あの子が電話をかけていた場所

おいしいお肉

あの子が電話をかけていた場所

 ある朝、ハルキは私の姿が見えなくなった。というのも、おはようと声をかけても返事がなかったからだ。私は彼女の前に座り、とんとんと爪先でリズムをとった。

 そこにいるの?と彼女は言った。私はとんとん、と音を鳴らして肯定の返事をした。どうやら、声も聞こえなくなってしまったようだった。

「フユキ、そこにいるの?」

 とんとん、と私はつま先を鳴らした。少し楽しくなってきたので、軽くステップも踏んでみた。とんとん、どんどん、だんだん。ハルキはその調子っぱずれなリズムを聴きながら、私の身体がある部分を見つめていた。私は部屋の机の上にあった自分のアイフォンを手に取った。どうやら、物質には干渉できるようだった。指紋認証は……出来ないようだけど、パスコードでロックを解除できたので読み上げ機能をオンにして文字を打ち込んだ。

「おはよう」

 ハルキがずるりと床に体を横たえて、深くため息を吐いた。

「……とりあえず、朝ごはん食べようか」

「うん、用意するね」

 私は文字を打ち込んだ。

「いやっ、大丈夫っ……やる、やるよ」

 それから、私はハルキが用意した朝食を食べた。不思議なことに、物も持てるし、トーストも食べられる。舌の上で香ばしい焼きたてのパンを噛み締めた時のざく、という感触もした。私たちは皿を洗い、ハルキは朝の支度を終えると仕事に出掛けていった。驚いてはいたけれど、きちんと出社していく彼女を見送り、わたしも仕事を始めた。わたしは在宅の仕事をしているので、透明でもしばらくは困らない。問題は、ミーティングや電話の対応などをどうするべきかということだった。

 そもそも、私は今どんな風になっているのだろう。わたしはメールの返信を打ち込みながら考えた。見えなくても私の手は規則的に動くし、文字を打つのに支障はない。声が出せないことを除けば、いつもと変わらずのパフォーマンスをすることができる。とりあえず問題を先送りする手段として、わたしは職場の同僚たちにチャットを送り、しばらく出社できないことと、リモートでメールチェックはできるので仕事は継続して行うことを告げた。ひどい風邪をひいてしまい声が出ないことも追記しておくと、同僚たちからは心配のメッセージが届いた。

 私は昼食を食べ、仕事をし、定時になると退勤して晩御飯を作った。ハルキは、またきっと残業で遅くなるだろうから、彼女の分はラップに包んで冷蔵庫に入れておこう。

 わたしは夕ご飯に作ったカレーを食べて、炊飯器の保温を切って、歯を磨いて眠った。お風呂に入る気にはなれなかった。洗面台のの鏡には、やっぱり何も映っていなかった。体のベタつきや不快さというものはおおよそ感じなかった。どうしてこんなことになっているのだろう、と原因を考えて、心当たりが見つからないまま気づいたらリビングのソファで眠っていた。がちゃ、と鍵の開く音で目が覚めた。

「……フユキ、起きてる?」

 玄関で靴を脱いで部屋に入ってきたハルキが、おそるおそる声を出した。ブランケットをかけた状態で寝ていたおかげで、ハルキはわたしがここにいることを認識しているようだった。

「いるよ」

 喉を震わせて、声を出して、でもそれは私たちとは遠く隔たれたどこかに放り投げられて、そのまま帰ってこなかった。ハルキの、わたしを優しく呼ぶ時の、少しだけハスキーに掠れる声が好きだった。嘘をつく時、あからさまに逸らされる目の描く弱々しい軌跡が愛らしいと思っていた。私は、ぼすぼすと二回ソファを叩いた。起きている、と知らせるために。

 ハルキは、ほうと息を吐いた。そうして、私の身体を確かめるように抱きしめた。

「ここ、くちびる?」彼女は私の顔に当たる部分を恐々と触った。私は肯定するように彼女の肩を叩いた。彼女は私にキスをした。

「うーん……、ダメか」

 何が、と聞くことはできなかった。

 そうして彼女は「しばらく、家を離れる。必ず帰ってくるから」と言った。

 私は何も答えなかった。ハルキは次の日の朝、荷物を纏めて出て行った。そうして、それきり帰ってこない。しばらく、とは果たしてどれくらいの期間を示すのだろう。たぶん、わたしが普通に戻るまで。姿が見えるようになるまでということを指しているのだろう。そんなこと、わたしにもわからない。このまま、私の身体が元に戻らなかったら。とんとんとん、とつま先で床を叩いた。この部屋には誰も居ない。ハルキはカレーを食べなかった。だから、それはそのまま私の朝食になった。

 

 朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして、眠る。そんな生活が一週間、そうして一ヶ月と続いた。私はそのうち、自分が存在しているのかどうかもわからなくなってしまった。鏡に映らないから、自分の顔がどんな形をしているのかも忘れてしまった。私はどんな声をしていたんだろう。仕事をするうち、声が出ないことを誤魔化すにも限界が来てしまい、今は事情を話して仕事をセーブしてもらっている。上司も、まさか部下が透明になって声が出ないとは思っていなかったようで、最初は馬鹿にしているのかとひどく怒られた。けれど、私は根気強くパソコンとアイフォンの読み上げ機能を使用し、リアルタイムで文字を打ち込みながら対話を続けた結果、「どうやら私はここに存在している」と信じてくれたようだった。あるいは、仕事をこなせるなら見えようが見えまいがどちらでも構わないのかもしれなかった。

 買い物はネットスーパーや通販を利用すれば、人と会わずに済むし、だれかを驚かせる心配もない。透明なままでも、私は生きていける。ハルキとは連絡を取っていない。ただ、SNSの更新は時折しているようなので生きてはいるようだった。抜けるような青空や、付き合う前にも、付き合ってからもよく言った透明な海辺の街のチョコレートショップ。絶版になった本を探すために訪れた街のカレー。美味しそうなオペラケーキの写真、去年一緒に食べに行った鯛焼き、熱くて口の中を火傷した揚げ出し豆腐。それらを眺めて、自然と涙が溢れた。

 

 ハルキと付き合い始めた時、わたしはまだ十九歳だった。私たちは同じ大学の二年生で、違う学部の学生だった。

 学内の試みで、違う学部の授業を取得する機会があり、私と彼女はそこで出会った。将来のために入った大学で全くやりたくない授業を選択する私にとって、その授業は息抜きのようなものだった。自分の意思で、自分の興味のあるものを選択できる。その素晴らしさに、私は涙した。私たちはその授業でペアを組み、三ヶ月ともに授業を受け、課題を発表した。課題図書は、なんだったのか忘れてしまったけれど、その日々は楽しかったことをよく覚えている。ハルキは文学部の生徒ということもあり、とてもたくさんの小説を読んでいて、面白いものがあると私にも教えてくれた。

「やっぱりね、物語はハッピーエンドがいいよ」と、彼女は言っていた。

 私は突き放すような物悲しい終わりが好きだったから、そこの考えは合わなかったように思う。それでも、私はハルキとたくさんの話をした。

 ハルキは、村上春樹が世界で一番、この世の何よりも嫌いだと言った。世界的に評価される作家であることを差し引いても、彼女は彼が大嫌いだった。

「だって、わたしの高校生の時のあだ名、村上だよ。信じられる?アイデンティティの揺らぎやすいティーンエイジャーに、よりによって全くの他人の名前で呼ばれるなんて、あり得ないでしょ」

 彼女が苦々しげに呟くのを見て、失礼ながら多少のおかしみを覚えてしまったのも無理からぬことだろう。私たちが友人になるのに、それほどの時間はかからなかった。そうして、何回か共に遊びに出かけ、たくさんの時間を共有し、私たちは大学生のうちに付き合い始めた。告白は、ハルキからだった。私たちはちょうど、お互いの家を行き来し合う仲になり、その時は私の部屋でコンビニで買ったつまみと安酒を飲んでいた。お互いに、ひどく酔っ払っていたし、同性同士の気安い仲であったこともあり、それが告白とも思わなかった。

「好きなんだけど」と彼女は言った。

「何が?」私は言う。

「……フユキが」

 彼女は答えた。声は震えていた。

「ありがとう、私もだよ」

「じゃあ、私たち恋人同士?」

「うん、そうだね」

 そうして、私たちは友人から恋人になった。初めてのキスは、ほろよいの桃味だった。ハルキのことが確かに好きだった。ハルキになら、キスをしてもいいと思ったし、一緒にいても苦ではなかった。その日あったことを真っ先に話したくなるようなひとなら、きっと恋人になっても上手くやっていけると思った。

 それから私たちは就職し、お金を貯めて、共に暮らす部屋を探した。少し狭い、私たちだけの城。ハルキの好きな作家の本が、厳選されてぎっちりと詰まった本棚に、6本入りのチョコレートのアイスバー、別々のベッドがいいと言ったのはハルキだった。彼女はたいそう寝相が悪く、一緒に旅行に行った時にはダブルベッドから叩き落とされたものだ。二人で選びに行った家具で詰め尽くされた部屋に、今は私が一人蹲っている。ハルキは、村上春樹が嫌いで、私が好きで、チョコレートに目がなくて、そうして今はどこにもいない。

 

 微睡の中にいる、すでに過ぎ去った日々は郷愁よりも哀惜を誘った。私はしくしくと涙を流し、その後それがもう戻らないことを悟って、部屋の中を片付け始めた。服も、化粧品も、透明になってからは全く使っていない。今の私は鏡に映らないから、どんな風に使えばいいかわからない。洋服は、身につけた側から透明になってどこかに消えてしまう。そのうち、自分が服を身につけている感覚を忘れてしまった。今の私は、果たして裸なのだろうか。それとも透明になる前、身につけていた寝巻きのままなのだろうか。あるいはこの間消えてしまったワンピースなのだろうか。

 とんとんとん、踵を鳴らした。

 とんとんとん、踵を鳴らした。

 誰もいない、誰も来ない。誰も。

 認識されないのなら、私は本当に存在しているといえるのだろうか。誰からも見えず、ただ部屋の中の空気と溶け合って、飯を食って糞をして、眠るだけの日々を、果たして生きているというのだろうか。わからない。私は、自分の体の輪郭がわからなくなってしまった。つけっぱなしのテレビからバライティ番組の笑い声が聞こえている。きゃはは……、きゃはは……、それがひどく遠い世界の出来事のように感じられた。

 

 フユキ、というのは本当なら私の兄に付けられるはずだった名前だ。兄は、死産だった。両親はそれをひどく悲しんで、せめて次に生まれてくる子供にその名前を託そうとした。兄は生まれてくることができなかったので、公的な書類にも彼の名前は載らない。名前がない、生まれてきた証明はできない。

 だから私はフユキ、それは私の名前。

 そうやって、日々なにか自分を自分たらしめるものをすり減らして生きている。誰かから呼びかけられるたびに、その感情を呼び起こされ、忘れた頃にまたふと蘇る。

 人は、人々の記憶から忘れ去られたとき本当の意味での死を迎えるという。両親は、私にその名前を与えることで、兄をここにとどめるつもりだったのだろう。時折考える、兄が生きていれば私は違う名前になれたかなと。違う自分で、違う人生で、両親も失った子供のことを悼まなくて済む世界。多分、考えても無意味なことだった。

 

 目を開ける。どうやらリビングでそのまま寝落ちてしまっていたようだ。カーテンを閉めた窓の隙間から、朝日が差し込んでいる。ソファで寝ていたせいで、体の節々が痛い。身体を起こして、人の気配に気づく。

「おはよう、フユキ」

 ハルキはダイニングテーブルの椅子に腰掛けたまま、こちらを見ていた。

「……おはよう、ハルキ」

 喉を震わせて、声が出ることに気づく。

「よかった、喋れるんだ」

 ハルキは、安堵したように言った。咄嗟に私は自分の体を見た。

「何かした?」

 私は言った。

「……呪いを解くのはさ、いつだって真実の愛のキスじゃない?」

 そう言われて、一ヶ月前の彼女が私に口付けをしたことを思い出した。

「でも、あの時は」

「うん、だから。何が足りないんだろうって、考えた。考えて、何でフユキのことを好きになったか、思い出すためにいろんなところに行ってた」

 彼女は私に紙袋を渡すと、照れくさそうに言った。中には、きらきらとした箱に入ったチョコレートや、私の好きな作家の新刊の文庫本なんかが入っていた。

「……どうだった?」

「……コーヒー飲みたいなって時に、ちょうどよく砂糖が切れたみたいな感じ」

 ハルキは言った。彼女はコーヒーにはミルクと砂糖をたっぷり入れるタイプだ。

「なにそれ」

 私は笑った。

「空に月がなくて、水槽には水草が浮いてる、それとおんなじ。私の隣にフユキがいない」

「……私は寂しかったよ」

「ごめんね」

 ハルキは言った。そして、私たちが身を寄せ合った時、ようやく私は自分の体のありかを、思い出したのだった。

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