二〇二五〇三二八
翠雪
二〇二五〇三二八
毎月九日、十九日、二十九日はクレープの日。吊り革に片手で掴まりながら、明日の天気を調べた私は、予報ではなく雑学を得た。あと二時間で日付は変わるが、車内における椅子取りゲームは、無言のうちに続行している。身体の自由は効くものの、空席はない車内には、年度末の溜息がたわんでいた。センタープレスの薄いスーツや、電線の走るストッキングを穿く乗客は、めいめい視線を落としている。私も彼らと同族であるため、「明日」までの入力を終え、「天気」のサジェストに伸ばしていたはずの親指で、誤タップなどは夕飯前。ぐうと鳴った腹の近く、「明日 何の日」に基づいた検索結果の一覧には、見慣れぬサイトが並んでいた。
巻いたクレープ生地の形が、英数字の「9」に似ているから。そんな理由で制定したのは、洋菓子会社のモンテールらしい。一番上に表示された、簡素なサイトに書いてあるから、多分きっとそうなのだろう。筋道立ったまともな思考は、残業時間で売り切れだ。
スーパーの一角にずらりと並ぶ、工場出荷のスイーツは、いつでも財布を狙っている。塵も積もれば何とやら、数百円の出費であっても、続けばかなりの額になる。キャベツが一玉で四、五百円のご時世に、不要不急の出費は痛い。しかし、軽くて柔いシュー生地や、バニラビーンズのないカスタードは、時々、替えの利かない食欲に化ける。専門店とはまた違う、量産型の生洋菓子。大きな口でかぶりつき、頬を膨らませることへのハードルは、ビアードパパのクッキーシューではやや高い。何でもいいがなるたけ安価で、手っ取り早く胃と精神をなだめたい、残業明けの今日などは、そういった甘い麻酔を欲してしまう。その大家であるモンテールが、明日はクレープの日だと言うのなら、買って帰ろうではないか。コンビニという名の不夜城は、無数にひしめき合っている。
繊維がほつれたエコバッグは、そろそろ買い替え時だろう。その端へレモンサワーを追いやって、チキン南蛮弁当は、でんと広く陣取らせる。常温の蓋へ主役を乗せ、間延びした店員の声を背に受けて、夜桜の側を通り抜ける。昼間は賑わう公園も、今は流石にひと気がない。青いブランコに腰掛けて、クレープの袋を雑に剥ぐ。長方形のご褒美は、「9」には少しも似ていない。「1」か「0」に近い寸胴のうち、半分以上を頬張れば、分厚いチョコに舌が埋まった。生クリームで溺れかけ、言葉が溢れる隙間もない。食道を下る脂肪の泡が、横隔膜に染みていくのは錯覚だ。糖分によるドーパミンで、自律神経のランプの色が赤に変わる。それでも結局飲み下して、けろりと生きてしまうのだから、なかなかどうして丈夫である。残りもぱくりと口に入れ、先ほどよりも苦労せず、胃酸の海に送り出す。レモンサワーのプルタブは、記憶の中より硬かった。
ふと、明日の天気を調べそびれていることを思い出す。さほど興味もないくせに、無為に過ごすよりはいいと、予約を入れた用がある。左手に巻いた時計を見れば、明日になるまであと五分。前日までのキャンセルなら、無料で白紙に戻せたはず。常より赤い親指は、電車に揺られる間より、よほどまともに動いている。ネット予約のキャンセル処理は、有償に変わる寸前に滑り込めたらしいことを、自動返信のメールで知る。ブランコを揺らせば、鎖が軋む。地面に線を引きながら、私はちょっと浮いた気がした。側面の塗装が禿げた靴を、片方遠くに投げてみる。缶の中身はもう空で、百円引きのお弁当は、温めてもらうのを忘れていた。
スチール製の円柱を潰し、ケンケンパのパを抜く移動で、転がした靴を拾って履く。朝食となるコンビニ弁当を携えて、我が家に続く道を辿る。のんびりだらけるクレープの日は、主賓の抜け殻をエスコートする、晴れ渡った真夜中の散歩から始まった。
二〇二五〇三二八 翠雪 @suisetu
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