克服は「男装女子」から!

小川一二三

本文

 ――四月一日。

 多くの学生にとって節目の日。

 新学期、新学年の始まりの日であり、小学校から中学校、中学校から高校へ進学するタイミングでもある。

 百千梓(ももちあずさ)は今、ベッドの上から動けないでいた。

 現在時刻は七時。カーテンから漏れる朝日が梓の目元に直撃しあまりの眩しさに閉じかけていた瞼をギュッとつむる。しかし瞼を通り抜けてくる赤い光が容赦なく梓を攻撃してくる。まったく太陽というのは遠慮を知らないらしい。

 昨夜緊張しすぎてなかなか寝付けなかった反動か普段の五倍はあるだろうこの星の重力に逆らって体をむくりと起こす。無論不本意だ。

 今日は梓の転校初日。

 中学は男子校だったがこの度都内の少し特殊な中高一貫校へ編入するのだ。

 八時半に着いてればいいが念には念をと七時にアラームをセットしてみたもののまったくもって寝れた気がしない。

 梓は重い体を引きずりながら洗面所へ向かう。

 顔を水で洗うと目が冴えてくる。それと同時に頭も冴え始め今日から新しい環境へ身を置くという事実に若干慄くが弱音を吐いてばかりではいけないとパンと頬を叩いた。

 リビングへ向かうと机の上にスクランブルエッグとウインナー、みそ汁に白ご飯がラップにかけられていた。

 そしてその横には手紙、と呼ぶには簡素だが紙切れと呼ぶには惜しいくらいの置手紙が添えてあった。

「お母さん……」

 誰もいないワンルームの部屋で、誰に聞かせるでもなく梓はぽつりとつぶやいた。

 幼い頃にとある出来事がきっかけで女性恐怖症を患ってしまった梓。実の母とて例外ではない。

 小学校は六年間不登校で男の家庭教師に勉強を教えてもらい、中学は男子校。そんな女性とのかかわりを避けてきた梓をいつまでも見捨てずにいてくれた母。

 どれだけ拒絶しようと三食の食事と置手紙だけは欠かさず作ってくれた。

 だが今日から梓は一人暮らし。その初日の朝食だけ母に頼った。

 面倒くさかったから? まぁそれも理由の一つだ。だが、もう一つの理由があった。

 ――勇気をもらうため。

 これから通うことになる私立双導(そうどう)学園は男子領と女子領に分かれた特殊な共学校。いくら分かれているとはいえ女性と関わることになるのだ。

 恐ろしい。

 そんな言葉が梓を支配しようとする。しかし、この手紙を見て勇気をもらい改めて決意した。

 ――母に顔をあわせてありがとうと伝える。

 そんな思いを胸に梓はみそ汁をズズッと啜った。

 ふと時計を見やると時刻は八時に迫っていた。梓は大慌てで身支度をすまし玄関にキチっとそろえられたローファーを履き扉を勢いよく開ける。

 まだまだ朝日が眩しく少し目を細める。

 心機一転。まさにそれにふさわしい朝だ。鮮やかに広がる青空に穏やかに吹く春風。梓はバンジージャンプを飛ぶ直前のようなワクワクと緊張が入り混じった感情をもって一歩を踏み出した。

 

 ――だが、そんなすがすがしい朝は長くは続かなかった

「おいおい、双導学園のお坊ちゃんが一人で登校かよ」

「カネはあっても頭は足りてねぇみたいだなぁ?」

「おら、痛い目に遭いたくなかったらさっさと財布出せよ」

 家を出てほんの数分。梓は三人の不良に囲まれていた。

 改造された短ランに裾が膨らんだズボン、まだらに染まった金髪、まさにといった風貌であった。

 俗にいうカツアゲだ。

「あ、あの……お金持ってないです」

 梓自身中学時代一軍メンバーにパシられていたがきちんとお金は出してくれていた。あきらかなカツアゲを受けるのは人生初だった。

 彼らに正直に金を持っていない旨を伝えるがまったくといっていいほど信じられずそのうちの一人が梓の肩に腕を回してくる。

「そりゃあないぜ~。なぁ本当は持ってんだろ? なぁ?」

「その制服剥いで売れば高くつくかもなぁ」

 そういって指の骨をポキポキならしてくる。

 前途多難。さっきまではものすごく爽快な気分だったのにそれが台無しだ。

 梓がはぁと息を吐いたその時だった。

「寄ってたかっていったい何をしているんだい?」

 美しい声がその場の者の耳を貫いた。美しいなんてものじゃない、劇団四季の舞台を観劇しているときに耳に入ってくる声よりも透き通り、力強かった。

 声の主は梓が着用している制服がさらに豪華になったような制服を着ていて一目で同じ学校の生徒だとわかった。

「お前も双導学園の生徒か」

「だったらなんだい? 私の制服も剥いで売りに出すかい?」

「生意気言ってんじゃねぇよ!」

 彼の言い草が気に入らなかったのか不良の一人がブラスナックルを手に装着し彼に殴りかかる。

 だがその拳が彼に当たることはなかった。

 流れるような動作で不良の腕を払い、的確にみぞおちに肘を打ち込む。無駄のない洗練された動きだった。

「て、てめぇ!」

 息を詰まらせ膝から崩れ落ちる不良を横目にもう二人の不良が同時に攻撃を繰り出した。

 このあとに起きることを想像し恐ろしくなった梓はとっさに目を瞑る。

 バキッ!

 ゴギャッ!

 ドサッ

 何かが倒れた音を最後に音は止み、梓はおそるおそる目を開ける。するとそこには苦悶の表情で地面に転げまわる不良と朝日に照らされ影と化した彼の姿があった。

 影で表情が読み取れないからか現実の世界にもかかわらず劇画調な景色に見える。

 と、彼は尻もちをついた梓に向かって手を差し出す。

「大丈夫かい?」

 先ほどの迫力のある声とは打って変わり優しさを内包した安心する声だった。

 梓はその手をとり立ち上がると初めて彼の顔を拝んだ。

「綺麗……」

 無意識に声に出してしまったことをその数秒後に認知した梓。

「あ! いや、その、えっと……」

 うまく言葉がでてこない。それもそのはず、彼はそれを否定することすらはばかれるくらいに雅な雰囲気を纏っていた。

 彼はあわてふためく梓を見てふふっと笑みをこぼす。

「ありがとう。ところで君、双導学園の子だよね?」

「はい、今日から編入するんです」

「そっか。ここで会ったのも何かの縁だ、私は獅子崎雅(ししざきみやび)だ。よろしく」

「百千梓です。よろしくお願いします」

 梓は雅に倣い自分も自己紹介をした。

 まさか自分が受けた印象そのものな名前だとは思っていなく名は体を表すとはこの人のことを見ていったのではないかと思ってしまった。

「いい名だ、とても似合っている。では行こうか」

 そう言って雅は梓の手を引く。

「え?」

 行こうかの意味が分からなかった梓は頭の上に三つほど疑問符をならべる。

「一人でいたらまたあのような輩に絡まれるかもしれないだろう?」

 言いながらずんずんと歩いていく。無論手は握られたままなので引きずられる形で梓も前へ進む。

「でも僕なんかが隣歩いていい気がしないんですけど……」

「誰と歩くかは私が決める。さぁ行くぞ」

 結局一緒に行くことになり、暗くジメジメした細い近道を通って予定より早く学校に到着した梓であった。


「じゃあ私はこれで。またどこかで会ったら仲良くしてくれ」

 昇降口で雅に見送られると梓は来客用のスリッパを履き階段を上って来客用の部屋で担任を待った。

 時刻は八時二十分。黒い革張りのソファーに腰を下ろし紅茶を頂く。とてもいい香りだ。

 さすがはお金持ち学校。なにもかもがスケール違いである。そもそも校舎がでかい。大企業のオフィスと言われても納得してしまうくらいでかい。そしてそれを収容する土地が広すぎる。

 よく土地面積を伝えるときに東京ドームが引き合いに出されるが何個入るのだろうか。三階にあるこの来客室から眺めただけでも野球場、サッカー場、テニス場、梓の教養の範囲ではこのくらいを認識するのが限界であるがほかにもありとあらゆるスポーツ専用のグラウンドがあった。

 梓が学園のスケールのでかさに圧倒されているとコンコンコンとドアがノックされガチャリと音を立てて開く。

「君が百千梓君かな?」

 梓の名を呼んだのは大柄で無精ひげを携えたやる気のなさそうな表情をした男だった。いちおうスーツを着てはいるが恐ろしいほどに似合っていない。

「はい、そうですけど」

 短く返事を返しソファーから立ち上がる。

「俺は内藤裕也(ないとうゆうや)。お前の担任だ」

 出席簿が挟まれているであろう黒のクリップボードに視線を移しつつ梓の担任を名乗る男は言った。

 梓は軽くお辞儀をしてしばらく沈黙が流れる。初対面というのは気まずいことこの上ない。

「っし、時間になったな」

 内藤が腕時計を確認した瞬間朝のHRを知らせるチャイムが部屋中、学校中に響き渡る。

 こんなお金持ち学校でもチャイムの音は同じなんだなと思いながら内藤について行く。だだっ広い廊下には定期的に燭台が設置され、金の装飾が全体的にちりばめられている。

 と、内藤の足が止まる。梓が見上げると『一年B組』の看板がぶら下がっていた。

「はいおはよーさん」

 そう言いながら内藤は教室に入っていく。

 教室の扉が開いた瞬間から梓の心臓は音が方だから飛び出しそうなほど鼓動し、一秒が何十秒にも感じた。

「今日は転校生? 編入? まぁいいやそんな感じのが来てるからお前ら喜べー。じゃあ入って」

 内藤のその言葉にクラス内が沸き立つのが分かる。

 梓は右手と右足を同時に前に出しながら進んでいく。

 ロボットさながらの動きで教室に入っていくと視界の端にたくさんのクラスメイトの姿が見える。

 くるりと前へ向き直り口を開く。

「も、百千、梓です……」

 自分の名前をぎこちなく名乗り教室を見渡す。すると一人の生徒と目が合った。

「「あ」」

 陽の光に照らされて紺色混じりに輝く無造作ヘアーの青年。水晶玉のように澄んだ瞳が梓を映していた。

「君は今朝の……」

 まるで王子様のようにみえた彼は教室の後ろの席から教壇に立った梓に届くくらいの声量でそうつぶやいた。

 王子様のように見えた彼は見間違うことなく今朝一緒に登校した獅子崎雅だった。

「今朝はありがとうございます」

 梓は教壇から今朝の感謝の述べた。

 それを皮切りにクラス内がどんどん騒がしくなる。なかには「いよっ! さすが『王子』!」なんて声もあがっていた。

「お前ら知り合いか! よかったな~百千! 獅子崎、学校の案内頼んだぞ~。あと席も隣空いてるからそこでいいよな? な?」

「え、ちょっと先生⁉」

 そんな二人の反応を見て内藤はこの後予測される面倒ごとをすべて雅に押し付けた。その顔は先ほどまでの内藤のどの表情よりもイキイキしていた。

 

 そんなこんなでHRも終わり始業式が始まるまでの束の間の休み時間。梓の周りには転校生が珍しいのかクラスメイトが群がっていた。

「なぁなぁ、どこから来たんだ?」

「なんでこんなとこに転校してきたん?」

 梓の元にはひっきりなしにお便りが届きその多さに埋もれてしまう。

「まぁまぁ、この子が困ってるだろう?」

 と、隣に座っている雅が皆を静止する。

 それを皮切りにクラスメイトは徐々に梓から離れていった。

「さっすが『王子』」

 けれどそこから離れないクラスメイトが二人いた。

 雅を『王子』と呼んだ彼は肩に届く黒髪に水色のインナーカラーが綺麗だった。彼は椅子の背もたれに体を預け、口には棒付きのアメを放りこんだ。

「ぼくは鷲尾弘瀬(わしおひろせ)。よろしくね」

 手をひらひらと振ってそう名乗った彼は雅とは真逆の印象だった。

 オーバーサイズな制服で萌え袖になっており胸元にはネクタイではなくリボンが蝶々結びでくくられていた。

「弘瀬、その『王子』っていうのはやめろと言ったはずだ」

「いいじゃ~ン、この学校では雅=(イコール)『王子』なんだしさぁ」

「そうそう、雅のせいで俺女子に全然モテないんだぜ~?」

 会話に割り込んできたのは長身のメガネをかけた生徒だった。

「あ、俺は金古一郎(かねこいちろう)。よろしくな~転校生」

 一郎がそう言うとメガネがキランと光る。

「雅がいてもいなくても一郎はモテないでしょ」

「おい弘瀬! そいつぁどういうこったぁ?」

「あっはは、そういうとこだよ!」

 ――キーンコーンカーンコーン。

 二人が愉快な絡みを繰り広げていると、チャイムが鳴った。

「お前らまだ教室いんのか、はやく並べ~」

「「はーい」」

 一郎、弘瀬の二人が内藤の声に反応し廊下へ出ていく。

 座っていた時は見えなかったが弘瀬のボトムスは通常制服とは違い黒いショートパンツに黒タイツを合わせていた。

「私達もいこうか」

 言って雅が席から立ち上がる。

「あ、百千、お前今日獅子崎と日直な」

「え」

「先生早く帰りたいからさ、引き受けてくれよな! よろしく~」

 さもついでかの如く内藤はサムズアップをし、そう言ってふたたび廊下へ引っ込んでいった。

「ははは……相変わらずだな先生は。まぁ言ったら聞かない人だし私もサポートするから」

 梓はやらねばないという雰囲気に負けて「はい」と返した。


「えー、そこをきっちりと――」

 長すぎる校長の話を右から左へ聞き流しながら梓は列の最後尾から体育館全体を見渡す。梓が通っていた中学の五倍はあろうかという体育館のなかには男子生徒、女子生徒が集まっていた。

 正直女性と同じ空間にいるだけで足がすくむ。必死に校長の禿げた頭を見てなんとか気を紛らわす。

 横を見やるとなんともつまんなさそうに校長の話を聞く内藤が視界に入った。挙句の果てにはあくびまでしている。

「校長先生ありがとうございました」

 やっと校長の話が終わり生徒たちは教室へと戻っていく。

 梓はこの後体育館のパイプ椅子を片付ける命を受けたため体育館の隅に移動する。

 体育館を埋め尽くすパイプ椅子をこれから片付けなければいけないと言う事実に軽くおののきながらぼんやり雅を待つ。

「ごめんごめん、ちょっと待たせちゃった?」

 雅が手を振りながら梓の元へ向かってくる。

 周りの人間が漫画のモブのようにのっぺらぼうに見える。

「雅様ー!」

「かっこいいー!」

 中等部の女子生徒たちが雅へ向けて黄色い歓声をあげる。

 雅は手を軽く振り返してその場をやり過ごしていた。

 同時に弘瀬の方にも「姫ー!」などと黄色い歓声があがる。どうやら梓のクラスには有名人が二人もいるようだ。

 そうして生徒、教員が体育館から出ていき残ったのは梓と雅そして全校生徒分のパイプ椅子だった。

「あの人……これがめんどうで私達に押し付けたな」

 なんだか梓のなかでの先生像が一気に崩れ去った気がした。

 頭を掻きながら恨めしそうに教室の方向を睨みつける雅だったがやがてあきらめがついたのかパイプ椅子を片付けはじめた。

「ごめんね百千君、手伝ってもらってもらっちゃって」

「ううん」

 そう言って梓もパイプ椅子を片付ける。

 軽い会話を交わしながらなんとかパイプ椅子を舞台下にしまっていく。

「百千君はなんでここに?」

「あ、梓でいいよ」

「じゃあ私のことも雅でいい」

「梓はどうして転校してきたんだ?」

「僕は……リハビリみたいな?」

「リハビリ?」

「うん。僕女性が苦手で……でも克服したくて」

「なるほど。その第一歩としてはたしかに最適な学校かもね」

 雅はそう言ってパイプ椅子を舞台下に格納された大きな滑車に置いていく。

 

 生徒用の椅子をすべて収納しきった頃、舞台下の滑車はパンパンになり残ったのは数個の教員用のパイプ椅子のみであった。

「これは体育倉庫に置いておこうか」

 雅は十は超えるであろうパイプ椅子を一人で持っていこうとする。

「危ないよ。僕も一緒に持つから」

 あまりに危なっかしいので梓はいそいで雅の元へ走り半分の五つを持つ。

「悪いね」

「ううん。さ、早く行こうよ」

 そう言って梓は体育館後ろの体育倉庫を目指した。

 とても聞き心地がいいとは言えない甲高い音をたてながら長年の重みを感じさせられる音を立てながら雅が倉庫の扉を開けた。

 外からの光に照らされてきらきらと埃が舞っている倉庫の中に入りパイプ椅子を適当な場所に立てかける。

「ふう。ありがとうね」

 手をパンパンとはたきながら雅が梓に礼を言う。その時だった。

 ――雅の後ろにあるポールがバランスを崩し倒れてきた。

「危ない!」

 梓は考えるよりも早く雅を傍のマットに押し倒し、自身も覆いかぶさるようになる。

 ――ガシャァァンッ!

 倉庫内に破壊音が響き渡る。

 目の前が暗くなり、一秒が無限に感じた。

「っつつ……」

「けほっ、けほっ」

 マットに勢いよく飛び込んだからか埃が舞いむせてしまう。

 と、梓は右の手のひらの不思議な感触に気づいた。

 マシュマロのような柔らかさ、弾力のある雲もわし掴んでいる感触。そして手のひらの真ん中あたりに豆のような感触があった。

 窓から差し込む陽の光が梓の右手を照らす。

 男性特有のゴツさが抑えられた梓の手が見え、その視界の端には白い包帯が見え隠れする。

「あ……」

 梓は喉からその一言しか絞り出せなかった。

 なぜなら梓の手が触れているのは透き通る白さの豊満な実りだったのだから。

 つまりそれが言い表すものはありえないことで、でもこうして現実に起こっているわけで。

 梓の脳内にそんな考えがぐるぐるとめぐりめぐる。

「梓っ!」

 梓が目を回していると雅が起き上がり先まで実りに触れていた梓の右手を掴む。

 そして鬼気迫る表情と声音でこう訴えてきた。

 

「なんでもする! だから私が女だということは誰にも言わないでくれ!」

 

 その姿に先程までの『王子』の面影はなく、ただ強烈に主張する豊満な実りとその天辺にある桃色が彼、否彼女をただどうしようもなく『女』に見せていた。

 女。梓の脳内はその単語のみが支配していた。瞬間足の先から脳天まで貫く悪寒、恐怖が梓を襲う。背後から無数の化け物に睨みつけられている感覚だ。

 だが、梓はそれと同時に呆気にもとられていた。

 普段ならばこんな状況に遭遇すればもはや死ぬんじゃないかとすら思う。このまま屋上に昇って飛び降りた方がマシなのではないかと思ってしまうのだが今はそんなことは微塵も思わなかった。

 彼女に対してはただただ怖いという感情のみであった。

「梓……?」

 なにも言わない梓を不思議に思ったのか雅が遠慮がちに声をかける。

 その声で一気に現実に引き戻された梓は震えた右手で雅の手を握り返す。

「じゃあ、ぼ、僕の女性恐怖症の克服に協力して……くれる?」

 梓が伝えると雅は一呼吸置いた後こくりと頷く。

「それで秘密にしてくれるなら、お安い御用さ」

 と、そこで二人とも緊張が緩んだのか現在のあまりにも危ない状況を認識する。

 体育倉庫という密室に男女が二人きり。それも片方は胸をさらけだして。

「ご、ごめん!」

 梓は咄嗟に雅から視線を逸らす。首が軽く九十度は回っているだろう。

 絶対に見てはいけない。見た瞬間梓には人権というものがなくなる気がした。

 雅も胸を腕で隠し梓に背を向ける。

 心臓の音が拡声器で大きくなっていると勘違いするほど梓の心臓はドクドクと鳴っていた。

 女性の胸を目の当たりにしたからか恐怖心かは梓自身わからなかったがいまはただこの心音が雅の耳に入らないことを願うばかりだった。

 それから数分間二人の間に沈黙が走る。外から下校する生徒たちの話声が鮮明に聞こえ、顔も知らない生徒が好きなお菓子について熱く語っていた。

 梓は気を逸らすためにそのお菓子について考えることにした。

 じゃがピコ。ジャガイモを砕いて棒状にしたお菓子で様々な味がある。梓はたらこバター味が好きだ。そういえばこの前激辛ハバネロ味を出していたな……なんてことを考えていると雅から声を掛けられる。

「ここにいすぎると心配されるかもしれないし、そろそろ戻ろうか」

「あ、うん、ソウダネ……」

 梓は全力で雅から視線を逸らしながら答えた。

 

 教室に戻ると弘瀬と一郎が二人を待っていた。

「おっ、やっと戻ってきた」

「もうお昼過ぎちゃったよ~」

 言いながら二人のもとに寄って来る。一郎が梓の荷物を、弘瀬が雅の荷物をそれぞれ所有者に渡す。

「なぁなぁ、みんなで昼飯食いにいかね?」

 一郎が梓の肩に手を置きながら提案する。

「あ、それぼくが言おうと思ってたのに~!」

「手を出すスピードで俺に勝てる奴はいないのさ……」

 一郎はなにもかっこよくないことをさもかっこいいかのように格好いいポーズをバーン! と決める。

「さ、いこいこ~」

「そういう無視の仕方はちょっと傷ついちゃうなぁ⁉」

 弘瀬が梓の手を引いて下駄箱を目指す。

「ねーねーどこ行く? 百千君」

 弘瀬は厚底のローファーを履くとその場でくるりとターンをしてそう言った。

 可憐と評さざるを得ないその姿の周囲には多種多様な花が咲き誇っているように見えた。

「今日は梓の転入祝いってことで梓の食べたいところにいこうか」

 靴を履き終えた梓の手を取った雅が弘瀬、一郎に提案する。

 そこで弘瀬が雅と梓をじぃっと見つめ不思議そうにつぶやく。

「さっきから百千君のこと名前で呼んでるよね? そんなに仲良くなったの?」

「あぁ、梓から名前で呼んでいいって許しをもらってね」

「えー雅だけずるくなーい? ぼくも名前で呼びたい~!」

「あ、じゃあ俺も~」

 弘瀬はぷんすこぷんすこと頬を膨らませ、一郎はなぜか体をくねらせながら両手をあげてそう言った。

「じゃあ僕も二人のこと名前で呼んでもいい?」

 梓が言うと弘瀬は顔をぱぁっと明るくする。

「いいよ! てか呼んで!」

 弘瀬は梓の手を握ってぶんぶんと振る。

「そんで梓はなに食いたい?」

 一郎は梓に訊く。

 梓はすこし思案し答える。

「女の人がいないところ……」

「女の人がいないって、どういうこと?」

 梓の言葉にひっかかった弘瀬は首をかしげる。

「僕、女の人が苦手で……」

「さっきのを聞く感じけっこう重症っぽいね。じゃあ俺の行きつけの寿司屋があるんだけどさ、そこ行こうぜ。女性が入ってくることも滅多にないしさ」

 と一郎が提案する。

 内心高校生で行きつけの寿司屋があることに驚きつつ、女性が滅多に来ないという情報にほっとする梓。

「じゃあそこにしよ」

 一郎に伝え弘瀬、雅と共に正面玄関をくぐる。

 始業式のみの時間割のわりに丁度真上に位置した太陽のあつい視線に焼かれながら校門を目指す。

「予約できたぜー」

 スマホをポッケにしまいながら一郎が三人を追いかける。

 四人が校門にたどり着くと同時に目の前に黒塗りのリムジンが停まる。

 ひとりでにドアが開き、煌びやかな内装が見える。

「梓、早く乗りなって」

 一郎が急かしてくるのでなにがなにかもわからずにリムジンへ乗り込む。

 適度な反発力のあるシートが梓の体を包み込む。

「じいや、寿司屋行くからよろしく」

「おや、お友達とですかな?」

「そうそう、今日転入してきた子がいてさ」

「それはそれは、じいやも挨拶をしておかねば」

「いいってしなくて」

 運転席からの会話が聞こえ、梓たちは顔を見合わせて笑う。

「一郎の意外な面はっけーん」

「まぁまぁ、誰にでもあるものだよ、そういうものは」

 可愛らしく笑う弘瀬の頬を撫で、それをいさめる雅。なんかもう信じられないくらいに華があった。

「二十分くらいだってさ」

 そんなことをしているとドアを開けて一郎が乗り込んでくる。

「ねーねー一郎、このお菓子食べてもいい?」

「『姫』が俺に食べさせてくれるならいいよ♡」

「……雅、梓、一緒に食べよ?」

「じょーだん! 冗談だからその反応の仕方やめて!」

 そんなやりとりを終え、お菓子を食べる梓。ふとこんな疑問が頭に浮かぶ。

 ――リムジン⁉

 梓は人生で初めてのリムジンに感動し、困惑していた。

 普通の高校生がこんな簡単にリムジンなど呼べるはずがない。というか運転席のじいやってそのじいや⁉ と。

「ねぇ一郎、一郎ってもしかしてお金持ち?」

「親がここら辺の地主なだけだよ」

 一郎はははっと笑いながら答える。

「ってか、あの学校には俺よりも金持ちな奴なんてゴロゴロいるよ」

「雅なんて双導学園理事長の息子だしね~」

「えっ」

 梓は雅を見てこれまでの自分の行動を振り返る。

「とんだご無礼を……」

 と静かに深々と頭を下げる。

「やめてくれよ、家がそうなだけで私にはなにもないんだから」

「いやいや、僕はあんなことを……」

 梓は体育倉庫でのことを言い、口を滑らせたとはっとする。

「あんなこと? 梓が雅になんかしたの?」

「お、気になる気になる」

「いや、大したことじゃないよ」

 雅は涼しい顔でっその場を乗り切るが梓は大変ドキドキしておりしきりに窓のない窓を見る。

「それにしては梓、挙動不審じゃなーい?」

 弘瀬が梓の顔を覗き込んだその時、リムジンが静かに停まる。

「皆様、着きましたよ」

「やった! お寿司~お寿司~!」

 じいやのアナウンスを皮切りに先程の話題は途切れ、ほっと息を吐く梓。

 はやく食べようと急かしてくる弘瀬に腕を引かれ車外に出る。

 そこは豪勢な街中だった。

 目を凝らすと遠くの方に駅が見えた。その駅名は……。

 ――銀座。

 そうザギンでシース―である。

 平々凡々な生活をしてきた梓にとって一生訪れることがないと思っていた場所の一つだ。

 黒いファーを首に巻き、でかい宝石を指にはめたマダム達がおほほほと手で口を隠し笑っている姿がいくつも発見できた。

 とても高校生が気軽に来る場所ではないことは確かであった。

「こっちこっち」

 いつの間にかリムジンから降りていた一郎が路地裏の方へ向かう。梓達はそれについていく。

 路地裏は暗く、じめじめした雰囲気で向こうから見える煌びやかな光との対比がそれを一層強調していた。

 曲がりくねった路地裏を少し歩くと暖簾から漏れ出る明かりが見えた。

「ここだよ」

 一郎がそう言って暖簾をくぐる。

「いらっしゃい! おぉ一郎じゃねぇか!」

「ひさしぶり、おっちゃん」

 一郎がおっちゃんと呼んだ相手は白い法被をキュッと締めた渋めの見た目をしていた。

「なんだい、今日はべっぴんさん連れかい?」

 一郎は待ってましたとばかりにメガネをキランと輝かせる。

「そう! 俺のかわいい」

 ――ゴチン!

 一郎が言い終える前に弘瀬の鉄拳が一郎の頭に炸裂する。

「友達です」

「つれないねぇ」

「はは! 愉快な友達だな。さ、座んな」

 そう言って大将は寿司を握り始めた。

 ガラスケース越しに見える柵はとても輝いており、一目で一級品であることが梓でも分かる。

「はいよ」

 梓の前に寿司が出される。

 綺麗な赤身が赤酢のシャリに乗っかっている。

「いただきます」

 手を合わせてそう言うと寿司を口の中へと運ぶ。

 口に入れた瞬間シャリがほろっと崩れ、ネタの存在感を引き立たせる。

 マグロの赤身がここまでおいしいと思ったのは梓自身初めてだった。

 他の三人に目を向ければ皆同様に寿司を楽しんでいた。

「おっちゃん、俺イカ」

「ぼくは大トロ!」

「私は赤貝を」

「僕は……」

 梓は目の前に並べられた多種多様なネタを前に迷っていた。だが一気に言わないとという勝手なプレッシャーで何を頼めばいいかさらにわかなくなり視線を右へ左へしきりに移動させる。

「急がなくていいんだよ」

 そんな様子の梓に隣に座っていた雅が言葉をかけてくれた。

 気遣いもまさに『王子』であった。

「私と一緒に選ぶ?」

「うん」

「なにが食べたい?」

「ハンバーグ……」

 梓が雅にだけに聞こえるような声でつぶやく。

 雅は目をパチクリさせもう一度梓に訊く。

「えっと……何が食べたいんだい?」

「ハンバーグ……!」

 梓はみんなにも聞こえるくらいの声量で言う。その言葉に吹き出したのは一郎だった。弘瀬も笑いをこらえ、大将と雅に至ってはぽかんと口を開けていた。

「プっ、ハハハ! 梓ぁ~、寿司なのになんで肉乗っけてんだよ!」

「ほ、ほんとうにあるよ! 回転寿司とかに……」

 最後の方は口をもごもごさせながら梓は言う。

 何を隠そう梓は今まで寿司といったら回転寿司くらいしか食べたことがなかったのだ。

「回転寿司って……」

「回転寿司はすごいんだよ! いろんなお寿司が食べられるし、ハンバーグとか、海老天とか、あとは果物の香りがするぶりとか! それにラーメンにデザートまであるんだよ⁉」

 梓は回転寿司の魅力をみんなに説明した。大将含めて五人しかいない店内に梓の声がよく響く。

 全て言い終えた後、シンと静まり返った店内の様子が梓を襲う。

 なんでこんなことに熱くなってしまったのだろうかあ、恥ずかしい、今にも消えてしまいたい、と。

 だが、梓が思っていたこととは裏腹に一郎がフっと笑みを見せる。

「そんなに言われちゃ、笑うわけにもいかねぇな」

「そうだね。それにハンバーグ握りもおいしそう!」

「私は果実の香りがするぶりが気になるね」

 皆口々に言うものだから梓は少し自慢げであった。

「そこまで熱弁されちゃあ俺も作らねぇわけにゃいかねぇなぁ」

 大将はそう言って裏からひき肉、パン粉、卵、調味料を持ってきた。

 そうして手際よく肉を捏ね、卵、パン粉を加え小さなハンバーグを形成していく。

 熱していたフライパンに投入するとジュウっと心地よい音が鳴る。

「ほいよ、いっちょうおまち!」

 大将は梓の前にハンバーグ握りを置いた。

 回転寿司のそれとは違い、湯気が立ち、焼き目も網目状ではなくまだらであるが、それがより職人を感じさせた。

「お前さんらの分もあるぞ」

 そういって大将は三人にもハンバーグ握りをだした。

「おぉ……」

 雅はハンバーグ握りをまじまじと見つめる。未知のものと出会ったらああいう顔をするのだろうか。

「いただきます……」

 そういって雅がハンバーグ握りを口に放り込む。それに弘瀬、一郎も続く。

 梓はその反応をじっと伺っていた。

「おいしい……」

「うん、おいしい!」

「酢飯と肉汁があわさってめちゃくちゃうまいな!」

 皆の反応は上々であった。

 梓自身一人くらいは難しい顔をするかとも思っていたのでこの結果はにはとても驚いた。そうして梓もハンバーグ握りを口にする。

 ハンバーグの肉汁がものすごく濃く、多くあふれだす。それが酢飯と交じりまるで肉汁のお粥を食べているようだ。

 そうそうこれこれ! と高級店だ……が丁度半々な味わいはとても奥深かった。

「おっちゃん、これいけるよ!」

 一郎が言うと大将はまんざらでもないようで鼻の下を指でさすっていた。そんな漫画みたいにする人がいるのかと少し笑いそうになる梓だった。

 そうして様々な寿司を堪能した一行。店を後にしリムジンへ乗り込む。そこからの回転寿司トークはとてつもなく盛り上がり、梓が降りるまで続いた。

「次は回転寿司行こうね! 梓」

「うん!」

 弘瀬と約束をして梓は家に帰った。

 玄関を開けて靴を脱ぎすてベッドに飛び込む。梓は今日あったことを思いだして無意識に口がにやけてしまう。

 学校がこんなに楽しいものだったなんて。こんなにわくわくするものなんだ。梓の胸はそれで満たされていた。

 ベッドから起き上がり、約束した日時をカレンダーに書き込む。それまで印刷されたインクのみだったカレンダーに楽しみという華が追加されてついニマニマしてしまう。心なしか窓から差し込む陽の光からラッパを吹いた天使が梓を祝福しているかにも思えた。

 そのままルンルンな気分で風呂を済ませ、眠りについた。


「おはよ、梓」

「おはよう」

 梓の一日の始まりは弘瀬との朝の挨拶から始まった。

 昨日の今日で口元がにやけていないか心配になったがそれは口の筋肉が阻止してくれたらしい。

 そこから一郎、雅も登校しすっかりグループの一員になっていた梓は三人と楽しく談笑していた。

「昨日あれからいろいろ調べたら回転寿司っていろんなお店があるんだね」

「うん。僕が一番好きなのはけら寿司かな」

 梓はよく行く回転寿司チェーン店の名前を出した。皿を五枚集めると一回、限定ガシャの抽選が行えるというのが有名なお店だ。

 そこの店にしかないメニューも多く、柑橘風味のぶりはそこでしか味わえないものとなっており、しかも期間限定、数量限定なため情報が出たらすぐに店に向かうほどだ。

 その時だけはその寿司にのみ興味が注がれているため街中を歩いている女性も、女性店員も全く気にならない。梓にとっての無敵モード発動条件であった。

 なんなら梓が一人暮らしをするにあたって家を選ぶ条件に内にけら寿司が近いこと、が盛り込まれていた。

「楽しみだね。たしか来週の日曜だったよね?」

「そうそう。ついでにショッピングもしよっかなーって」

「弘瀬、この前も行ってなかったか?」

「もー雅はもうすこしショッピングの楽しさってものをさぁ……」

 ふたりが話していると担任の内藤が教室に入ってくる。

「席つけー、今日先生眠いんだからさっさとHRするぞー」

 その装いは昨日とは打って変わって全身ジャージ姿であった。上下黒でそろえられたジャージは撥水加工がされていそうな素材で内藤が動くたびにシャカシャカと音を立てる。

 その言葉で皆一斉に席に着く。こういうところはさすがいいとこのお坊ちゃん達といったところだ。

 内藤が今日の予定を淡々と述べ、他のクラスよりもだいぶ早くHRが終わる。時間にして三分といったところだ。

 内藤が教室から出ていく。きっと職員室で寝るのだろう。出席簿が枕に見えてしょうがない。と、なにか思い出した余で早足で教室に戻る内藤。

「あ、きょうの体育女子と合同だから。喜べお前ら、お菓子くれてもいいんだぞ」

 その一言で教室中が沸き立つのが分かる。いくらお坊ちゃんといえどそこは年相応なのだろう。

 だが、そんな中浮かばない顔の生徒がいた。

 ――梓だ。

「お、女の子と一緒……」

 梓はとっさに「おなかが痛い」だの「気分がすぐれない」だのと理由をつけて体育を休もうかという考えがよぎる。

 だが、そんな梓に助け舟を出してくれる者がいた。

 ――雅だ。彼女は梓の目をじっと見てニコッと笑う。その笑顔で不安が吹き飛んだ気がした。

 言い終えた内藤は教室を後にし、教室内の雰囲気がつい五分前と同じ状態になる。

 わいわいがやがやし、読書や勉強するときの環境に丁度いい雑音。梓のいた中学ではこうではなくもっとうるさかったな、と思い出しここにいる生徒の教養の高さに感服した。

 と、梓のサキの周りには先程のメンバーが集まっており、体育の種目について話していた。

「女子と合同かぁ~……先生もヤるねぇ!」

「女子と合同ってそんなにうれしいの?」

 弘瀬の質問に雅もうんうんとうなずく。

 そんな二人の反応に一郎はハンカチをかみしめる。

「わからんだろうさ! お前ら『王子』と『姫』にはな! 俺達凡人の気持ちなんざ!」

 ムキーッ! とした一郎はそのまま黒板の前まで行きクラスメイトの注目を集める。そして声高らかに叫んだ。

「俺はここに宣言する! この学年の女子の人数は俺達男子よりもやや少ない! 女子とパートナーを組むことになった際、お前ら二人を絶対に余らせる!」

 もはや本人も自分が何を言ったかわかっていないようだった。

 モテない嫉妬に我を忘れてしまったのだろうか、それともわりと通常運転なのか、まだ彼と出会って日の浅い梓にはわからなかった。

「その意気だ金古ー!」

「いいぞいいぞー!」

「王子は姫と組んでろー!」

 どうやら通常運転らしい。

「ハハハ、私は梓と組むつもりなんだけどな」

 雅は笑うと梓を見やる。

「お、王子はどこまでも王子だった……」

 それを聞いた一郎は自身の圧倒的敗北を喫しその場に両膝両手をつく。

 と、それと同時に始業を知らせるチャイムが鳴る。

 皆一斉に自席へ戻り授業の準備をする。


 そうして時は進み四限前の休み時間へ。

 教室で着替えようとする梓を雅らが制止した。

「梓、更衣室で着替えるんだよ?」

「さすがに教室で着替えたらだめだよ。外にはマスコミがいるから」

 と言う。

 梓はマスコミという単語に首をかしげる。それを察知したのか雅が説明をしてくれた。

「いいかい、この学校の生徒は大半が業界の重鎮の子供なんだ。なにを撮られ、どう脅されるかわからない。だから着替えは更衣室だし、窓も擦りガラスなんだ」

 言いながら更衣室へ向かう雅とそれについていく梓。

 階段を上り渡り廊下を進む。ようやく見えた一―Bと書かれた更衣室に入るとそれぞれ一人ずつに仕切られ簡易的なシャッターが設置されていた。

「す、すごい……」

 あまりの豪華仕様に言葉が漏れてしまう梓に一郎はフフッと笑う。

「すごくないよ、これで驚いてちゃ三年間驚きっぱなしだぜ?」

 一郎の言うようにこれから三年間驚きの毎日なんだろうと想像する梓。改めてものすごい学校に入学させてくれた両親に頭があがらない思いだった。

「じゃあ軽く使い方を教えるから私と一緒に着替えようか」

 雅に言われるがまま連れられ、部屋の隅にあるシャッターに通される。

「ここが私の場所だな。梓は隣みたいだね」

 シャッターの上にはそれぞれ名前が張り付けてあった。

 中は広く三畳ほどの空間が広がっていた。棚や鏡があり、手洗いできるよう水道も設置されている。

 雅はシャッターを閉めると持参していた体操服を棚の上に置く。

 そしてブレザーを脱ぎハンガーにかける。あまりに自然に恥じらいなく脱ぎ始めるものだから梓はそれを制止するのに遅れてしまいその手を止めるのは雅がワイシャツのボタンをすべて外し終えたころだった。

「ま、待ってよ! 僕、男なんだよ⁉」

 だが雅はその言葉の意味を理解していないのか一瞬梓の方を見てすぐにワイシャツを脱ごうとする。

「だから僕は……!」

「梓? なぜそんなに慌てているんだい? それに耳まで真っ赤にして」

 そんな雅の言葉に梓は頭を悩ませる。

 恐らく雅は梓に肌を見せることに疑問を持っていない。男装を長年してきたであろう雅にとって秘密を共有している梓はもはや男と男という認識なのだ。

 梓は雅をちらりと見る。

 さらしを巻いた胸元、綺麗なくびれ、やはり女性の体つきだった。

 その瞬間、梓を強烈な恐怖が襲った。

 雅の女性らしい姿に梓は軽い眩暈を覚えた。

 頭を手で押さえもう片方の手で棚によりかかる。

「あぁ、すまない……」

 梓の様子に気づいた雅がすぐさま体操服に着替えそう言う。

「私の秘密を知っている者は君だけだから……。なんというか、うれしい、と言っては変かな?」

「ううん、僕だって慣れないといけないから……!」

「そう、だね。あ、早く着替えないと時間が」

 雅が棚に立てかけてある時計を見て梓を急かす。梓も急いで着替えを済ませ体育館へ向かった。


「つ、疲れた……」

 梓達は更衣室に戻ってきていた。

 体育の授業は初回だというのにとてもハードだった。外周を走り、バレーボールの試合を行った。

 梓は自分の更衣室で着替えをする。制汗スプレーを軽く吹きかけて更衣室から出ると既にほかの三人は着替えを済ませ梓を待っていた。

 三人とともに教室へ戻る。

 四限の後ということは当然昼休み。

「ねえね、みんなでお昼食べようよ!」

「お、じゃあ屋上いくか?」

 弘瀬と一郎が盛り上がる。

 梓も弁当をもって屋上へ向かった。

 屋上へ続くドアを開けるとそこには広大な敷地が広がっていた。

 外側は透明なパネルで覆われ、誤って転落しないようになっており、屋上の中心には大きな花壇に色とりどりの花が咲いていた。

 梓が立ちつくしていると、うしろから別の生徒がやってきて早く進むように催促される。

 雅を追いかけベンチに座る梓はただただ口を開くことしかできなかった。

「ハハハ! 梓へんな顔~」

「もしかして普通の学校と違うとか?」

 一郎の発言に梓は首を思いっきり縦に振る。

「こんなの見たことないよ! 屋上にのぼれるのもびっくりしたけど花壇とか花とか……!」

「え、屋上いけないとか人生損してるだろ……」

 梓は弁当そっちのけで屋上を探索することに決めた。

 本舎と副舎、さらに部活舎や生徒会舎を繋ぐ通路があり、屋上からすべての建物へ行ける構造になっていた。

 花壇やベンチがありまさに憩いの場と呼ぶにふさわしい場所だ。なんでも学食をわざわざここで食べる生徒もいるらしい。

 と、梓が屋上探索をしていると昼休み終了五分前のチャイムが鳴る。

「おーい、もう終わりだぞー」

「梓ー! はやくー」

 一郎と弘瀬が本舎から生徒会舎にいる梓を呼ぶ。

 急いで三人の元へ戻り、教室へ向かう。

 ギリギリセーフといったところか、座った瞬間にチャイムが鳴った。

「っぶねー」

「ごめん、僕がはしゃいじゃったから……」

「ほんとだよ~! でもはしゃいでる時の梓すっごい可愛かったから許しちゃう!」

「ありがとう。でももう少し見たかったなぁ」

「なら放課後ゆっくり回るかい?」

「うん!」

 雅の魅力的な提案に梓は二つ返事で了承した。


 放課後。

 弘瀬と一郎は用事があるらしく先に帰り、梓と雅の二人で屋上を訪れていた。

 放課後なこともあってか人はいなかった。

 改めて屋上を見渡すがなんといっても広い。そして左を見れば学校の敷地内が一望できて、右を見れば東京の景色が一望できる。なんと贅沢な屋上だろうか。

 そして距離が長い。端から端まで全力で走っても三十秒はかかるだろう。

 梓はタッタッタッと走り柵の傍へ向かう。

 上から見降ろすと部活に励む生徒の姿が見える。

「気になるかい?」

 背伸びをしながら下を覗き込む梓に雅は語りかけた。

「この学園は部活動にも力を入れていてね。向こうの野球部は甲子園でも良い成績を残しているよ」

 雅が説明をしてくれたその時、ヒュウッ……と風を切り裂く音が近づいてきた。刹那。

 ――バリィィィンッ!!!

 屋上を覆うパネルが割れ、その破片と共に野球ボールらしきものが梓めがけて突っ込んできた。

「危ない!」

 そんな声が聞こえたかと思うと梓の視界は瞬時に暗くなる。部屋の電気を消された時みたいに。

 柔らかな感覚が梓を包んだかと思うと床に押し倒される。

 カツンッ、トン、コロコロ……とボールが地面に転がる音とバクバクと音を立てる心臓の音、割れた箇所からヒュゥゥッと風の入る音がその場を支配した。

 そうして瞑った瞼を恐る恐る開くと目の前に雅の胸元が飛び込んでくる。

「大丈夫かい⁉ けがはない?」

 焦った様子で梓に覆いかぶさる雅。

 梓が何もない様を示すと雅ははぁ、と安堵の息をもらした。

「フフ、昨日と逆になってしまったね」

 と微笑む雅。梓も安堵感からか自然と笑みがこぼれていた。

 辺りはシンと静まり返り、梓と雅は特に何か話すでもなく見つめあっていた。互いの心音がメトロノームのように重なり息をするのもはばかられる。と、そこで屋上のドアが勢いよく開かれる。

「大丈夫か!」

 そう叫んでドアを開けたのは担任の内藤だった。

 なんとなく見られたらまずいと両者思ったのか目にもとまらぬ速さで体勢を変え、梓はその場に座り、雅は梓に背を向け割れたパネルを回収しようと向かう。

「獅子崎、百千お前らけがはないか? 野球部から連絡があってな……」

 内藤が珍しく焦った様子で二人に心配の声をかける。

「はい、特にはないです」

「僕も大丈夫です」

 雅が守ってくれたから。とは言わなかった。

 結局その日はすぐに帰らされ、しばらく屋上は立ち入り禁止となった。

 梓は帰り道雅に押し倒された時のことを頭の中で反芻していた。あまりにも綺麗で、格好良くて、性別なんて気にならなかった。もしも自分が女ならば確実に惚れていたことだろう。

 そこまで考え、自分の女の子の姿を想像しグロッキーになった梓は自身の愚かさを噛みしめながら帰路についた。


 ――土曜日。

 梓が編入してから最初の休日。

 時刻は八時を回ったところだった。

 梓は起きてから十分ほどカレンダーをみてニヤニヤしていた。

 カレンダーの『ショッピング!!!』の文字が今日の梓のご機嫌さを何よりも象徴していた。

 感嘆符が三つも並ぶなど今世紀はじまって初の快挙である。

 シャワーを済ませ、軽い朝食を摂り、梓はクローゼットを開ける。

 何を着ていこうか、このコーデは? これもいいかも、としているうちに時間は刻一刻と刻んでいく。

 結局選ばれたのはゆるっとした白の幅広なパンツに白を基調に黒や様々な色が差されたセーターニットだった。

 髪をセットし、時間は既に十時半。身支度を済ませ家を出る。

 

「あ! おーい! 梓ー!」

 ショッピングモールに着いた梓は入り口で自分を呼ぶ声が聞こえ、その方向を見やる。

 その光景を見て梓は息を呑む。

 弘瀬、一郎、そして雅の三人の周囲がキラキラと輝いていた。まるでドラマのワンシーンのようだ。

 自分が近づいていいものか、とも思ったが弘瀬が梓の方に駆け寄ってくる。

 弘瀬は薄緑のショートパンツに白タイツ、柄物のシャツにきらきらしたビーズがちりばめられたカーディガンという出で立ちだった。

 可愛い。弘瀬が正真正銘の男だとわかってもなお可愛い。いつもより少し色の多いメイクも相まってか学校の雰囲気よりも数段ふわふわした雰囲気だった。

「梓ってそういう系統の服着るんだ~」

「まぁ無難ってのが先行しちゃってさ……」

 と、弘瀬を追いかけるように一郎、雅が梓の隣へたどり着く。

 一郎は黒い幅広スラックスに白のハーフジップをあわせたシンプルなコーデで雅は意外にも柄物のシャツを羽織っていた。

「あそこの団体すごいね……」

 と、皆の服装をチェックしているとそんな声がそこかしこから聞こえてくる。

 皆三人のことを言っているのだろう。平々凡々な自分ではこの中にいても邪魔なだけかもしれない。そんな考えが梓の頭によぎる。

 梓は頭をブンブンと振り、そんな考えをかき消した。

「みんな、外寒いから中は入ろうよ」

 梓の一声で四人はショッピングモールへ向かった。

 自動ドアが開き、四人を迎え入れる。三百六十度見渡しても店、店、店。

「とりあえずお腹すいたからフードコート行こうよ!」

 梓が辺りを見渡していると弘瀬が元気よくそう言う。

 地下四階、地上九階建てのこのショッピングモールは大都会東京のど真ん中に建設された。昨月オープンしたばかりだからかとてもにぎわっているように見えた。

 梓は左に雅、右に一郎、前に弘瀬という完全防御形態でショッピングモールを進む。

「何食べる?」

「そもそもなにがあんだよ」

「カレーとかラーメン、つけ麵……」

「俺イケメン! ってか?」

 ・・・・・・。

 そんな話をしながらフードコートのある五階へ到着する。

 どうやら一郎と雅はフードコートなるものを初めて体験するらしくとてもワクワクしていた。かくいう梓もフードコートなぞ怖くて行けない! と思っていたがこれを機に挑戦してみることを心に決めたのだった。

 フードコートに到着すると弘瀬が慣れたように席を確保する。テーブル席に腰を下ろした四人はそのままどこにしようかと雑談を挟む。

「俺どーすっかなぁ」

「私は普段食べないものを食べてみようかな」

「ぼくはもう決まったもんねー」

 そう言って弘瀬は席を立つ。

「フードコートは戦場なんだよ!」

 と言い残しフードコートの闇へと消えていった。

 残された三人はフードコートを見渡しながら各々なにを食べるか話し合いを進める。

 話しあいの末、梓はハンバーグ、雅はラーメン、一郎は海鮮丼に決まり、一斉に席から立ち上がる。そうして三人も分かれ、それぞれの店に向かう。

 が、そこで梓は気づいてしまった。自分が一人だということに。

 周囲を見れば二人に一人は女性。途端に動悸が激しくなり、過去の出来事がフラッシュバックする。

 目の前が白黒に反転し、チカチカする。悪い夢を見ているようだ。

 先程までは友達がいたから耐えられていた梓だったが近くにいる友人という精神的支えがなくなるとこうも辛いとは。

 そうしてなんとか人混みを抜けて比較的っ人口密度の低い場所に避難をする。そこで梓はうずくまってしまった。

 このままみんなが自分を忘れてどこかへ行ってしまったらどうしようか、このまま動けずに死んでいくのだろうか。

 と、その時だった。

「梓!」

 梓の耳に自分の名を呼ぶ声が聞こえた。

 なんとか顔を起こし周囲を見渡す。すると遠くの方に雅の姿が見えた。そして雅と目が合ったかと思うと人混みをかいくぐり雅は梓の元へ来てくれる。

 その姿はまるで姫を助ける寓話の王子様のようだった。

 涙で赤くなった目元をみて雅は梓を抱きしめる。

「ごめん。君を一人にして」

 雅に悪い所なんて一つもないのに、彼女は開口一番梓に謝罪を述べた。

 それがあまりにも申し訳なくて、自分があまりにも不甲斐なくて梓は自分の方こそ、と返そうとする。

 しかし上手く声が出ず、「あ……」と発したあとポロポロと流れる涙を抑えずにいられなかった。

「もう一人にしないよ。だから涙なんて見せないでおくれ」

 そう言って雅は梓の目元に残る雫を指でぬぐう。


 結局梓の体調が優れないからと言ってショッピング計画は破綻し梓は雅が連れ帰ることとなった。

 ――帰り道。

 梓はとてつもない罪悪感に襲われずぅっと下を向いて歩いていた。

「梓、元気出して?」

 雅が話しかけてくれるがそれにも反応できないほどだった。

 どうしてこうなってしまうんだ、やはり自分は、などと余計なことばかりを考えてしまう。

 ふと前を向くと雅のご尊顔が目にはいる。

「ショッピングモールはまだレベルが高かったね。私も人混みがあまり得意じゃないからさ、少しはわかるつもりだよ」

「雅も……?」

「あぁ。自分の秘密が誰かにバレてしまうのでは、なんて思ってしまってね」

 フフッと笑って雅は言う。

 西日が二人を照らし大きな影をつくる。その影は徐々に伸びていき、やがて梓の影が雅の影よりも大きくなった。

「私は君のその姿勢、尊敬するよ」

「え?」

 一瞬の陰りを含んだ雅の言葉に梓は訊き返す。

「お母さんのために、自分のトラウマを乗り越えようと挑戦するその姿勢。私も見習わないと」

「雅だってすごいじゃん。あんな完璧に男になってて」

「そう、か。まぁそういってもらえてなによりかな」

 雅がそう言った時、丁度梓の家に到着する。

「ここが梓の家かぁ……」

 なんだか興味津々といった様子で梓の家を見渡す雅。

 といっても梓の家は何の変哲もない一軒家だ。それなりに稼いでいる両親が梓に買い与えてくれたものでよくある注文住宅だ。

「あがってみる?」

 梓がそう言うと、「いいのかい⁉」ときらきらした目で言われてしまったので部屋が片付いていたか、リビングは……と不安を抱きながらも玄関のかぎを開ける。

「どうぞ」

「おじゃまします……。言ってみたかったんだ、これ」

 と言って雅は家の中へとあがる。

 ささっと部屋を確認し片付いていることを確認した梓は雅を自室へと案内する。

「僕の部屋こっちだから」

 そう言って部屋のドアを開け雅を誘導する。

「おぉ……ここは物置部屋かい? それにしては物が少ないけど」

「僕の部屋だよ。ここで生活してる」

「……いやいやまさか、これだとパーティーができないどころかメイドも一人二人が限界じゃないか」

 そう言う雅の顔は真剣そのものだった。

 お金持ちの常識は恐ろしいなと感じたところで雅ははっとした表情になる。

「もしかして今私はとんでもなく失礼なことを……」

「いいよ。雅はお金持ちの子だからそれが当たり前なんだもん」

「すまない……とんだ無礼を」

 雅は申し訳なさそうに頭を下げる。

 なんとなく嫌味のように聞こえてしまったかも、とおもった梓も同時に「ごめん」と付け足した。

 それから少し過ぎ――。

「うーん、なんとも居心地がいいね」

 そう言って雅はシャツのボタンを外す。

「ちょ、なにやってるの⁉」

 梓が制止すると雅はあぁ、とした顔をしてボタンを外すのを辞める。途中までは外しているせいか余計に危ない雰囲気に思えてしまう。

「胸のさらしがきつくてね……、家にいる時はほどいているからつい」

「いや、ついじゃないでしょ! 僕、男だよ⁉」

 だがやはりというべきか雅は胸元を隠そうとはしなかった。

 と、そこで雅はピカンとなにか思いつく。

「梓、この機会に一気に私に慣れてみないかい?」

 どの機会かはまったく分からないが雅は梓の答えを聞く間もなく来ているシャツのボタンを再び外していく。

 そうして阻むものがなくなったシャツはスルリと床に落ち、雅はさらし一枚の状態になってしまう。

「いやいやいや! ちょっとまってよ!」

 梓の必死の制止も意味をなさず雅は胸を締め付けるさらしに手をかける。

 ――パラ……

 静かに、だが確実に、布が地面に落ちた音がした。

 梓の目の前には上裸になった雅がいた。窓から差し込む西日を受け、白い肌は茜く透き通る。

 さらしのせいで主張できずにいた実りも今では自身の存在をこれでもかと主張していた。

 それはもう完全に梓の目の前にあった。

 そして梓は目の当たりにしてしまった。約十年間自身を苦しめてきた者達の魅惑を、おぞましさを。

 腹から気持ちの悪いものがせりあがってくる。梓は急いでトイレへ駆け込んだ。食道を通過し、酸っぱいものを便器の中にぶちまける。

 あぁ恐ろしい。いっそこのまま顔をつっこんで溺れてしまいたい。

 ネガティブな感情が梓を支配し、梓の心はさらに恐怖で上塗りされていく。どんなにきれいな絵も黒で塗りつぶしてしまえばそれは漆黒になる。なににもならない作品として火をつけられ灰となる。

 宇宙に夢を抱く者は多いが何もなしで宇宙空間に放りだされれば眼球の水分は蒸発し失明してしまう。

 梓にとって自身の女性恐怖症を克服したいという夢はそれと同じなのだ。きちんとした準備、訓練、知識を身に着けて初めて夢を叶える舞台に立てるのだ。

 何もでなくなってもまだ出そうとする。そんな梓の背をさする者がいた。

「すまない梓、私はなんてことを……」

 そう言って懸命に背をさすってくれた。頭ではわかっている。だが本能が、体がそれを拒絶してしまうのだ。

「ううん……大丈夫、だから」

「水をもって来よう」

 雅はそう言ってリビングへ向かっていく。

 梓ははあ、と息を吐いた。

 ほどなくして雅がコップ一杯の水を持ってくる。きちんとさらしを巻いてシャツを着用していた。

「飲めるかい?」

「うん……」

 二人の間に長い沈黙が流れる。

 先にその沈黙を破ったのは梓の方だった。

 うまく声が出ず、上ずった声で雅に話す。

「僕、がんばるよ……! 雅の裸を見ても気持ち悪くならないくらい……!」

 はたから聞けばおかしなセリフに聞こえるかもしれない。だが、これがどれほどの決意を含んでいるものなのか雅は理解できた。

「あぁ、ぜひ協力させてもらうよ、梓」

 言って雅は手始めに梓の頬に軽いキスをした。

「じゃあ私はこれで。また学校で」

 そう言い残し雅は颯爽と梓の家を後にした。

 数刻思考が止まった後に梓は目を見開く。

「み、雅にちゅーされた……⁉」

 その夜、梓は悶々とした夜を過ごすのだった。


 少しさかのぼり雅が梓の家を出たころ――。

 雅は夕日をバックに帰路についていた。といっても現在地から自分の家までの道が分かるはずもなく、電話で迎えをよこしたところだった。

 目印になりそうな場所まで歩き迎えを待つ。ふと自分の指が唇をなぞっていた。

 不思議な感覚だ。雅は先程のことを頭に起こす。

 無意識だった。勝手に体が動いて、あんなことをしてしまった。

 手に入らないものを必死にねだるようにも見えたかもしれない。遠い未来迎えに行く、と自分の証を刻む獣のようにも見えたかもしれない。とにかく変に思われていないかだけが心配だった。

 獅子崎家の長男として育てられ、ずっと自分を否定され、否定し続けてきた雅にとって梓は唯一自分を”獅子崎”雅ではなく雅として見てくれる存在だ。それが転じて特別な感情を抱いてしまったのか、と雅は頭の中でグルグル反芻する。

 と、そんな雅の前に白いランボルギーニが停まる。

「坊ちゃま、お迎えに上がりました」

 そう言って車のドアを開けるのは雅の付き人、亀嶋であった。

「わざわざすまないね、亀嶋」

「いえいえ、坊ちゃまのためでしたら本州の端いや、ニューヨーク、南極でもわたくしはかけつけますぞ」

「それは頼もしいね」

 そう言って雅は車に乗り込んだ。

 ランボルギーニは白い風を切り、家へと向かっていった。


 休日が明け、月曜日の朝早く。梓は緊張した心持ちで教室の扉を開けた。どんなに格式の高い学校でも扉のガラガラ音は共通なようで、その音は朝早くの誰もいない教室によく響いた。

 自分の席に腰を下ろし頬杖をつく。

「はぁ……どんな顔して会えばいいんだよ」

「なに言ってんだ? 梓」

 誰もいないと思って呟いた言葉だったが、その直後に自分を呼ぶ声がして方がビクッと揺れる。梓は恐る恐る首を回転させ声の主の名前を呼んだ。

「お、おはよう一郎」

「ん、おはよ」

「きょ、今日はいい天気だね。太陽がすっごくまぶしくてさ、ていうか今日テストとかあったっけ? 僕、全然勉強できてなくてさ」

 梓はどれだけ先程のことを一郎に突っ込ませないかに注力した。だが、それは無駄に終わる。

「で、誰に会うんだ?」

「……えっと」

「なぁなぁ、誰に会うんだ~?」

 一郎はニヤニヤしながら梓に聞いてくる。

「べ、別に……」

 梓がそう言うと一郎はなにかわかったかのような顔をして「そうかそうか」と言い、自分の席に荷物を置く。

 解放されたのか、はたまた再び聞いてくるのか、それは定かではないが一旦は解放されたと思うことにし梓は机に突っ伏した。

 ひんやりとしていてとても心地がいい。中学の頃はよくこうやって狸寝入りをしたものだ。

 と、教室の前の扉がガラガラッと開く。

「おっはよー! って、梓と一郎しかいないのー?」

 元気よく教室に入ってきたのは両手に紙袋を大量に持った弘瀬だった。

「まぁいいや。梓、これプレゼント!」

 弘瀬は入るなり梓の元へ小走りでやってきて両手に持った紙袋を梓の机の上に置く。

 かなりの量があり、梓の机に乗りきらず地面に置いてあるものもあった。

 いきなりのプレゼント発言に梓は咄嗟に頭の中で記念日を検索する。

 今日は何の日だったか。梓の誕生日ではないし、かといって弘瀬の誕生日でもない。梓の編入記念は一週間前に過ぎ去ったし……。

 そんなことを考える梓に弘瀬はニヒヒと笑い言った。

「一昨日、梓が体調悪くなって帰っちゃったでしょ? だからせめて一緒にショッピングした気分になれればなぁと思ってさ。一郎と一緒に選んだんだよ!」

 申し訳ない、と思うのは二人に失礼だと思ったので辞めることにした。いまはこの好意を素直に受け取ろう。そう思い至った梓は弘瀬の手を握る。

「ありがとう。すっごくうれしいよ……!」

 不思議と頬には涙が一筋流れていた。

「ねぇねぇ、中身開けてみてよ」

 弘瀬の言葉に従って梓は紙袋の中身を出す。そこにはいかにも高いであろうブランド物の服やあアクセサリー。別の袋には高級そうな菓子折りが入っていた。

「これ絶対梓に似合うと思ってさ! あとこれは梓にサラサラした雰囲気に合うと思って、これはそんな梓にも男らしさを前面に押し出したコーデをやってもらいたくて、でこれは~」

 と、いきなり始まった弘瀬のファッション講座に口をポカンと開けて呆けていると、隣から声を殺しきれていない笑い声が聞こえる。

「梓、困りすぎだって……! ひー腹いてぇ」

 一郎が腹を抑えて笑っている。だが弘瀬のファッション講座は止まらない。結局今試着してみようという話になりかけ、梓の必死の説得で放課後更衣室を完成させるのと並行して試着を行うこととなった。

 それから少しして、生徒も徐々に登校し始め教室内が騒がしくなる。耳を澄ませてみれば話題はもっぱら休日の予定だった。

 皆、弾丸で海外に旅行だとか、クルージングや高級ホテルで一泊など、お金持ちすぎる話題であった。

 どことなく疎外感を感じないでもない梓だったが周りにいる友人とショッピングできたのはそれに勝る思い出だろうと心に中で胸を張った。

「おはよう」

「お、今日は遅かったじゃんか」

「すこし寝坊してしまってね」

 いつもよりすこし遅めの時間に登校してきたのは雅であった。

 先日の件があってからというものの梓は雅のことを考えるたびにどこか気恥ずかしくなってしまっていた。それこそ目の前に来られでもしたら顔面がトマトのように赤くなってしまうだろう。そのため梓は雅が来た瞬間、机に突っ伏し寝ているふりをする。

「おはよう梓」

 雅が声をかけてくるが、梓は今寝ているのでその返事をすることはない。

「疲れているのかな?」

 雅が言うも梓は答えない。結局そのまま話すことなく朝のHRが始まる。

 担任の内藤が梓の名を呼ぶが梓はただ今絶賛爆睡中なので返事ができない。

「おーい百千、返事くらいしろー」

 そう言って内藤は次の生徒の名前を呼ぶ。

 そんなこんなで朝のHRを乗り切った梓だが授業は爆睡するわけにもいかない。どうするか、どうすれば雅と顔を合わせずに済むのか。

 それは――。

「先生……今日体調がよくないので回復するまで保健室にいてもいいですか……?」

 ――戦略的体調不良。

 俗にいうサボりだ。この手しかない。そう思いついた梓はHR終了後に内藤にそう伝え保健室へ向かっていた。

 罪悪感という名の風がひゅうっと吹き、梓の頬をかすめる。また別の罪悪感という名の空気が保健室の戸を開けようとする梓の手を拒む。しかし梓は諦めない。すべては己の心の平穏のため。すこし時間が経てばこの気持ちもなくなる。そう思い保険室の戸を開けた。

 

 約四時間が経ってしまった。

 梓は結局保健室のベッドで横になっているだけであった。

 と、保健室の扉が開いた。

「あれ? 先生いないのか」

 聞き心地の良い声、彼女が発すればどんな場所も、シチュエーションもたちまちドラマのようにキラキラする。そんな声を持つ人物なぞ一人しかいない。

 ――獅子崎雅。今一番会いたくない人だ。

 梓は布団を頭までかぶり息を潜める。――だが、外と中を仕切るカーテンがバッと開かれる。

「梓?」

 雅は呼びかけに応えず布団にくるまったままの梓の隣に座る。

「きっと君が顔を合わせてくれないのは私が原因なのだろう……」

 雅はぽつりぽつりと話し始めた。

「あの日、なぜああいうことをしたかは私にもわからない。でもしいて言えば……君を勇気づけたかったからかもしれない」

「僕を……?」

「やっと顔出してくれたね」

 梓は布団から頭だけをヒョコッと出す。

 なんだか今は雅が隣にいても大丈夫な気がした。

「ごめんね……避けちゃって」

「君が謝ることじゃないさ」

「雅、僕さ――」

 梓が言いかけたその時、春の日差しが差し込んだ保健室にあたたかな風が吹き込む。カーテンが風に舞い、雅の髪が春に揺れる。濡羽色の髪は所々が虹に輝き、梓の目を焦がす。綺麗の一言で言い表すには両手から溢れるほどもったいないその美貌に目を奪われる。何を言おうと思ったか一瞬忘れてしまう。

「君のことを好きになろうと思う」

 梓なりの決意だった。今度こそは、今度だけはもう何を言われても折れない、曲げない、そんな決意だ。

 恋とは何か。そんな思春期らしい問いを日中考えていた梓が出した答えだった。

 恋とは願望である。何かをしたい、その何かのための理由が恋なのだ。なにも目標を持たないものは恋なぞしないだろう。しかしやりたい盛りの中高生は恋をする。

 美しいものかと訊かれればそんなものではないと言うだろう。しかし醜いものかと問われれば否と答えるだろう。どっちつかずの感情、現象、それが恋というものなのだ。

 だから梓は”女性恐怖症を克服する”という目的のために雅に恋をする。それは一般的にいう恋ではないのかもしれない。しかし、恋とは願望なのだ。

「フフ、不思議な告白だね。では私も好きになってもらえるよう努力するよ」

 そこで昼休み終了五分前を知らせるチャイムが鳴る。

「お昼は食べたのかい?」

 梓はそこで自分が昼を食べていないことに気づいた。

 腹がぐぅっと鳴り、恥ずかしくなる。

「まだみたいだね。じゃあ今日はこのまま帰って私とご飯でもどうだい?」

「それってサボりって言うんだよ」

「私だってサボりくらいするさ。さぁ行こう」

 雅はそう言って梓の手を引いた。

 

 真上に座る太陽を横目に二人は学校の外に出る。

 春の陽気がありありと感じられる気温だった。心地の良い影を切って雅は梓を連れまわす。

「さてどこに行こうか?」

「どこでもいいよ。それよりほんとに何も言わずに出てきちゃっていいの?」

「そこは気にしなくていいよ」

 梓は聞いておいてそういえば雅の父が学校の理事長だったな、と思い出したのだった。

「そうだ、梓が前言っていた回転寿司に行ってみたいな」

「あぁ、いまなら……スシ郎がオススメだよ」

「よし、そこに行こう!」

 そうして二人はスシ郎へ向かった。


「これが回転寿司……⁉ 本当に寿司が回っているじゃないか!」

「まぁ”回転”寿司だからね」

 スシ郎に無事たどり着いた梓と雅。しかし梓は大事なことを忘れていた。

 それは平日の昼でも意外と客がいるということ。そして雅をリードしなければならないこと。もちろん回転寿司の先輩として。

 幸い店員を介さなくても席に座れるシステムのためそこは軽々クリアでき席に座ったのだが、隣に若い女性が三人座っていたのだ。

 ママ会というやつだろうか、結構な声でおしゃべりをお楽しみになられている。壁で仕切られてはいるもののやはり声が耳に入ってきてしまう。正直苦痛であった。

「梓、寿司以外も回っているぞ!」

「そ、そうだね」

 と、そんな梓の様子に気づいたのか向かいに座る雅が手招きをする。それに従い雅の隣へ移動する。

「大丈夫かい?」

「うん……」

「ほら、ハンバーグ握りあったぞ」

 そう言って雅は回転していたハンバーグ握りを取る。見慣れたハンバーグ握りに少しホッとした梓はそれを口に運ぶ。

 いつもの味だ。固めのハンバーグに甘じょっぱいたれがなんとも安心する味だ。

「うん、先日食べたものとは違った良さがあるな」

 雅もその味に満足したようで再びハンバーグ握りを取る。

 梓も少し安心し天ぷら握りやラーメンを注文した。

「む、それで注文ができるのか?」

 と、いままで回転する寿司しか取っていなかった雅が興味を示す。

「そうだよ、ここを押せばメニューが変わるんだ」

「オニオンリング……? なんだこれは」

 オニオンリングを知らないとは……⁉ 梓は衝撃を受けた。あんな美味しいものを知らずに生きてきたなんて……。

 梓はオニオンリングを注文し、しばし待つ。

「梓、君はなぜ回転寿司が好きなんだい?」

 そこで梓は少し考える。

 そもそも好きなものがなぜ好きなのか、なんて明確に答えを出せる人間なんてそうそういないだろう。

 なぜ自分が回転寿司を好むようになったのか。

 梓の脳内に様々な景色が広がっていく。そうしてたどり着いたのは梓がまだ四ほどの歳の頃の光景だった。父と母そして梓の三人で初めて行った回転寿司。そもそも寿司というものが初めてだった梓は母に寿司を食べさせてもらった時、齢四歳ながら衝撃が走った。

 それからことあるごとに回転寿司をせがんでは連れて行ってもらった。いわば思い出が詰まっているのだ。味ではなく記憶が回転寿司を好きたらしめているのだろう。

 と、過去の思い出に浸っている梓を雅が引き戻した。件のオニオンリングがあ到着したのだが衣とオニオンがはがれてしまい、どうしたらいいかというものだった。

「これではだだの玉ねぎの素揚げではないか……」

「じゃあもう一つの方食べていいよ。僕がはがれた方食べるからさ」

 梓がそう言うと雅は顔をパぁっと明るくさせる。

「では遠慮なく! いただきます!」

 一口で口の中へ放り込むとサクサクと心地よい音が聞こえた。そして雅は無言でオニオンリングを再び注文する。

「あぁ、なぜ私は今まで回転寿司に来なかったのだろうか……。本気で後悔しているよ」

 むしゃむしゃとオニオンリングをほおばりながら雅はつぶやいた。お金持ちの口にもあったようで何よりだ。

 そうこうしているうちに日は沈んでいき、店内に夕日が差し込んでくる。

「あぁ、もうこんな時間か」

 雅が腕に巻いた時計を見て言った。というかとても高そうな時計だ。煌びやかな宝石がちりばめられ、盤面はもはや数字がみえないくらいに輝いている。

「お会計にしようか。……で、大将はどこにいるんだい?」

 やはりそこはお金持ちというべきか、大将を探し店内を見渡すが、この店には大将ではなく店長と従業員しかいないのをわかっていないみたいだった。

「会計は向こうのレジでやるんだよ」

「そうだったのか、そこに大将が。あぁそれと、ここの会計は私がしておくから先に外で待っていてくれるかい?」

 お金持ちにとっては本当に気にも留めない額なのだろう。梓は雅に甘え、店をでる。

 人生で初めて学校をさぼった日はとても充実していた。少なくとも梓はそう感じていた。

「お待たせ、すこし手間取ってしまってね。大将に礼を言いたいと申し出たら「大将なんていない」と言われてしまってね。いやー参ったよ」

 そんな雅の発言に苦笑いをしながら梓は帰路につく。


 ――翌日。

 サボってしまったという罪悪感からかいつもより準備の足が重い。昨日の寝る前まではルンルン気分だったというのに。

 重い足を動かして通学路を歩く。なんだか嫌に太陽の日差しが強い気がした。


「おはよう……」

 沈んだ気分のまま教室に入る梓。いつもより遅い時間に登校したからか教室内は既ににぎやかだった。

 梓を待っていたのか、弘瀬は梓の席に座っていた。

「梓おはよー。昨日は大丈夫だった?」

「あぁー……、うん、大丈夫だったよ。心配してくれてありがとね」

 梓は若干濁らせて答えた。

 心が痛くて痛くてしょうがない梓は今後サボりをしないと難く誓ったのだった。



 梓が編入してから一か月と半月が過ぎた。雅、弘瀬、一郎の三人と行動しそれはとても濃密な日々だった。

 そして一学期最大のイベントが幕を開ける。その名も……。


 ――校外学習。


 そう、一般の公立高校なら少し遠出した水族館や博物館が関の山であろう。しかしここは双導学園。普通の高校とは一味、いや二味違う。

 梓はとてもウキウキしていた。なぜなら今日は校外学習の日。

 時刻は朝五時。荷物をキャリーケースに詰め、学校へ向かう足取りもリズミカルだ。

 春も半ばに差し掛かる頃だが朝が早いとやはり肌寒く感じる。吐く息が薄く白に染まり、鼻からはいる空気も冷たい。

 楽しみなことは時間が過ぎるのが早いというけれど、それは梓も例外ではないようで、あっという間に学校へ到着した。

 校門をくぐるといつもの三人が梓を迎えてくれる。そして校門を少し進んだ場所に大きなバスが男子一年生のクラス分用意されていた。

「梓、すっごく楽しみ! って顔してるね」

「ほんと、顔に書いてあるぞ?」

 言って一郎は梓の頬をむにぃっと引っ張った。

「フフ、楽しみで早起きしたのかい? 寝ぐせがついたままだよ」

 雅が言うので自身の頭をさする梓。すると本当に寝ぐせがついていたので少し恥ずかしくなる。

「じゃあ私がなおしてあげよう。バスの中に行こうか」

 雅に連れられ梓はバスに近づく。大きなバスだなぁ、と思っていた梓だが近づくにつれその大きさの規格外さを感じる。

 バスの前に立つと自動でドアが開く。運転手に大きな荷物を預け中に入る。バスなのに下駄箱が設置されていた。

 まるでキャンピングカーのようなデザインのバスの内装は適当な家なら入ってしまうくらいの広さと設備だった。

「ひ、広い……! というか豪華!」

 つい口に出てしまうほどの豪華絢爛ぶりだ。大きなソファーに大型テレビ、キッチンやシャワールームまで完備されている。そして二階に上がる為の階段が下駄箱の近くにあった。

「じゃああそこのソファーに行こうか」

 雅に言われるがままソファーへ向かう梓。

 きょろきょろと辺りを見渡し改めてこの学校の規格外さが身にしみる。

 ソファーに座ると雅が梓の髪を梳かしてくれる。

「綺麗な髪だね。なにかケアとかしているの?」

「なにもしてないよ」

「へぇ、羨ましいな」

 そんな会話を交わしているうちに寝ぐせはなおっていき、いつもの梓となった。

「あ、梓の髪もどったんだ」

「さっきのも可愛かったけどな」

 一郎がすこし笑いながら言う。

「双導学園の生徒として行くんだ。身なりは整えなければ、だろう?」

「さっすがは理事長の息子だね」

「からかうのはやめてくれよ」

 そんな会話を雅と弘瀬が交わす。

 その後、残りの生徒たちがバスに乗り込んできて車内はぎゅうぎゅうになった。

 テレビを見て談笑をする者、トランプなどで遊ぶ者などに分かれそれぞれ時間を過ごしていた。

 やがてバスが動き出すと二階で過ごしていた梓は窓から景色を眺めていた。次から次へと変わってゆく景色に梓は思いをはせる。

 ここに母と二人で来れたらどんなだっただろうか。梓が物思いに耽る時に脳裏に浮かぶのは大体がこの言葉であった。

 梓は自身がとんでもない親不孝者だと自覚している。母を見るたび本能的に拒絶し、口を利かなくなった。もちろん梓自身は母と話したいし一緒に料理をしたり、買い物をしたりしたかった。しかしそれは梓が六歳を迎える前に打ち切られてしまった。どうしようもない親不孝者だ。そう思っていると梓の名前を呼ぶ声がした。

「どうしたのさ、そんなに黄昏ちゃって」

「もしかして早起きしたから眠いとかいうんじゃないだろうなぁ~?」

「ね、眠くなんかないよ! そうだ、大富豪やろうよ」

 梓は二人に元気よく返し、雅もさそって大富豪たちと共に大富豪をやり盛大に負けるのだった。


 二時間ほどバスに揺られ、着いたのはとある港だった。そこには大型の船が一隻堂々たる雰囲気でたたずんでいた。

「で、でかーーーっ!!!」

 梓は思わずそう叫んでしまっていた。笑ってしまうくらいでかい。今まで乗ってきたバスが余裕で三十台は入るだろうその大きさに驚きを隠しきれない。

「こんくらいかぁ、まぁ校外学習だしねー」

「思ったよりちいせぇな」

 だが驚き散らす梓とは対照的に弘瀬や一郎らはガッカリしたような様子だった。

「さぁ、早く乗ろうか。もうすぐ出港らしいからね」

 バスから運び出された荷物を持って梓達は船に乗り込んだ。

 豪華客船とはこの船のためにある言葉だと思うほどの豪華絢爛っぷりに開いた口がふさがらない梓。初めて動物を見た赤子のようであった。

 遥か頭上にはおおきなシャンデリアがあり、キラキラと輝いている。さらに壁には絵画が飾られ、高そうな壺が廊下に点在している。船というよりホテルだ。まぁ客船だからホテルで間違っていないのだが。

「お待ちしておりました。こちらがキーになります」

 搭乗員からカードキーを受け取った梓は自分の部屋へ向かう。

 長い廊下を抜け、階段を上る。一階、二階、三階……。多すぎるし広すぎる。

 梓は自分の部屋を探していたはずがどこか分からないところへ出てしまった。仕方がない、広すぎるのだから。

「どこ、ここ……」

 そう声に出しても誰に届くこともない。暗い空間で梓は一人ぼっちになってしまった。

 何も見えない空間に一定周期でゆれる船、酔えと言っているようなものだった。

 胃の中からせりあがってくるものを必死に抑え、梓はじっと待った。『王子様』が助けに来てくれると信じて。


 どれくらい時間が経っただろうか。一時間にも十分にも思える。そんな不安定な時間が梓を包む。

 ずっとこのままなのだろうか。誰も自分を見つけてくれず……。そう思ったその時だった。

「やっと見つけた」

 声が聞こえた。

 それと同時に梓の視界に光が映る。

「心配したんだよ、梓」

 王子様だ。梓はそう思った。今まで考えていたことがどうでもよくなるくらい目の前の王子様はキラキラしていた。

 暗い洞窟に迷い込んだ姫を颯爽と助け出す王子様。まるで童話の世界だ。

「さぁ、私と部屋に行こう」

 そう言って雅は梓の手を取る。どうやら梓は船の仮倉庫に迷い込んでしまったらしく、出ると明らかに裏側といった感じの空間が広がっていた。

 ここまでくるのに相当の場所をくぐってきたのか顔は黒く汚れ、制服にも汚れがついていた。

「雅、顔……」

「ん? 私の顔がどうかしたかい?」

「いや、なんでもない。ありがと」

 そうして無事部屋にたどり着いた梓。だが驚くことにそこは梓がいた場所から驚くほど近いところにあった。部屋は二人一部屋で梓は雅と一緒の部屋であった。なんでもこういう泊りで行われるイベントは本来避けるそうなのだが、秘密を知っている梓が同部屋なら、と今回は参加したという。

 カードキーをスワイプするとガチャッと鍵が外れる音がする。扉を開けると高級ホテルのスイートルームばりの光景が広がっていた。

 もちろん内装などは事前にパンフレットを読みこんでいたので知ってはいたのだが、目前にするとこうも迫力があるのかと感嘆していた。まぁこの学年でパンフレットを読みこむ人間は梓くらいだということには目をつむり、部屋に入る。

「まずはお風呂に入らないとだね」

 梓は自分と雅のナリをみてそう言った。

「梓が先に入りな、私はその後でいいよ」

 梓はその言葉に甘え、シャワールームへ向かう。

 シャワールームも豪華で頭上から水が噴出されるシャワーやその他高級そうなアメニティが所狭しと、しかしセンスを感じられる配置がされていた。

 梓は制服を脱ぎ、そこら辺のかごに放り投げる。

 シャワーを浴び、顔に付いた汚れを落とす。

 髪と体を軽く洗い、すぐに出ようと扉を開ける。

「あぁ、もう終わったのかい?」

 そこで梓はバスタオルを取ることも忘れすぐさま扉を閉めた。なぜならそこには丁度制服を脱いでさらしを解いた雅がいたからだ。さらしを解いたということはもちろん乳が丸見えということで。梓はシャワーを流しながら体育座りでうずくまってしまった。

「ごめん梓、こんなに早いって思わなくて……」

「ううん、僕も何も確認しなかったから……」

 雅の謝罪に梓は震えながら答えた。

 温かいシャワーを浴びているはずなのに体の奥底は冷えていく感覚が気持ち悪い。

 梓は呼吸を整え、シャワーを止めて雅に訊く。

「もうでてもいい?」

「あぁ、もういいよ」

 梓はバスタオルで体を拭き、バスローブの袖に腕を通す。いつも風呂上りには速攻でパジャマに着替える梓はバスローブが新鮮に感じた。

「フフ、気に入ったの?」

 その様子を見ていた雅は微笑ましく梓を見守っていた。

 ――それから雅もシャワーを済まし、バスローブを巻いてシャワールームから出てくる。さすがにシャワーを浴びた直後ではさらしを巻かないのか、見慣れない胸のふくらみがそこにはあった。

「梓、髪はまだ乾かしていないのかい?」

「あ、そういえば忘れてた」

 梓の髪の毛は半分乾いた状態で横にボサッと広がってしまっていた。そんな梓をみて雅は何か思いついたように手をポンと叩く。

「じゃあ私に乾かさせてよ。やってみたかったんだよね」

 そう言って脱衣所からドライヤーを取り出してくる。

 髪を乾かすのにとくにこだわりのない梓はやってくれるなら、と雅に甘えるのだった。


「お、梓見つかったのかー」

「梓、なんか髪爆発してない?」

 数時間後、学年全員で夕食をとる時間になり部屋が離れている弘瀬、一郎と合流し一階の大広間へ向かう梓達。

 結局あの後梓の髪は盛大に爆破され見事な爆発ヘアーへとなり果ててしまったのである。時間までになおそうと頑張った雅だがそれも虚しく、弘瀬にこういう反応をされるくらいにしか直らなかった。

 まぁ自分でドライヤーを持ったのが初めての人間にしてはよくなおったほうである。

 梓はスマホの画面に反射する自分を皆がら苦笑いをこぼす。

 雅はよほど悪いと思っているのか先程からずっとうつむいたままである。部屋では一生「ごめん」と言っていた。

 そうして大広間に着き、それぞれ用意された席へつく。

 前には豪勢な料理がこれでもかと並んでいた。

 赤く茹で上がった伊勢海老やどでかいチキンなど梓では名前のわからない高貴な料理ばかりであった。

「いただきまーす」

 手を合わせ伊勢海老に手を伸ばす。だが食べ方がわからない。どうにかしようと四苦八苦していると雅が伊勢海老のむき方を教えてくれた。

「ありがとう」

 雅に礼を言い、伊勢海老にかぶりつく梓。濃厚な海老の味が口の中いっぱいにひろがる。頬が落ちるほどのおいしさに数分呆けていた。

「アハハ、梓かわいい顔してる」

「そんなに旨かったのか?」

 向かいに座る弘瀬と一郎は笑ってそう言った。

「梓、ソースがついてるよ」

 と、雅がそう言うと梓の口元を紙でぬぐう。

 これではまるで子供みたいだ。と梓は思うが料理のおいしさがそれを上回り別の料理に手を伸ばす。

 鼻腔をくすぐる香りが梓の腹が音を上げた。


「いやー、食った食った」

「ほんと食べすぎだよ~」

「仕方ねーじゃん、あのサラダめっちゃうまかったんだから」

 夕食を終えた一行は部屋へ戻る為長い廊下を歩いていた。

 一郎はかぼちゃのサラダが気に入ったらしく、部屋に持ってきてもらうと言っていたほどだ。

「まじ帰ったらシェフにかぼちゃサラダ作ってもーらお」

「食べ過ぎると太るよ~?」

 そんな会話を弘瀬と一郎がしているのを横目に梓は食べすぎによる軽い吐き気と戦っていた。

「大丈夫かい? すこし速度を落とそうか?」

「ううん……大丈夫」

 そうして弘瀬と一郎と夜にデッキで落ち合う約束をし部屋に戻った梓。

 梓は部屋に戻りベッドに飛び込む。

「食べすぎた~」

「美味しかったね」

「うん。あんなに美味しいもの初めて食べたよ!」

 梓は満足そうに答える。それを見た雅は愛おしそうに梓の頭を撫でる。それを不思議そうに思い雅を見上げる梓。それが自然にも上目遣いの姿勢になり雅にはそれがとてつもなく可愛くみえた。

「ん? どうしたの?」

「いや、可愛らしいなと思ってね」

 そんな可愛らしい梓は「可愛い」という言葉に対してすこしむっとした。

「僕は可愛くないよ、むしろかっこよくなりたいんだ!」

「ごめんごめん、そうだね、かっこいいね」

 それを聞いた梓は見るからに機嫌をよくしてニコッと笑う。

「えへへ、そうでしょそうでしょ」

 そうしてすこし談笑をしていると約束の時間を告げるアラームが携帯から響く。といっても約束の時間よりも幾刻か早かった。

「あぁ、もうこんな時間か」

「でもまだ三十分くらいあるよ?」

 少し早いアラームに梓は首を傾げる。すると雅は部屋のクローゼットを開け、そこからドレスコードを二着取り出した。片方は白を基調に金のワンポイントがキラリと光る燕尾服のようなシルエットのものでもう一着はかっこいいよりもかわいいといった雰囲気の紺と黒のストライプ柄が目立つものだった。

「私たちは双導学園の生徒だ。こういうものは大事だよ」

 雅はそう言うと梓にストライプ柄のほうを渡してきた。特殊な印象はないはずだが糸の繊維ひとつひとつから光沢が出ているように見える。ライトに照らせばキラキラと光ったそれは一目で高級品だとわかる威厳をまとっていた。

 と、梓がスーツを見渡しているといつの間にか着替えを終え、ドレスコードに身を纏った雅が脱衣所から出てくる。

 制服も燕尾服風だが基本色が真逆になったことでイメージもがらりと変わった。少女漫画から出てきましたといわれても何の疑いを持たずに信じるだろう。それでもまだ足りないような気がする。そんな美しさだった。

「梓も着替えておいで」

 その言葉に頭が覚醒した梓はスーツを携えて脱衣所へ入った。

 着替えを済ませ鏡を前にその場でターンをしてみる。先程の雅の姿と自分を重ねて自分がちんちくりんすぎるという感想が頭をよぎり、それでは自分がかわいそうになるだけなのでその考えをかき消した。

 脱衣所から出ると本物の執事のように梓を待っていた雅がかっこいい立ち姿で立っていた。普通に立っているだけなのだが顔と服と雰囲気でそれすらかっこよくみえてしまう。

「似合うかな……?」

 すこし声を小さくして訊く梓。自分が服に着られていはないかと不安だった梓に雅は「とても似合っている」と返してくれ、気持ちが幾分かマシになった。

 雅に手を取られ部屋からデッキを目指す。階段を上がるとデッキと星空が見えてきた。

「わぁ……!」

 息を呑むような美しさを固めた星々がきらめき、空の海を彩っていた。空を反射した水面も相まってまるで宇宙を泳いでいるようだった。

 デッキには大勢の同級生がそれぞれグラス片手にこのすばらしい景色を眺めつつ談笑をしていた。と、デッキの中央から楽器を持ったパフォーマーが登場しパフォーマンスを披露し始めた。この夜にふさわしいジャズを見事に演奏している。

「お楽しみかな? お二人さん」

 声をかけられ梓が振り向くとそこには赤いドレスコードに身を包んだ一郎とフリルがあしらわれた赤いドレスを身にまとった弘瀬がグラスを片手に歩いてくるのが分かった。ここだけ切り取ればリアリティーショーの最後のシーンである。

「そちらも随分とお楽しみのようで」

「ぼくは仕方なく付き合ってるだけだけどね」

 言いながらも弘瀬は満足そうな顔であった。

 四人は近くにあったソファーに移動して星空を見上げる。すべてに吸い込まれてしまいそうなほどそこにある”無”が”無限”であった。

「綺麗だね……」

 雅はぽつりとつぶやいた。

「あぁそうだ、この後花火あがるらしいぜ」

 一郎はそう言うと席を立ち、デッキの先頭付近へ向かう。なんでも花火が一番よく見える場所なんだそうだ。弘瀬、梓、雅の三人はグラスにつがれたシャンメリーをグッと飲み干し一郎の後を追う。と――。

 ヒュゥゥゥ……。

 空から口笛を吹く音が響き渡る。

 そして次の瞬間、空に花が咲いた。それは空に、宇宙に咲いた一輪の黄色い花だった。火薬と宙が対話を果たした瞬間が目の前に広がっていたのである。

 四人は瞬間息を呑んだ。

 感想が口に出せないほどそれは美しい光景であった。

 それから何発も花火が上がり赤、青、緑など色とりどりの花火が空を埋め尽くす。

 絵画でも、ネオンでも表現できない花火の美しさに引き込まれる。

「すっげぇ……」

 一郎は小さく呟く。

 それに呼応するように三人は頷き、空を眺めていた。

 梓がふと横を見ると丁度雅と目線が合う。互いに無言で見つめあい、なんだか変な気持ちになっていく。そして弘瀬達には見えないように二人は互いの指に触れた。その指先はいつもより熱を持っていることを二人は知らない。


 花火も終わり、デッキから部屋へと戻ってきた梓と雅。お互いに一言もしゃべらず寝る支度をしていた。

 もちろん何をしゃべったらいいのかわからないからだ。

 先に口を開いたのは梓だった。

「綺麗だったね、花火」

「あぁ、ほんとうに綺麗だった」

「ねぇ」

「なぁ」

 二人が同時に互いに話しかける。変な間ができた後梓は雅に「先いいよ」と言った。

「さっき、指触れたよね。その時さ……ドキドキしたんだ」

 そう言う雅の頬はすこし赤くなっているように見えた。

「嫌じゃなかった……かな?」

 梓は言葉に詰まる。嫌かそうでないかと問われれば嫌ではないがそれをどう言葉にすればいいかが分からなかった。シンプルに「嫌じゃない」と答えればいいのか、それとも別のふさわしい言葉があるのか、そんなことを考えているうちにも時間は進んでいく。

「大丈夫……だよ」

 考えた挙句出てきた言葉はそれだった。

「そうか、よかった……」

 雅は安心した様子で息を吐いた。

 カーテンの隙間からは星明りが見え、だんだんと夜も深くなっていく。かすかに揺れる船に身を預け梓は外を覗く。

「梓? 外になにかいる?」

「……怖いこと言わないでよ」

 窓の外に人が張り付いている様子を想像した梓はサァーっと血の気が引くのを覚えた。怖い系が苦手というのもあるがそういう幽霊や異常者は女性で描写されることが多いため梓にとってはダブルでパンチがとんでくるのだ。

 梓は窓から目を逸らし布団を頭から被る。足も布団の中に収納し亀と同じような体勢になる。

「あはは、怖がらせちゃったかな?」

 雅はそう言いながらカーテンの隙間を閉め、ベッドに腰掛ける。室内にはベッドが二つ、いわゆるツインベッドと呼ばれる状態なのだが雅は梓のベッドの方に座ってきた。雅が座った瞬間にベッドがすこし沈む。

「雅のベッドは隣でしょ?」

 梓が布団の中からもごもごさせながら言う。すると雅は言いずらそうに口を開く。

「そのー……、言いにくいんだけど」

「どうしたの?」

 あまりに言いにくそうに話すものだから思わず梓は布団から顔を出した。そこには先程よりも幾分か顔色の悪い雅が窓を背に梓がくるまっていた布団を見つめていた。

「見てしまったかもしれない」

 一言、雅は言った。

 その言葉が示す意味を考えた瞬間梓は再び布団の中に顔を収納する。

「なんてこと言うんだよ!」

「私だって見たくなかったさ、あんなもの!」

 その言葉でより真実味を帯び、梓は血の気が引くのを感じた。

 雅と梓が見えざる何者かに震えているとコンコンとドアが鳴る。その瞬間こそ肩を揺らし怯えにおびえたものの次に聞こえた声で安心する。

「梓、雅、入ってもいい?」

 弘瀬の声だった。梓と雅は即座にドアを開きドア前にいた弘瀬と一郎を自室へ招き入れる。そして弘瀬に思い切り抱き着いた。

「ちょ、どうしたのさ二人共⁉」

 梓はギュウっと弘瀬を抱きしめながら小さく呟く。

「今日一緒に寝よ……?」

 いまだ疑問符ばかりの二人に梓と雅は先程体験したことを話した。

 一郎は腹を抱えて笑い、弘瀬は優しく二人の頭を撫でてくれた。

「そっか、それは怖かったね……」

「そんなんいる訳ね―じゃんか。ただの見間違いだろ? シミュラクラ現象ってやつ」

 そう言って一郎はカーテンを開け、窓の外を眺める。

「ほら、なんもいねーじゃん」

 ほらな? と言わんばかりの表情でそう言う一郎。弘瀬は一郎の言葉を無視し梓と雅をベッドへ連れていく。

「今日は一緒に寝よっか。ぼくもそんな話きいたら一人で寝たくないし」

 梓はそんな弘瀬を見て「い、イケメンだ!」と思ったが口には出さなかった。

 なお一つのベッドのサイズが桁違いに大きいので三人が横に並んでも余裕であった。

「……え、俺は?」

「一郎は一人で寝ればー?」

「まぁ別にいいけどよ……」

 そうして校外学習一日目は終わった。


 ぼんやりと差し込む朝日が瞼を刺し、梓は目を覚ました。しょぼつく目をこすりながらむくりと起きる。隣には弘瀬も雅もおらずきょろきょろと周りを見渡す。

 すると脱衣所から髪をタオルで拭きながら弘瀬が出てきた。

「起きたんだ。おはよ」

「おはよぉ」

 ベッドから立ち上がりその足で脱衣所へ向かう。

 と、脱衣所入るとドアを隔てた向こう側からシャワーを浴びる音が聞こえた。いまだ寝ぼけているのかその音が心地よく聞こえ、徐々にウトウトし始める。

 ――ガチャッ

 その音で梓は目を覚ます。

「あ、梓⁉ なにやってるんだい?」

 シャワールームからバスタオルを体に巻いた雅が目を点にして立っていた。ピッタリと雅の体に張り付いたバスタオルが雅のボディラインをこれでもかと強調する。

 そこで梓の脳みそは一気に覚醒しこの状況がまずいことを理解する。梓は目を逸らそうと近くにあった籠で目を覆い隠す。

「ごめん! すぐ出てくから!」

 そう言って梓は大慌てで脱衣所から飛び出す。

 あまりにも周りが見えてなくてそのまま壁に激突したを梓を心配して弘瀬が走ってくる。

「梓⁉ 何やってるの⁉」

「ぼ、僕は……」

 と、その壁にぶつかった際に発生した衝突音で目を覚ました一郎が何事かと寄ってくる。

「なんの音だぁ⁉」

「なんか梓が急に壁にぶつかって……」

「いったい何が……」

 頭の上に星が回っている梓を横に二人は脱衣所の方を見る。

「梓、大丈夫かい?」

 いつもの格好に着替え終えていた雅は慌てることもなく脱衣所から梓の方へ歩いてくる。

 何が起きたかさっぱりわかっていない梓をヒョイと抱え上げそのままベッドに寝かせる。そして優しい手つきで梓の頭を触り始めた。

 と、ズキンと頭に痛みが走る。

「たんこぶができているね。氷嚢をもらってくるよ」

 そう言って雅は部屋を後にした。

「おぉ、さすがは『王子』……処置が早い」

 一郎はそう漏らした。

 少しして雅は氷嚢を持って部屋に戻ってきた。

「ほら、患部に当てておいて。もうすぐ着くからそこで診てもらおうか」

 雅がそう言うと畝がピタッと停まる。カーテンを開け外を見てみると港やその向こうの景色が見えてきた。

 着いたのは小笠原諸島だ。

 軽い荷物を持って船を降りる四人。

「じゃあ夕飯時になったら戻ってこいよ~」

 外に出ると内藤が生徒たちにそう言ってそそくさと島の内部へ先生たちを引き連れて消えていった。

 梓はスウっと息を吸う。さすがは島というべきか綺麗なんだろうなと思える空気が梓の肺を満たす。

「うーん、気持ちいいねぇ」

 一郎も深呼吸をしてそう呟いた。

 少し歩くとそこにはだだっ広い海が広がっていた。海岸の向こうに広がる海は美しいコバルトブルーで鮮やかなグラデーションがかかっている。

 奥を見れば地平線が薄っすらと孤を描いており地球が球体だということをありありと示していた。

「さ、病院へ行こう」

 だがそんな梓の手を引いて雅は検索した病院の方へ進む。

「雅、そんなに梓のたんこぶって悪いの……?」

「たんこぶだって甘く見ちゃいけないでしょ?」

 そう言ってどんどんと進んでいき、ものの十数分で病院へたどり着いた。

 大分さびれていそうな病院で白い部分はほとんど蔦に覆われていた。

「……ここほんとに病院?」

 弘瀬が思わずそう漏らすがそれも仕方ないことだろう。梓だってそう思った。

 入るのも憚られるが雅の意志がいやにかたく半ば引きずられながら病院へ入る。

 薄暗い院内には切れかけた電球がぽつぽつと点在していてまるでお化け屋敷だった。

 するとパッと明かりが灯いた。

「いらっしゃい」

 中から出てきたのはよぼよぼのおばあちゃんだった。医者、というより患者じゃないかと思ったが白衣を着用しているので多分前者なのだろう。

「どうしたんだい? というかあんたら島の者じゃないね。どこから来たんだい?」

「東京の方からです」

「都会の子かい。べっぴんさんだねぇ」

「おばあちゃん、この子の――」

 ――そうして雅が事情を説明するとおばあちゃんは梓を診察室へと案内した。

 結局ただのたんこぶだったようで頭に巻ける氷嚢を手渡されたのみだった。


 病院を後にして四人は砂浜へ向かった。

 でこぼこした道をかきわけ進む。

「ほんとにこの道で合ってる? さすがにけもの道すぎない?」

 弘瀬がそう言うが雅と一郎は自信満々に「近道だから!」と言うだけであった。

 少し歩くとだんだん青空が顔をのぞかせる。白く綿飴のような雲と青空のコントラストに都会の雑踏ですさんだ心が浄化されるようだった。

 そうしてけもの道を抜けると視界いっぱいの海が梓達を快く迎え入れてくれた。穏やかな波ときらめく波、その両方が混ざり合い日本ではない他の世界のようだった。

「ほらな、言ったろ?」

 と一郎がへへんと鼻をのばす。たしかに周りを見渡してもクラスメイトはおろか島の人すらおらず四人の貸し切り状態だった。

「ひゃっほーう!」

 一郎が荷物を投げ出して海へと走っていく。

 それを見て「ずるい!」といいながら弘瀬も海へ向かっていった。

 梓は雅と顔を見合わせ二人の荷物を持って砂浜へ向かった。

 砂浜は驚くほど白く、芸術品のようだった。ギリシア彫刻の成れの果てといわれてもギリギリ信じてしまうだろう。

 海を前に梓は感動を覚えていた。生で海を見るのは初めてだったからだ。船の上でも見たが砂浜とのセットでみるとまた違った趣がある。

「私は荷物を見ているから梓もいってきな」

 雅がそういうので梓はそれに甘えて海の方へ駆け出していく。

「梓ー! こっちこっちー!」

 びしょ濡れになっていた弘瀬が手招きをする。

 ――ピチャッ。

 梓の足先が海水に触れる。

 冷たい。それでいてワクワクに触れた。

「冷た……っ」

「えいっ」

 と、弘瀬が水をかけてきた。急な水に驚いた梓は間抜けな声をあげその場にしりもちをつく。制服がびしょびしょになりぬぐいきれない不快感が下半身を襲う。

「っとと、大丈夫か梓」

 言いながら一郎が梓に手を差し伸べる。

「あー、結構濡れちゃったな」

「ごめん梓……」

 弘瀬が申し訳なさそうに謝ってくる。その顔を見て怒る気にはとてもなれず「大丈夫」といって一郎の手を取り立ち上がった。

 ペタペタと砂浜を歩き雅の元へ戻る。

「結構濡れてしまったね」

「ぼくのせいで……」

 だが雅はそんな梓の姿を見てニコッと笑う。

「なら新しい服を調達しよう。弘瀬、付き合ってくれるかい?」

 それを聞いて弘瀬は、その手があったか! といった顔をして雅と共に街へ繰り出していった。

「行っちまったな」

 と一郎がつぶやく。

 少し気まずいと思う梓は少しの間黙っていた。たしかに一郎も友達であることは間違いない。だがあの二人よりは話さないのだ。言ってしまえば友達の友達のような雰囲気がそこには流れていた。

 話しかけようか、このまま黙っていようか、梓が逡巡していると一郎が口を開く。

「なんか……ちと気まずいな」

 いきなりの言葉に梓が固まっていると一郎はハハっと笑う。

「俺たち二人きりなんてほぼなったことねーからさ、どう話してたか忘れちまった」

 そう言って一郎は梓の隣に腰掛ける。

 さっきまで真上にあった太陽は少し傾きはじめていた。

「――なぁ、なんで梓はこの学園に来たんだ?」

 そういえば雅以外に言っていなかったな、と思い出し梓は双導学園に編入した理由を話した。

 自分が女性恐怖症なこと、それを克服するために男子舎と女子舎がある特殊な双導学園に編入したこと。

 するとそれを聞いた一郎はなにか得心いった様子で頷く。

「あぁ、だから雅とずっと一緒にいんのか」

 ――ん? だから、とは? 梓は半分理解できて半分理解できないカオスな脳内の海にいつのまにか放り込まれた気分だった。

 そんな様子の梓をみて一郎はハッとした。

「あー……いや、忘れてくれ」

 そんなことを言われたらさらに気になるのが人間というものである。梓は一郎に問う。

「だから、ってなに?」

「いやー……」

「イチロー? ねぇ」

 梓はじりじりと一郎に寄っていく。

 梓に押され、たじろぐ一郎は徐々に後ろへさがっていく。

 そうしていつの間にか梓に押し倒される体勢になっていた

「わかった、わかったって言うよ」

 一郎がそう言うと梓はニンマリしてその場から退く。

「はぁ……、いいか、このことは多分他言無用だ」

 そう言って一郎は梓の唇に指をあてる。

「多分、雅は女だ。俺も確信があるわけじゃねぇが」

 そこで一郎の声が止まる。

 横を見ると雅と弘瀬が袋を両手に抱えて砂浜へ戻ってきていた。

「内緒だぞ」

 一部に耳打ちされ小さく頷く梓。そうして二人の元に駆け寄っていく。

「なんか二人の距離近くなかった?」

 と弘瀬。外から見てそういう風に見えたってことは少しは仲良くなれたのかな、と思ってうれしくなる梓だった。

 

 二人が買って来た服に着替え散策を再開する梓達。

 梓の出で立ちは白いロゴTシャツにミリタリーなブルゾンを羽織り、黒の幅広のズボンに足元はスニーカーというストリートスタイルだ。弘瀬チョイスのブルゾンがいい感じのサイズでお気に入りに立候補してくる。

「梓ってどんなスタイルも似合いそうだよな」

「たしかに、顔可愛いし女の子の格好とかも……」

 スムーズに女装をさせられそうになっていることに気づいた梓は「絶対にヤダ!」とそれを拒否した。

 そんなことを話しながら歩いていくと島の人にしゃべりかけられる。歩く人たちはほとんどが老人だった。

 小高い山を登り頂上のベンチに腰掛ける。

「はぁーっ! つかれたー!」

 梓は両手をのばして伸びをする。凝った筋肉がググッとのばされる感覚に少しの間呆けてしまう。目の前がチカチカして平衡感覚が狂ってしまう。

「いやー、めちゃくちゃ歩いたな」

 空は橙色に染まり、四人を照らす。ステンドグラス越しの光のように鮮やかな夕焼けは息を呑むほどに美しかった。

 地平線に沈んでいく太陽を見つめる。

「綺麗だな」

 梓の隣に座った雅が言う。その横顔が芸術品のように美しく、梓は見惚れてしまう。

「うん、綺麗……」

 考えるよりも先に梓の口からそんなセリフが飛び出していた。それは夕日に対してなのか雅に対してなのか、境界線が曖昧になっていた。


 船へ帰ってきた梓と雅は弘瀬達と別れて部屋へ戻っていた。

「疲れたね」

「うん、一日あるいてばっかだからね……」

 そう言って梓はソファーに腰を下ろす。ふとスマホをみると歩数が軽く一万歩を超えていた。足は文字の通り棒のようでもう一歩も動けないくらいに疲れが集中していた。

「梓、シャワー浴びないと」

 雅が梓に手を取る。しかしその程度では今の梓の体を動かすことはできない。ソファーに根が張ったようだった。

「はぁ……一緒に入ることになるぞ?」

「……一人で入ります」

 雅の提案を聞いた瞬間に体が軽くなり梓は即座に脱衣所へ向かった。

 頭からシャワーを浴び周囲の音が水音でかき消される。

 梓は昼間の出来事を思い出していた。一郎が言った一言が梓の心に引っ掛かっていた。雅の秘密を知っているのは自分だけだと思っていたのに、それが嫉妬なのか疑問なのかは今の梓にはわからなかった。

 そんなもやっとした気持ちのままシャワールームからでてバスローブに着替える。

 髪を乾かし脱衣所からでてすぐにベッドに飛び込む。

「なぁ梓」

 と、ソファーに座った雅が話しかけてくる。

「一郎と何かあったか?」

 その言葉に梓は一瞬固まる。末恐ろしい洞察力、これが『王子』と呼ばれる所以の一つか……と半ば感心していた。

 だが感心している場合ではない。一郎からは言うなと言われたのもあるがなんとなく話したくなかった。自分だけが彼女の秘密を知っている、その特別感を手放したくなかった。

「いや、なんもないよ」

「そうか」

 雅はそう言うと脱衣所へ向かっていった。

 と、ルームサービスのインターホンが鳴る。出てみると男性の声だったので梓はルームサービスの品を受け取った。それはチョコレートのようで一つ一つ個包装されていた。それを机に置いて雅が出てくるまでスマホを眺めて時間を潰す梓。と、脱衣所の戸が開きバスローブ姿の雅が出てくる。

「ルームサービスそこに置いてあるよ」

「あぁ、ありがとう」

 そう言って雅はチョコレートを一つ口に放り入れる。

「ん、おいしいな。梓もいるか?」

「ううん、今はチョコって気分じゃないからいいや」

 梓はスマホを充電コードに挿してベッドに倒れこむ。フカフカして梓の体を包み込んでくれる布団はまるで雲のようだ。雲に寝転がったことはないが。

 ふと雅を見ると些細な違和感を感じた。

 風呂上がりだから顔が赤い? いや、それにしては赤すぎる。

「雅……?」

 梓が話しかけると雅はクルッと梓の方を向く。そしてすこしフラフラしながら梓に近づいてくる。

 嫌な予感がプンプンしてくる。

 そしてベッドに侵入してきた雅に追い詰められ押し倒される梓。バスローブが崩れ胸の谷間があらわになっている雅から必死に目を逸らす。

「ちょ、ちょっとまってよ! どうしたのさ雅!」

「どうしたもこうしたもない! 昼間のあれはなんだ! いちろうを押し倒して!」

 若干ろれつが怪しいが迫力は十分だった。

「私だってきみのこと結構好いているんだぞ! それなのに……」

「あ、あれは……むぐぅ⁉」

 梓が弁明しようとしたその時、顔全体になにかとてつもなく柔らかいものが押し付けられる。人肌くらいの温かさでドクンドクンと鼓動が聞こえる。

「なんで私ではないのだ……」

 小さく呟いた雅は梓を解放し梓の頬を掴む。

「私は……」

 ――ドサッ

 言いかけて雅は梓に覆いかぶさるようになり意識を失ってしまった。

 バスローブは崩れてもはや意味をなしていない。完全にあらわになった豊満な実りに女性らしいメリハリのあるフォルム、紅潮した頬、白く透き通った肌に梓の理性は崩壊寸前であった。

 意識しなくてもわかるほど梓の呼吸は荒くなる。息が詰まり声が出なくなる。

 今目の前の肢体に触れてしまえば梓は自分を失うだろう。必死に雅から目を逸らして静かにそこから退く。腕を動かせば彼女の胸の感触がダイレクトに伝わってくる。やっとこさどくのに成功し雅に布団をかけた。

「なんだったんだ……」

 呟きながら机に置かれたチョコレートを手に取る。そこにはウイスキーボンボンの文字が。梓自身食べたことはないがなかに酒が入ったチョコだ。しかし酒と言ってもほとんど入ってないようなもので酔うなんてはなしは聞いたことがない。

 『王子』がまさか酒にあそこまで弱いとは。

 梓は万が一を避けるためウイスキーボンボンを返しに部屋を出た。


 ――翌日。

 一睡もできなかった梓は隣で寝息をかく雅を恨めしく思いながらシャワーを浴びに向かった。

 あえて冷ためのシャワーを浴びて目を覚ます。

 シャワーを終え部屋に戻ると雅が体を起こしベッドに座っていた。

「おはよう、梓……」

「おはよう……」

「なぜだか頭が痛いんだ……あと昨晩の記憶も曖昧で……」

 今後雅には一切のアルコールを近づけないと強く誓う梓であった。


 校外学習から数日、いつもの日常に戻り梓は学校に登校していた。ようやく一人暮らしにも慣れ、朝に自分で起きることが苦でなくなりすがすがしい気分で通学路を進む。

「おはよう」

 と、うしろから声をかけられる。

 振り向くとそこには雅が爽やかな笑みを浮かべていた。

「おはよー」

 梓もそう返して二人横に並んで歩く。

 たわいもない話をしていれば時間も忘れてすぐに学校に着いた。

 正門を抜け男子舎の方へ向かう。と、後ろからドタドタと音が聞こえた。

「あ・ず・さ様~~~っ!!!」

 梓はそれを聞いた瞬間寒気がするのを感じた。そして即座に雅の後ろに隠れる。その姿はさながらシノビ! であった。

 声の主は顔から思い切り地面にダイブして濃厚なくちづけをぶちかましていた。

「むぅー、いけずですわ梓様!」

 顔をあげてふくれっ面をする彼女はにじりにじりと梓に近寄ってくる。黒いセーラー服を基調に大きなリボンが印象的な制服を着用している。胸元には双導学園の校章が刺繍されているので制服で間違いないが随分と大胆な改造だ。そんな彼女が手をわしゃわしゃと動かすその姿はまさに山姥と言わざるを得ない。

 梓は雅の背中に隠れて一切のアクションを起こせないでいた。それを察知したのか雅はやさしく梓の頭を撫でてくれた。

「……君は?」

「邪魔ですわよ。このわたくしの前に立ちふさがらないでくださります? 獅子崎雅さん」

「私のことを知ってくれているんだね」

「馬鹿にしないでくださる? 世界有数の大企業『獅子崎コーポレーション』のご子息を知らないはずないですわ」

 会話から圧倒的バチバチが聞こえてくる。

「それで、君は誰だい?」

「わたくしは一条栞(いちじょうしおり)といいますわ。お見知りおきを」

 栞は制服のスカートの裾を持ち上げてペコリとお辞儀をした。その仕草だけで彼女が名家のお嬢様だということが見てとれる。

「さぁ、そこをどいてくださるかしら? わたくしは梓様に用がありますの」

「それはできないな。彼が怯えている」

「……っそうですの」

 そうして二人の間に沈黙が流れる。周りにはギャラリーが集まってきており騒がしくなっていた。

「なになにー?」

「『王子』と……誰だ?」

「ってか『王子』のうしろに隠れてるの誰よ! 私だって『王子』に触りたい!」

 様々な声が行き交いさらに騒がしくなっていく。

 と、栞が口を開いた。

「今は見逃してあげますわ。映美(えみ)行きますわよ」

 栞が映美と呼んだ相手は十五歳というにはあまりにも大人びていて大人の雰囲気を纏った女性だった。 肩よりも少し長い黒髪に通常女子制服にパンツスタイルを合わせたその姿は女子生徒に人気が出そうだ。

 栞がその場を離れたことで騒ぎは収まり生徒たちもどんどん離れていった。

「大丈夫か、梓」

 雅が声をかけてくれるが梓はそれに答えることができなかった。先ほどの一条栞を見て幼い頃の記憶が一気にフラッシュバックしてしまったからだ。

 声が出ない。体が震え、膝が笑い、のどが震え、瞼が痙攣する。

 梓は一条栞という名前を知っている。幼い頃に仲良くしていた女の子だ。そして梓が女性恐怖症になる原因を作った女の子でもある。

 遡ること約十年前。当時四歳の梓は幼稚園に通っていた。幼い頃は男女関係なく仲が良いもので皆で仲良く鬼ごっこやらかくれんぼやらで遊んだものだ。だがそこで悲劇が起きた。

 ジャングルジムという遊具がある。鉄の棒製で立体的な網目状の高さのある遊具だ。梓は鬼ごっこ中よくジャングルジムにのぼって逃げていた。四歳でジャングルジムにのぼれる子は一握りだったので言葉通り高みの見物状態だった。

 だが、そこにのぼってくる者が現れた。

 それが一条栞だった。彼女は高みの見物でいい気になっていた梓の背中を「タッチ!」と言って軽く押した。それがいけなかったのだろう、梓はバランスを崩しジャングルジムから落ちてしまった。

 頭を強く打ち入院する羽目になってしまった。それが原因で梓は女性に対して強い恐怖心を抱くようになってしまった。

 といってもちろん誰が悪いなんてことはない、それは梓だって理解している。しかしどうしようもなく女性が怖いのだ。

「梓、辛いなら保健室に行こうか」

 梓の様子を見て雅は梓の腰を優しく支えて保健室までエスコートしてくれる。その姿に遠くの方から黄色い歓声が聞こえてくる。

「――一限は休みかな」

 保健室について純白のベッドに横たわる梓に保健の健康行(けんやすゆき)先生が言った。

 一限だけですめばいいのだが、と内心思っていた梓はとにかく先のことを忘れようと目を閉じた。

 

「梓、次体育だけど行けそうかい?」

 一限が終わったらしくチャイムが鳴った少し後に雅たちが保健室を訪れていた。

 そういえば二限は体育で体力測定だかをやると言っていた気がする。正直運動はそれほど得意ではない梓だがなんかでないとやばそうな言葉の響きだったため出ることを決意しベッドから起き上がった。

「行く……」

 梓は三人にそう答えて共に更衣室へ向かった。

 道中保健室のベッドの魔力について力説したが皆「家のベッドの方がよくね?」と言っていた。良いベッドがほしいなぁ、とおもう梓であった。


 着替えを済まし体育館へ向かうと先にきていた生徒が体力測定の準備に取り掛かっていた。

 握力を測る器具や長座体前屈の器具が並び、男の子なら少しは興奮する光景であった。

「おお百千、体調はいいのか?」

 ステージ前で優雅にいちごみるくを飲んでいた内藤が訪ねてきた。どうもこの人が教師というイメージがつかない梓は接し方に四苦八苦していた。

「ア、ダイジョウブです」

「なんでカタコト?」

 そんなこんなで内藤と少し話をしていたらいつのまにかチャイムがなった。後ろを見てみるとほとんどの生徒が集まっていたので梓もあわてて自分のクラスの列に並ぶ。

 それからは散々だった。

 シャトルランは十回のところで盛大に転び、握力は一桁、反復横跳びに関しては足が絡まり転倒。つくづく自分が運動音痴だということを証明する時間であった。

「まぁまぁ、今回は運が悪かっただけだよ」

 と雅が慰めてくれるがその雅はオール十点をたたき出しているのだから面白くない。弘瀬も一郎も当然のように高得点をたたき出している。

「まぁそこが梓の可愛い所なんじゃん?」

「……そんなフォローいらないでしょ」

 結局散々な結果で体育を終えた梓。その日は何をするにも頭の中にシャトルランでこけた記憶が付きまといなにも身に入ってこなかったのは言うまでもない。


「で、勉強が身に入らないって?」

 体力測定から数日、梓は雅達に相談を持ち掛けた。すぐそこまで差し迫った定期テスト。だが肝心の勉強内容がまったく身に入らないのだ。

「いやー、引きずりすぎでは?」

「ちょっと一郎は黙ってて」

 と弘瀬が一郎の頭にチョップをかます。

 雅は少し考えながら梓を見やる。圧倒的に背が高い雅からみて上目遣いというのは必殺技等しく、梓の願いを聞き入れないわけにはいかなくなった。

「……勉強会でもしようか」

 雅が言うと梓は今世紀最大の丁寧な所作で感謝を述べた。

「ありがとうございます。雅様いや、雅大明神!!!」

 ――そうして一日が過ぎ放課後。

「で、どこですんの?」

 下駄箱にて弘瀬が言う。だがその言葉の意は雅も理解していた。どうせ雅の部屋でやりたいのやら言い出すのだろう。

「私の部屋でいいかい?」

 雅は面倒ごとを避けるため先手を打った。すると思いもしていないことを言われる。

「マックスバーガー行きたい」

 弘瀬は駅前のマックスバーガーの店舗を指さして言った。しかしこう続ける。

「でも雅が部屋でやるって言ったしぃ~、今回は雅の部屋でいいよ!」

 ……雅は心がもやっとした。言いようのない言いくるめられた感が原因だろうか。

 ――雅の家の前に着くと梓は呆気にとられ数十秒固まってしまっていた。

 まさか人が住んでいたとは。

 それはまさに城と呼ぶにふさわしい建物だった。どこかのエンターテインメント施設にあっても何ら不思議ではない。むしろ世界最大の! とテレビで紹介されるであろう。

 梓の六倍はあろう門には豪華絢爛な装飾が施され。どこもかしこも金ピカで天使がラッパを吹いたり、獅子が大きく口を開け獲物に襲い掛かっていたりととにかく規格外だ。

 雅が門の近くに行くと自動で門が開く。

 ――ガガガガガ……

 重厚感あふれる音を立てながら門が開くと雅が進んでいくので三人はそれについていった。

 そこから十分が経っただろうか、まったく城本体にたどり着かない。庭が庭のレベルを超えているのだ。数十軒は家が入るであろう庭を何とか突破しついに城へたどり着く。

 階段が広く、さらに汚れ一つ見当たらない。新品同様のピカピカな大理石の階段を上りやっと人間サイズの扉が見えてくる。雅がその扉の近くに立つと網膜認証というやつだろうか、とりあえずかっこいいやつが起動して扉が開く。

「おかえりなさいませ坊ちゃま」

 扉の向こうにはベテランの威厳を醸し出した執事の方が立っていた。

「ただいま、亀嶋」

「そちらの方は一郎様に弘瀬様、もうひと方は?」

「あぁ、亀嶋にはまだ紹介していなかったね。この子は百千梓。私の友人だよ」

 すると亀嶋はにっこりと笑い梓に深々とお辞儀をした。

「さようでございましたか。わたくし亀嶋、坊ちゃまにご友人ができて本当にうれしいです。坊ちゃまと仲良くしてくださいね」

 本当にうれしそうに言うので梓はなんだか照れてしまった。

「は、はい……仲はいいので安心してください」

 などと訳の分からない返しをしてしまった。

 そうして亀嶋に別れを告げ雅の部屋へ向かう。エレベーターに乗り四階に着くとそこにはだだっ広い部屋が広がっていた。まず四階があってエレベーターがあることにも驚きなのだがこんな広い部屋を梓は見たことがなかった。自分の家の部屋をすべて合わせても勝てないだろう広さに梓はただただ圧倒されていた。

「梓? どうしたの固まって」

「ってか雅、お前部屋狭くね?」

「私はこれくらいで十分だよ。広すぎると落ち着かないし」

 などと次元の違う会話を三人が展開していた。

「これがせ、狭い……?」

「ん? いや、狭いだろどう考えても」

 どう考えても広いと思っているのは梓だけのようで梓は自分の考えに別れを告げ、この部屋は狭い。そう思い込むようにした。

「そ、そうだね! 狭いよねー!」

 と話を合わせそそくさと部屋の隅へ向かう。

 隅から部屋全体を見渡すと壁には埋め込みの本棚にびっしりと本が詰め込まれていてなんだか難しそうな言葉が書かれている背表紙がずらりと並んでいた。部屋の奥には大きなベッド、大きな机、衣装棚、テレビと生活に必要最低限のものが置かれていた。そのスケールは段違いだったが。

「さ、勉強会するよ」

 雅が手をパンと叩き皆を部屋の奥へと案内する。

 フカフカなラグに座り机に勉強道具を広げる。席は雅と梓、広瀬と一郎で向かい合わせになった。

 梓がノートを開くと自分で言うのもなんだが汚い文字が並ぶ。おそらく睡魔と戦っていたのだろう文字が崩れ、斜め下へと下がっていっている。

「……これはなんだい? 梓」

 ふと横を向くと怖い笑顔を浮かべた雅が梓のノートを覗き込んでいた。

「えーっと……あはは……」

「今日は私がいいというまで寝かさないよ」

 そうして雅による地獄のお勉強会が始まったのであった。


 時刻は夜の十時、やっと雅のしごきから解放され床にあおむけになる梓。

 窓からちらりと見える空の色は漆黒に染まり、その隙間を縫って星々が煌めいていた。梓が勉強に苦しめられている間、弘瀬と一郎はテレビゲーム勤しんでいた。その決着はいまだつかず二人はかれこれ三時間はテレビに張り付いていた。

「ほら、梓の勉強終わったよ」

 雅が二人に言う。しかし耳に入っていないのか入っていてもそのまま通過してしまうのか一切の反応を見せない。

「まあ、あのままにしておこうか」

 溜息をひとつ吐き雅は言う。すると部屋の扉がコンコンとノックされた、気がした。なんせ今座っている場所から扉までの距離が長すぎて音がしたかどうかの確証が持てないのだ。だが雅はあ「いいよ」と一言いう。つまりノックはされていたということだ。

 そうして扉が開く。エレベーターの扉なので少しの駆動音が部屋に響いた。ノックの主は手にケーキを持った亀嶋だった。

「お勉強は終わりましたかな? ケーキをお持ちいたしましたのでよろしければお食べになってください」

 カチャ、と音が鳴り高級そうな皿に乗ったケーキが机の上に置かれていく。ショートケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキ、ミルクレープの四つが机を彩っていく。それが置かれ終わるとちょうど勝負がついたのか弘瀬と一郎も机の方へ戻ってきていた。

「ケーキだ! おいしそーっ!」

「俺ミルクレープ」

「ちょっと、ぼくもミルクレープがいいんだけど」

「お前負けたろうが」

「くっ……わかった、一郎にあげるよ……」

 どうやらゲームの結果は一郎の勝利で終わったようだ。

「私は残ったものでいいから二人とも食べたいモノを取ってね」

 雅が言うと弘瀬はチョコレートケーキに手を伸ばす。チーズケーキを狙っていた梓は胸をホッと撫でおろしチーズケーキを取る。

「っし、いただきまーす」

 一郎のそれを皮切りに三人も手を合わせた。

 梓はフォークでケーキの先端をすくい口へ運ぶ。濃厚なチーズの風味が口いっぱいに広がり鼻から微量のお酒の香りが抜ける。

「ねぇね、梓一口ちょーだい」

 と前に座る弘瀬が口を開けてそう言って来た。特に断る理由もないので梓はフォークでチーズケーキをすくい弘瀬の口へ運ぶ。

「ぁ~~むっ。ん、おいしー!」

 そう言ってニコニコになる弘瀬。可愛い、雑誌で見る女の子とは比べ物にならないくらいに可愛い。

「ぼくのもあげる」

 弘瀬はそう言うとチョコレートケーキをフォークですくう。梓が口を開けるとそこにチョコレートケーキが放りこまれる。濃厚なチョコレートでは鼻がむずむずする。

「ん、おいしい」

「でしょでしょ! あ、一郎のも食べたーい」

「あ! お前んなガッツリ食うなよ!」

 弘瀬は自分のフォークで一郎のミルクレープの三分の一をすくい大口を開けて食べてしまった。

「ん~♡ おいしぃ~♡」

「ったく……そんなに食いたかったのかよ」

 そうしてケーキも食べ終わり時刻は十一時。弘瀬達と共に帰ろうと支度をする梓に雅が耳打ちをしてくる。

「すこし残ってくれないか」

 特に明日の用事もないため梓はそれを了承し弘瀬と一郎を見送った。

「どうしたの? みや、び」

 と、梓が言い終えると同時に雅は梓を抱きしめた。

 突然のことに驚きを隠せない梓はロボットのようにギギギと首を動かす。

「私はどうしてしまったのだろうか……君と弘瀬がケーキを食べさせあっているのを見てどうしようもなく君をこうしたくなった」

 雅は弱った声でそう囁いた。

 低いとも高いともとれる声が梓の鼓膜を揺らす。

「梓……」

 名前を呼ばれるだけで体の自由がきかなくなる。指の一本すらも動かせない。

「ご、ごめん!」

 梓はなんとか体を動かして雅を引き剥がす。そうして急いで部屋の扉を開いてエレベーターに乗り込む。扉が閉まる瞬間、雅と目が合う。薄ら涙が浮かんだ瞳が脳裏に焼き付く。

「百千様、本日はありがとうございました。坊ちゃまと仲良くしてくださりありがとうございます」

 エレベーターが一階に到着し扉が開くと亀嶋が深々と頭を下げてくる。

「あ、えっと、はい……」

 と曖昧な返事しか返せず梓は足早に帰路へ着いた。


 ――テスト返し最終日。勉強を頑張った結果が赤点ギリギリ回避という散々なことになってしまい肩を落とす梓。

 あれから雅との距離がギクシャクしてしまい、会話をすることも少なくなっていた。一人で帰ることも多くなり中学の時と同じような学校生活へと逆戻りになってしまった。

 梓が下駄箱で靴を履き正門を目指して歩いていると後ろから声をかけられる。

「梓様♡ お久ぶりでございますわ」

 それは先日梓を襲って来た一条栞と大人びた雰囲気の映美と呼ばれていた女性だった。瞬間、梓の背中を悪寒が走り抜ける。

「ご、ごめんなさい!」

 梓は一言そう言って正門に向かって一目散に走った。だが五十メートル走十秒の梓ではたかが知れており映美に追いつかれてしまう。

「お待ちください、百千様」

 腕を掴まれ強制的に栞の元へ連れられる。

「梓様、わたくし謝りたいことがありますの」

 栞の前に立たされる梓。すると彼女は真剣なまなざしでそう言ってくる。

「貴方が女性恐怖症だと聞きました。恐らくわたくしが原因だと思います。あの時は申し訳ありませんでした。そしてわたくしに貴方の女性恐怖症克服に協力させてもらえませんか?」

 その言葉に梓は胸からこみあげてくるものを感じた。

「うっ……」

 こみ上がってくる何かを必死に抑え栞と距離を摂ろうとする梓。だが後ろに下がろうにも映美がいるせいで動けない。意識がもうろうとし目の前が歪んでいく。頭が冷たくなり血の気が引いていくのがわかった。

 ハハッと乾いた笑いを心の中で吐き、梓は姿勢を崩し後ろに倒れていく。

 その時、梓の名前を呼ぶ声が梓の鼓膜を劈いた。

「梓!」

 地面に激突するはずの梓の身体はマイケルジャクソンの逆ゼログラヴィティのような体勢になる。失いかけた意識を手繰り寄せ梓は目を開く。そこには倒れかけた梓を支える雅の姿があった。

「梓に何の用だい? 一条栞」

「あら、獅子﨑さん。ごきげんよう」

 栞を見る雅の眼はとても鋭く、敵を見る目となっている。殺意とまではいかなくとも敵対心を抱いているのが一目でわかるほどだ。

 纏う雰囲気はまさしく”獅子”であった。

「ふふ、まるでライオンですわね」

「梓は渡さない。君に預けるのは危険すぎる」

 雅は梓を自分の背に預けきっぱりと言い放った。

 だがそれしきのことで引き下がる栞ではない。雅の言葉を一蹴し映美に命を下す。

「映美、行きなさい」

「はい、お嬢様」

 映美が頷いた瞬間、その場から映美の姿が消える。次の瞬間には雅の眼前に現れ、梓を掴む手を引きはがそうと手を伸ばす。

 だが雅はもう片方の腕でそれを防ぐ。

「なんのつもりかな?」

「お嬢様の命令なので、悪しからず」

 そう言って梓を狙う映美の腕を器用に捌く雅。しかしそれにも限界がありついに梓の腕を映美に掴まれてしまった。

「しまっ……!」

 ――パシッ

「はっ!」

 映美は雅の腕を蹴り飛ばし梓を抱き寄せる。

 フワッとした浮遊感の後に柔らかな感触が梓の全身を包む。

「けがはないですか? 百千梓」

「え……あ、はい」

 つい返答してしまった梓は次の瞬間自身が置かれている状況に気づき頭の中が真っ白になる。

「百千梓。君は何も考えなくていい、お嬢様と共に暮らせばいい」

 そうして映美は梓の首に手刀を喰らわせる。だんだんと白んでいっていた梓の意識が一気に消えていき、わずかに残された光すらも残さず暗闇へと葬られた。


「なぜ梓を狙う」

 雅は栞に問うた。

 栞は至極真剣なまなざしで答える。

「幸せにするためですわ」

 予想だにしていない返答に雅は虚を突かれ固まってしまう。まあさか梓に思いを寄せる異性がいるとは。それも言っていることがだいぶ大きい。

「幸せに……? それは具体的にどういう?」

「わたくしと共に過ごすのですわ。何不自由ない生活、そして魅力に溢れるわたくし。これに勝るものはありませんわ!」

 おーっほっほっほ! と口元に手を当てて言う栞に呆気に取られてしまう雅。情報を咀嚼しようと頭の中を整理している隙に栞は映美と梓と共に正門へ走り去ってしまった。


 栞は梓を連れて帰宅した。

 都内のタワーマンションの最上階フロアが栞の家であり映美と同居している。エレベーターで最上階へのぼってドアが開けば広々とした玄関が現れる。

 映美が梓を抱えて寝室へ向かう。栞はそれについていきキングサイズのベッドに腰掛ける。

 ベッドに寝かされた梓の頬を撫でると梓が喉をならす。

 思わず可愛いと漏らす栞。

「お嬢様。百千梓はどうされますか?」

 と映美が訪ねる。

「起きるまではこのままにしとくわ」

「かしこまりました。それではご飯の支度をしてきますので」

「あ、今日はローストビーフがいい」

「かしこまりました」

 映美はそう言って寝室を後にした。

 梓と二人きりの寝室。栞は梓の隣に寝転んで目を閉じる。すうっと息を吸えば梓の服から香る柔軟剤の匂いが鼻腔内をくすぐる。

 夢にまで見た状況に栞は幸福感で包まれる。

 梓の近くに寄れば梓の息づかいや体温が感じられる。

 と、梓の呼吸がピタッと止まる。栞は目を開き梓を見る。するとゆっくりと梓が目を開く。

「え、ここ……どこ?」

 そう呟いた梓と栞の目が合った。その瞬間梓の眼の奥の色が恐怖に塗りつぶされる。その場の空気が一気に変わり梓はその場から動こうと足をじたばたさせる。

「いや、いや! 来ないで!」

 梓は悲痛な叫び声をあげベッドから転げ落ちる。その姿をみた栞は梓の前に立ち、手を差し伸べる。

「大丈夫ですか? 梓様」

「なんで僕はここに……!」

「そう怖がらないでください梓様。わたくしはあなたを幸せにしたいだけですの」

「嘘だ! 君は僕を! 僕を!」

 錯乱した様子の梓。だが栞はあきらめなかった。

「梓様。わたくしのせいで女性恐怖症になられてしまったのですよね。だからわたくしがあなたの女性恐怖症を治したいのです」

 と梓に伝えた。

 自分のせいで彼はこれまで苦しんできた。それは栞自身理解している。だからこそそれを栞が治したいのだ。エゴだろうか、自己中だろうか、そんなことは栞には関係なかった。

「なんで僕に執着するんだ! はやくここから出してよ!」

 梓は叫ぶ。しかしその声は誰かに届くことはない。栞以外の人間の耳には入らないだろう。

「そんなの梓様が好きだからに決まってますわ。わたくしはあなたが好きなのです。愛しているのです」

 歯の浮くような甘ったるいセリフ、とまではいかないが随分と思い切ったセリフに梓は口を開けポカンとしていた。

「僕が好き……? 君が?」

「えぇ。初めて会ったあの日から、わたくしは貴方を想っています。一日たりともあなたを想わなかった日はありませんわ」

 栞は梓の手を取り自身の胸の谷間に沈める。

 瞬間、梓の顔が真っ赤に染まり腕を抜こうとする。だが栞はそれを阻止しもっと深くまで腕を沈ませる。

「やめっ、やめてよ! ねぇってば!」

「じゃあわたくしと一緒に過ごしてくれますか?」

「それは無理! だけどこれ抜いてよ……!」

 そう言って梓は力任せに腕を抜いた。その反動からか栞の服のボタンが弾け胸元が服の外に露出する。

 栞はそのままボタンに手をかけひとつづつ外していく。シャツを脱ぎ去りブラジャーのホックを外す。

「ちょ! なにやってるのさ!」

 梓は顔の前に手を当てて目を覆う。

 栞はブラジャーをベッドに放り投げ梓に近付いていく。そして梓の手を掴み自身の胸に当てる。ヒヤッとした手の感触が栞の胸を伝い桃に染まった頂をピンとはじく。刹那、栞の全身を快感の波が襲う。

「――ん~!!!」

 栞は必死に声を抑えるもその快感はあまりにも刺激的だった。

「えっ、ちょっと大丈夫⁉」

 梓は栞の声を聞いて目を開く。

 だがその後自分の眼前に広がる景色に再び目をつむる梓。心配で目を開けたのも、目の前の光景にすぐ目を閉じてしまったのもすべてが愛おしい。やはり栞の十余年は間違ってはいなかったと思わせてくれる。

「やっぱりあなたは最高ですわ、梓様!」

 栞は梓を抱きしめる。

 若干時間梓を抱きしめ想い人を堪能した栞は梓を解放する。

「はぁ……はぁ……」

 色々な意味で疲れたであろう梓は息を切らしはぁはぁと息を吸っては吐いてを繰り返す。

「梓様、やっぱりここで暮らしましょう? なにも不自由させないですわ」

「僕は嫌だ……」

「なぜですか? わたくしはあなたを愛しています。……やはりわたくしがあなたを突き落としてしまったからですか?」

「君が悪いわけじゃない。それはわかってる……だから後ろめたく思わないで……」

「じゃあ!」

「それとこれとは話が別だよ」

 急に真顔になって言われたものだから栞も少し虚を突かれ、間抜けな表情になってしまう。

 と、その瞬間寝室の扉がバン! と音をたてて開かれる。

「梓!」

 そこに立っていたのは所々破れた制服の雅だった。

 言葉を紡がなくともわかる獅子のオーラが雅の全身を包んでいる。

「一条栞、そこをどけ」

「嫌、と言ったら?」

「奪い取るまで……!」

 風を切った音がした次の瞬間、栞の目の前に獅子が現れる。だがそれと同時に栞と梓を守る形で映美が乱入してくる。

 目では追えない速さで雅と映美は拳を交える。何かのバトル漫画のようだ。

 梓と栞はその光景を眺めていた。目の前で起きていることは現実か否か、そんな考えが頭の中をぐるぐるとまわる。

 ――ガァァンッ!!!

 轟音が栞の家中に響きマンションを揺らす。

「ちょ、ちょっと映美! 獅子崎さん! このままではこの家が崩壊してしまいますわ!」

 栞は二人の間に入ってこの争いを止めようとする。すると栞の顔面と紙一枚の距離を保って二人の拳がピタッと止まった。

「お嬢様、危ないですので下がってください」

「一条栞。いますぐに殴っても文句はないな?」

 両者まだ拳を引っ込める気はないといった様子だ。

「ま、待ってよ雅! このままじゃ僕たちの地面に真っ逆さまになっちゃうよ!」

 梓が雅の背にガバッと抱き着き叫ぶ。

 すると雅は牙を引っ込め梓を抱きしめる。

「梓……! 心配したんだぞ、お前が何をされているか不安で不安で……!」

「な、なにもされてないよ! うん……」

 梓は栞から目線を逸らしながら言った。

 と、栞はあることに気づく。

 雅を凝視していると妙な違和感があるのだ。そして栞はその違和感にたどり着く。

「獅子崎さん、あなたもしかして……女の子、ですか?」

 その瞬間、雅の表情がピタッと止まる。そしてギギギと首を曲げ栞の方を向く。

「一条栞、今なんと言った?」

「女の子ですか?」

 栞がそう言った瞬間、ものすごい勢いで雅が栞の口をふさいでくる。豊満なバストを揺らしながら。

「なぜわかった!」

「いや、その胸……」

 栞は雅の胸を指さして言う。さらしを巻いていたであろう痕跡が見て取れる彼、否、彼女の胸元は白く透き通っていた。きめ細かな柔肌についた布の跡が赤くなりそれをさらに強調していた。

 当の本人は自身の惨状を認識したのか胸を腕で覆い隠す。

 胸丸出しの女子が二名、そこにポツンと座る女性恐怖症の男一人、そして栞の胸を揉もうと手のひらをわしゃわしゃと動かす変態が一名の異様な光景が広がっている。

「というか獅子崎さん、あなたどこから入って来たんですの?」

 すると雅はリビングの方を指しながら言う。

「そこのでかいガラスを破ってきた。安心しろ、修繕費は私がもつ」

 栞ははぁ、と息を吐き寝室から出る。

 なぜ自分が部屋を出たのか、深い理由はないが負けた気がした。

「――かないませんわ」


 栞の家の寝室にて二人きりになった梓と雅。

「ありがとう、助けに来てくれて」

 梓は雅の背中にそう伝えた。

 肌を隔てて雅の鼓動の音が鼓膜に伝わる。

「私が勝手に来ただけさ。……ここ最近はあまり話さなかったから言えなかったが、あの時はすまなかった」

 梓の脳内には数日前の雅の家での出来事がよみがえる。

 今になって思えばあれもあんな反応することもなかったかもな、と思った梓は首を横に振る。

「ううん、大丈夫」

 と、寝室の扉がパッと開く。

「なにいい雰囲気になってんですか」

 ムスッとした表情の栞が寝室に入ってきて梓の手を掴む。

 するとそれを見た雅が梓のもう片方の腕を掴み綱引き状態となる。

「ちょ、いたいって」

「梓様、やはりわたくしと!」

「いいや、私と!」

 と二人は言い争う。

 やがて梓の腕も限界に達し徐々に血の気が引いていく。

 それに気づいた雅が手を離すと反動で栞をまきこんで床に倒れてしまった。

 しかし痛みはなく柔らかい感触があるのみだった。

「ああん♡ 梓様のエッチぃ」

 体勢的に梓が栞を押し倒すようになっていたのである。

 栞はさらに梓の腕を自身の胸に誘導してくるので慌ててそこから立ち上がる。

「一条栞。お前はそんなことしかできないのか!」

「あら、女の武器は使ってなんぼですよ?」

「なに?」

「あぁ、あなたにはできませんかねぇ? 『王子様』」

 と栞が雅をこれでもかと煽る。

 するとそれが頭にきたのか雅はシャツをガバッと脱ぎ豊満な実りをあらわにする。

「もうお前にはバレている。ならば気にすることもない!」

 ――ムニュンッ

 そう言って雅は梓を力任せに栞から奪い、梓の顔を自身の胸の谷間に沈める。すこし汗ばんだ谷間は柔軟剤の匂いと雅の汗の匂いで充満しひとたび息を吸えば頭の中がクラクラしてくる。

 柔らかい感触が顔を挟み、雅の汗の匂いでだんだん意識が朦朧とする。

 判断が曖昧になり梓は既に正常な思考ができなくなっていた。

「さぁ、帰ろうか、梓」

 耳元で雅が囁く。なぜかそれに従わなければいけないきがして、梓は雅の手を握り栞の家を後にしようとする。

「まだ負けたわけではありませんから」

「返り討ちにしてあげるよ」

 二人がなにか話しているが内容までは聞こえなかった。

 そうしてエレベーターで一階へ降り、外に停まっていた黒塗りの車へ乗り込む二人。

「坊ちゃま、その惨状は……」

「あぁ、彼女はなにも言わないと思うから」

「そうでございますか。百千様はどうされますかな?」

「梓もこのまま私の部屋へ」

「かしこまりました」

 亀嶋はそう言うと車を発進させた。


 少しすれば例の雅の家へ到着し雅と共に部屋へ向かう。

 相変わらずの広い部屋をすすみベッドへとたどりつくと雅に座るように言われたので素直にそれに従う梓。

 雅もベッドに座り、梓の傍に寄る。

「梓、私は君が好きだ。この数か月間、君と過ごして気づいたよ」

 突然の告白に梓はどう返していいかわからなかった。自分の気持ちをうまく見通せない。心に白い靄がかかったようだった。

「僕は……まだよくわからない。人を好きになるって感覚がわからなくて……」

 なんだかすごく申し訳ない気持ちになる。

 告白を断る時にあういう表情をするのはこういう気持ちになるからなのか、と以前見たドラマの告白シーンを思い出す。

「そうか……。いや、いいんだ、今すぐ答えを出してくれなくても」

 雅はそう言い窓を見つめる。

「すこし風にあたろうかな」

 雅はそう言うと窓を開ける。初夏の涼しい風が室内を循環しこの言いようのない雰囲気も一緒に外へ出ていってくれた。

 すっかり日も落ちて空は暗闇の塗り潰される。太陽の輝きをうけ、月が光るのを雅はぼうっと見つめていた。

「月がきれいだな」

「いきなりどうしたの?」

 梓が訪ねると雅は梓から背を向ける。そして震えた声で「なんでもない」と返した。

 雅が間接照明の灯りを消す。室内は暗くなり窓から差し込む月明かりのみが二人を照らす。

 窓際で月を眺める雅の顔を照らす月明かりはとてもきれいに写った。頬に涙が流れた跡が見えたが梓は何も言わなかった。

 しばしの沈黙が流れた後、雅は窓を閉めカーテンを閉じる。そうすると部屋が完全な真っ暗になり、なにがどこにあるかがまったくわからなくなってしまう。

 どこか近くの間接照明をつけようと梓は手を適当に振り回す。

 するとふいに何かに抱きしめられる。

「すまない梓。少しの間こうしてもいいかい?」

 と雅は囁く。すこし震えていて今にも消え入りそうな声だった。

 梓は雅の手をキュッと握った。

「気がすむまでいいよ」

 そう言って梓は雅に体を預けた。

 そうしているとだんだんと意識が途切れていく。雅の体温と鼓動の音が徐々に梓を眠りの国へと手招いてくる。

 そうしてついに梓は意識を手放した。


 ――翌日。目が覚めると隣に雅の寝顔が飛び込んできた。

 雅も目を覚まし、梓と目が合う。雅は笑顔で「おはよう」といった。

 土曜日ということもあってか目を覚ましたころには十時を回っていた。

 梓は洗面所へ向かい顔を洗い歯を磨く。

「梓、朝ご飯ができたよ」

「わかった~」

 洗面所の扉を開けると香ばしい香りが鼻腔を満たす。

 焼いたソーセージとスクランブルエッグ、そしてコーンスープに食パン。じつに庶民的な朝食だ。

「亀嶋に言って梓が食べ慣れている朝食を用意させたよ」

 さらっと失礼なことを言ってくる雅だが自分では失礼だなんて微塵も思っていないんだろう。

「さぁ、いただこう」

 雅は高そうな椅子を引いて梓をエスコートする。椅子に座り目の前のフォークとナイフに目をやる。フォークとナイフでスクランブルエッグなぞどうやって食えばいいのか。

 梓が悩んでいると雅がフォークでスクランブルエッグをすくって食べる。その後もナイフとフォークを器用に、綺麗に使って完食した。

「食べないのか?」

 食べ終えた雅が不思議そうに梓に訊く。

「どうやって食べればいいかわからないんだよ」

「……普通に食べればいいじゃないか」

「その普通がわからないんだよ……!」

 梓は恥ずかしさで消えてしまいそうだった。ここにいると自分の常識が間違っているように思えてならない。

「じゃあ私が食べさせてやろう」

「じゃあってなにさ、じゃあって」

 そんな梓の言葉を無視して雅はフォークに刺したソーセージを梓の口に運んでくる。

「ほら口を開けろ」

「……あむ」

 仕方なくソーセージを噛むと肉汁がブワッとあふれ出す。いままで食べたどのソーセージよりも高級な味がした。

 ――朝食を無事完食した梓。何気なくテレビをつけると水族館特集なるものがやっていた。

 食い入るようにそれを見ている梓をみて雅は水族館に行くか、と提案する。

「水族館行きたい!」

 梓はそう言って手を挙げる。それに雅は微笑みすぐに準備を進めた。

「じゃあすぐに着替えを持ってこさせるよ」

 雅がそう言ったものの数分後、エレベーターが開き亀嶋が着替えを持ってくる。

「百千様、こちらにお着替えくださいませ」

 そう言って亀嶋に渡された服は梓が好んで着るオーバーサイズの服であった。白いシャツに黒の袴ズボン、幅広なチェック柄の裾が広いアウター。どれも梓のサイズにぴったりである。

「うん、似合っているよ」

 王子様オーラを隠しきれていない雅が言う。雅の出で立ちは幅広のグレーのジーンズに黒いシャツ、その上に恐らく年代物であろう黒い革ジャンを羽織っていた。この上なく似合っている。なんだか梓が隣に立つとちんちくりんに見えてしまわないかとても不安な気持ちになった。

 雅は何が入るか皆目見当もつかない小さいバッグを肩にかけ、梓に手招きをする。

「早く行かないと見れなくなってしまうよ」

 そう言われスマホの時計を見ると時刻は十二時に差し迫っていた。

 あわてて雅の元へ走りエレベーターに乗り込む。

 外に出ると昨日迎えに来てくれた車が停まっていた。

「亀嶋、近くの水族館まで頼むよ」

「お任せください坊ちゃま」

 そう言うと亀嶋は車の後部座席のドアを開ける。なにからなにまでやってもらい頭が上がらない梓だったがお金持ちの常識的にはこれが普通なのだろうと思うことにした。

 そうして車に乗り込むとすぐに発進する。窓から見える景色は多くの人がこの車に注目している光景だった。幸い窓は黒いスモークガラスになっているため梓の顔は向こうには見えていないだろう。だが大衆に見られるという感覚がどうも慣れず、梓は無意識に雅の手を握っていた。

「大丈夫。中は見られないよ」

 と雅が言ってはくれるが慣れないものは慣れないのだ。結局目的地に着くまでの時間、梓は目をつむりっぱなしだった。

 

「――つきましたよ、坊ちゃま、百千様」

 亀嶋がそう言うと同時に車が停まる。

 車から降り、水族館まで歩く。もちろん外なので色々な人がいた。大都会東京の池袋だ、個性的な人もたくさんいて梓には刺激が強い。

 二人が歩いていると、後ろから声をかけられる。

「お兄さんめっちゃかっこいいんですけど~! 今、暇ですかぁ?」

「ウチらめっちゃ暇でぇ~、よかったらランチとか行きません?」

「ってか横の子もかわい~!」

 ギャルだ。

 話しかけてきたのは金髪の黒ギャルと黒髪の白ギャルのギャルコンビだった。梓はいきなりの女性にたじたじになってしまい雅の後ろに隠れてしまった。

「ちょ、ウけんだけど。もしかして女の子苦手?」

 その質問に梓は全力で首を縦に振る。

「マジかよ! 可愛すぎだろ~! ねぇねぇウチらと一緒に遊ばん?」

 ギャルの怒涛のトークに梓は気圧され何も言えなくなっていた。これがギャルか! とはじめてみる動物を見た気分だった。

 するとそんなギャルのトークが一息ついた頃、雅が静かに口を開く。

「すみません。私たちはこれからデートなので、お誘いは嬉しいですが遠慮しておきます。お姉さん」

 笑顔でギャルたちの誘いを断る雅。しかしその断り方は優しく相手を傷つけないように配慮されたものだった。

「さあ、行こうか」

 雅は言い終え梓の手を握り水族館へと進んでいった。

「ねぇ、デートってどういう……」

 梓は先程の雅の発言で引っかかった部分を尋ねた。

「ん? デートじゃないのか? 少なくとも私はデートだと思っているぞ」

 いたずらな笑みを浮かべ、雅がそう答えた。

 初めてのデートに緊張しながらも水族館へのワクワクに足が踊る梓。自然と足取りも軽くなる。

「そんなに楽しみかい?」

「うん、僕、水族館始めて行くから」

 そんな会話をしながら水族館へ入っていく二人。そんな二人に迫る二つの影が――。


 梓と共に水族館へと入る雅。

 と、その瞬間後ろから声をかけられる。またか、と思いながら後ろを向くと今一番会いたくない人物が立っていた。

「ごきげんよう。梓様、獅子崎さん」

 ニヤニヤと笑みを浮かべた栞が雅の頬を人差し指で突く。

「なぜここにお前がいる……」

「別にいいじゃないですか。わたくし達もおさかなを見に来たんですわ。ねぇ映美」

「はい。お嬢様」

 そう言うことを聞いているんじゃない、と思った雅はあからさまに露骨に嫌がる態度を示す。

 だが栞はそれを見るなりフッと笑う。

「あらぁ? 獅子崎さんもしかして水族館嫌なんですか? でしたら梓様はわたくしと一緒に!」

 栞はそう言って梓の手を取る。

 いまだ女性が苦手な梓を心配して梓の方へ視線を移すと案外平気そうな様子の梓に驚く雅。

「梓……、大丈夫なのかい?」

 つい聞いてしまったがそれに梓自身も驚いているようで頭の上に疑問符と感嘆符が三個づつ浮かんでいた。

「大丈夫……かも」

 それを聞いた栞は梓の手を両手で握る。

「本当ですか⁉ 梓様!」

「うん……怖くない」

 雅はそれを聞いて嬉しさの裏に多大なる危機感を抱えた。

 ――自分がいらなくなるのではないか。

 そんな考えが雅の頭の中を支配する。

 雅はとっさに梓の手を掴む栞の手を解き梓を連れ水族館の奥へ進む。魚を見る余裕なんてないくらいの速度で奥の方へ進む。暗い管内が雅の心の内を映しているようだった。

「雅っ……! 疲れた……」

 その声で雅はハッと我に返る。

「ご、ごめん……」

「どうしたの? 雅らしくないよ?」

「いや、そうだな……私らしくない、か」

 そう言って雅は梓の頭を撫でた。

 愛おしい、自分のものにしたい、そんな愚かな欲求をその手のひらに込めてしまう。

 いままで自分が特別だと思っていた、それが一瞬にして崩れたのだ。

「君が遠くに行ってしまいそうな気がしてね」

 雅が言うと梓は答える。

「僕はどこにも行かないよ。言ったでしょ? 好きになるって」

 梓は自信満々にそう言った。

「多分あの夜にいろんなことが起こりすぎて怖いとかそういうのが吹き飛んじゃったんだよ。もしかしたら明日には元に戻ってるかもしれないし」

 と冷静に自己分析をする梓。

 それを聞いて幾分か安心した雅は全身の力が抜け、その場に座り込んだ。

「そっか……よかった……」

 と、館内のアナウンスが響く。

『迷子のお知らせです。獅子崎雅様、百千梓様、一条栞様がお待ちです。迷子センターまでお越しください』

 梓と雅はお互い顔を見合わせ吹き出す。

 まさかこの年になって迷子のお知らせをされるとは。それはそうと栞にはあとできつく言っておこうとおもう雅であった。

 仕方なく迷子センターへ向かう二人。

 手をにぎり館内を進む。すると梓が手の指を絡ませてくる。指一本一本の隙間に梓の細い指が這いギュウっと握ってくる。雅もそれに応え握り返す。俗に言う恋人つなぎというやつだ。

 ちらりと梓の顔を見ると少し頬が赤く染まっている気がした。

 やっとこさ迷子センターに到着すると優雅に椅子に座る栞と傍らに佇む映美の姿を発見した。

「遅いですわよ獅子崎さん」

「迷子のお知らせをする必要はないだろ」

 雅は言いながら栞の頭を小突く。

「あたっ……、一度やってみたかったんですのよ」

 くだらなすぎる理由に雅は頭を抱えた。

 と、梓が雅の手を引く。

「はやく魚見たい~!」

 目をキラキラさせながら遠くの巨大水槽を眺める梓。その可愛さに一撃ノックアウトされた雅と栞は同時に頷きその水槽の方へと進んでいく。

 進めば進むほどその大きさに圧倒される三人。水槽には大小さまざまな魚が縦横無尽に泳いでいる。キラキラ光る魚や色とりどりな魚はまるで折り紙のようだった。

「お~! すごい! 魚が泳いでる!」

 泳ぐ魚を指さしながら雅の方を向く梓。

 それを雅は微笑んで見ていた。年の離れた弟のような感覚に近い、雅は思いつつもその隣で涎を垂らしながら魚を見る栞へ視線を移す。

「ここのお魚は美味しいのかしら……」

 水族館で決して口にしてはいけないことを口走っていた。

 と、それを聞いた梓も「あれ美味しそう!」と魚を指す。

「梓、水族館でそういうことは言わないようにしようね」

 雅は咄嗟に梓へ伝え周囲の人へ軽く頭を下げる。まぁあの鯖とかおいしそうではあるが。

 そうして十分ほど巨大水槽を楽しんだ梓は次に行きたい方を指さす。そこはさらに暗くなっており主にクラゲを展示しているスペースだった。

 再び梓と手をつなぎそこへ向かう。

「クラゲは”海月”と書くそうですわよ」

 と栞が豆知識を披露をしつつそのエリアへ足を踏み入れる。ライトアップされた水槽の中にはクラゲが優雅に泳いでいた。

 透明な笠と透明な触手、海とは不思議だらけだと感じさせてくれるその見た目には雅もくぎ付けになっていた。

 水槽に張り付いてクラゲを見つめる梓に吹き出しそうになる雅。なんとかこらえて次にエリアへ進む。

 暗闇を抜けるとそこはトンネルのようになっている水槽の中だった。アーチ状の水槽をした、横から観察できるというものでまるで自分が水槽の中に入ったかのような気分になる。

 頭上からは陽の光が降り注ぎ、水で揺らめき、地面にみえざるカーテンを作る、そんな幻想的な場所だ。

「すごい……! エイがいる! 変な顔してる」

 梓は興奮気味に頭上を通り過ぎたエイを指す。そしてエイの顔を物真似し始めた。それがあまりに面白くて雅と栞は吹き出してしまう。

「梓様っ……! それは反則ですわ!」

「梓っ……! それはっ……!」

 腹を抱え笑う笑いすぎて腹が痛くなってくる雅と栞。いつのまにか涙まで出てきていて自分で驚いていた。

「梓、君は本当に面白いな」

「まさか梓様があんなことをするなんて……ギャップですわ!」

 結局笑いすぎて水槽をほとんど見れなかった二人だが梓が先に行きたいというのでその場を後にした。

 階段を上がり屋外に出るとそこにはなんともかわいらしいペンギンやイルカなどがショーを行っていた。

 梓はさらに興奮して全力でペンギンの飼育スペースへ走っていく。

「ぺ、ペンギンだ!」

 雅は今朝のことを思い出していた。

 梓が水族館に行きたいと言ったきっかけの水族館特集ではペン軍がよく映っていたのだ。恐らくペンギンに会ってみたいと思っていたのだろう、ペンギンを眺める梓の表情は雅にはまぶしすぎるほどキラキラしていた。

 今まで見たことないようなその表情に雅は心が跳ねるのを感じる。雅はポケットからスマホを取り出し梓とペンギンに向けて構える。

 ――カシャッ

 シャッター音が発され写真が保存される。笑顔の梓が写った写真を眺め悦に浸る雅。あとで現像してデスクの上に置いておこうと決めスマホをしまい、梓がいる方へと向かう。

「どうだ? ペンギンを見た感想は」

「すごくかわいい!」

 梓は柵から身を乗り出してまじまじとペンギンを観察する。

 すると丁度ペンギンのエサやり体験の時間が始まり子供たちが列を作る。皆小学生くらいだろうか、雅の膝上くらいの子供たちだ。

 ペンギンにエサやりをする子供たちを梓は羨ましそうに見ていた。看板には『中学生以下限定!』の文字が。

 雅は梓の全身を見た。そして確信する。

「梓、行っておいでよ」

「え? でもあれ中学生以下限定って……」

 でも……、と渋る梓に雅は笑顔で答える。

「大丈夫! 梓は高校生に見えないから」

 サムズアップで応える雅だったが梓はまだ渋っていた。

「でも僕一応高校生だし……」

 自信たっぷりに自分を高校生と言えない梓にすこし謝罪しつつ雅は飼育員の方へ向かう。

「すみません」

 青い帽子をかぶったペンギンの飼育員に事情を説明すると快くOKを出してくれた。これからもこの水族館に来ようとおもった雅であった。

「梓、いいってさ」

 結果を梓に伝えると満面の笑みで感謝を述べられギュウっと抱きしめてくる。

「ほんとにいいの?」

 最後列に梓と共に並んでいると梓が上目遣いで聞いてくる。

「あぁ、さっき確認取ったって言っただろ?」

 そんな会話をしているうちに順番が回ってくる。

 ペンギンたちがエサはまだかと梓に群がってくる。よちよち歩きがこの上なく可愛い。

「ではこちらどうぞー」

 梓が飼育員にエサが入った小さなバケツを渡される。中には程よいサイズの青魚が数尾入っていた。

「お兄さんもどうですか?」

 飼育員が雅にもエサやりを進めてくれたので厚意に甘え雅もバケツを受け取った。

「雅……ちょっと怖いかも……」

 手袋をはめエサを掴んだ梓が雅の方を向き、そう言ってくる。

「大丈夫さ、私の後に続いて」

 雅はそう言うと青い手袋を装着してエサやりを開始する。

 エサの尾を吊るすように持てばペンギンのほうから食べにくる。

「ほら、大丈夫だろう?」

「うん、僕もやってみる!」

 梓はそう言うと恐る恐るではあるがエサを持ってペンギンの方へ吊るす。するとパクっとペンギンがエサを食べ、それで満足したのか後ろの方へ去っていく。

「できた! できた!」

 はじめてのエサやりに大興奮の梓。雅はもう片方の手でスマホを構えムービーを撮ろうとする。すると飼育員が「撮りましょうか?」と言ってくれたのでまたまた厚意に甘える。

 その後も順調にエサやりは進み、最後の一尾になった。

「最後ー!」

 梓は最後の一尾をあげ終え飼育員に感謝を述べてそのフロアから離れていく。雅も手短に終わらせて飼育員からスマホを受け取り梓の後を追った。

「楽しかったー!」

 両手をあげて梓は言う。

 と、遠くの方にベンチに座る栞と映美の姿が見える。

 栞がこちらに気づき小さく手を振る。仕方なくそちらへ向かう。

「楽しかったですか? 梓様」

「うん! ペンギン可愛かった」

 梓は嬉しそうに話し、それを微笑みながら聞く栞。だがなぜ栞もついてこなかったのか、雅はそれが気になっていた。栞なら真っ先にやりたいというものだと思っていたが。

「それはよかった。わたくしもやりたかったのですが生憎ペンギンやイルカが苦手でして……」

 と栞は言う。

 雅は心に中でガッツポーズをした。ペンギンやイルカが苦手ということは栞は梓と一緒にいれないということだ。ならばその横にいるのは、そう! 雅だ。

「梓、それじゃあ私とまわろうか」

「うん。僕イルカ見る!」

 そう言って梓はイルカが泳ぐゾーンへと走っていく。

「梓様のこと、お願いしますわ」

 珍しく栞がそんなことを言ってくる。まぁ自分が傍にいてやれないから、ということなのだろう。雅は「任せろ」と短く返答し梓を追いかけた。

 梓に追いつくと目の前では二頭のイルカがパフォーマンスを披露していた。よくあるボールを上に投げるとイルカがジャンプするあれだ。雅も目の前で見るのは初めてでそれなりに迫力を感じた。

 ふと梓に目を向けるとキラキラした瞳でイルカを見ている。時折拍手をし、「今の見た⁉」と雅に教えてくれる。それに雅が頷くと嬉しそうにする。

 と、イルカが梓の方に近づいてくる。

 梓が水槽のガラスに手を当てるとそこにイルカが鼻を当ててくる。

「かわい~! 僕に挨拶してるのかな?」

「そうかもな」

 イルカは満足したのか再び定位置に戻るとパフォーマンスは終了した。

 梓は満足した表情で目いっぱいの拍手をイルカに送っていた。

「すごかったね、イルカ」

「あぁ。私もああいうショーを見るのは数年ぶりだったからとても楽しかったよ」

 そんな話をしていると梓がひとりでに進む方向を変え、小走りで先へ走っていく。その先にあったのは小さな売店だった。

 イルカやペンギンなどこのエリアにいる生き物の人形やグッズが売っているようだ。

「見て! ペンギンの赤ちゃんの人形だって! 毛の色が違う!」

 梓が持っていたのは等身大のペンギンの赤ちゃんぬいぐるみだった。梓の体の半分以上を隠してしまうほどの大きさで本当に赤ちゃんか? と疑う雅だったが隣の写真を見て納得する。

 と、梓が人形を置き、財布の中身を見る。中には札が五枚ほど入っているだけであった。人形の値段は七千円。それを見てがっくし……と肩を落とす梓。そのまま名残惜しそうに人形を元の場所に戻し他のものを物色し始める。

 時折チラリと人形に目を向けては逸らし、また目を向けては逸らし、を数回繰り返す。

「これにする!」

 そう言って梓が手に取ったのは可愛らしいイルカに人形だった。それを四つレジに持っていく梓。

「四つも買うのか?」

 雅が訊くと梓は答える。

「うん。僕と雅と栞と映美さんの分で四つ!」

 満面の笑みでそう言う梓が雅はとても愛おしく思えた。自分の分だけではなく皆の分まで買うとは、本当に優しい子だ。雅はどこの目線かわからない感想を抱いた。

 梓が会計を行っている最中、雅は亀嶋にメールを送った。

 きっと車に戻る頃には指示した内容を終えているだろう。

「買ってきたー」

 ショッパーを抱え、梓が雅の元へ戻ってくる。

 梓は右腕でショッパーを抱え直し、左手で雅の手を握る。はたから見れば兄弟だろうか。

「栞、映美さん」

 梓は二人の名前を呼びながらショッパーを持った右手で大きく手を振る。それに気づき、栞達も小さく手を振った。

 二人の元へ急ぐ梓に腕を引かれ雅も小走りで二人の元へ向かう。

「おかえりなさい、梓様」

「ただいま。僕みんなに渡したいものがあるんだ」

 梓はそう言うとショッパーから先程買ったイルカのぬいぐるみを皆に手渡す。

「今日すっごく楽しかったから、皆とお揃いのぬいぐるみ買った!」

 それを手渡された栞は途端に手で目元を隠す。よく見れば方がフルフルと震え、頬には一筋の雫か流れていた。

「梓様……栞は感動で顔をあげることができませんわ……」

「わたしにも……? いいのですか?」

 と、栞は声を震わせ、映美は驚いていた。

「うん。映美さんも今日一緒に回ってくれたから」

 それをきいた映美も栞と同じように顔を隠す。

「だめです! これは沼ってしまいます! わたしにはお嬢様という心に決めた方が!」

 と口走る映美。

 それを不思議そうに見つめる梓の耳を雅はそっと手のひらで塞いだ。

「雅? どうしたの?」

 梓はそう言いながら雅の方へ向き直る。

 雅は梓の耳から手を離し梓と目線を合わせるため前かがみになる。

「梓、ありがとう。一生大切にするよ」

「一生だなんて大袈裟だよ。でも、ありがとう」

 雅は肩にかけたカバンにぬいぐるみをカチッと装着する。系統が全く違うのでちぐはぐなイメージになってしまうが雅にとってそんなことは些細な問題であった。

 ――そんな時間を過ごしていると時刻は十六時を回り、徐々に陽が傾いてきていた。

「もうこんな時間ですのね」

 栞は腕に巻いた時計に視線を落としつつ呟いた。

 もう帰り時か、と雅は沈みゆく太陽を見ながら思った。

「よし、もう帰るか」

 と雅が切り出す。それに三人も同意し屋上にきたルートとは別のルートで入り口を目指す。

 甲殻類コーナーを抜け、熱帯魚コーナーへ向かう。

「か、カラフル……!」

 そのコーナーに足を踏み入れた瞬間梓は目を見開いて小さく叫ぶ。それも無理はないくらいカラフルな空間だった。

 原色が散りばめられた空間に色鮮やかな熱帯魚が優雅に泳いでいる。絵具パレットと言われてもなにも疑わないだろう。

「あ、あれ見たことある! 映画に出てた!」

 梓は水槽の中で泳ぐ魚を指す。

 オレンジと黒の縞模様の小さな魚だ。カクレクマノミ呼ばれる種類の魚だ。某有名アニメーション映画の主役をはったことで一躍有名になったイメージだ。

「あれはニ……」

 栞がそう言いかけたところで雅はその口をビタン! と手で塞ぐ。

「それは言ったらダメな……気がする」

「……わからないけど、わかりましたわ」

 と栞が納得をしたので手を離す。

 そのまま熱帯魚コーナーを抜けると入り口の一歩手前まで戻ってきた。

 そこには屋上の小さな売店の何倍もの大きさのショップが広がっていた。

 目をキラキラさせつつも財布の中身を見て肩を落とす梓。

「なにも、買えない……」

 普通の高校生にとってお金は大切なものだ。娯楽施設とて安易に無駄遣いはできない。だが、横の二人は違った。

「よし、私がお前の欲しいものを買おう」

「いいえ、ここはわたくしが」

 雅と栞は懐から魔法の黒いカードを出す。

 それはブラックカードと呼ばれる代物。普通の高校生では天と地がひっくり返っても手にできないものだ。そう、”普通”の高校生には。

 あいにくながらここにいる二人は普通の高校生ではない。

 かたや世界有数の大企業『獅子崎コーポレーション』の一人息子。そしてもう片方は世界のデバイスを制した『IT Ichi jo』の一人娘である。

 普通とはかけ離れた彼女達の前で常識など意味をなさないのだ。

「さぁ梓。どれが欲しい?」

「梓様、なんでも買いますわよ? なんならこのお店ごと買ってしまいましょうか?」

 二人の常識はずれな言葉に若干引いてしまった梓。いきなりそんなことを言われても、あれもそれもと言えない性格である。悩みに悩んで本当に欲しいものを選び、大きなぬいぐるみとクッキーを買ってもらったのみになった。

「本当にこれだけでいいのか?」

「そうですわよ。もっと買ってもいいんですわよ?」

 と二人は迫る。

「うん。もうダイジョウブ」

 とカタコトで返す梓。改めて住む世界が違うと知らされ少しへこんだ。

 雅はブラックカードをしまい梓の二元を代わりに持つ。なぜなら人形がでかすぎて梓が持つと地面に引きずってしまうからだ。さすがに帰って人形が汚れていたら気分もだだ下がりだろう。そう思い荷物を持つがこれでもまだ足りない。

「わたくしが後ろ持ちますわ」

 結局栞が荷物の尾の部分を持つことで解決した。

 ショップコーナーを抜けると出口が見えてくる。だんだんと光が大きくなっていきついに外に出た。瞬間体に纏っていた涼しい空気のベールが強制的に剥がされ生温かい空気が熱烈なハグをかましてくる。辺りはいつの間にかだいぶ暗くなっていた。丁度夕日がきれいな時間帯だ。

 と、梓が何かを発見する。

 タッタッタとそれの場所まで走る梓を追いかけると、そこには大きなマグロの等身大パネルが設置されていた。三メートルはあるであろうそのパネルは撮影スポットらしく丁寧に撮る位置までマーキングされている。

 撮りたいんだろうなぁ。雅は直感でそう感じ取り懐からスマホを取り出す。すると栞の横にいた映美が「撮りましょうか?」と提案する。

「じゃあお願いするよ」

 雅はそう言って映美にスマホを渡し、栞と共に梓の元へ駆けよる。先程買った大きなサメの人形を三人で抱え、それぞれ思い思いのポーズを取る。

「いきますよー。はい、チーズ」

 ――カシャッ

 カメラのシャッター音が鳴り響き写真を撮ったことを知らせる。もう一枚、もう一枚、と計五枚撮り、最後は道行く人に頼んで映美も入れて撮ってもらった。

 写真の出来はどれも素晴らしく、皆の笑顔が素敵な一枚ばかりであった。

「なんだかこういうのも楽しいですわね」

 写真を確認していると栞が呟く。それは雅も同じだった。

「そうだな。なんだかんだ楽しかった。ありがとう、一条栞」

「……栞でいいですわ」

「あぁ、栞」

 雅は生まれてから友達と遊ぶことなんてめったになかった。それこそ幼馴染の一郎と中学からの親友の弘瀬と家で遊ぶくらいである。だがこういう場に来て、友達と遊ぶのもなかなか悪くない。と思う雅であった。

「それではわたくし達はここで。楽しかったですわ、梓様。それと一応獅子崎さん」

「本日はありがとうございました」

 そう言い残し栞たちは去っていった。

 雅は梓と顔を見合わせる。

「私達も帰るか」

「うん」

 そう言って亀嶋が待つ駐車場へと歩いて行った。


 駐車場に着くと車の前で亀嶋が立って待っていた。

「おかえりなさいませ。さぁ百千様、中へどうぞ」

 亀嶋はリムジンのドアを開ける。中がパッと光り車内を照らす。

「え、これって……」

 先に車内に乗った梓がそう漏らす。

 それもそのはず。車内には屋上の売店で梓が欲しそうにしていたペンギンの赤ちゃんのぬいぐるみや巨大なオットセイのぬいぐるみ、カワウソのぬいぐるみなど水族館に売っているほとんどのぬいぐるみが敷き詰められていたのだ。

「坊ちゃまがいきなり言うものですから、少し配置は汚いですが……、百千様、坊ちゃまからのプレゼントでございます」

 すると梓は肩をフルフルと震わせ、雅を見やる。

「これ、僕に……?」

「あぁ。全部お前のだ」

 それを聞いた梓は雅にギュウっと抱きつく。

「ありがとう!」

 と嬉しそうに言う梓の頭を雅は優しくなでる。今はこの笑顔を堪能しよう。雅はそう心に決め、梓を抱きかかえ車内に乗り込む。

 もはや足の踏み場がない車内をぬいぐるみを踏まないように気を付けながら奥へ進む。

「えへへ、僕これ欲しかったんだ」

 シートに腰を下ろした梓は隣に置いてあったペンギンの赤ちゃんの人形を抱きしめる。とてつもなく画になるその光景を雅はすかさずスマホで撮る。

 画面に表示された写真は加工しなくとも十分なほど良い出来栄えであった。

 車内のぬいぐるみを一つ一つ手に取りながら「ありがとう」と雅に伝える梓。一つにつき一回言うのだから律儀な奴だ。

 と、車が水族館から発信して少しした頃、雅の肩に梓の頭が寄りかかる。見るとそこには目を閉じ寝息をかく梓の姿があった。その腕にはペンギンの赤ちゃんのぬいぐるみが抱えられている。

 仕方のないことだ。雅は梓と出会ってからこんなに長時間はしゃいでいる彼の姿を見たことがない。きっとこれまではこういう娯楽施設に来るだけでドッと疲れるのみだっただろう。しかし、先日の件で一時的かどうかは不明だが女性に対して以前ほど恐怖心を抱かなくなったことで心置きなく楽しめたのだろう。

 栞のことは気に入らないが彼女のおかげで梓が今日一日を目一杯楽しめたのも事実だ。雅は感謝の気持ちと嫉妬に似た嫌な感情の狭間に取り残されていた。

 まぁそんなことも梓の寝顔をみれば吹き飛んでしまうので些細なことだ。

 それから梓の寝顔を眺めていると亀嶋から家に到着した旨を伝えられる。

「あず……」

 雅はそう言いかけてその先を口に出すのをやめる。

 理由は単純。この状態の梓を起こすのが忍びなかったからだ。いい夢でも見ているのか幸せそうな顔で寝ている彼を起こすには雅には善良な心がありすぎた。

 雅は梓が抱えているペンギンの赤ちゃんのぬいぐるみをそっと外し、梓の膝の裏と背中に腕を通し持ち上げた。言うところのお姫様抱っこというやつである。

「亀嶋、ぬいぐるみは梓の家に送っておいてくれ」

 雅は亀嶋にそう言い残し自室へと急いだ。

 エレベーターのボタンを小指で押してエレベーターへ乗り込む。上に上がる旨のアナウンスを聞き流し扉が開くのを待つ。

 扉が開き雅はすぐさま自室のベッドに梓を寝かせる。その瞬間、梓はゆっくりと目を開く。

 いまだ覚醒していない頭のまま辺りを見回している。今自分がどんな状況に置かれているのかを理解しようとして動きが止まった。

「……僕、寝てた?」

「ああ。別にまだ寝てていいぞ」

 と眠気眼の梓に寝るように促す雅。しかしそこに悪魔的破壊力の梓のハグ攻撃が牙をむく。

 ギュウっと雅の腰辺りを抱きしめ、まるでどこにも行かないでと言わんばかりに瞳をウルウルさせる。こんなのが三次元に存在してもいいのだろうか。雅の中のなにかが決壊した瞬間だった。

「梓、それは私を誘っているのかな?」

 着ていたジャケットを脱ぎ散らし、梓を押し倒す。梓の手首をしっかりつかみ、足の間に膝を挟む。

「ん……、一緒に、寝……」

 梓はそう言いかけて再び眠りについてしまった。これぞ生殺しである。雅は震える手を必死に抑え脱衣所へ向かった。

 鏡の前で手をつき自分はどうすべきだったのかを問う。目の前の獅子崎雅はどうするのがあ正解だったのだろうか。そんなことを考えつつ来ていた服をかごに入れさらしを解く。

 ――シュルシュルシュルッ

 胸が出始めてから巻き始めたさらしもいまではすっかり雅の一部となっていた。正直外でさらしを巻いてなかったら違和感でどうにかなってしまいそうだ。いうなれば中に下着をつけないで街を歩いているのと一緒だ。

 自分の恋心を自覚しつつ、どこまで行っても男装を解けない自分に雅はハハッと乾いた笑いをこぼした。

 雅はシャワーを浴びに浴室へ入る。そのまま吞気にシャワーを浴びているとすりガラス越しに人影が見えた。

 今この部屋にいるのは雅と梓に二人のみなのでそこにいるには梓で間違いないだろう。

 その瞬間何を思ったのか雅は意を決し、人生の大勝負へと出る。

 ――ガチャッ

「梓、一緒にシャワーでも浴びないか?」

 雅は浴室の戸を開けて梓にそう言った。

 シャワーを浴びているのだからもちろん服なんて着ていない。生まれたままの状態だ。そんな状況で異性を誘うなぞ頭がおかしくなったと思われても仕方がない。だが、梓はいまだ寝ぼけているのかあっさりとそれを了承しスルスルと服を脱いでいく。

 白く透き通ったヴァンパイアのような肌が露わになり、胸元にほくろがあることすら目視で確認できた。

 そうして梓は下着を脱いで浴室へ入ってくる。

 想定外だ。雅はてっきりダメだと言われるとばっかり思っていたためこうなった時のプランを考えていなかった。

「みやび……? お風呂入らないの?」

 梓が雅に問いかける。棒立ち状態の雅はそこで自分が呆気にとられ固まっていたことを知覚した。改めて今の状況を客観視する。

 ――裸の男女が一緒の浴室にいる。

 見られたら確実にヤバい状況だ。だが幸いにも雅の部屋に入ってくる人物などほとんどいないので雅は安心し、浴槽へ足から浸かる。

 その時だった。ピンポン、とエレベーターが到着する音が響いた。

「坊ちゃま~、百千様の人形を一つ持ってきましたよ~」

 亀嶋が部屋の中に入ってきたのだ。

 非常にまずい事態に雅は焦る。そりゃあもうこの世の終わりかってぐらい焦った。だがそんな焦りを微塵も感じていない梓が浴室の扉を開けようとしていた。

 雅はその腕を引き留め梓を抱き寄せる。この様子で勝手に動かれたらたまったもんじゃない。

「雅……? 亀嶋さん来てるよ?」

「あぁそうだな。だから静かにしているんだぞ」

 雅は小さくそう言って梓の口に人差し指を当てる。

 何もわかっていなさそうな顔の梓だったがそれに頷き口を固く結ぶ。

 やがて亀嶋が下に戻る音が響き、なんとか危機を抜けた雅。ふぅ、と息を吐き浴槽に倒れこむように腰を下ろす。

 熱いくらいのお湯が雅の体を包み、若干の水圧を感じる。

「僕も入る~」

 体を洗い終えた梓も浴槽へ足をつける。だがすぐに足を離す。

「あっっっっつ!」

 梓が叫ぶ。

「そんなに熱いか?」

 雅はお湯の温度を見ながら答えた。今のお湯の温度は四十四度だ。いうほど熱くはないと思う。

 と、梓が途端に瞬きをする。後ずさりをし、自分の体を腕で隠す。

「なななな、なんだこの状況は⁉」

 壁に自ら追いやられ、目をかっぴらいてそう叫ぶ梓。どうやら今更目が冴えてきたようだ。

 雅は浴槽から立ち上がり梓の方へと近づく。

「君の方から入って来たんじゃないか……。ほら一緒に入ろう」

「そ、それは寝ぼけてて……。っていうかそれなら誘ったのは雅じゃん!」

「はて? なんのことやら」

 やり取りを終え、梓は諦めた口ぶりで言う。

「わかったよ、入るよ」

 それを聞いた雅は満面の笑みで梓の腕を掴む。

「ほら、はやく」

 ――バシャァァンッ!!!

 雅は梓と共に浴槽へ飛び込んだ。キングサイズのベッドよりもひろい浴槽なので角に頭をぶつけるみたいな心配は皆無だ。

「っつい! やっぱあっつ!」

 梓が叫ぶ。これくらいの温度で情けない。

 雅は出ようとする梓を引き寄せる。

 白く透き通っていた肌に赤みが足され、より官能的な見た目へと変化している。

「あついよ~……」

 嘆く梓をくるっと回転させ顔が向き合うようにする。

 あらためて見ると顔の造形が美しいことに気づく雅。スッと通った鼻筋、誰もが羨む幅広二重、クリッとした目元、艶のある唇、毛穴が見つからない肌。どう考えても神様が真剣に作ったとしか思えない。

 雅は無意識に梓の唇を指で撫でる。

「雅……?」

 梓に問いかけられるがその言葉は雅の脳に伝達することはない。そして無意識に首が、腕が、体が動き――唇を合わせる。

 甘酸っぱいレモンの味、はしなかったが味のある初キスであった。手のひらを梓の頭に添えてもう片方の腕で彼の腰を抱く。

 広い浴槽の中のほんの一区画のみに二人の息が満ちる。息が続かなくなり名残惜しそうに雅が唇を離す。ぼやける意識の中見たのは驚きや照れなど様々な感情に振り回される梓の顔だった。

 ――こんなことするつもりじゃなかった。

 そんなセリフが頭をよぎる。しかし雅はそれを否定し薄れゆく意識の中満足感に満たされ、意識を失った。


 ――何が起こっている。

 梓は今起こっている状況を理解しようとした。しかしそれ以上に頭が回らなくなる。

 フニぃっとした感触が梓の唇に触れている。頭の後ろに手を回され、腰を引き寄せられる。

 これはいわゆる”キス”というものではなかろうか。海外では挨拶のようなものだがここは日本だ。日本ではキスは矢鱈滅多にしない。互いが好き同士の恋人や夫婦がするもの、と梓は認識している。それを今、梓は雅にされている。

 梓の胸部に雅の胸が当たり、その柔らかな感触に頭がどうにかなってしまいそうだ。

 と、唇が離れる。そうして梓を愛おしそうに見つめる雅の顔が目に入る。満足そうに微笑み、そして、顔から湯に飛び込んだ。

 一瞬何が起こったかわからなかったが梓はすぐさま雅を浴槽から引き上げる。

 どうしてかはわからないが雅が意識を失っているのだ。

 腕を肩に回し浴槽の段差に雅を座らせる。

「雅! 雅!」

 呼びかけるが返事はない。一気に不安になった梓はどうにか外と連絡を取ろうとする。しかし連絡手段がない。それにこの場面を見られても困る。

「雅! 起きてよ!」

 何度呼びかけても一向に目を覚まさないので梓は諦めて外に助けを呼びに行くことにした。顔が湯につからないよう雅の体勢を固定し浴室から出て着替えを済ます。

 髪をタオルで拭きながら脱衣所を飛び出しエレベーター横にある電話を取った。

 数コールの後相手が電話に出る。

『もしもし、どうされましたか坊ちゃま』

 相手は亀嶋だった。これは梓にとって僥倖である。

「亀嶋さん、雅が! やばいんです!」

 緊急事態にパニックになっていた梓には語彙力なんてものは存在せずただただ自分ではどうしようもないことを伝える。

『承知しました。すぐに向かいます!』

 亀嶋はそう言い終えると電話を切った。

 まだかまだか、とエレベーターの前で亀嶋を待つ梓。到着音が響き亀嶋がエレベーターから現れた。

「百千様! 坊ちゃまはどこに!」

 焦った形相の亀嶋が梓に迫ってくる。普段あんなにやさしそうな亀嶋の豹変した様子にのどがキュッと締まりうまく声が出せなくなってしまった梓は浴室の方向を指さした。

「あそこですね!」

 おじいちゃんな見た目からは想像もできない機敏な動きで亀嶋は浴室へ向かう。梓もそれについて行き浴室へ入る。

 幸い雅の顔は湯についてはおらず梓が固定した体勢のままであった。亀嶋は服を着たままなことなど気にも留めず浴槽に入り雅を抱え上げ浴室から出て脱衣所の床に寝かせる。

「百千様、坊ちゃまはどのようにしてこの状態に?」

 と亀嶋が問うてくる。梓は非常に答えづらいと感じてしまった。一緒にふろに入り、キスをしたら意識を失っていた。なんて言えるわけがない。口が裂けても言えない。

 どう答えようか。その問題が梓の頭の中を埋め尽くした。どれだけ違和感のない答えを伝えるか。脳のしわのあみだくじを引くような感覚だ。

 そうして考えた挙句出た答えは……。

「お風呂に行ったらこの状態で……」

 であった。この際自分の髪が濡れていることは無視しよう。

「そうですか。おそらく坊ちゃまはのぼせてしまったのでしょう」

 と亀嶋は結論付けた。そして梓のほうに振り向く。なんだか先ほどの顔よりも怖く感じた。焦り、ではなく底の知れない闇と表現されるような表情だ。

「百千様。どうかこのことはご内密に。決して他者に話してはいけませんよ」

 闇自体ではなく闇という鎖に縛られているようなイメージが瞳の奥に映っていた。

「はい……」

 梓は小さく頷く。きっとなにかあるんだろう。それはこの獅子崎という家全体の常識なのだろう。梓は直感的にそう感じた。

 亀嶋がタオルで雅の体を拭き上げいかにも高級品なドライヤーで髪を乾かす。そうしてバスローブを巻き再び抱え上げる。そのまま脱衣所を後にしベッドの上に寝かせる。

 亀嶋はサイドテーブルの引き出しを開けて白いリモコンを取り出す。ピッという音ののちエアコンが駆動音を響かせ冷たい風を吐き出しはじめた。

「私は下から氷嚢を持ってきます」

 亀嶋はそう言い残しエレベーターで下へ行ってしまった。

 なんだか嵐のようだった。梓はベッドに横たわる雅の額に手を当てながら思った。平均体温よりも幾分か高いせいか熱もった額からはいまだ湯気が上がっている。

 そんなことをしながら梓は先ほどの浴室内での出来事を振り返る。

 柔らかかった。初めては甘酸っぱいレモンの味だなんて大嘘だ。なぜあんなことをしたのだろう。そんな疑問が浮かび上がる。

「……なんで?」

 口から出たのはそんな一言だった。

 だが寝ている雅がそれに答えるはずもなく、梓は亀嶋の帰還を待たずしてベッドに潜り眠りについた。

 

 翌日、梓が目を覚ますと雅は椅子に座り朝食をとっていた。きちんと回復したことへの安心感と顔を合わせたら昨日のことを思い出してしまい、何を話していいかわからなくなってしまうことへの不安感からベッドから起き上がれないでいた。布団から顔を出し、ジッと雅を見つめる。その視線は無意識に唇へと移っていく。

 キスをした。その事実が梓の視線を支配する。

 と、梓の熱烈な視線に気づいたのか雅が声を掛ける。

「起きたのか。君の分の朝食ももう用意されているよ」

 雅は昨日のことなどなんとも思っていない風だった。なんだかそれに腹が立ち梓はベッドから起き上がり朝食が置いてある机へと向かう。

 窓が開いているのか涼しい風が程よく室内に入って来てカーテンが風に翻る。カーテン越しから見える外の景色には時期早めな入道雲が見えた。スンスンと鼻を利かせれば風と共に蜂蜜の甘い香りが漂ってくる。

 椅子を引いて座ると机に置いてあるフレンチトーストが目に入ってくる。つややかな表面に焼き目が映える。ど真ん中にはバニラアイスがのっており少し溶けていた。

「いただきます」

 梓は手を合わせそう言うとナイフとフォークを持ち、フレンチトーストを切り分ける。普通のフレンチトーストよりも三倍くらいの厚みがあるが中までしっかりしみ込んでいてさすがはお金持ちの朝食だ! と思った梓であった。

 フォークをフレンチトーストに刺して口へ運ぶ。蜂蜜の甘みが口いっぱいに広がり頬が落ちそうになる。

「おいしいかい?」

 雅が訊いてくるので梓は大きく首を縦に振った。

 ゴクンと口の中のものを飲み込み、梓は雅に話しかける。

「ねぇ雅」

「ん? どうした?」

「昨日の夜さ、なんであんなことしたの?」

 その瞬間、雅の表情が固まる。目が泳ぎ始め、首筋にツゥッと汗が垂れる。

「あー……いや、その……」

 と雅は何か言うのを渋る。

「ねぇ、雅?」

 梓は席から立ち、雅の隣の椅子に座り身を寄せる。グッと顔を近づけて雅を問い詰める。

 すると雅は観念した様子で口を開く。

「なんとなく、したいなぁって思って……。ごめん! あの時は頭がぼーっとしてて!」

 雅がパン! と手を合わせ頭を下げ謝罪してくる。

「本当に……すみませんでした……」

 と申し訳なさそうに雅は続けた。

 梓は少し時間をおいて口を開く。

「いいよ。でも……、ボーっとしてたからってのが ちょっと納得いかないな」

 梓はそう言って雅の手を握る。なぜ自分がこういうことをしたのか、それは他でもない、雅が好きだからだろう。ボーっとしてて、何も考えてなくて、が気に喰わなかった。だからちゃんと自分を想ってしてほしかった。だが、その”好き”がまだ理解できない梓は自分がどうし。てこんな気持ちになっているのかわからなかった。

 梓はバクバク鳴る心臓を手で押さえ、雅に顔を近づける。

 と、雅の表情が途端に意地悪なものに変わる。目を細め、口端がニヤリと吊り上がる。

「あぁ、そうだな……」

 雅はそう呟いて梓の頬を撫でる。

 するとザワ……ッと背中から首筋にかけて感じたことのない感覚が梓を襲い、「ヒャウっ」と猫のような情けない声が漏れる。

 雅は椅子から立ち上がり、机を乱暴にどかす。そうして梓の正面に立つ。

「今からするのはすべて私の意思だ。君のことが好きだから……」

 雅の手が梓の顎をクイッと上げる。そして一歩進み梓の唇にキスをした。

 柔らかい感触が梓の唇に触れる。雅の舌先が梓の唇をなぞり、強引にこじ開けてくる。そうして二人の舌が口内で絡み合い、互いの唾液が溶け合い一つになる。頭の中にピチャ、ピチャ、と艶めかしい音が響く。意識が蕩け、腰が抜ける。雅の腕を持っていないと椅子からずり落ちそうだった。

「――はぁ……」

 互いが唇を離すとつぅっと糸が引き、陽に照らされテラテラと光る。

「私の気持ち、わかってくれたかな?」

 と、満足そうな雅が言った。

 それに梓はコクリ頷く。いまだに女性は怖いと思う。今この瞬間に女性に声をかけられたりしたら今までのように逃げたくなってしまうだろう。しかし目の前の彼女にはそう思わない。

 この数か月間奇妙な関係だった。だがそれからさらに踏み込んでもいいのではないか、梓はそう思った。

 窓から風が吹き、カーテンが舞う。もうすぐ夏だ。梓はグッと体に力を込め椅子から立ち上がる。

 そしてゆっくりと一歩前に進み口を開く。

「僕も好き、雅のことが好き……!」

 胸がドキドキして口から心臓が出そうだった。今すぐにでも布団を頭からかぶりたい。しかしそれではダメなのだ。

 梓は雅の目を見つめる。自分の意志がきちんと伝わるように、自分の恋心が届くように。

 すると雅の瞳がうるんで頬に一筋の涙が伝う。そして梓を抱きしめた。

 そのまま梓は雅に抱かれベッドへ放り投げられた。

 雅に押し倒された体勢になるとにぃっと雅が笑みをこぼす。その笑顔は今までのどの雅よりも輝いて見えた。

 少し早い夏が梓に訪れたのだった。


 雅と梓が恋人になった日以来、梓は雅の部屋に学校帰りに行き、夜に自宅へ帰る。翌日が休日ならそのまま泊まる。という生活をしていた。今日は金曜日なので雅の部屋に停まる予定だ。

 あの日以来女性が少し怖くなくなった梓は栞とも少しではあるが話す関係になった。

「おはようございます。梓様」

 正門をくぐるとちょうど栞と映美が立っており、挨拶をされる。学校の人には雅と恋人になったことは言っていない。なぜならすこしでも雅が女性だと疑われる可能性を潰すためだ。それに校内には雅ファンクラブなる者が存在するようでその面々に恨まれるのもこわかったためだ。

「おはよう……」

 梓は栞に挨拶を返しそのまま男子舎へ急ぐ。しかし栞はそれを許すはずもなく梓の腕をグッとつかむ。

「にがしませんわよ、梓様!」

「ちょ、栞……!」

「最近やけに獅子崎さんと仲がいいじゃないですか……! なにがあったんですか!」

「べ、べつになにも……」

 そう言いかけて梓は口をつぐんだ。なぜだかそこから先を言いたくなかったのだ。なにもない、なんてたとえ雅のためでも言いたくなかった。

 そんなことを梓が考えていると後ろから声がした。

「おい一条栞! 梓から手を離せ!」

 恋人の声だった。それを聞いた栞は「いいじゃないですか~」と言い梓の腕をより強くつかむ。

「もう時間が過ぎてしまう。早く離せ」

「え、もうそんな時間ですの⁉」 映美、行きますわよ! 梓様、またお昼休みにお会いしましょう!」

 栞はそう言い残し女子舎へ向かって行った。

 ホッと心をなでおろす梓。すると雅がすこし不機嫌な顔で梓の顔を覗き込む。そのまま何も言わずに梓の手を引いて保健室へ向かう。無論鍵はかかっているがそこは理事長の子供、きちんとマスターキーを所持していた。

 男子舎には使われていない保健室が一つある。生徒会舎の一階の角部屋だ。一応、で作られたが結局ほぼ使われず体育祭や文化祭などのイベント事でのみ使用される幻の保健室らしい。

 雅は裏口に付けられた鍵にカードキーをスワイプし解錠する。埃臭い、と覚悟していたが意外にもそんなことはなく普通の保健室とほとんど変わらない匂いだった。

「清掃の方が毎日全部屋掃除してくれているからね」

 と梓が思っていたことを見透かして雅が言った。

 靴を脱いで室内に入る。靴箱はないので適当な場所にうらっ返しで置いておいた。

 正直ここに連れてこられた時点で何をされるか、梓には大体の目星がついていた。梓はバッグを机に置きソファーに座ろうとする。その瞬間、雅に腕を引かれベッドに押し倒される。

「雅……?」

 梓が問いかけるが返答はない。

 梓を見つめる瞳はまるで獅子のようだった。

 雅はそのまま梓の唇を乱暴に塞いだ。舌を絡ませる濃厚なキスだ。梓が逃げれないようにしっかりと手首を掴み、足の間に膝を置いていた。

「――はぁ……っ」

 唇を離し、雅の表情が見えるようになる。そこには涙を流す雅の姿があった。

「なんで、泣いてるの?」

「……言ってはいけないのはわかっている、でも、言ってくれなかったことが悔しくて……」

「だってそれは」

「わかってる……! 君が私のことを想って言わないでいてくれていること。でもせっかくの恋人なんだ……言ってくれるかなって……。ごめん」

 先程の獅子のオーラはどこにもなく、まるで子猫のように小さくなる雅。はじめてみる彼女の姿に梓はそっと手を握る。

「じゃあさ、あの四人には言ってもいい? 一郎と、弘瀬と、栞と映美さん」

「……いいよ。その四人なら信用できる」

 そう言って雅は涙を拭いた。そうするといつもの雅に戻り、梓をギュウっと抱きしめる。

「ありがとう梓。君が恋人でよかった」

 雅はそう言うと再び梓を保健室の白いベッドに押し倒す。そういえば恋人になってからというものの押し倒されてばっかで押し倒したことがないなぁ、と思いたまには押し倒してみようか、と思った梓だったが力の差が歴然過ぎたので諦めた。

「今日はこのまま帰って一緒にいないか?」

 と雅が提案してくる。正直魅力的な提案ではあるがそこで梓の脳裏に先日の定期テストの答案用紙のイメージがよぎる。

 頑張った挙句赤点ギリギリの答案用紙を見た時、それはそれは絶望したものである。

「いや、僕は授業を受けないと……」

 帰りたい気持ちを必死に抑え、授業を受けないと割と本気でヤバい梓は梓は雅にそう答えた。

「そうか、わかった……。じゃあ教室行く前にハグだけしてもいいかい?」

「ん、僕もしたい」

 梓は雅と満足するまでハグをして保健室を出た。


 梓と雅がそろって遅れて教室に行くと丁度一限目の授業が終わった頃だった。

「あ、二人とも来た~。おはよ~」

「珍しいな、お前らが遅れるなんて」

 弘瀬と一郎が二人に気づき声を掛ける。すると弘瀬が鼻をスンスンとしながら二人の方へ近づいてくる。

「なんか二人共同じ匂いしない?」

 その言葉に二人の心臓がドキッと跳ねる。今日の内に言おうとは思っていたがバレそうになるのは予想外だった。

「あー? そんなに同じかぁ?」

「同じだよ! もっと嗅いでみなって」

 弘瀬は確信に変わった様子で一郎に言う。

 梓と雅は互いに顔を見合わせ苦笑いをした。

「二人共、少し話があるんだ。昼休み人気のない所に行かないかい?」

「まぁいいけど」

「ぼくも大丈夫だよ」

「ありがとう」

 と雅が話し、四人は昼休みに人気のない生徒会舎の屋上へ向かった。二限から四限の間、梓は難解な授業を受け頭を抱えていた。

 生徒会舎へ向かい屋上へ続く階段を上がる四人。雅と梓はこれまでにない鼓動の速さと共に屋上へ出る。

「で、こんなところまで来て、話って?」

「このことは誰にも言わないでほしいんだが……」

 雅はそう前置きを置いて話す。

「私は梓と付き合うことにした。そしてわたしは女だ」

 梓の腰に手を当て、梓を抱き寄せながら雅は二人に伝えた。数刻の間沈黙が流れる。

「えーっと、雅が女で、梓と雅が付き合うことになったと?」

「そうだ」

「そっか、うん、おめでとう」

 一郎はそう言い二人を祝福する。だが想像していた反応じゃないことに少し違和感を覚える雅。

 一方の弘瀬は驚きのあまり声が出ない、という様子だった。

「え……? ど、どういう、え? おめでとう……?」

 困惑しながらも祝福の言葉を述べる弘瀬に一郎が説明をしていた。それを聞いて理解したのかうんうんと頷いている。

「まぁ正直そうかもなって思ってたけどな。最近お前らやけに距離近いし」

 と一郎が言う。

 まさかそんなに距離が近かったとは、と今までのシーンを振る返る雅と梓。たしかに距離が近かったなあとこれからは気を付けようと顔を見合わせた。

「にしても夏休み前にねぇ……意外と早かったな。で、もうしたのか?」

「そういうことを梓の前で言わないでもらえるかなぁ?」

「まぁまぁいーじゃんか!」

「言うわけないだろ!」

「そりゃそうか、お前だもんな」

 そう言って一郎は二ッと笑う。それに弘瀬もうなずいていた。

 そんな話をしていたら昼休み終了のチャイムが響く。

「え、もう終わりかよ!」

「短縮だからかな?」

「急ごうか」

 四人は急いで教室へ戻った。


 放課後、珍しく栞がいなかったので話すのはまた今にし、雅宅へ向かう雅と梓。

「緊張したね」

「そうだな」

 と昼休みの時の話をしていた。

「ねぇねぇ、一郎が言ってた「したのか」ってなにをしたの?」

「梓は知らなくていいことだよ」

「気になる!」

「いや、梓は……」

「僕だけ仲間はずれみたい……」

 シュンとする梓を見て心が痛くなる雅。だがしかし梓にそういうことを教えてもいいのだろうか。というかなぜ知らないのかも気になるところだが。

 結局部屋に行ったら教えると約束をしてしまった雅。多少の後悔と大きな期待を胸に自宅へ着くのを待った。


 部屋に着くなり雅はバッグを置き梓を抱きしめた。柔らかな髪、抱き心地の良いもちもちな肌、少し高めの体温、そのどれもを堪能する。

 一通り堪能し終えた後、雅は梓を風呂へ誘う。いつものルーティーンだ。脱衣所に一緒に入り服を脱ぐ。梓のきめ細やかな白い肌がまぶしい。

 さらしを解き胸を晒す。いまだ少し恥ずかしそうにする梓をギュウっと抱きしめ、谷間に顔を埋めさせる。

「むぅ~! 息できな、」

「あぁ、ごめんごめん」

「早く入ろ?」

 梓はそう言って雅の手を引く。いつの間にか沸かされた浴槽から湯気が立ち上り、浴室内は温かな空気で満たされていた。以前までは鏡に写る自分の姿に嫌気がさしていたが梓と恋人になってからは自分の体に変な自信のようなものが湧いてきた。

 シャワーの湯かぶり、頭を洗う。梓と付き合ってから花の香りがするシャンプーを使い始めた。

 泡を流し体を洗い始める。そこで一つ、いいことを思いついた雅。一度泡を流し再びボディーソープで体を洗う。そして泡が体についた状態で梓の背中に抱き着いた。

「私が洗ってやろう」

「んぇ?」

「ほら、前向いて」

 ムギュウっと胸を梓の背中に押し付け、上下にスライドさせる。

「ん……なんか変な感じする」

「そうか? じゃあ前もやってやろう」

 雅は梓の体をくるっと回転させる。

「ほら、手広げて?」

 雅が言うと梓は頷いてギュウっと抱き着いてくる。抱き心地の良い体の隅から隅を洗ってやると梓は満足そうに笑う。鼻の頭に泡を乗せてみると可愛さが天元突破する梓。よく目に入れても痛くないというが今まさにその気持ちが分かった気がした雅であった。

「雅、そろそろ浸かりたい」

「あぁ、そうだな。ごめんごめん」

 雅は梓を解放しシャワーで自分の体と共に泡を洗い流す。

 そのまま梓と共に浴槽へ入る。熱い湯が全身を包み、はぁ~、と息が漏れる。

 梓が雅にピッタリとくっついてきてキスをせがんでくる。

「ん? キスしたいのかい?」

 雅は少し意地悪をしてやろうと思いつきそう言った。すると梓はコクリと頷きさらに顔を近づけてくる。

「ん……」

 雅の意地悪は数秒と持たず、梓のお願いに応えてしまう。

 チュッと軽いバードキスをして、梓の頬に指を添わせ舌を入れる。舌を絡め合い唇を離すと糸が引く。蕩けた表情の梓を前に雅の理性のリミッターが悲鳴をあげる。

「梓、もう出ようか」

「わかった」

 雅は暴走しかけた理性を抑え、浴室から出る。

 体を拭き、髪を乾かしバスローブを巻く。そうして脱衣所から出てすぐに梓をベッドへ押し倒した。

 マットレスが沈み込み、困惑と期待が入り混じった梓の表情が映える。

「梓……、もう限界だ」

 雅は小さく呟いた。

 すると梓は雅の首に腕を回し言う。

「雅の好きにして、いいよ?」

 そこで雅の理性は焼けこげる。理性の糸がプツンと切れ、力任せに梓のバスローブを脱がし梓の首筋にキスをする。ジゥっと吸うとそこに赤く内出血ができる。いわゆるキスマークというやつだ。それをみるととんでもない幸福感につつまれる。目の前の恋人の自分しか知らない秘密ができた気がして優越感に浸る。

 雅が梓の胸元を指でなぞると小さく喘ぎ声をもらし身をよじるので次は桃色に実る小さな豆をピンと指で弾く。

「ヒャウッ……!」

 梓の体がビクンと跳ね可愛らしく喘ぐ。

 その姿が雅には非常に効いた。腹の奥がうずくような感覚になり、さらに梓が愛おしく思えてくる。

「梓、ここ感じるんだ」

 雅はそう言って梓の乳首をいじる。周りをなぞり、ペロッと舐めると梓の体が跳ねる。そんなことをしていたら当たり前ではあるが梓の男たらしめる象徴がいきり立っていた。恐らく普通よりも小さいサイズではあるがそれでも雅には男らしいもの見えた。

 雅はそれに指を添わせ上下に扱く。

「ん、雅……! それ、変になっちゃう……っ!」

 梓が体をじたばたさせるが雅は構わず扱き続ける。するとそれがドクンと脈打ったかと思えばビュッと白い液体を発射する。温かくて白い液体が雅の顔にかかる。

 それを見た梓が「ごめん」と謝ってくる。だが何を謝る必要があるのだろうか、と雅は思った。そして顔にかかった白い液体、精液を指ですくいとりペロッと舐めた。それに梓は「汚いよ!」と吐き出すように言うが雅には汚いものには思えなかった。生臭くてすこし苦い。しかしそんなことは気にならなかった。

「気持ちよかったかい?」

 雅が訊くと梓は恥ずかしそうに顔を隠しつつコクリと頷く。そこで雅はベッドから立ち上がり、クローゼットを開けた。いきなりのことで目がテン状態の梓に雅はこの日のために買っておいたものを見せる。

 それは大小さまざまな大きさのディルドだった。

「な、なにそれ……」

「これで君のお尻を開発するんだ。どうも私が挿入られるイメージがわかなくてね」

「いれ……るって」

「嫌かい?」

 雅は渾身のキメ顔で梓に訊いた。雅は自分の顔の良さを自覚している。また、梓が自分の顔に弱いのも知っていた。予想通り梓はコクリと頷いた。

 雅は梓に腸内を洗浄するように言う。やり方が分からないという梓に雅は手取り足取り教え、準備は完璧だ。

「恥ずかしかった……」

「恥ずかしがる君もかわいかったよ」

「むぅ……」

 そんなやり取りをしながら雅は梓をベッドに誘う。梓の頬にキスをし、乳首をいじる。方がピクンとはね一気に蕩けた表情へ変わる。

「じゃあはじめるぞ」

 雅はローションを梓のお尻に垂らす。すこし冷たかったのか小さく喘ぐ梓。その姿がかわいらしくてさらにローションを垂らす。

 隅々まで塗り込み、皺の一つ一つにまでローションを塗り込む雅。

「変な感じする……」

「大丈夫、すぐよくなるよ」

 そう言って雅は梓の蜜壺に指を一つ挿入する。ニュルっとすんなり入る指を中で軽く動かしてみると梓の口から息が漏れる。熱いくらいの中は指に絡みつき離そうとしない。指を上下に動かすと卑猥な音が日比宇。もはや雅の部屋の空気は目で見えるほどピンク色に染まっていた。

 そうして指を日本、三本と増やしていく。

「もういいかな……」

 雅はそう呟いてぺ二バンを装着する。

 すっかりほぐされた梓の蜜壺にディルドをあてがう。いまからこの中にこれが入ることを梓に教えさせる。もはや快楽に意識を塗りつぶされた梓は抵抗もせずにそれを受け入れる体勢をとる。自身の足を掴みよく見えるようにする。

「いいよ? いれて」

 その破壊力たるや雅の理性を一瞬で蒸発させる。

 一気に中に挿入れば梓は体を大きく跳ねらせ目を白黒させる。精液があふれ、のどを絞ったような声を出す。

「みや、び……っ、それ、やば」

 雅は少しの間動かず中にディルドを慣らす。神経は通っていないがたしかに中がキュウキュウとディルドを締め付けているのが分かる。その証にディルドを引き抜こうとするもほとんど動かない。

 舌をだらしなく出して快楽に善がる梓。それを見て雅は腰を一気に引く。ディルドが引き抜かれると同時に梓が大きな喘ぎ声を発した。男とは思えない矯声が雅の鼓膜を揺らし雅の被虐心を煽る。ディルドを入れて出してを繰り返すたびに善がり精液が溢れ出す。すでに梓の腹には梓自身の精液が小さな水たまりを作っていた。

 すでに体力が尽きた梓はぐでっと身をベッドに投げ出し雅にキスをせがむ。梓の頭を撫でながらキスをして、そっとディルドを引き抜いた。パクパクと物欲しそうに口を開けるそこを指でいじれば梓がいい声で啼く。

「もう……ダメ……」

 梓はそう言い残してすぐに寝てしまった。

 見日は無理をさせすぎた、と反省し梓の全身をウェットティッシュで拭いてやる。途中に列状が浮かび上がることもあったがなんとかこらえてバスローブを巻いてやった。

 汗ばんだ髪、つややかな肌、雅はそれをいとおしく眺める。報復間に満たされた雅はその後、ぐっすりと寝ることができた。


 翌日、窓から差し込む朝日で雅が目を覚ますと隣には寝息を立てる梓がいた。雅の腕をぎゅっと抱きしめ、バスローブがはだけ桃色の乳首がちらりと顔をのぞかせていた。

 その姿に意地悪な考えが浮かぶが気持ちよさそうに寝ている梓を起こす気にはなれずその場から動けないでいた。

 空いている方の腕を動かして梓の頭をなでる。シルクのように艶やかな髪はとても羨ましくもあり、自慢でもあった。

 そうやって梓を撫でていると、梓が目を覚ます。

「ン……おはよ」

「よく眠れたかい?」

 梓は目をこすりパシパシと瞬きをする。そしてもぞもぞと布団の中で動き、雅の胸に顔をつっこんでくる。付き合ってからというものの、どうやら梓はここがお気に入りのようで匂いが好きだそうだ。

「ん~、好きぃ~……」

 と呟きながら梓はギュウっと抱きしめてくる。

 十数分そうしていると梓が顔を離しベッドから立ち上がろうとする。しかし起き上がった時点でピタッと梓の動きが止まった。

「梓? どうした?」

「こ、腰が……」

 梓はそう言って再びベッドに寝転がる。

 昨晩の行為をするにあたってネットで調べたときにシた翌日は相手の腰が使い物にならなくなる、と書かれていた気がしなくもない。

 雅は動けない梓をぐっと持ち上げ洗面所へ向かう。

 顔を洗い、歯を磨く。朝一番なので特に念入りにだ。

「雅、ちゅーしよ」

 歯を磨き終えた梓がキスをせがんでくる。

 ちゅっと軽いバードキスをして洗面所からでる。

「おはようございます。坊ちゃま、百千様」

 亀嶋が朝食を持ってきていた。本日の朝食はかわいらしいドーナツだった。イチゴ味であろうピンク色のものやチョコレートがかかっているものなど色鮮やかなものだ。

「ドーナツ!」

 梓がドーナツを見てはしゃぐ。しかしすぐに腰を抑えて苦悶の声をあげる。その光景を見てほほ笑む亀嶋。雅は梓を椅子まで運ぶ。

「うう、腰が……」

「激しくしすぎたね。これからは気を付けるよ」

「むぅ……ほんとに気を付けてよ?」

「善処するよ」

 そういったやり取りを終え、二人はドーナツに手を伸ばす。梓が手に取ったのはもちもちした丸が集まった形のドーナツ、雅がとったのはオーソドックスなチョコレートドーナツだ。

「美味し~」

「おいしいね」

「それはよかった。それではわたしはこれで」

 亀嶋はそういって頭を下げてエレベーターで下へと降りて行った。亀嶋がいなくなるのと同時に梓が雅の膝にちょこんと乗ってくる。亀嶋がいた時は我慢していたと言わんばかりに甘えて来る梓に心打たれる雅。

 窓が開いているのかカーテンが翻り涼しい風が入ってくる。

「今日は部屋で過ごす会? それともどこか行く?」

 そんな会話をしようとした時、ベッドに置いていたスマホがブーっと鳴る。雅は膝に乗った梓を隣の椅子にいったん移しスマホを取りに行く。メッセージアプリの通知が来ていたので開いてみると一郎とのトークルームが表示される。

『夏休み海いこーぜ』

 夏休みの遊びの誘いのメッセージだ。

 雅はスマホを持って梓の元へ向かう。

「梓、夏休み予定空いてる?」

「大体は大丈夫だよ。でも最初の三日間は実家に帰る予定かな」

「帰省か、いいね」

「うん。もしかしたらお母さんに会えるかなって。それでお願いがあるんだけど……」

 梓は伏し目がちに言う。

「君のお願いなら何でも聞くよ」

「……僕の帰省についてきてほしいんだ」

 雅は梓の言ったお願いに目を見開く。それはつまり親に紹介したいということではないか。

「い、いいのかい?」

 雅は震える声で梓に訊いた。すると梓はものすごい勢いで首を縦に振る。

「そこまでお願いされちゃ断れないな」

「えへへ、ありがと……!」

 梓はへにゃぁと笑う。その顔が可愛くて梓の頬をムニムニといじる。

「じゃあ日程は決まったら送るよ」

 雅はそう言って一郎に『OK』と返した。

 その日は来る海の日に向けてどんな水着を着ようか、浮き輪はどうしようかなどを二人で話し合った。外に出ることはおろか部屋を歩き回ることすら梓にはキツいようで一日中ベッドの上で過ごした。


 週が明けて終業式。雅と共に登校する梓。いまだに腰に違和感があり腰をさすりながら歩く。

 だが終業式ということもあってかすがすがしい気持ちでもあった。

「おはようございます、梓様!」

 正門をくぐり男子舎へ向かって歩く梓を後ろから抱きしめる者がいた。声から分かる通り栞と映美だ。

 と、その直後に栞が絶句する。

「梓様……首のそれは……!」

 そう言われて梓は自分の首を触る。触っても特に違和感は感じられず首を傾げた。

 だが栞は梓の首元をずうっと見つめ、しまいには雅をにらみつける。今にも雅にとびかかりそうな雰囲気の栞は声を荒げて雅に訊く。

「獅子崎さん! 梓様のこれはなんですか!」

「……一条栞。ここでは目立つ」

 雅は栞に耳打ちしてその場から移動した。男子舎の陰に梓と栞、映美を連れる。

 大きな樹がいくつも立ち並び、じめじめした雰囲気の場所だ。近くには花壇がいくつも並び季節の花を咲かせている。今は夏まっしぐらなので向日葵が咲いていた。

 そんな場所で栞は怒りをあらわに口を開く。

「さぁ獅子崎さん! 説明していただきますわよ!」

「あぁ、お前には言おうと思っていたんだが……私は梓と付き合っている」

「……は? 今なんと? 梓様と付き合っている? あなたが?」

「そうだ」

「ありえませんわ! 梓様の好みじゃないでしょう、あなたは!」

「そ、そんなの分からないだろう!」

 と二人が言い争いを始める。梓は隣でその光景を見ている映美を顔を見合わせ苦笑いをする。自分なんかを求めて学園の有名人が喧嘩をしている様は面白い。

「本当だ! なんなら今、証明してあげよう!」

「えぇどうぞ!」

 やがて言い合いがヒートアップし雅は証明と題して梓の元へつかつかと近づいてくる。その姿にはまさしく”獅子”のオーラを纏っていた。獰猛な獅子は獲物をロックオンしては逃がさない。そのギラギラした瞳が梓を捉えて離そうとしない。

 そして梓の目の前まで来た雅は梓の肩を掴む。

「君は誰の恋人だ?」

 その瞬間、梓に対してその場の視線が全て注がれる。地を這うミミズも、花壇に咲き誇る向日葵も、空を飛ぶスズメも、宙から見下ろす太陽でさえも、梓の返答を待ち望んでいる。

 梓はその口を開き答えを、自分の思いを述べた。

「雅だよ。僕は雅の彼氏なんだ……!」

 それを聞いた雅は満足そうに微笑み、それとは対照的に栞はその場で膝から崩れ落ちる。

「そんな……っ、わたくしの梓様が……!」

「お嬢様、だから言ったではありませんか。百千梓と獅子崎雅はデキてるって」

「うるさいですわよ映美! わたくしは、わたくしは!」

「……お嬢様。あなたは誰の幸せを望んでいたのですか?」

「梓様の幸せに決まっているじゃない!」

「なら、ここは身を引きましょう。百千梓はあんなにも幸せそうなんですから」

 そう言って映美は梓の方を見る。

 映美の目には雅に抱かれ、幸せそうに微笑む梓の姿が映る。それを見た栞も口をつむぐ。

「そうね。梓様が幸せなら、OKですわ」

 そう言って栞は雅へ近づく。

「幸せにしないと承知しませんわよ! 獅子崎さん」

「当然。私の人生をかけて梓を幸せにするよ」

「映美、行きますわよ。……梓様、愛してますわ」

 そう言って栞はその場を去っていった。

 場に残った雅と梓は互いの顔を見合わせる。と同時に朝のHRを知らせるチャイムが響き、二人は急いで教室へ向かった。


 ――夏休み初日。梓は自室にて帰省の準備をしていた。トランクケースに荷物を入れ、最後にとある手紙を入れる。

 スマホで雅に連絡を入れるとすぐに返信が返ってきた。

『今から迎えに行くね』

 と返信され、梓は身支度を済ませて家の玄関の扉を開ける。朝の五時だからか夏らしいギラギラした太陽はなりを潜め、さわやかな涼しい風が梓の髪を掠める。深呼吸をし冷たい風が肺を満たす。

 と、向こうの方から車のクラクションがなる。黒塗りの長ーい高級車だ。

 それが家の前に停り、ドアが開く。

「おはよう梓」

「おはよ」

 車内から出てきた雅に手を引かれ、リムジンの車内へ乗り込む梓。中は相変わらず豪華な仕様で煌びやかなライトが二人を照らす。

「あぁ、緊張するなぁ……」

「雅が緊張なんて珍しいね」

「さすがにするよ。君の両親に会うんだよ?」

「別に大人に会うなんて慣れてるでしょ?」

「……そう言うことじゃないんだけどなぁ……」

 雅の言っている意味がわからない梓は頭の上に疑問符を浮かべる。しかし雅は苦笑いをするだけで教えてはくれなかった。

 やがて日も出てきて太陽が梓の目を刺してくる。太陽の光の形にくろい靄のようなものが見え,瞬きをするとそれが視界に残りつづける。まったく人体とは不思議なものだ。

「梓、目が悪くなるからやめな。それよりも夏休みの課題を終わらせるよ」

 そう言って雅は机に課題の山を広げる。そもそも車の中で何かを広げるということをしたことがない梓は少しワクワクしていた。車の中で勉強なんて初めてだ。

 

 と思ったのもつかの間。定期テスト赤点ギリギリの梓にとって課題は苦行そのものだった。

「むりぃ……」

 最初のワクワクはどこへやら。わずか数十分で梓は机に突っ伏していた。

 問題が全くわからない。謎の文字列が永遠に並んでいるのだ。こんなの解ける訳がない。

 そうやって頭を抱えている梓に雅は優しく教えてくれる。

 だが一向にできる気配がない。第一問は辛うじて解けたのだがそこから先が全くわからない。そうやって頭を悩ませていると車がピタッと停まる。

「空港着きましたよ」

 車内アナウンスで亀嶋が到着を知らせる。車にアナウンスがあるとはさすがお金持ち恐れ入る。

 車からでて空港へ向かう二人。すっかり日が昇り半袖でも暑いくらいだ。だが空港内へ入るとそこはたちまち天国へと変わる。エアコンで冷やされた空間が少しかいた汗を冷やす。

 手続きを済ませ飛行機へ乗り込む梓は窓側の席だ。

「初めてこういう飛行機に乗るが……人が多いな」

 雅は席に座るや否や辺りをきょろきょろと見渡していた。お金持ちの中のお金持ち、世界富豪ランキングでもトップ十に入る家の人間はプライベートジェットしか体験したことがないのだろう。

 そんなことをしているとアナウンスが流れ、飛行機が飛び立つ。だんだんと地上が遠くなり、やがて豆粒のようになる。

 梓はその光景を見て感嘆の息をもらす。だがそれとは対照的に飛行機内に興味津々の雅はいまだに辺りを見渡し、度々「おぉ~」とうなずいていた。そんなに珍しいものなのだろうか。

 朝が早かったのもあり眠気が梓を襲う。気が付けば梓の意識は消えていた。

 そうして数時間のフライトが過ぎ、目的地へ到着する。

 梓の地元、愛知だ。ちなみに当初の予定では新幹線を使う予定だったが雅が普通の飛行機に乗ってみたいと言い出し、お金の力で席をもぎ取ったため東京から名古屋の距離を飛行機で飛んできたのだ。

 雅と梓は空港から出てタクシーを拾う。目的地は梓の実家だ。運転手に場所を指定し梓は息を吐く。

 実家に近づくにつれてどんどん心臓の鼓動が速くなる。BPM百四十以上で鼓動の音は心臓から喉に移動し外へ出ようと騒ぐ。そんな鼓動達を必死に抑え、梓はずぅっと車窓からの景色を眺めていた。

 見慣れていたはずの景色が新鮮に思え、自分が都会に染まってしまったことを実感する。

 徐々に都市部を離れ山々が顔をのぞかせる。そこに梓の実家はあった。

「あれが君の実家かい?」

 隣に座る雅が梓の方の車窓をのぞき込んで言った。

 梓の実家は名古屋の大地主で広大な土地を所有する。雅の家の世におおきな会社をいくつも持っている、といったものではない。そのため目を見張るお金持ちではないが裕福ではある、といった家だ。

 実家の前まで送ってくれたタクシーに礼を言い梓と雅はタクシーから降りる。大きな門の向こうにはお城顔負けの瓦屋根が顔をのぞかせている。

「……でかくないか?」

「雅に言われると嫌味に聞こえるね」

「そんなつもりはないんだが……。いや、私の家よりでかいだろこれ!」

「ここは名古屋だよ。土地の値段が違うじゃん」

 梓はそう言いながらインターホンを押す。

 ――ピンポーン

「おかえりなさいませ。殿」

「……ただいま」

 インターホンから馴染みの声が聞こえ、門が独りでに開く。

「殿……?」

「僕の家での愛称みたいなものだよ」

 梓はそう言って門をくぐろうとする。しかし足がすくんで動かない。動こうとするがどうしても前に出ない。

「梓、手つなごうか」

 そんな梓の様子を見てか雅は梓の手を握ってくれた。暖かい手が梓の手を包み、獅子のご加護を付与してくれた気がする。そうして梓は門をくぐった。

 石畳が家の玄関まで続き、その両サイドには形を綺麗に整えられた百日紅や紫陽花が植えられてる。いわゆる趣のある家だ。

 梓は雅と共に石畳を抜けて玄関へたどり着く。

「緊張するな……」

 と雅がつぶやいた。雅が珍しいことを言うので梓は雅の顔をのぞき込む。まるで「娘さんを僕に下さい!」と相手方の父親に頭を下げる前の彼氏の表情だ。

 二人とも異なる緊張を胸に玄関の扉を開けた。

「帰ったか、息子よ」

 そこには腕を組み、仁王立ちで二人を待っていた梓の父、百千雷蔵がいた。丸太のように太い腕、雷神様のようにぎらついた目、サンタクロースくらい蓄えた髭、幼い頃の梓は父と血がつながっていないとすら思っていたが正真正銘、梓の父である。

「ただいま、お父さん」

「お邪魔します。おとう様」

 雅はそう言って胸に手を当て優雅にお辞儀をする。その所作はさすが『王子』であった。

 それを受け父はというと、微動だにせず雅をじっと睨みつけていた。

 少しの沈黙が流れ、父が口を開く。

「君にお父様と呼ばれる筋合いはない。しかし、梓の病を治してくれたことは感謝しよう」

 父は雅が女だということを見抜いていた。驚く雅に父は頭を下げる。珍しいなんてものじゃない。明日雪でも降るんじゃないか? というレベルで珍しかった。

「おとう様! 顔を上げてください!」

「いいや、わしの気が済むまでこうする」

「……わかりました。ですが私は大したことをやっていません。梓が頑張ったからこその結果ですよ。というか、私が女だとお気づきに?」

「わしが間違えるはずあらすか、服装でごまかしても儂の目はごまかせんよ」

 父はそう言って頭を上げる。そして梓の頭に手を置いた。

「おまんもぐろ置けんな。こんなべっぴんさん貰いおって」

「えっ」

「え、やあーへん、たあけが。わしにはお見通しじゃ」

 まさかの付き合っていることすらバレているとは。もはや見通せないものなんてないのではないか、と身震いする梓。自分の父ながら恐ろしいものである。

 そうして雅と一緒に家に上がり居間へ通される。宴会ができるほどだだっ広い居間の机の前にちょこんと座り、だされていた茶をすする。最近は小さな机で一人でご飯を食べていたので変な感じがする。落ち着かない感じだ。

「おいしいね」

「そうだね。でも僕はこの後のことを考えると味がしないよ……」

「そう変に気張らなくてもいいんじゃないか? 私とは普通に話せているじゃないか」

「お母さんと話すのなんて四歳以来だから緊張しちゃうんだよ」

「……頑張れ。私は応援しているぞ」

 そういって雅は梓に頬にキスをした。

 茶を置き、梓は父を探す。どうやら台所でお抱えの料理人に雅をもてなす料理を一緒に考えているようだ。

「お父さん、ちょっといい?」

「どうした」

「おぁ殿! お久しゅうございます! また一段とかわいらしくなって……」

 料理人の正道こと雅爺が涙を流しながら梓の手を握る。梓が生まれる前から専属料理人として働いていた正爺にとって梓は孫同然なのだろう。小さい頃はとてもよくかわいがってもらった。

 正爺との感動の再開もほどほどにして梓は父に母の居場所を聞く。その手には昨晩書いた手紙が握られていた。

「あいつなら向こうの離れにおるぞ」

「わかった」

 梓は短く返して台所をでる。ついに来た運命の刻。梓は深呼吸を一つして離れを目指す。離れといっても通路はあるので靴に履き替えることはしない。一歩一歩が鉛のように重く感じ、吹き抜ける風も気持ち悪いぬるさに感じる。

 そうやって一歩一歩確実に進んで行くとようやく離れが見えてくる。こじんまりとした見た目でいかにもという感じの離れの戸を三回ノックするとむこうから「はーい」と返事が返ってくる。

 梓は意を決して口を開く。

「お母さん、僕だけど……入ってもいい?」

 その声はどんなだっただろうか。どんな風に聞こえただろうか。震えていただろうか。どれも梓にはわからない。しかし扉の向こうで母が嗚咽を漏らしていたことは分かった。

「梓? 梓なの……?」

「そうだよお母さん」

「ここ、あけてもいいの?」

「うん」

 梓がそう返した。その次の瞬間には戸は開けられ母が梓を抱きしめる。今までの分を一気に消費するかのように。四歳から今日まで母とは触れ合ってすらいなかった。息子の目の前にいることすらかなわない母はやがてこの離れに居座るようになった。そうして十数年、息子を見る事すらしなくなった。

 だが今、母は息子を抱きしめている。その感動さたるや他の誰にも理解しきることは難しいだろう。涙を流し息子を抱きしめる母はその後数分間そうしていた。

「梓……ずっとこうしたかったわ……」

「お母さん、僕もだよ」

「もっと顔をよく見せてごらんなさい」

 そう言って母は梓の顔をむずっと掴みじぃっと見つめる。愛おしい息子を見つめる母の瞳は慈愛以外の何物でもないものが宿っていた。

「可愛らしく育ったわね」

「別に可愛くはないよ、僕男だし」

「母親にとって自分の子供は可愛いものよ」

 そう言って母は梓の頬にキスをした。

「さ、中に入って頂戴」

 母に誘われ中へ入る梓。中はごく普通の和室といった感じだった。

 梓は母と向かい合う形で座布団に座る。そして背に隠していた手紙を取り出す。

「お母さん、これあげる……。今までありがとう。こんな僕を育ててくれて。それと、これからもよろしくお願いします……」

 梓はそう言って手紙を母に手渡した。これまで書いたどの手紙よりも想いのこもった手紙だ。昨晩、母のことを想いながら、してみたかったこと、今までの感謝を綴った。渡す瞬間、自分はどんな顔をしていただろうか。震える腕を必死に抑えていたためみっともない顔だったろうか。それとも晴れ晴れとした顔だったろうか。梓はそんなことを思った。

 母はそれを見た瞬間涙を流す。

「これ、私に……?」

「うん。あとで見てね。ちょっと恥ずかしいから……」

「わかったわ。それじゃあ梓のこといろいろ教えて頂戴」

 梓はそれから母に自分のことを色々話した。学校のこと、友達のこと、そして恋人のこと。

 梓は数時間離れで時間を過ごし、失われていた時間を埋めるように母と話した。

 

「――恋人……ぜひ会いたいねぇ」

「一緒に来てるから会えるよ」

「じゃあ今から会ってこようかしら」

 梓の提案に母はそう言って立ち上がり離れの戸を開ける。通路脇から覗く空の色はすっかり暗くなっていた。

 通路を抜け居間に戻る。そこには父にダルがらみをされてなんとか作り笑いを保つ雅の姿があった。その他にも父や正爺をはじめ屋敷に住む者が一同に会し宴会を開いていた。

 それはもうどんちゃん騒ぎというものだ。

「おぉ来たか! 渚(なぎさ)、梓もこっちおいでん!」

 父が梓と母に手招きをする。あの中に飛び込むのははばかられるが梓は母と目配せをした結果飛び込むことにした。

「こっちにおるのがわしの妻の渚じゃ! どうじゃ、べっぴんじゃろ!」

 父は相当酒が入っているようで母のことを『べっぴん』と言って雅に紹介する。それを聞いて母は小さな声で父に「やめて頂戴!」と怒る。

 しかし父の口はとどまることを知らず、母の良い所、つまり好きなところをべらべらと雅に話す。

「渚は料理が上手でなぁ! わしの胃袋をがーっと掴みおってな!」

「そうなんですか、それはぜひ私も食べてみたいですね」

 酔っ払いの扱いもお手の物な雅がそう言うと父は満足そうに笑う。

 そして雅は父から離れ、渚と梓の元へ来る。

「はじめまして。私は獅子崎雅と申します。息子さんとお付き合いをさせていただいています」

 と、母の前で胸に手を置きお辞儀をする。

「この子から話は聞きました。とてもおきれいな方で」

「ありがとうございます」

 と、そんな会話を中断させて父が声を荒げて三人を呼ぶ。かくして宴会に参加した梓達だったがしこたま食わされ、食い倒れに近い形で意識を失ったのだった。


 ――目を覚ました梓は居間の惨状に寝起き早々絶望を感じざるを得なかった。

 散乱した皿、酒瓶、食い散らかされた食べ物。泥棒が入ったと言われても信じてしまうほどに散らかっていた。

「あら、起きたのね。おはよう」

「おはよう梓。すまないが片付けるのを手伝ってくれないか? 私とおかあ様だけでは手が回らなくてね」

 梓は一旦顔と歯を磨くため起き上がり、覚束ない足取りで洗面所へ向かった。

 顔を洗い歯を磨くとスッキリとし目が冴える。

 そうして洗面所をでて今に戻る。いまからこの惨状をどうにかするのか……、とやる前からげんなりする梓に母がとあることを耳打ちしてくる。それを聞いた瞬間梓のやる気は最高潮に達した。

「僕頑張る!」

 そして目にもとまらぬ速さで片付ける。ものの一時間足らずで片付け終わり掃除機やクイックルワイパーをかけピカピカにする。

「終わったな……」

 雅が額の汗を拭きながら呟く。

 梓はそんな雅の腕を引いてとある場所へ向かう。

「お母さん、僕たち部屋行くね」

 母にそう伝え、困惑気味な雅を連れて廊下の突き当たりにある階段を駆け上がる。そうして三階に辿り着きすぐそばの扉を開ける。そこは引っ越す前の状態で残してある梓の部屋であった。つい数ヶ月まで過ごしていたはずなのにとても懐かしく感じる梓は雅に部屋を見せたのが少し恥ずかしくなった。

「ここって……」

「僕の部屋。残しておいてくれたんだって」

 そう言って梓は扉を閉じ、雅に抱き着いた。

 先程母に耳打ちされたのは今日一日は部屋に誰も近づけないようにする。というものだった。それ即ちそういうことである。

 梓は背伸びをして雅の首にキスをした。本当は唇にしたかったが情けないことに身長が足りないので首にした。

 するとそれを受けて雅は梓を壁際へ追いやり、梓の手首、足を固定し動けなくさせた。この数週間で幾度となく雅にキスをされた梓だったがこの支配されている感が自分自身好きだと自覚し始めていたため梓の頭の中は期待でいっぱいになる。

「煽っているのかい?」

 余裕のなさそうな表情で言う雅の目を見つめながら梓は小さく頷いた。

 雅にヒョイと持ち上げられベッドに放り投げられた梓。そのまま雅に覆いかぶさられ唇を合わす。焦らすような口づけから下で口内をこじ開けられ一方的に蹂躙される。腹の奥が熱くなり、無意識に雅と足を絡める。

「あぁ、いますぐ君を抱きたい……。でも今はできないから帰るまでおあずけだね」

 雅はそう言って梓の頬にキスをした。

 そして梓の服の下から手を潜り込ませ乳首をカリカリと弄ってくる。口の端から息が漏れ、甘美な響きが部屋に反響する。

 雅に服を脱がされ、体中にキスをされる。横腹や胸元など服を着れば見えないところにキスマークを付けられ、梓は多幸感に包まれる。

 それからも雅の攻めはとどまることを知らず、二時間後梓は体力が尽きて眠ってしまった。


 それから時間が経ち昼過ぎに目を覚ました梓。滞在の期間を短くし早めに帰ろうか、などと考えていた。

 部屋を見渡すが雅の姿が確認できない。脱ぎ捨てられた服を着て廊下に出るとすぐそこで雅と母が話していた。

「あぁ、起きたのか」

 雅が梓に気づき声を掛けた。

「おはよう梓。よく眠れたかしら?」

「今おかあ様と話していてね」

「梓、あなたがとても愛されていて嬉しいわ」

 母はそう言って梓に手招きをする。それに従って母の方に行くと頭を撫でられた。

「おかあ様もとてもお綺麗で。梓も大きくなったらおかあ様のようになると思うといまから楽しみです」

「あら、おだてるのがお上手ね」

「いえいえ、本心ですよ。どうやら私はお二人の顔に弱いようで」

 と、梓はそこで母に訊く。

「ねぇお母さん、明日の朝に帰るってことにしてもいい?」

「いきなりどうしたの?」

「ちょっと……ね?」

 梓はそう言って雅に目配せをした。それを見て母は察したのかすぐに「いいわよ」と返した。

 母にはすべてがお見通しだと言われているような気がして恥ずかしい気持ちになった梓であった。


 翌日の朝、荷物をまとめ玄関へと降りる梓と雅。

 玄関には家の者が全員集合し二人を待っていた。

「おまんらもう帰るんか」

「うん。課題やんないとだし……」

「なんじゃ、成績悪いんか」

「……ノーコメントで」

 と父からの視線を必死に避けながら答える梓。実際成績は大分怪しいので帰ったらまずは課題をやるんだろうな、と覚悟を決める。

「そうじゃ、写真を撮ろう! 家族写真じゃ!」

 父は急にそんなことを言ってカメラを取り出す。多分いいやつなのだろう、ピカピカなボディだ。

 皆が外に出る。夏本番といった感じの晴天でおおきな入道雲が梓達を見下ろしていた。

 父は三脚にカメラを取り付けると皆が収まるまで離れ、カメラを置く。

「では私が撮りますね」

 雅が手をあげそう言うと父は首を横に振った。

「何を言っておる。家族写真なのだからおまんも入りん」

「え、いいのですか……?」

「いいもなにもおまんはもうこの家の家族じゃ! さっさとこっちおいでん」

「ありがとうございます……!」

 雅は目から溢れる涙を手でぬぐい梓の隣へと駆け寄った。

 ――カシャッ

 シャッター音が晴天の下鳴り響く。

 そこには満面の笑みの家族が写っていた。

「うん、いい顔じゃ」

 父はカメラを見て満足そうに言った。

 と、事前に呼んでおいたタクシーが到着したのでそろそろお別れの時間となってしまった。

 梓は名残惜しい気持ちを胸に押し込めタクシーの方へ向かう。

「頑張ってね。話せてうれしかったよ」

 母が手を振りながら言う。梓はそれを見て自然と母の元へ走り出していた。そのまま勢いのまま母に抱き着いた。

「お母さん、大好き、大好き! 絶対また帰ってくるから……!」

「えぇ、わたしも大好きよ」

「お母さん、今まで僕のこと支えてくれて、あ、ありがとう!」

「梓……愛してるわ」

 そう言って母は梓をギュウっと抱きしめた。十数年振りの母の温もりは筆舌しがたいものであった。ずっとこのぬくもりを求めていた。今一度梓は雅や栞に感謝したのだった。

「じゃあもう行くね」

「元気でね。勉強頑張るんだよ」

「……わかってるよ」

 梓は最後の最後で煮え切らない返事をしてタクシーの前で自分を待つ雅の元へ走っていった。

「挨拶はできたか?」

「うん」

「じゃあ行こうか」

 梓は雅に手を引かれタクシーへ乗り込む。窓から家の方を眺めると皆が手を振っていたので梓も手を振る。自然と涙があふれてきてもう片方の手で涙をぬぐう。

 そうして皆が見えなくなるまで手を振った。

「……もう見えなくなっちゃった」

「大丈夫さ、また行けばいい」

 二人は少しの寂しさと共に名古屋駅へ向かった。


 そうして無事家へ帰った梓は家に荷物を置き、課題だけをもって雅の家へ向かった。時間は既に夕方だ。夕日が梓の顔をオレンジ色に染める。

 歩きで雅の家を目指すには無理がある為迎えに来てもらった。

「百千様、こちらへ」

 リムジンが梓の隣に停まり中から亀嶋が出てくる。

 車内に乗り込むと中には雅がシートに足を組んで座っていた。

「じゃあ水着を選びに行こうか」

 雅の腕に誘われギュウッと抱かれる梓。

 その手にはフリルのついた女物のワンピースが握られていた。

「なにそれ」

「君に着せるんだよ」

「なんでよ!」

「男二人で女物の水着を選ぶなんて変だろう?」

「だからって僕が着る必要なくない……?」

「それは単純に私が見たいだけだ」

 梓は結局雅の推しに負けて女装をする羽目になったのだった。

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克服は「男装女子」から! 小川一二三 @ogawahihumi

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