草木萠動〈そうもくめばえいずる〉後日譚・小寒〈しょうかん〉
じーく
第1節
それなりに人生を重ねると、たまにある。
自分が普通と思っている常識や、価値観が全く通じない人間に出会うことが。
痛い目にあわないように、元より自分の余計な話はしないし、会話の中でその片鱗を感じるヤツとは、適切な距離を保っておくようにしてきた。
しかし、だ。
厄介な事に、今回のそれはステルスで近付いてきた。
とても親切な先輩の顔をして、プライベートには触れない、適切な距離感を保ってくれる大人の女性の仮面を被って、別れが近付くその時まで本性を隠していた。
仕事納めの日、別れ際に
「ワタシ、三枝さんのこと好きみたいなんですよ」
何だよ、その第三者が言ってたみたいな告白。
「ありがとうございます。でも、オレ、一緒に住んでる大切な人がいるんです。ごめんなさい」
オレは、当たり前にそう答えた。
しかし、彼女は引かなかった。
「結婚されてはいないんですよね?」
結婚してないから何なんだ。
どうせ結婚してたって、引かないんだろ?
透けて見えてるよ。
男なんて、抱ける女がそこにいれば、結婚してようが、彼女がいようが、食らいつくだろうって。
勿論、そういうヤツが多いことも認めよう。
オレだって、聖人君子じゃない。
穂高に再会する前なら、少しフラフラしたかもしれない。
でも、この言い様で分かる。
これは下手に隙を見せると、ズルズルと引き込まれる厄介なヤツだ。
研修は年末で終わった。
オレは年明けから、温泉で有名な駅の店舗に配属された。
確かに同じ電車は使う。
でも、オレは通勤時間が半分になったので、彼女より遅く出て、早く帰れる。
彼女とは、もう会わないはず……だった。
「あ、三枝さんだ。すごーい」
駅舎に入ってすぐに声をかけられて、オレは直ぐ様振り返った。
雪が積もりだしてから、朝は穂高が駅まで送ってくれている。
ヤツにこんなところは、見られたくない。
幸い、ロータリーには、もう穂高の車はない。
そもそも案内板に隠れて、車から駅舎内は見られない。
ホッとして向き直ると、彼女は笑った。
「彼女さんに送ってもらったんですか?」
オレの行動の意味を瞬時に理解するあたり、コイツは相当厄介なヤツに違いない。
「どうしたんですか? こんな時間に」
質問に答えずに、問い返す。
「お休みなんで、お買い物」
仕事の時とは明らかに違う、おろして巻いた髪に、華やかなメイク。
研修で共に働いていた女性とは、まるで別人のようだ。
わざとだ。直感的にそう感じた。
電車の本数は多くない。
配属先を知っていれば、1つ後の電車に乗ることくらい、容易に想像出来る。
仕事の時とは違う自分を見せて、揺さぶる気だ。
「そうなんですね。」
オレは、素っ気なく会釈すると、そのまま改札へと足早に向かった。
小走りに追ってくるブーツの足音が聞こえる。
「新しいとこ、どうですか?」
無視する訳にはいかないのを知っていて、強引に会話に持ちこもうとする。
「研修と違うことも多くて、覚えるのに精一杯ですよ」
前に向かって話してるから、後ろの彼女には案の定、良く聞こえない。
「えっ?」
聞き返した彼女が、オレの腕を掴む寸前に振り返る。
「ごめんなさい。急いでるんで、失礼します」
まだ電車の発車時刻まで時間がある。
オレは、彼女と目を合わせずお辞儀すると、トイレに駆け込んだ。
何で朝から、こんな駆け引きしなきゃならないんだ。
ウンザリする自分の顔が、鏡に映る。
オレの誕生日を経て、穂高はぎこちないながらも、少しずつ本当の自分を見せてくれつつある。
そして、オレと穂高だけじゃなく、まわりのみんなとの絆も深まった。
さて、今度はどうやってオレが穂高の誕生日を祝おうかなって矢先に、余計な心配事が増えるのは勘弁して欲しい。
ましてや、穂高を傷付けるような事になるのは、絶対に避けたい。
のらりくらりやれば、あの手のヤツは自分に良い方に考えて、絶対に諦めない。
嫌われる覚悟を持たなければ。
オレは、足早にトイレを出て、電車へと急いだ。
夕食後、洗い物をする穂高の背中を見ながら、朝の出来事を思い出していた。
言わないという選択肢もある。
正直、心配させたくはない。
でも、黙っていて知られた時、穂高は余計に傷付くだろう。
駅に迎えに来てくれた時の、あの何ともいえない寂しそうな顔は忘れられない。
可愛いって言ったけど、実際可愛いけど、本当はあんな顔させたくないんだ。
オレやまわりの人間が思うより、コイツはいつも繊細にいろんなものを感じ取って、こっそり傷付いてる。
オレは立ち上がって、穂高の横に立った。
「水切りの、拭けばいい?」
穂高が微笑んで、ふきんを手渡す。
「ありがと」
「家事任せっきりはダメだな、って思ってさ。ちゃんと分担とかしようよ」
「どした? 急に」
「ずっとお前と一緒に居たいからさ。どちらかが、全部背負うのは違うだろ。お前と並び立つ。それがオレの目標だから。だからオレも家事やらないと」
「明日、夏日とかになるんじゃね?」
「おい!」
穂高が声をあげて笑う。
本当に楽しそうに、幸せそうに笑うから、オレはこれから言おうとしてることを、一瞬躊躇する。
オレの表情から何かを察した穂高の笑顔が曇る。
「ずーっとずーっと、一緒に居たいから。お前に余計な心配させたくないけど、ちゃんと言うわ」
「ん?」
オレの言葉に、穂高が不安そうにこちらを向いた。
「同僚に告られた」
手に持っていた小鉢が、シンクに滑り落ちるけれど、その手の形のまま、穂高は瞬きもせずに固まった。
ほんの一瞬、怯えるように眉間にシワを寄せて、すぐに気を取り直したように笑う。
「何かと思ったら……コータさん、相変わらずモテます……」
オレは、最後まで聞かずに抱きしめた。
「オレの前で、取り繕うなよ」
「取り繕っ……」
背中に回った腕が、強く強くオレを抱き寄せる。
「てないと、また情けなくてカッコ悪いとこ見せんじゃん」
「いいよ。それ、オレに見せないで、誰に見せんだよ」
沈黙があって、そして小さな声でヤツが言った。
「そりゃ、モテちゃうのは仕方ないけど……何かヤダ」
本音が出た。
それが嬉しい。
「オレも嫌だよ。お前にさっきみたいな顔させたくない」
右手でそっと髪を撫でる。
「ちゃんと言ったよ。大切な人と住んでるって。ごめんなさいって。でも……」
「でも?」
「そう伝えても、諦めないタイプの人だった」
オレを抱き寄せる手に、さらに力が入って、痛いくらいだ。
「前のオレなら、心配させたくないって言わないで、変な誤解を生んで、傷付けたかもしれない。でも、お前ちゃんと本音言ってくれるようになったじゃん? だから、オレも、もう隠して1人でどうにかしようとかしないよ」
オレもまた、抱きしめる腕に力を込める。
「わかった」
小さな声で答えた穂高が、身体を離してオレを見つめた。
「断るのも失礼かなって、お茶したのもいけなかったね」
穂高が首を振る。
「仕事の先輩に誘われたら、仕方ないって」
そして、笑った。
今度はどこまでも穂高らしく。
「ま、負ける気しねぇけどな」
ああ、これがオレの好きな穂高だ。
オレは微笑み返して、頷いた。
「『自分ならどんな奴にも勝てる』って思ってるその鼻、粉砕してやれよ」
「おう」
腕を回して、ファイティングポーズをキメた穂高が、イカつめに口角をつり上げた。
その夜の穂高は、いつもと違った。
そういうとこは正直だ。
『不安で堪らない』
身体から発せられる総てが、そう叫んで泣いてるみたいだ。
だから、オレはいつもより深く、想いが伝わるように抱きしめる。
「大丈夫」
そう呟く度に、嬉しそうに微かに笑う。
ちゃんと伝わってるよ。
ちゃんと分かってるよ。
組んだ指先から、絡め合った舌先から、溶け合うように伝わってくるお前の想い。
安心させたいんだ。もう決して離れないと。
大きく息を吐いて、穂高の鎖骨に頬を埋めると、その振動でまた仰け反って、小さく甘い吐息がもれる。
穂高の鼓動が子守唄のように、オレを眠りに誘う。
このまま眠るわけにはいかない。
組んでいた指を離そうとすると、穂高の指がそれを許さなかった。
「もうちょっと、このまま」
懇願するように言うから、オレは微笑んで答える。
「このまま寝ちゃうよ」
「いいよ」
穂高の掠れた声が、甘く優しく答えて、瞼が上がらないオレの唇に口づけた。
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