静謐

小狸

短編

 恥ずかしながら、僕は重度の鬱病だったことがある。


 それは未だに完治には至っていない。現在も、二週に一度の通院と薬の服薬を続けている。


 原因は、敢えて言うまい。


 就活に失敗したとか、職場選びをミスしたとか、彼女にフラれたとか、家族と仲が険悪になったとか、昔のいじめの記憶がフラッシュバックしたとか、サークルで嫌われたとか、そんなありきたりで、どこにでもある理由である。


 それが最も酷かった頃の――社会人2年目の話である。


 2年目とは言い条、僕は1年目で仕事を辞職していて、それを誰にも話すことができなかった。理由は鬱である。


 勿論、親にも、話すことはできなかった。

 

 誰にも、何も明かせず、鬱々として全てを抱え込み、いっそ死んでしまおうかと、SNSで希死念慮を吐き出す日々を送っていた。


 そんなある日。


 僕の様子を心配した、大学時代の友人が、車を出してくれた。


 たまには外に出ようと、言ってくれたのだ。


 彼は静岡しずおか県に在住し、実家から仕事に通っている。同じ管弦楽団オーケストラのサークルだった友達で、大学在学中には良く話す仲であった。


 僕は断ろうかどうか逡巡したけれど、彼の圧に押されて、行くことにした。


 今から考えると、あの時外に出ていなければ、僕は本当に自殺していたと思う。


 道中、彼と色々話をした。他愛のない話である。考えてみれば、大学を卒業してから、同期とはほとんど疎遠になっていたように思った。


 東名高速を走り抜け、あっという間に、車は静岡県に入った。


 これもまた恥ずかしながら、僕は静岡県を新幹線で通過したことこそあれ、降り立ったことはこれまで一度として無かった。


 着いた先は、三嶋みしま大社であった。


「荘厳だね」


「grandiosoだ」


 友人は、発想記号で答えた。


 大学時代民俗学に傾倒していたこともあって、神社仏閣の類は好きであった。


 五三桐紋があちこちに掲げられているのが見えた。


 久方ぶりに自然の空気を吸った。


 神池には桜の木が囲い、道に沿うように立派に生えていた。


 神門をくぐり、水神社で手を清めて、御本殿の前まで行った。


 思っていたより規模は小さい神社だな、と思った。


「えっと、お参りはどうやるんだっけ」


「二拝二拍手一拝、だよ。多分だけど」


 今度は僕が答えた。


 二度礼をして、二度拍手をして、目をつぶった。


 空間が暗転し、静謐せいひつが訪れた。


 失敗した、と思った。


 何を祈るか、考えていなかったのである。


 そもそも祈りだとか、祝いだとか、そういうこととは無縁な人生だった。だから、つまづいて、仕事も続かなかった。何もかも中途半端なのに、完璧主義なのである。


 健康?


 安寧?


 いや。


 今、そんなことを考えている余裕は、残念ながら僕にはない。


 明日目覚めることさえもままならない状況なのである。


 そんな僕が――何を祈ろうというのだ。


 神がもしいるのなら、どうして今まで、一度も手を差し伸べてくれなかった。


 そんな風に思って――目を開こうとした時。


「良いんじゃないかな、それでも」


 と。


 何かを推察したのか、それとも独り言だったのかは、今となっては分からない。


 友達は静かに言った。


「明日明後日がままならなくとも、今日生きることに、ありがとうって言えたら、それで良いんじゃないかなって、俺は。思うよ」


 その時。


 すう、と。


 身体が周囲の空気に浸透するかのように、ほんのわずかに軽くなったような気がした。


 帰りの車で、僕は友達に話した。


「実はさ、仕事、辞めたんだ」


 と、伝えた。


「そっか」


 ――お疲れ。


 友達は、笑って言った。


 伝えて良かったと、僕は思った。




(「静謐」――了)

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静謐 小狸 @segen_gen

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