第二十四話 宣誓

「……あれ?」

 キスを期待して目を閉じていた奈留が、気の抜けた声を上げた。そっと自分の額に触れる。微かな熱と湿った感触を惜しむように、何度も指で撫でた。

 困惑も露わな奈留を見下ろすと、秋穂は奈留の声音のままで、冷ややかに告げた。

「お預け」

「え……?」

「ちゃんと原稿やって。締め切りまでにきちんと仕上げて。それまでキスはお預け」

 硬い口調で命じられた奈留は、真っ白な顔のまま固まった。言われたことの理解を拒むように、瞬きすらせぬまま微動だにしない。

 厳しい表情を保ちながら、秋穂の背に冷や汗が流れる。

(怒るかな……)

 要求されたなら応じる。拒まず従う。奈留と秋穂の関係が単なる主従であれば、それに疑問を持たなかった。

 しかし、秋穂に求められているのは『奈留として』奈留の要求に応えることだ。奈留が好きだという、彼女自身の代役として振る舞うことだ。

 故に、思った。たとえそれが自分自身であったとしても、誰かの求めに唯々諾々と従うだけの奈留を、きっと彼女は好きなままでいられない。

「その代わり。原稿が済んだら、もっとちゃんとしたキスしてあげるから」

 せめて、甘い声を作って囁き、奈留の顔に触れていた手を離した秋穂は、固唾を飲んで奈留の反応を待った。

 奈留はまだ動かない。まだ何も言わない。凍りついた眼差しは秋穂を捉えて離さず、秋穂もまたそこから逃れられずに立ち尽くす。背中を伝う汗が、じわりと量を増した。

 不意に、奈留が小さく息を吐いた。ふぅ、と微かに聞こえたかと思うと、彼女の両眼が焦点を結び直す。秋穂の瞳を改めてじっと覗き込んだ彼女は、

「ナル……ううん、ねぇ、

「っ!!」

 自分の名を呼ばれたことに、驚きと恐怖が隠せなかった。奈留としての表情に罅が入り、我知らず半歩下がってしまう。肺も心臓も麻痺したかのように息が詰まった。

 咄嗟に秋穂は跪いた。椅子に掛けたままの奈留よりも頭を低くし、その顔を見上げながら声を絞り出した。

「す、すみません奈留! 勝手なことを……もう言ったりしませんから! お願いです、許して――」

 見放される。その恐怖に憑かれ、秋穂は必死で許しを請う。

 だが、奈留はそれを碌に聞いていなかった。据わった眼で秋穂を睨んだ彼女は、これまでになく真剣な声音で囁いた。

「煽った以上は、責任取ってよね」

「せ、責任、ですか?」

 彼女の言葉が何を示しているのか分からず尋ね返した秋穂に、奈留は椅子から立ち上がると、見下ろしながら手を差し伸べる。

 ニヤリと、彼女としては精一杯の不敵な笑みを浮かべて、告げる。

「本気で描く、って言ってるの。だから、アキも手伝って。遅れずついてきて。ビシバシ仕事振るから」

 秋穂の返事はない。奈留の手に自分の手を重ねながら、彼女の言葉を反芻する。

 どうやら怒ってはいないらしい。そして、原稿のペースを上げるつもりらしい。そう宣言しているらしいことを理解するのに、しばし時間を要した秋穂は、表情を動かさないまま、奈留に気づかれないほど小さく鼻を鳴らした。

 そんな簡単にできるのなら、最初からそうして欲しい。

 小馬鹿にするような胸の内を知る由もなく、奈留は自信満々に頷いてみせる。そんな彼女に、秋穂はただ、

「はぁ」

 と、曖昧に相槌を打つのみだった。

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