第八話 表向きの話

「ところで奈留。私からもこれからのことについて相談があります」

 リビングに着いて、奈留はテレビ前のソファーに、秋穂はテーブル前の椅子に腰を下ろしたところで、秋穂がおもむろにそう切り出した。

 無論相談すべきことはあるだろうが、秋穂が真っ先に相談したい内容が分からず、奈留は小さく首を傾げた。その反応も当然と思っているようで、秋穂は変に勿体ぶることもなく言う。

「今後私も外出するとなると、嫌でも人目に触れます。そのときのためのカバーストーリーを作っておきたいです」

「あー……アキが何者で、どうしてうちに住んでるかってことね」

 言わんとすることを理解するのに少し時間がかかったが、気づいてみれば納得の主張だ。手を打って確認すると、秋穂もそれを肯定するように首肯した。

「そりゃ、素性不明の女の子を拾って住まわせてます、ってわけにはいかないか」

 秋穂を受け入れると決めた瞬間には深く考えていなかったが、どう考えてもそれはまずい。一軒家ならまだ誤魔化しようもあるが、ここはマンションだ。出入りするたびに人目を避け続けるのは不可能である。

「ついでに、この見た目で学校にも通っていません。登校時間に奈留しか出かけないところを目撃されれば、不自然がる人もいるでしょう」

「うーん確かに……」

 重なる指摘に、苦い声で唸る。考えてもみなかった懸念に、我知らず眉間に皺が刻まれていく。一方、秋穂はそれより幾分余裕のある面持ちだ。

「とはいえ、不必要に目立つことをしなければ、過度な干渉は受けないでしょう。実態と矛盾しない情報を小出しにしていけば、どうにかなると思います」

 自信ありげな態度だ。

 裏稼業といっては悪いが、あまりおおっぴらには紹介できない類の仕事に従事していた彼女である。この手の偽装も経験があるのかもしれない。ふむ、と息を入れて尋ねた。

「もう具体的な案がある感じ?」

「大体は」

 問いかけに、秋穂は即答。奈留も感心して小さく拍手。やはり勿体ぶることなく、秋穂は自分が偽る情報を列挙し始めた。

 まず歳は十八、三月で十九になる。高卒一年目の社会人、システム開発の仕事をしていて在宅勤務。奈留とは遠縁の親戚にあたり、会社の研修が終わったのを機に実家を離れることになったため、奈留の家に住まわせてもらうことにした。人見知りしがちで口数も少ない、引っ込み思案な性格をしている。

「と、これならば私の生活実態と矛盾はしません。声まで奈留に近いことは極力隠した方が、今後の成り代わりにも都合がいいでしょうし、喋る機会はなるべく減らします。年齢は三つほどサバを読むことになりますが、奈留の二つ上ならどうにか通用するでしょう」

「……これ信じる人いると思う?」

 突飛な人物像を平然と並べ立てた秋保とは対照的に、聞いた端からスマホのメモ帳に入力した内容を目でなぞりながら、奈留は疑念満載でぼやいた。が、秋穂の自信はなおも崩れない。

「一度に並べれば不自然に映ります。ですが、これらの要素を一つ一つ小出しにしていく場合、印象は違います」

「そう?」

 正直、そう言われても未だ懐疑的だ。眉根を寄せる彼女に、秋穂も真剣に語り続ける。

「初めに誰かに目撃された段階で、奈留の親戚であることだけ話します。顔立ちも似ていることですし、あまり疑われないでしょう」

「まぁ、それくらいは」

「頻繁に見かけることを疑問に思われたら、一緒に住んでいることを明かします。すると相手は、私と奈留が別々に暮らしながら頻繁に会っていた、というこれまでの認識の誤りを修正します。学校に通っていないことを指摘されたら、年上であること、社会人であることを明かします。すると今度は、学生だという勘違いを修正します」

「な、なるほど?」

「ここで大事なのは、最初に私と奈留が一緒にいるのを見たときに、それ自体を不自然なことだと思わせないことです。歳の近い親戚であれば、見た目が似ていることも、一緒に行動していることも、そう不自然に思われないでしょう。その『自然』という認識の土台を最初に築き、そこに生まれた私たち二人の関係性に関する想像、錯覚を、疑問を持たれるたびに修正していく。細かな矛盾が逐次修正され続けることで、全体像は一見して荒唐無稽でも、それを俯瞰して疑問を抱くことができなくなります」

 順を追って説明していく。それは確かに筋道が通って見える理屈ではあったが、それでもなお「そんな上手くいくものかな」と疑わずにはいられない。

 そんな奈留の胸中を見透かしたか、秋穂は肩を竦めて、

「一切の疑念を抱かせない、ということが目標ではありません。踏み込んだ干渉を行うほどの確証を持たれなければいいんです。「何となく違和感があるな」だけでは、大きな行動を起こそうとは思わないでしょう?」

「……まぁ、それは確かに」

 思わず顎に手を当て唸る。

そう言われれば、日常において多少の違和感を抱くことなど数えきれないほどある。そしてその全てを疑い続け、疑念が晴れるまで観察し続けるかというと、当然ノーだ。要は、そのレベルまで違和感を抑え込めればいいということか。

 一定の理解を得られたことを確認し、秋穂はついでとばかりにもう一言。

「第一、 女子高生が一人暮らしをしている時点で、元々珍しい状況なんですから」

「……うん、まぁ」

 それを言われては反論のしようもない。奈留が完全に沈黙したところで、秋穂は話を次の段階へ進めようとする。

「それでですね。仮に親戚と言いましたが、実際のところ奈留は、親しい親戚がいても自然な状況ですか? そこを確認しないと、前提が固まりません」

 それまでの断定的な口ぶりから一転し、おずおずとした尋ね方だった。

 先ほど奈留は「だらしない親と距離を取って」と自分の身の上を評した。具体的に掘り下げる必要はないにせよ、その『距離の取り方』次第では、そもそも親しい親戚がいない可能性も考慮しなければならない。

 だが秋穂の危惧を余所に、奈留はあっさり頷いた。

「じゃあ父方の親戚で、従姉いとこってことにしようか。ある程度近い方が、顔が似てるのも自然だろうし」

 あっけらかんと言ってのけるあたり、少なくとも父との関係はあまり悪くないのだろうか。そう考えつつも口には出さず、秋穂はただ安堵の息を漏らす。

「分かりました。奈留のお父様のご兄弟には、どなたがいるんですか?」

「姉と兄がいるけど、兄の娘ってことにするのがいいかな。父さんと叔母さんは結構歳離れてたから」

「ではそれでいきましょう」

「おっけー」

 二人が顔を見交わし、頷き交わす。今後を過ごすに当たって重要な懸案が一つ片づいたことに、安堵が生じる。

ほっ、と息をついたその瞬間、秋穂の目が霞んだ。

「あ……」

 そこでようやく、彼女の内で張りつめていた糸が切れた。今まで暮らしてきた場所を、独り追われて不安にかられながら過ごした時間。奈留が受け入れてくれた後も、まだこの先に保証がなく不安を抱えた時間。それらが全て、疲労として蓄積され続けていた。

 そして、明日より先の日々を過ごしていける、その目途がようやくついた実感が、疲労を堰き止めていた防壁を決壊させた。

 彼女の表情の変化に、奈留も気がついた。おや、と目を丸くした後、秋穂に近づき、じっと顔を覗き込む。頭にそっと手を置き、

「眠たくなった?」

「す、すみません……」

「いいよ。アキにとっては大変な一日だったんでしょ。もう寝たら?」

 瞼を必死で開けようとする秋穂に囁き、頭を優しく撫でる。その感触が、一層秋穂の眠気を誘う。抗うように秋穂が喉を鳴らした。

 彼女は、まだ床に置きっぱなしだった自分のバッグの元へ行くと、中をごそごそと探る。少しして出てきたのは、歯ブラシと歯磨き粉だった。

「せめて歯は磨いてから寝ます。洗面所お借りしますね……」

「あーうん、ご自由に」

 歩き出すその顔は、既に半分以上夢の世界へ旅立っているようだった。トロンとした目で洗面所へと向かう足取りが揺れている。やや不安な気持ちで見送りながらも、奈留は彼女を追うのではなく、彼女のバッグから覗いて見えたものが気になった。

 近づいて確認してみる。袋に詰まった大きな物体が、バッグの中の一角を占領していた。

「寝袋……」

 思わずぼやいてしまった。

静かに背後を見る。秋穂がまだ戻ってこないことを確認した奈留は、黙ってその寝袋を取り出し、物置きと化した部屋に放り込んだ。

「戻りました……すみません、やっぱり眠いので、今日は休ませてもらってもいいですか?」

 秋穂がそう言いながらリビングに戻ってきたのは、その少し後だ。ソファーに座り直していた奈留は、素知らぬ顔で頷いた。

「うん。明日からは色々お願いするかもだけど、今日はもう何にも心配しないで、ゆっくり休んで」

「では、お言葉に甘えさせてもらいます」

 目をこすりながら、秋穂は自分のバッグに辿り着く。が、そこで目当てのものがないことに気がついた。睡魔に屈して閉じかけていた目が、慌てて見開かれる。

 疑問符を撒き散らしながら、バッグの中や周囲に目を走らせる彼女の背後に、やはり何食わぬ顔の奈留が歩いてきた。

「な、奈留っ。私の荷物に入っていた寝袋を知りませんか?」

 気配に気づいた秋穂が振り返り、立ち上がって問い詰める。混乱した様子の彼女の手を、奈留は包むように握って引いた。

「そんなのはいいから、こっちおいで」

「いいから、って……知ってるんですか? 知らないんですか?」

「いいからいいから」

 抗議の声を上げる秋穂に構わず、彼女を引っ張ってリビングを出た。自分の部屋のドアを開け、明かりをつけて秋穂を引っ張り入れる。

 部屋の隅のベッドの前まで秋穂を歩かせ、

「はい。寝袋じゃなくてちゃんとベッドで寝なさい」

 そう告げて、両肩にぽんと手を置く。戸惑いも露わに、秋穂が顔だけで振り返った。

「いえ、ここは奈留の寝床でしょう? 私は――」

「えいっ」

 と、なおも何か言い続けようとする秋穂を、自分の体ごと覆いかぶさるようにして、ベッドに押し倒す。「むぎゅぅ」とくぐもった悲鳴を上げて動かなくなった彼女の脚を、いそいそとベッドの上に押し上げながら、言い聞かせるように語りかける。

「一人で占領していいなんて言ってないよ。私も一緒に寝るから、ほら、端に寄った寄った」

 秋穂の全身をベッドに乗せ終え、掛け布団を手繰り寄せながら、奈留もベッドに上がる。顔を上げ、なおも何か言いたそうにする秋穂の髪に、そっと触れて囁きかけた。

「アキはさ、今まで人より沢山苦労して、頑張って、疲れたんだってことを自覚しなきゃ。だから一度くらい、自分のこと甘やかしてあげて。暖かいベッドでぐっすり寝て、ゆっくり体を休めて、疲れを全部出し切って。そしたら明日からまた頑張ろう。ね?」

 秋穂の頭を枕に乗せてやりながら、柔らかい声で、ゆっくりと言葉を重ねた。

 抗うように唸り声を漏らしていた秋穂だが、奈留が見つめる目の前で、徐々にその瞼が落ちていく。最後には、完全に目が閉ざされた状態でぽつりと、

「すみません……あした、から、は……」

 自責に苦しむような声で呟きながら、眠りに落ちた。

 寝息を立て始めた秋穂を見つめる奈留の目が、眠気とは異なる理由で細められる。愛おしそうに、慈しむように、あどけない寝顔を見つめ続ける。


 少しだけ、嘘をついた。


 秋穂が模した奈留は、確かに本人によく似ている。

 それでも、彼女の模倣は顧客ありきのものだからだろうか。その立ち姿、ごく些細な所作の一つ一つは、それぞれがわずかに、奈留のものより洗練された美しいものだ。現在の奈留の一歩先、一段上のもの。要は、『より理想的な影井奈留』である。

 だからこそ欲しかった。本当に自分と何一つ違わないなら求めなかった。ただリアルなだけの姿見なんて要らなかった。自分自身のしるべとなり得る存在を、どうしても手放したくなかった。

(ごめんね、せっかく普通の生活を送るチャンスだったのに……)

 謝罪の念はある。言葉にする代わりに、起こさないようにそっと髪を撫でる。

 せめてこれからの生活が、自分だけでなく、秋穂にとっても健やかなものであることを祈る。そうできるよう気持ちを改める。誓うように、もう一度髪に触れた。

「……ん」

「おっと……」

 そのとき、秋穂が身動ぎとともに声を漏らした。起こしたわけではなかったようだが、奈留は伸ばした手を引っ込め、小さく苦笑する。

 まだ眠たくはない。それでも、せめて秋穂の眠りをこれ以上妨げることはないよう、奈留は黙って目を閉じた。

 明日から先の日常が一体どんなものになるのかに、想いを馳せながら――

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