第十七話 慰め

 がちゃ

 音を立てて玄関を開けたのは、午後五時を回ったくらいだった。何もなければ四時前には帰って来ていたはずなので、一時間くらい遅いことになる。

 重い足取りで家に入り、鍵を閉める。

 奈留が靴を脱いでいると、恐らくドアが閉まるのを待っていたのだろう秋穂が、リビングから顔を出した。

「お帰りなさい、奈留。お疲れ様です」

「ただいまー」

 労う言葉に返事をして、彼女に近づいていく。そのまますぐ脇を通り抜け、リビングに入ると、ソファーの隣に鞄を置いた。秋穂がリビングの扉を閉じ、すぐ後ろに続いてきたのを感じる。

 半ば以上単なる気まぐれで、奈留はくるりと後ろを向いた。目の前の秋穂へ向けて、

「ナル、慰めて〜」

「……えっ、慰め……ん?」

 瞬時に秋穂の目つきや声音が別人に変わる。だが、奈留の要求の真意を測り損ねたらしく、秋穂は困惑した様子で首を傾げた。

 そんな彼女をよそに、奈留は両腕をだらりと垂らしながら、再度告げた。

「なーぐーさーめーて〜」

 駄々っ子のような口調だ。実際、やっていることは限りなく近い。困り切っておろおろする秋穂の表情を、内心楽しげに窺っていた。

「え、えっと……」

 どう接するべきか模索するように、秋穂の両手が宙を泳ぐ。

 少し苛めすぎただろうか。そう思い、「冗談だよ」と切り出そうとした奈留だが、口を開こうとした瞬間、唐突に彼女の頭が左右から包まれた。秋穂の両手にそっと引き寄せられる。

 抱き寄せられた頭は、秋穂の胸元に収まった。突然のことに目を白黒させているうちに、彼女の手は奈留の背中に移っていた。労わるようにさすられる。

「こういう感じでいい?」

 自信なさげに、そんな声が降ってきた。とん、とん、とリズム良く背中を叩かれる。不覚にも、じわりと胸の中に温かいものが広がった。

 気づけば無自覚なまま、秋穂の服の裾に手が伸びていた。奈留は肯定も否定もせず、ただ秋穂の胸の中で動きを止めた。

 秋穂は片手で奈留の背中を撫でながら、もう片方の手を後頭部に添えて、優しく髪を梳く。そうしながら、躊躇いがちに口を開いた。

「ねぇ、何があったのか、聞いた方がいい?」

 ぴく、と少しだけ奈留の頭が動いた。

 聞こえなかったわけではない。それでも、しばらく返事はなかった。沈黙を貫く奈留を、秋穂もそれ以上催促せず、そのまま背中と髪を撫で続けた。

「……長くなるけど、いい?」

 絞り出すような声で呟いたのは、二分ほど経ってからだ。

 顔を上げようか、少し迷ったが、結局顔は秋穂の胸元に埋めたまま。くぐもった声だったが、秋穂はそれを聞き逃さなかった。

 その上で彼女は、

「え、じゃあ後で」

「聞かないんかいっ!?」

 思わず漫才のようなツッコミが出てしまった。

 今度こそ顔を上げた奈留の両頬が、秋穂の手に捉えられる。秋穂は頬をほぐすように弄りながら、微かに苦笑が混じって見える笑みとともに告げた。

「買い物行かないと晩ご飯作れないからね。さっさと済ませて、ご飯の用意しながら聞いてあげる」

 そう言い終えると、秋穂は両手を離した。一歩退がり、しかし視線は奈留から外さないまま、続けて問いかける。

「アキに一人で行かせる? それとも一緒に行く?」

「……私も行く」

「ん」

 さも当然のように、秋穂自身をまるで別人のように扱う台詞。思わずぞくりとしながらも、奈留が寄越した返答に、秋穂は短く頷いた。

 それから彼女は、クローゼットのコートに袖を通す。その間に奈留も、部屋に鞄を置きに行った。ついでに財布の中身を検め、買い出しに十分なのを確かめる。

 リビングに戻ると、秋穂は畳んだエコバッグをポケットに入れているところだった。すぐに彼女は奈留の視線に気づき、促すように玄関の方へ足を向けた。

「外では別の話にしてね。外では、私は奈留でいられないから」

 靴を履きながら、そんなことを告げられた。思わず目を瞬いた奈留に何を思ったか、秋穂は苦笑混じりに、

「私が聞いた方が良ければ、それでも構いませんけど」

 わずかな違いでしかなかったが、それは直前までとは違う、秋穂としての言葉だった。奈留自身も驚くほど、すんなりとそれを理解できてしまう。

 その上で、何と返すべきか。しばし葛藤が生まれた。

「……アキにも、知ってて欲しい」

 その言葉は、秋穂にとって意外だっただろうか。

「でも、やっぱりナルに聞いて欲しいかな」

「……うん。それでいいよ」

 ドアの前でそう返事をした瞬間。淡く微笑んだ彼女は、秋穂だっただろうか、それとも奈留だったのだろうか。そんな疑問が過った次の瞬間には、秋穂は玄関前にあった帽子と眼鏡を着けて、影井秋になっていた。

 掴み損ねた答えが、するりと指先から滑り落ちていく感じがした。


 買い物、そして料理といっても、時間が遅い以上、あまり手間をかけるつもりはなかった。奈留と連れたってスーパーを足早に横断した秋穂が選んだのは、焼くだけでできる豆腐ハンバーグ。それと、豆と豆腐のミネストローネ風。

(畑のお肉に対する信頼がすごいな……)

 奈留は一人静かに戦慄していたのだが、彼女の顔色に――そしてその理由に、秋穂は気づいていただろうか。

 スーパーから帰宅した秋穂は、台所へ一直線。そのまま鍋に水を張り、調理を開始した。彼女の背中を追ってきた奈留の気配を感じるや否や、背後を振り返り、

「待たせてごめん。繰り返すけど、何があったのか、聞こっか?」

 そう声をかけてきたときの態度は、もう既に奈留のものだ。

 告げられた途端に萎縮するような仕草を見せた本物とは似つかないほどに、堂々とした奈留として振る舞っていた。

「……うん」

 今更の葛藤を飲み込んで、頷く。

 思い返すと、それだけで苦い気持ちが蘇ってくる。叶うなら忘れ去ったまま、二度と思い出したくないという気持ちもある。それが不可能なことを理解していても、だ。

 だからこそ、その苦さを少しでも払拭したくて、奈留はゆっくりと口を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る