十四 『覚醒』 三島 朋子 根ノ町/二十八山/01時40分

 二十八山の獣道で、私は背の高い女性に手を引かれ、転びそうになりながら歩いていた。彼女は佐河と名乗った。


 根ノ町学園で絶望し、うずくまっていた私に、この女性は優しく声をかけてくれた。父を目の前で失った悲しみから、思わず彼女の胸に飛び込んでしまったが、本当にこの人を信じていいのだろうか? 彼女の手からは確かな温かさを感じるのに、その奥深くには、ほんの僅かに冷たさが潜んでいる気がしてならなかった。


「私は……どこに行くの、ですか?」


 助けてもらっておいて失礼だが、本音を言えば、この薄暗い道から逃げ出し、どこか建物の中に籠もりたい。そのほうが安全だし、なにより、父から『二十八山には昔から悪い噂があるから近づくな』と言われていたので不安だった。


 一瞬の沈黙が、まるで長い間続いたかのように感じられるほど、緊張した空気が流れる。その中で、佐河は呆れたように、しかしどこかおどけた口調で言った。


「ふふっ……。早く目を覚ましてよ。お母さん」


 一体、何を言っているんだ? さっきからこの女は、私に何かを期待するような目で何度も見てくるし、私の手を愛おしいもののように優しく、それでいてしっかりと握っている。学校で習う『気持ち悪い不審者』のそれと同じだった。


 私は彼女の手を振り払い、道なき山道を全力で駆け出した。このまま彼女と一緒にいたら、なにかまずい。助けてもらった恩はあるが、本能が拒絶している。張り巡らされた根に足を取られそうになりながら、枝木に腕を引っかけて傷を作りながら、それでも喘ぐように走り続けた。


 しかし——。


 枝をかき分けた先に、ひとりの人が立っていた。いや、人の形をした異形が。


 驚きと恐怖のあまり、その勢いのまま腰を抜かしてしまう。柔らかい土に腰を打ちつけたが想像以上の痛みが走った。

 目の前の異形が、不気味な笑みを浮かべながら私を見下ろす。ゆっくりと、すり足でこちらへ近づいてくる。


 痛み、絶望、後悔、恐怖……この世の負の感情をすべて寄せ集めたような感覚に襲われながら、必死に体を動かそうと命じる。しかし、腰の痛みがあまりに強烈で、思うように動けない。


 そのとき——。


 背後から、ガサガサと草木をかき分ける音がした。


 佐河が、私を追ってやってきたのだ。その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。だが、それはまるで水彩画で塗られたかのように、のっぺりとしていた。


 彼女の視線が、異形に向けられる。


 異形は、その視線にアレルギー反応を起こしたかのように怯え、後ずさりし、その場を離れていった。


 困惑する私をよそに、佐河はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。そして、私の耳元で細く囁いた。


「めざめて……」


 瞬間——。


 脳裏に、数えきれないほどの景色がフラッシュバックする。


 でも、違う。これは私じゃない。私は……私は……。


 すべてを理解した。しかし、私の魂は、それを認めたくなかった。


 それでも。


 あの時から、この運命は決まっていたのだ。


 私は力なく、佐河に手を差し出す。


 佐河は、分からず屋のひねくれ者がやっと理解を示した時のように、嬉しそうに微笑みながら、その手を取った。


 空よ、光よ、上へ、上へ。

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