に入ると廊下と変わらない状態だった。窓は外され、襖は中途半端に開いておりカビと埃の臭いが鼻の奥を刺激する。

 俺は部屋の真ん中までスーツケースを引きずっていき、ボロボロになっている机に乗せる。この為だけに買った水色のスーツケースがこの空間に不釣り合いで異様な雰囲気を醸し出していた。

 「ツキ子さん、俺はかなり我慢強い方でもあるし、器の大きな男だと自負していたんですけど、あれはどうしても許せなかったです。だって勝手に結婚しようとしてるんですから」

 俺はそう一人呟きながら部屋を後にしようとする。その瞬間、頭が割れるような蝉の声が響き渡った。俺は堪らず頭を押さえて蹲る。

 蝉の声の隙間からペタペタと後ろから誰かが歩いてくる音が聞こえる。

 「どうして、私だったの?どうして、ここまで追ってきたの?どうして、彼を脅したの?」

 真後ろから聞こえるツキ子さんの声を聴きながら、俺は脂汗を拭って懸命にここから逃げる方法を探す。その間にも蝉の声とこちらへ向かってくる足音が聞こえ続ける。

 その時、耳元でツキ子さんの声が囁いてくる。

 「……どうして、私を殺したの」

 俺は反射的にその声の方へ振り向く。その瞬間、無表情になったツキ子さんの黒い目と目が合ってしまい、俺はその場から動けなくなってしまう。ひぃひぃと悲鳴にも聞こえるような呼吸音をさせながら彼女と長い間見つめていた。

 数秒、数分、数時間、体の感覚が無くなるほどの時間が流れていたような気がした時、彼女が俺に向かって微笑んだ。それを見た時、俺は許されたと思ってほっと安心をする。彼女は薄い口を開いていく。

 

 「お前が死ね」


 何も聞こえなくなった。

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