第二話 奈留、としての朝
朝。八時二十五分に予鈴が鳴る。校門から少し離れた位置でそれを聞きながら、小走りで街路を駆ける少女の姿があった。
息を弾ませながら。それでいて、冬の寒空の下では汗をかかない程度に、絶妙なペースで校門を潜り抜けた彼女は、下駄箱で靴を履き替え、教室へ。
予鈴が聞こえて四分と十秒。ドアの前に辿り着く。凡そ想定通りだ。少しだけ乱れた息を整え、彼女はドアを勢いよく開けた。
「まーた遅刻寸前だぞ、影井」
渋い顔で担任が唸った。ドアを開けた彼女に、既に着席していた生徒たちからの視線が降り注ぐ。何人かは彼女の姿を見て、親しげな笑みを向けてきていた。
教室を一望し、見える限りの彼ら彼女らの顔を把握する。座席表と照らし合わせ、顔と名前を紐づけし、親しそうな態度を見せた者を確認する。
誰も気づかないほどの短時間、怜悧に双眸を閃かせた奈留は、すぐにおどけた笑みを貼りつけて担任に手を振った。
「ギリギリ間に合ってるからいいじゃないですかー」
「はいはい。いいから席着け」
初老の担任に促されるまま、奈留は自分の席に向かう。鞄を机の横にかけ、椅子に腰を下ろした瞬間、朝礼の鐘が鳴った。
狙い澄ましたようなタイミングの良さに、誰かが忍び笑いを漏らしたのが聞こえる。担任がそれを制するように、名簿を開いて不機嫌声で言った。
「出席取るぞ。
出席番号順に名が呼ばれるたび、生徒たちの「はい」という声が返る。その一人一人の返事を聞き、記憶に留めながら、奈留は自分が呼ばれるのを待つ。
「
「はい」
適度な間を空けて、適度な声量で。ごく自然に。
綱渡りの危うさを胸中に抱きながら、そんなものはおくびにも出さず、奈留――に扮した秋穂は、まず朝の点呼を完遂した。
本人曰く、影井奈留は遅刻欠席の常習犯である以外は、学業に関して最低限真面目である。成績は中の下。定期テストでは概ね平均点を下回るが、赤点を取ったことはない。授業ノートもちゃんと取る。得意科目は現代文と美術、苦手科目は古文と生物。
(予習はしない、という点は揃えられなかったけど)
一限の準備をしながら、秋穂は奈留の特徴を、繰り返し反芻していた。当然だが、朝礼を乗り切ったくらいで安心などしていられない。
授業がある科目と既習範囲から、今日の授業で学びそうな範囲は予め確認しておいた。授業を待たずに全て学習済みというのも不自然ではあるが、それを見抜かれるほど、授業中一人の生徒にスポットが当たることはないだろう。苦手な古文と生物はないので、わざと理解度を落とす必要はないし、化粧が落ちかねない体育、制作物のレベル差が出かねない美術がないのも幸いだ。
やはり最も気を揉むのは、他の生徒との接し方。本人が言うには、普段自分から誰かに話しかけに行くことはほとんどないらしい。普段の不規則な生活もあって、休憩時間は大体机で寝ているのだとか。
(それで本当に授業中は起きていられるのかな……?)
疑いはしたものの、入れ替わりをあれだけ必死に依頼した本人が強く主張するのだから、本当なのだろう。多分。
「な〜るっ」
と、日本史の教科書とノートを並べている最中に、からかい混じりの声で話しかけられた。瞬時に気持ちを切り替え、悪びれない笑みで相手の方へ振り向く。
「やるじゃーん。あんなスレスレで遅刻回避なんて、普通に間に合うより難しくない?」
「狙ってるわけないでしょ。偶然偶然」
話しかけてきたのは
背が高く、手脚はスラッと細長いが、その実そこそこ筋肉のありそうな締まり方をして見えた。目元にはごく薄っすらとアイライン。ここまで些細だと、教員も注意できないだろう。しかしそれが顔全体の印象を美形に整えているのだから、かなり化粧が上手い。
一瞥して得られた印象を記憶に留める傍らで、薄っぺらい笑みを絶やさない。そんな奈留へと近づきながら、西はなおも楽しそうに、
「で、また夜更かしでもしてたん? 今度は何、ゲーム? ドラマ? 深夜ラジオ?」
指折り奈留の前科が挙げられるのを、苦笑で受け止める。内心では一層濃い苦笑で、本人の顔を思い浮かべた。今頃は死に物狂いで原稿に向かっているはずだが、その原因を思えばあまり同情はできない。
無論、秋穂としての感情は欠片も面に出さず、奈留は首を左右に振った。
「いやー、なんか昨日はなかなか寝つけなくてさぁ。ベッドの上でずっとゴロゴロしてた」
「何それウケる。寝たの? 寝てないの?」
「どっちかって言うと寝てないかなー」
ケラケラ笑う西に応じるように、否定のために左右に振っていた頭を、今度は繰り返し左右に傾ける。壊れたメトロノームのような動きがお気に召したか、西がププッと吹き出すのが聞こえた。
すると、今度は奈留の背後に人の気配が現れる。
「夜、なかなか寝つけない。夜中に何度も目が覚める。どれだけ寝ても、疲れが取れない」
どことなく厳かな口調で語りかけるクラスメイトに、奈留と西は揃って向き直る。それから口々に、
「健康食品かサプリのCMでしょそれ」
「それっぽー。もうそのままWEBかテレビに流してよくない?」
二人の反応を受け、彼女は満足げに鼻を鳴らした。
彼女は
ちなみに奈留本人は『東西コンビ』などと影で呼んでいるようだが、本人たちには言っていないらしい。言わないのなら教えないで欲しかった。
東山は無表情のままVサイン。余程楽しかったのか、再びふんすと鼻を鳴らす。
「体は資本。睡眠は大事。寝れない人間に明日はない」
「ちょっと脅す感じにしないでよ……」
淡々と並べられた東山の言葉に、微かに怯える素振りでぼやいてみせた。
ツッコミの温度は低く。本人との打ち合わせ通りにしたつもりではあったが、彼女のリアクションを気に留めたか、ピクリと東山の眉間の皺が動いた。危機感で心臓が絞めつけられる。
「……奈留。顔色悪い?」
「!」
奈留の心配に気づいたわけではないだろうが、東山はほんの僅かに表情に影を落として、奈留の顔に手を伸ばす。熱を測ろうという動きに見えるが――
(まずい、化粧が……!)
いかに似ているとはいえ、奈留と秋穂の顔立ちの違いに、身近な者なら違和感を抱くかもしれない。その違いを薄い化粧で誤魔化している。
触れても化粧に気づかれない可能性はあったが、咄嗟にはそのリスクを許容できなかった。反射的に奈留の手が、東山の手を振り払う。
「奈留?」
驚き、東山が目を丸くした。見守っていた西も同様だ。二人から注がれた視線が、奈留の背中に重く圧し掛かった。
奈留は、振り上げた手をゆっくりと自分の胸元に引き寄せると、たっぷり間を置いた末にか細い声で、
「……キス、されるのかと思った……」
奈留らしい声を意識しつつ、精一杯艶っぽく発した一言。秋穂の渾身の誤魔化しに、東西コンビが揃って凍りついた。
時間にして一瞬の沈黙が、無限に引き延ばされる。呼吸を忘れ、早鐘を打つ心臓を宥める術もなく、秋穂は本気で逃走を検討し始める。
果たして、鉛の沈黙の末、東山が口を開いた。
「奈留が相手なら、まんざらでもない」
「ちょいちょいちょーい!」
相変わらず感情の読めない声音で東山が放った台詞に、音速で西のツッコミが入った。直接触れるわけでもないのに手首の聞いた平手が空を切り、東山は額に受けたように仰け反って見せる。
冷や汗を垂れ流したくなる内心を押し隠し、奈留は曖昧に笑ってそれを見ていた。
「ほーらみんな大好き
丁度そのタイミングで先生が教室に入ってきた。一限の日本史の担当だろう。声を聞いた西と東山が、自分の席へ振り向く。
「おっと、戻るかー」
呼びかけか独り言か分からない西の言葉だったが、東山は律儀に頷いた。それから彼女は奈留に目をやって、
「ん。奈留、本番はまた後で」
「遠慮します」
「いけず」
真顔で冗談を叩きつけてきた東山に、両手を翳して固辞。東山は不服そうにぼやいて、自分の席に戻っていった。
気のせいだろうか、初めて東山の表情に変化があったように見えた。
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