境
Kei
境
境
若い僧がいた。
修行のために国中を旅しており、その年は奥州の窮山幽谷を渡り歩いていた。
まだ暑さの残る季節であった。激しい雨が降った午後、山には霧が立ち込め、日が落ちる頃には山全体を灰色に包んでいた。
山の霧は珍しくないものである。長く旅をしてきた僧もこうしたことには慣れていた。しかしこの時ほど濃い霧に遭ったのは初めてであった。道を見失わぬよう慎重に足を運ぶが、砂利が湿気を帯びて滑りやすくなっている。
-これ以上、進むのは危険だ。
そう思い始めた時、ふと霧の向こうにぼんやりと光が見えた。先の一帯が闇に明るく浮かび上がっている。
僧が光のほうに進むと次第に霧が薄くなり、辺りの様子がはっきりとしてきた。そこは開けた場所で、足元には砂利が広がっていた。その先には広い川が流れている。
僧は驚いて立ち止まった。山中にこれほど大きな川が流れているとは思いもしなかったからである。
-はて、いつの間にか谷に下っていたのか…
しかも、山地にしては珍しい穏やかな川であった。静かに流れる水は乳白色に輝いている。対岸は遠いようで見えない。
僧が川を見わたしていると、向こうに何か浮かんでいるものが見えた。目を凝らすとそれは男の頭と腕であった。
-誰か溺れている!
男は僧に向かって手を振っていた。助けを求めているように見える。何かを叫んでいるようであったが、声は届いてこなかった。僧は走り川に入っていったが、どうしたわけか水が異常に重く、浅瀬から足を進めることができなかった。
その時、にわかに流れが男を取り巻くように集まっていった。
-!
流れはそのまま渦に変わり、男を飲みこんでいく。頭はあっという間に見えなくなり、もがく腕もズズと引きずり込まれていった。
僧はその光景にしばし呆然としていた。そして気がついた時には、川は再び穏やかに流れていた。足元に感じていた水の重さはなくなっていた。水から上がると、砂利だった地面が土に変わっていた。足も濡れていなかった。
ハッとして振り返ると濃い霧が押し寄せてきていた。川は霞んで見えなくなっていく。まもなく視界が奪われ、真っ暗になった。僧は気を失い倒れた。
僧が目を覚ますと朝になっていた。辺りには枯れ葉と黒い土、そして樹海が広がっている。
昨夜の出来事は現実なのか、それとも夢だったのか。判別つかぬまま、僧はふらふらと歩いた。しばらくすると山頂に出た。見渡すとはるか下に集落が見える。
僧は山を下っていった。
・・・・・
若い僧は旅を続け、のちに高僧と呼ばれるまでになった。
様々な物を見聞きし体験した後になっても、しばしばこの時の出来事を振り返ることがあった。
-あの時見たものは、此岸と彼岸の境なのだろうか。あの世は悟りの世界、迷いのない世界だと聞く。生への未練を捨てられない者は、川を戻ろうとして永遠に溺れ続けるのだろうか…。
境 Kei @Keitlyn
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