「23時59分の婚約指輪」 ~死後7日間の歪な愛~

ソコニ

第1話 契約彼氏 〜死後7日間の愛〜


第1話「23:59の契約」


会議室の蛍光灯が、不自然に明滅した。


私は思わず天井を見上げる。「佐伯さん?」上司の声に意識を戻す。プロジェクターに映る進捗報告が、どこか歪んで見えた。最近、こういった違和感が増えている。


六ヶ月前、婚約者の洋介を突然の事故で失って以来、私の世界は少しずつ狂い始めていた。新規プロジェクトの遅れも、きっとその影響だ。


「大変申し訳ありません。今週中に挽回プランを提出いたします」


会議室を出た後、自分のデスクに戻る。PCの画面に映る時刻は22:30。また残業か。でも、これでいい。仕事に没頭していれば、あの日のことを考えずに済む。考えたくない。考えてはいけない。


洋介は交通事故で命を落とした。これが公式な記録。しかし、その詳細は不自然さに満ちていた。事故報告書には、深夜2時、単独での事故と記載されている。普段から慎重な彼らしくない時間帯、場所だった。


そして、死の直前に送られてきた意味不明なメール。

『会えてよかった。これで、永遠に。』


毎晩、このメールを見返している。既読のまま、返信できないままの会話。スマートウォッチに記録された最後の心拍データは、異常な波形を示していた。まるで、何かに追われていたかのような激しい鼓動。


23:55。そろそろ帰ろうとPCの電源を切ろうとした時、モニターが不自然にちらついた。会議室の時と同じような明滅。オフィスの温度が、急激に低下していく。


差出人不明のメール。

件名が、目を引いた。


『契約のご案内:7日間の復活』


本文を開く手が、微かに震えている。


『愛する人に会いたいですか?

特別な契約により、7日間だけあの人を蘇らせることができます。

ただし、以下の条件があります:


1. 毎日23:59に「継続」か「終了」を選択すること

2. 他人にはその姿は見えません

3. 契約の代償として、あなたの大切なものが失われます』


明らかな詐欺メール。そう思った。でも、差出人アドレスが、洋介の古いメールアドレスだった。使われなくなって久しいはずのアドレスから。本文には、洋介の社員番号まで記載されている。誰も知らないはずの番号。


PCの画面が激しく乱れる。まるで、何かが中から這い出そうとしているかのように。オフィスの温度が、更に下がっていく。指先が、痺れるように冷たい。


23:58。

理性では「無視するべき」と分かっている。でも、心の奥底で、私は既に決めていた。


「麻衣子...」

後ろから、はっきりと声が聞こえた。


振り返る勇気が出ない。でも、体が勝手に動く。首が、意思とは無関係に回される。


そこに彼が立っていた。

変わらない優しい笑顔。でも、目が。目だけが、異様に輝いている。瞳の奥に、人間らしくない何かが潜んでいる。


「麻衣子、会いたかったよ」


抱きしめられる。でも、体温を感じない。心臓の鼓動も、呼吸も、生きている人間の気配が一切しない。むしろ、触れている部分から体温が奪われていくような感覚。


スマートウォッチの画面が点滅を始めた。心拍センサーが警告を表示している。私の心拍数が、異常な数値を示していた。200を超える鼓動。でも、胸に手を当てても、そんなに激しい動悸は感じない。


七日間の、奇妙な再会が始まった。

そして、取り返しのつかない契約の代償も。


画面に、新たな通知が届く。

『あなたの大切なものを、受け取らせていただきます。』


洋介の腕の中で、私の意識が遠のいていく。気を失う直前、彼の顔が、不自然に歪むのが見えた。人間の顔とは、明らかに違う形に。





第2話「歪んだ温もり」


目を覚ますと、見知らぬ天井が目に入った。


自分の部屋――そう気づくまでに、異様に時間がかかった。昨夜の記憶が、断片的に蘇る。23:59のメール。契約。そして、洋介の姿。


「おはよう、麻衣子」


ゆっくりと顔を上げると、ベッドの横に洋介が座っていた。カーテン越しの朝日に照らされる彼の姿は、どこか透き通って見える。手を伸ばすと、触れることはできる。でも、影が、床に落ちていなかった。


慌ててスマートフォンを確認する。昨夜受信した不気味なメールは、しっかりと残っている。送信ボックスには、私が送った返信メール。


『契約を承諾します。』


画面の送信時刻は23:59。しかし、その前後の記憶が、妙にぼんやりとしている。何か、大切な記憶が失われている気がする。それが何なのかも思い出せない。まるで、記憶の一部が切り取られたような感覚。


「今日は、どこか行きたいところある?」

洋介の声が、耳元で優しく響く。


その瞬間、激しい頭痛が走った。まるで、脳の一部が引き裂かれるような痛み。目の前が真っ白になる。


「麻衣子?大丈夫?」

洋介が心配そうに覗き込んでくる。その仕草は、生前と寸分違わない。でも、その目が。人間の目とは、明らかに違う何かを宿している。


「ちょっと、頭が...」


「無理しないで。今日は家で休んでいいよ」

彼が私の頬に触れる。その指が、異様に冷たい。触れた部分から、じわじわと体温が奪われていくような感覚。


会社に電話を入れる。声が、自分のものとは思えないほど震えている。

「はい、佐伯です。すみません、体調が...はい、今日は在宅で作業させていただきます」


洋介が台所から戻ってくる。手にはコーヒーカップ。

「はい、いつもの味」


カップを受け取る。温かい。でも、彼の手は氷のように冷たいまま。矛盾する感覚に、背筋が凍る。


一口飲むと、確かにいつもの味がした。洋介が毎朝入れてくれていたコーヒー。でも、その記憶が、どこか曖昧になっている。毎朝一緒に飲んでいたはずなのに、具体的な情景が思い出せない。


「麻衣子、覚えてる?結婚式場、もう予約してたよね」


その言葉に、胸が締め付けられる。結婚式場のキャンセル、新居の契約解除、二人の思い出の品々の片付け...全て、一人で片付けなければならなかった記憶が蘇る。でも、その記憶の一部が、まるで古いフィルムのように所々欠けている。


「行ってみない?式場」


「でも...」


「大丈夫、他の人には見えないから」

彼が笑う。その笑顔に、どこか打算的なものが混じっている気がした。


着替えを済ませ、玄関に向かう。姿見の前を通りかかった時、息が止まった。鏡に映る私の姿。そこには、一人で立ち尽くす女性の姿だけ。背後の空間が、不自然に歪んでいる。


タクシーを拾い、式場に向かう。運転手は、後部座席の私だけを確認して発車した。洋介の座る位置の空間が、微かに揺らめいている。


「お一人様ですか?」

式場のスタッフが、不審そうに私を見る。


「はい...見学だけ」

答えながら、喉が締め付けられる。横には確かに洋介がいるのに。その存在を、誰も認識できない。


下見の時に決めた披露宴会場に入る。白いテーブルクロス、整然と並ぶ椅子、大きな窓から差し込む陽光。全てが、あの時のままだった。でも、記憶の中の情景が、少しずつ歪んでいく。


「覚えてる?ここでプロポーズしたんだよ」

洋介が、私の手を取る。その手が、昨日よりも更に冷たくなっている。触れた部分の皮膚が、痺れるように痛む。


「うん...でも」


その瞬間、激しい頭痛が襲う。プロポーズの情景が、記憶からはっきりと消え去っていく。大切な思い出が、データが消去されるように、跡形もなく消失していく。


「麻衣子?」

洋介の声が、どこか焦りを帯びている。


スマートフォンのギャラリーを開く。結婚式場の下見をした時の写真が、次々と表示される。でも、日付の新しい写真から順に、洋介の姿が薄れていく。最後の写真では、私一人の姿しか残っていない。


「写真には写らないんだ」

洋介の声が、不自然に響く。その声に、機械的な歪みが混じる。


昼食時、ホテルのレストランで予約していたテーブルに着く。ウェイターが一人分のメニューを置いていく。洋介の分のセッティングは、なかった。


「麻衣子、僕のこと...どれくらい覚えてる?」

突然の問いに、戸惑う。


答えようとして、恐ろしいことに気づく。

私たちの出会い、最初のデート、プロポーズ。大切な記憶が、断片的になっている。思い出そうとすると、頭の中で鋭い痛みが走る。


夕暮れ時、新宿の雑踏を歩く。人々が、私たちをすり抜けていく。いや、正確には私だけを。洋介のいる空間を、人々が通り抜けていく。その度に、彼の姿が一瞬だけ歪む。人間の形を保てなくなったように。


23:58。

自宅のリビングで、時計の秒針の音だけが響く。


「もうすぐだね」

洋介の声が、部屋中に反響する。まるで、空間全体から聞こえてくるかのように。


スマートフォンの画面が点滅し始める。私の記憶が、確実に失われていることに気づいていた。でも、それは本当に「記憶」だけなのか。もっと大切な、取り返しのつかない何かが、奪われているような気がする。


23:59。

通知が届く。


『契約を継続しますか?

※警告:あなたの大切なものが、更に失われます』


画面に映る自分の顔が、洋介の姿と重なって見える。選択を迫られる。思い出を失うことへの恐怖。でも、彼を失うことへの恐怖の方が大きい。


迷う余裕もなく、「はい」をタップ。


その瞬間、洋介の姿が一瞬、激しく歪んだ。人間らしい表情が崩れ、何か別のものの形が垣間見える。それは人の形を借りた、得体の知れない何かのようだった。


意識が遠のいていく。今日という一日の記憶が、フィルムが溶けるように消えていく。ベッドに横たわりながら、私は気づいていた。これは単なる「思い出」の喪失ではない。もっと深刻な、取り返しのつかない何かが、私から失われているのだと。


そして、洋介の姿が、徐々に実体化していく。

でも、それは本当に、あの頃の洋介なのか。

その答えを知る前に、意識が闇に沈んでいった。





第3話「消えゆく私」


目が覚めると、全身が氷のように冷たかった。


布団の中で震えながら、昨夜の記憶を辿ろうとする。23:59の選択。そこから先が、断片的にしか思い出せない。頭の中で記憶を探ろうとすると、鋭い痛みが走る。


「おはよう、麻衣子」


振り向くと、ベッドの横に洋介が座っていた。昨日より、その姿が実体化しているように見える。でも、その分だけ、何かが歪んでいた。完璧な人間の形を保とうとするあまり、逆に不自然さが際立っている。


「今朝は寒いね」

彼が微笑む。その表情に、かつての優しさは残っていない。ただ記憶の中の表情を真似ているだけのような、無機質な笑顔。


「ええ...寒い」


体の芯まで冷え切っている。スマートフォンで室温を確認すると、20度を示していた。でも、体感は氷点下のよう。洋介が近づくたびに、さらに冷気を感じる。


起き上がろうとして、左手の薬指に違和感があった。婚約指輪がある。昨日までなかったはずの指輪が、いつの間にか嵌められている。金属が肌を締め付ける感覚が、異様に痛い。


「あれ?この指輪...」


「忘れちゃったの?昨日、また渡したんだよ」

洋介の声に、微かな焦りが混じる。


昨日のことを必死に思い出そうとする。でも、頭の中は靄がかかったように曖昧だ。確かに式場に行った。その後レストランで...そこから先が、完全に空白になっている。


指輪を外そうとしても、びくともしない。むしろ、引っ張れば引っ張るほど、金属が肌に食い込んでいくような感覚。諦めて、バスルームに向かう。


鏡に映る自分の顔が、妙に陰のあるものに見えた。肌の色が、明らかに蒼白になっている。目の下のクマが、異様に濃い。まるで、何かに生気を吸い取られているかのよう。


「麻衣子、今日は仕事?」


「ええ、行かないと」


「そう...寂しいな」

その言葉に、背筋が凍る。どこか執着めいたものを感じる。もう、ただの優しさではない。


出勤準備を始める。化粧をしながら、鏡に映る自分の顔が、徐々に変わっていくのが分かった。若さが、少しずつ失われていく。まるで、急速に年を重ねているかのように。


会社に着くと、周囲の反応が妙だった。

「佐伯さん、大丈夫ですか?顔色が...」

「何か、様子が違いますけど...」


自分のデスクに着く。PCの画面に映る自分の姿が、朝より更に疲れて見える。


「麻衣子」

背後から、洋介の声。振り向くと、オフィスの隅に彼が立っていた。昼間の蛍光灯の下でも、その姿がはっきりと見える。これまでより、ずっと実体化している。


周りの同僚たちは、彼の存在に気づかない。でも、彼が近づくたびに、皆が無意識に身を縮める。本能的に、何か異質なものの存在を感じ取っているかのように。


「佐伯さん、プロジェクトの件で...」

上司が声をかけてきた。その瞬間、洋介の表情が一瞬歪む。人間の表情とは思えない形相に。


会議室に向かおうとすると、突然の目眩。床が揺れているような感覚。壁に手をつく。冷や汗が滲む。


「大丈夫?」

洋介が近づいてくる。その手が、私の肩に触れる。氷のような冷たさ。触れた部分から、みるみる体温が奪われていく。


会議中、意識が朦朧としていく。他の人の声が、遠くから聞こえてくるよう。視界が、徐々に暗くなっていく。


「佐伯さん!」


気がつくと、医務室のベッドに横たわっていた。

「熱はないんだけど...かなり衰弱してますね」

産業医が心配そうに覗き込んでくる。


「私、大丈夫です...」


「いえ、こんな状態では仕事は無理です。今日は早退を...」


その言葉を遮るように、洋介が現れる。医務室の温度が、一気に下がる。産業医が、思わず震える。


「帰ろう、麻衣子」

その声には、もう人間らしい温かみが全くない。純粋な、所有欲だけが滲む。


タクシーに乗り込む。運転手が、バックミラー越しに私を見る度に、表情を曇らせる。きっと、私の異変に気づいているのだ。


「麻衣子、もうすぐ23:59だね」

洋介の声が、車内に響く。その声に、歪んだ期待が混じる。


マンションに着くなり、全身の力が抜ける。鏡を見ると、そこには見知らぬ女性が映っていた。目の下のクマが濃く、頬はこけ、肌は蒼白。この二日で、明らかに年を取ったように見える。


婚約指輪が、更に強く肌を締め付ける。外そうとしても、まるで肉に食い込んでいるかのよう。指先が、紫色に変色していく。


23:58。

時計の秒針が、異様に大きな音を立てて進む。


「もうすぐだね」

洋介の姿が、徐々に実体化していく。その分だけ、私の存在が薄れていくような感覚。まるで、私の生命力が、彼の実体化の代償になっているかのように。


23:59。

スマートフォンの画面が点滅する。


『契約を継続しますか?

※警告:あなたの魂が、蝕まれています』


その瞬間、全身を激しい痛みが走る。まるで、体の中から何かが引き剥がされていくような感覚。婚約指輪が、肉を突き破って骨まで食い込んでくるような痛み。


画面に映る自分の姿が、洋介の影に飲み込まれていく。もう、これは単なる記憶の喪失ではない。私の存在そのものが、彼に奪われていっているのだと、はっきりと理解できた。


それでも、指が勝手に動く。

画面をタップする音が、死刑宣告のように響く。


意識が闇に落ちる前、洋介の姿が完全に実体化するのが見えた。その代わりに、鏡に映る私の姿が、徐々に透明になっていく。


そして、耳元で囁かれる言葉。

「もうすぐ、永遠に一緒だね」


その声は、もう人間のものではなかった。





第4話「歪んだ鏡像」


目を覚ますと、自分の部屋にいるはずなのに、何もかもが見知らぬもののように感じられた。


壁の色、家具の配置、全てが微妙に違和感を覚える。いつもと同じ場所なのに、まるで誰かが少しずつ位置をずらしたかのよう。それとも、私の記憶が歪んでいるのか。


「おはよう、麻衣子」


振り向くと、今や完全に人間らしい姿をした洋介がいた。昨日までの透明感は消え、むしろ私より生き生きとしている。その分、私自身の存在が薄れていくような感覚。


鏡に映る自分の姿に息を呑む。顔色は土気色で、目の下のクマは紫色に変色している。頬はこけ、唇は青ざめ、まるで生気を吸い取られたよう。そして、婚約指輪が嵌められた左手の薬指が、完全に紫色に変わっていた。


「痛くない?」

洋介が私の左手を取る。その手の温もりに、思わず震える。彼の体温が、人間のそれに近づいている。それは私から奪われた温もりなのか。


「大丈夫...」

自分の声が、かすれているのに気づく。


「今日は、どこか行きたいところある?」

その問いに、胸が締め付けられる。思い出の場所。でも、どこだったか思い出せない。記憶が、砂のように崩れ落ちていく。


「洋介、私たち...最初どこで会ったっけ?」


その質問に、彼の表情が一瞬歪む。人間の表情とは思えない形相が、一瞬だけ垣間見える。

「覚えてないの?」


必死に思い出そうとする。でも、頭の中は靄がかかったまま。初めて会った場所、最初のデート、プロポーズ...全てが曖昧になっている。


「会社...だったかな」


「違うよ。図書館だよ。君が本を探していて、僕が手伝って...」


その言葉を聞いても、具体的な情景が浮かばない。代わりに、別の記憶が蘇る。暗い研究室。パソコンの青い光。そして、洋介の異様な笑顔。でも、それは本当の記憶なのか、それとも錯覚なのか。


「着替えて、出かけよう」

洋介の声に促され、クローゼットを開く。そこに並ぶ服が、全て見知らぬものに見える。これが私の服なのか、誰かの服なのか、区別がつかない。


上着を手に取ると、生地が腐ったように崩れ落ちる。次々と服が朽ちていく。まるで、時間が加速したかのように。


「この服でいいよ」

洋介が一枚のワンピースを差し出す。見覚えのない、真っ白なワンピース。まるで、花嫁衣装のよう。


着替えを済ませ、玄関に向かう。鏡に映る自分の姿が、まるで幽霊のよう。白いワンピースが、死装束めいて見える。それなのに、洋介の姿は日に日に鮮明になっていく。


「図書館に行こう。思い出の場所だから」


タクシーに乗り込む。運転手が、バックミラー越しに私を見て、明らかに顔色を変える。

「お客様、大丈夫ですか?病院へお送りしましょうか」


「大丈夫です」

答える声が、かすかに震える。横には洋介がいるのに、運転手の目には映らない。その存在の有無すら、もう確信が持てない。


図書館に着く。入り口で、警備員が私を不審そうに見つめる。白いワンピース姿の、死人のような顔色の女性。確かに、普通ではない。


「ほら、ここだよ」

洋介が、奥の書架を指さす。そこに向かおうとした瞬間、激しい頭痛が走る。


視界が歪み、書架が踊るように揺れる。天井から床まで、全てが歪んで見える。そして、背後の壁一面が鏡になっていることに気づく。


その鏡に映る私の姿が、恐ろしいものに変わっていた。白いワンピースは血に染まったように赤く、顔は完全に蒼白、そして目は...虚ろな闇が広がっているだけ。


「麻衣子?」

洋介の声が、遠くから聞こえる。


鏡の中の私が、ゆっくりと振り向く。でも、それは既に私ではない。洋介に似た、何か得体の知れないものの姿。


突然、全ての本が棚から落ちてくる。


pages of love、eternal bonds、digital existence...


見知らぬタイトルの本が、雪崩のように降り注ぐ。


その中に、一冊の研究ノートが混じっていた。表紙には、洋介の名前。開こうとした瞬間、彼の手が私の手を強く掴む。


「まだ、見ちゃだめだよ」

その声は、明らかに人間のものではなかった。


婚約指輪が、更に強く肌を締め付ける。指が、完全に壊死したような紫色に。痛みで叫ぼうとしても、声が出ない。


気がつくと、マンションに戻っていた。記憶が、また欠落している。時計の針が、23:58を指している。


「もうすぐだね」

洋介の声が、部屋中に響き渡る。その姿が、より一層人間らしくなっている。


鏡を見ると、私の姿が更に透明になっていた。白いワンピースだけが、異様に鮮やかに浮かび上がる。それは確かに、花嫁衣装のよう。でも、それは結婚式のためのものではない。


この衣装は、魂の埋葬のためのもの。


23:59。

スマートフォンの画面が点滅する。


『契約を継続しますか?

※警告:あなたの存在が、消失の危機にあります』


画面に映る自分の顔が、もう人間のものとは思えない。代わりに、洋介の姿が鮮明に映り込む。彼は、確実に私の存在を奪い、自らの姿を実体化させている。


指が、震えながら画面に伸びる。

もう、これが選択なのか、彼による強制なのか、区別がつかない。


意識が遠のく中、最後に聞こえた言葉。

「もうすぐ、君は完全に私のものになる」


その声は、地獄の底から響いてくるような、おぞましい音だった。





第5話「花嫁の檻」


意識が戻った時、私は見知らぬ場所にいた。


白い壁、白い床、そして無数の鏡。どこもかしこも鏡ばかり。その全てに映る自分の姿が、白いワンピースに包まれている。花嫁のような、そして死装束のような衣装。


「どうして、ここに...」


声を出そうとして気づく。もう、自分の声が聞こえない。口は動いているはずなのに、音が出ない。まるで、声まで奪われてしまったかのよう。


「目が覚めた?麻衣子」


振り向くと、完全に人間の姿をした洋介がいた。もう、どこにも不自然さは感じられない。むしろ、私よりも生き生きとしている。その分、私の存在が希薄になっていく。


鏡に映る自分の姿が、徐々に透明になっていく。それなのに、婚約指輪だけが異様に輝いている。指は完全に紫色に変色し、もう動かすこともできない。


「ここは...私の研究室だよ」

洋介の声が、部屋中に響き渡る。


周囲を見回すと、確かにそれらしき機器が並んでいる。でも、全てが歪んで見える。まるで、悪夢の中の風景のよう。


「君に、全てを見せたいんだ」

彼が歩み寄ってくる。その足音が、心臓を打ち付けるように響く。


「実は、あの事故の日...」


突然、全ての鏡が映像を映し始めた。それは、洋介の最期の日の記録。研究室で、彼が一人、奇妙な装置に繋がれている。モニターには無数のコードが流れ、警告音が鳴り響いている。


『実験記録:最終段階

被験者:中村洋介

目的:魂の転写による永遠の生

状態:臨界』


「永遠に生きたかった。でも、それには代償が必要だった」


映像の中の洋介が、苦しみもがく。装置が異常な音を立て、画面が真っ赤に染まる。そして...


「代償は、他者の存在」


全ての鏡が、別の映像を映し出す。私には見覚えのない人々。皆、白い衣装を着て、徐々に透明になっていく。そして最後に、完全に消失する。その度に、洋介の姿がより鮮明になっていく。


「愛する人の魂を奪えば、この姿を保てる」

彼の声が、より人間らしくなっている。


床に落ちていた研究ノートが開く。ページがめくれる度に、恐ろしい記録が明らかになっていく。


『実験結果:

・意識の転写には強い感情的繋がりが必要

・被験者の存在を完全に吸収することで、より安定的な転生が可能

・最も効果的な感情は「愛」』


「どうして...」

声なき問いに、洋介が不気味な笑みを浮かべる。


「君との思い出は、全て作り出したもの。図書館での出会いも、デートも、プロポーズも。私が、君の記憶に植え付けた偽りの記憶」


その言葉に、激しい頭痛が走る。今まで確かにあったはずの記憶が、砂のように崩れていく。代わりに、本当の記憶が蘇る。


会社の廊下でのすれ違い。

彼の研究への漠然とした興味。

そして、一方的な想い。


「君が私に興味を持ってくれた時、これは運命だと思った。他の誰より、君の魂が欲しかった」


鏡の中の自分が、もう人間の形を保っていない。輪郭が溶け、色が褪せ、存在そのものが薄れていく。それなのに、白いワンピースだけが異様に鮮やかだ。


「この衣装は、君のための最後の贈り物。私の花嫁として、永遠に私の中で生きるために」


突然、全ての鏡が砕け散る。無数の破片が、万華鏡のように部屋中を舞う。その一つ一つに、私の失われた記憶が映っている。


本当の記憶。

偽りの記憶。

もう、どちらが真実なのか分からない。


時計が、23:58を指す。


「さぁ、もうすぐ最後の選択の時間だ」

洋介の声が、より人間らしく、より残酷に響く。


鏡の破片が渦を巻き、巨大な螺旋を形成する。その中心に、スマートフォンの画面が浮かび上がる。


『最終契約:

魂の完全な譲渡を承諾しますか?』


その文字が、血のように赤く滲む。指が、意思とは無関係に画面に伸びる。


婚約指輪が、肉を突き破って骨まで食い込んでくる。激しい痛みに叫びたくても、もう声も出ない。


23:59。


「永遠に、私のものだ」

人間の姿を完全に取り戻した洋介が、私を抱きしめる。


その腕の中で、私の存在が完全に溶けていく。意識が、闇に飲み込まれる前、最後に聞こえた言葉。


「これが、本当の愛だよ」


その声は、もう完全に人間のものだった。

そして私は、ただの記憶の欠片として、彼の中に吸収されていく。


白いワンピースだけが、虚空に揺れて、やがて消えていった。







第6話「永遠の檻」


時計が23:59で止まったまま、永遠とも思える時間が流れる。


私の意識は、まだかろうじて残っていた。白いワンピースに包まれた、ほとんど透明になった体。でも、それすらもう長くは保てない。


「もうすぐだよ、麻衣子」


洋介の声が、研究室中に響き渡る。今や彼は完全な人間の姿を取り戻していた。私から奪った生命力で、その存在を確かなものにしている。


壁一面の鏡に映る映像が、突然動き出す。それは、彼の本当の記録。


『実験記録001:被験者・山田明美

状態:消失確認

備考:想いは強かったが、不完全な転写』


『実験記録002:被験者・鈴木由美

状態:消失確認

備考:愛情が足りなかった』


次々と映し出される記録。全て、白いワンピースを着た女性たち。皆、徐々に透明になり、そして完全に消えていく。その度に、洋介の姿がより人間らしくなっていく。


「君は特別だった。他の誰よりも、強い感情を持っていた」


床に散らばる鏡の破片に、私の本当の記憶が映る。


会社での何気ない出会い。

彼への一方的な想い。

そして、彼の不可解な死。


全て、偽りの記憶に書き換えられていた。図書館での出会いも、甘いデートも、ロマンチックなプロポーズも、全て作られた思い出。


「記憶を書き換えるのは簡単だった。人は、信じたいものを本当の記憶として受け入れる」


彼が近づいてくる。その足音が、心臓を刺し貫くように響く。今や彼の体は温かく、呼吸も鼓動も人間そのもの。それは全て、私から奪ったもの。


「最後の儀式を始めよう」


突然、研究室の様相が変わる。祭壇のような台が現れ、無数の蝋燭が部屋を不気味に照らし出す。


「永遠の愛を誓おう」


彼が手を差し出す。婚約指輪が、もう完全に肉を貫通して骨に食い込んでいる。痛みはもう感じない。それどころか、もう何も感じない。


その時、鏡の中に見えた。

洋介の本当の姿。


人の形を借りた、底知れない闇。無数の魂を貪り、その存在を奪い続ける何か。人間の感情、特に愛を餌として生きる化け物。


「気づいたのか」

その声が、徐々に本来の音に戻っていく。人間の声ではない、地獄の底から響くような音。


「これが本当の私だ。永遠に生きるため、愛する者の魂を奪い続ける存在」


私の体が、祭壇に引き寄せられる。意思とは無関係に、自分の体が動いていく。


蝋燭の炎が、不気味な影を作り出す。その影が、おぞましい形に歪んでいく。人の形とも、獣の形とも付かない何か。


「愛しているよ、麻衣子」


その言葉とともに、全ての蝋燭の炎が一斉に揺らめく。鏡の中の映像が歪み、無数の悲鳴が響き渡る。これまで彼に奪われた魂たちの声。


そして、最後の瞬間が訪れる。


スマートフォンの画面に、最後の選択肢が表示される。


『永遠の契約を完了しますか?

※警告:この選択により、あなたの存在は完全に消失します』


もう、選択の余地はない。

指が、意思とは無関係に動く。


最後の記憶が、フィルムが燃えるように消えていく。

私の存在が、彼の中に吸収されていく。


その時、思い出した。

私は一人ではなかった。


鏡に映る無数の花嫁たち。

皆、同じ白いワンピース。

皆、同じ運命。


「さようなら、麻衣子」


それは別れの言葉ではなく、永遠の檻への招待。

私の意識は、彼の中で永遠に生き続ける。

他の花嫁たちと同じように。


白いワンピースが、最後の輝きを放って消えていく。


そして研究室には、完全な人間の姿をした彼だけが残された。

次の獲物を待ちながら。


机の上のスマートフォンに、新たな通知が届く。

『新入社員の方が配属されました。佐々木結衣(25歳)』


彼は、満足げに微笑んだ。

「次は、君だ」


永遠に続く、歪んだ愛の儀式。

終わりのない、魂の狩りの始まり。


## エピローグ「新たな花嫁」


一週間後、会社の廊下。

新入社員の佐々木結衣が、一通のメールを受け取る。


『契約のご案内:7日間の愛』


外は雨が降っていた。

白いワンピースのような、純白の雨。


(完)




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